人間の歴史の中で、おそらく、医療の発達にも寄るのだろうが、誕生から仕事をし、老後を迎え、亡くなっていく過程に、「介護」という過程が長期に亘って、その人生のそこそこの時間を加えざるをえなくなったのは、近年のことなのだろうと思う。昔でも、介護はあったのだが、制度的支援もなく、いわゆる要介護の方などは、場末の病院に入院していたりしたものだ。
ほんのしばらく前までは、書店に行っても、介護関係の書物が、これほどまでにはなかった。私自身、20年ぐらい前には、そういうことと無縁だろうと思っていた。
子どもの成長と違って、その先に待っているものは、「死」なので、それが終わったとしても、やり遂げたという充実感がない。
実際は、介護により、現実生活も制約されるし、第一、気が休まらない。
私の父の場合は、医師から、もうそろそろ危ないかも知れないと告げられたのが、1年前で、おそらくは、年単位のことではないと言われていたが、そのギリギリまで、長寿を全うできたのだから、本人も苦しかったかも知れないが、期日の限られた仕事をしているせいか、月末に近づくと気が気でなかった。
予定が、立てられないもどかしさもあった。
ただ、1年間を、なんというか、「喪」の期間を前倒しで過ごせたような気がするのは、せめてもの救いである。
ちょうど、河合隼雄先生が、2006年に倒れられ、約一年間を関係のあった人たちとに、こころの整理をする時間を与えられたように。