お坊さんへのお布施のことであるが、一般的な「価格決定理論(ミクロ経済学)」の理屈からすると、期待される「効用」は、それがサービスだとすると、具体的には、満足感を満たすと考えられる。
お坊さんへのお礼のハガキの一枚でも書こうと思うのに筆が進まないのは、通夜式と告別式の二日間のパートタイムで、うん十万円を支払ったものの、このうん十万円を私が仕事をして稼ぐ時に要する「知識」と「計算等」の合計に比べると、極めて高額な感覚があるからだろう。
このうん十万円は、お布施の相場からすると、相続税の「葬式費用等の控除」などの例を、よく見ていることから、その程度でもおかしくはない。ただ、今回は、家族葬であったので、一般の参列者もなかったのであるから、今から考えると、多額であったような気がしてならない。
この金額は、葬儀社の方に、相場を教えて貰って、決めたものだが、今でも、こころがざわつくのである。
昔、宝石商の会社の経理を見ていたときに、たかだか2~3万円で仕入れたダイヤモンドを外注で加工し、保証証を付け、数十万で販売されているのをつぶさにみて、一月に、二、三人のお客さんがあれば、十分に生活し、貯蓄が可能であったのを思い出す。
むろん、棚卸商品なので、保有コストはかかっていることは割り引かねばならない。
とはいえ、恋人や婚約しようとする人に渡すためと割り切れば、多少高くても、彼女が喜んでくれれば、それで幸福感を得られる。
卑近な例で申し訳ないが、仮に、開業臨床心理士にモーニングケアとして、カウンセリングを受けるとした場合、20回から30回ぐらいはセッションが可能である。
そもそも、よく考えたら、そのお坊さんに対して、尊敬の念であるとか、来てもらえてうれしいという感覚が無かった。
出身地である滋賀県の寒村にあった菩提寺のおっさんとは、おそらく、高校生頃から、面識もあったし、毎年、8月12日の墓参りには、父と一緒に行っていたので、お話しさせて頂く機会も有ったし、いろいろと気を遣って頂いたという感謝があった。
今回は、田舎のお墓を数年前に、総本山知恩院に移し、永代供養を申し込んであるのと、付き合いのあったおっさんも高齢で引退されたため、急なことで、そこまで頭が回らなかったのも事実である。
宗教学者の島田祐巳先生の著作の多くは、読んでいたが、親戚もやってくるし、それぞれ、宗教、とりわけ、今回は葬儀に関して、常識的な線で執り行わねばならなかったことが、悔やまれる。