放送大学で、学んでいます

大学を出ているので、編入で全科生になりました。心理学を中心に学びまして、今は、再入学により、再び学びを始めました。

物質界から精神界へ

2017年05月20日 | 介護・社会福祉・その税制

人間の歴史の中で、おそらく、医療の発達にも寄るのだろうが、誕生から仕事をし、老後を迎え、亡くなっていく過程に、「介護」という過程が長期に亘って、その人生のそこそこの時間を加えざるをえなくなったのは、近年のことなのだろうと思う。昔でも、介護はあったのだが、制度的支援もなく、いわゆる要介護の方などは、場末の病院に入院していたりしたものだ。

ほんのしばらく前までは、書店に行っても、介護関係の書物が、これほどまでにはなかった。私自身、20年ぐらい前には、そういうことと無縁だろうと思っていた。

子どもの成長と違って、その先に待っているものは、「死」なので、それが終わったとしても、やり遂げたという充実感がない。

実際は、介護により、現実生活も制約されるし、第一、気が休まらない。

私の父の場合は、医師から、もうそろそろ危ないかも知れないと告げられたのが、1年前で、おそらくは、年単位のことではないと言われていたが、そのギリギリまで、長寿を全うできたのだから、本人も苦しかったかも知れないが、期日の限られた仕事をしているせいか、月末に近づくと気が気でなかった。

予定が、立てられないもどかしさもあった。

ただ、1年間を、なんというか、「喪」の期間を前倒しで過ごせたような気がするのは、せめてもの救いである。

ちょうど、河合隼雄先生が、2006年に倒れられ、約一年間を関係のあった人たちとに、こころの整理をする時間を与えられたように。

 


介護地獄

2016年05月24日 | 介護・社会福祉・その税制

今は、介護の端緒についたばかりだが、介護施設から何かあると電話がかかってくるようになって、大阪から京都へ駆けつけることが多くなった。昨年度は、そのために、面接授業(臨床心理学と、その他科目)に行けなかった。日本で、間主観的アプローチについて、まとまった研究をされた精神分析家の著書をベースにしたもので、大変興味深かったが、悔いが残る。

今後は、認知行動療法が、心理療法の主流となり、精神分析や分析心理学は、おそらく、20世紀の遺産として語り継がれていくのかも知れない。あるいは、認知行動療法では、どうしても対応できないケースを精神分析家などが引き受けることになるのだろうか。

被介護者は、身体的生活水準(adl)に主眼が置かれるが、心身一如の観点から見ると、個としての被介護者は、心理的な悩みを抱えているように見えることが多い。

それは、認知症のような精神症状を患っていない「健康な」老人でも見られることだと思われる。

こういう状況は、私が若い頃には、おそらくまれだっただろうし、親戚などを見渡しても存在しなかった。

 

みんな、70才を過ぎると、何らかの病気等でなくなっていった。80才だと、めでたいかのような取扱で、葬儀も心なしか明るかった。

 

80才を超えるひとが増えてきたことによって、たいそうな病気でも、入院すると治ってしまうために、体は不自由だけれど、生きている人が増えた。

介護する側も、長期の予定が組めなくなってくる。高齢者は、転倒や免疫低下による感染症罹患などのリスクが高く、介護施設に入居できても、その施設で完結した対応が不可能なためである。

ひとつは、医療と介護の分離により、介護現場には、医学知識や経験を持ったひとが少ないため、脳梗塞などの発見が遅れたりする。

病院だと、看護師が毎日接しているし、医師も診察に来るので、異変には対応しやすいが、介護現場は、そうではない。

そのことが、急変という形で現れたりもする。

介護者は、そのたびに駆けつけざるを得なくなる。

地獄の始まりである。