歴史だより

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《冨田健次先生の著作を読んで》その26

2014-12-31 16:28:14 | 日記
<むすび>
日本の英語教育および外国語教育の現状と課題について、鈴木孝夫は示唆的な講演をしている。それは「英語教育の目的」という1976年の全国英語教育研究団体連合会講演会である(鈴木孝夫『ことばの人間学』新潮文庫、1981年[1986年版]、153頁~171頁に所収)。
鈴木はイソップ物語にある“Dog in the Manger”という話を、例に引いている。牛小屋のかいば桶の中で犬が昼寝をしていると、牛がお腹をすかせて戻って来た。でも犬はその場所からどかないで、牛に向かって吠え立てる。すると牛は、「お前の坐っているその干草は、お前にとっては何にもならないが、私にとっては食物だ。私はお腹がすいている。お前はむこうでも寝られるではないか。」という。
これが“Dog in the Manger”という話であるが、鈴木は、日本の英語教育はまさに一種のdog in the mangerになっていると主張している。というのは、複雑化した国際関係に対処するための、英語以外の必要な言語の教育がはばまれているからであるという。例えば、アラビア語や朝鮮語を学生が勉強したいと思っても、それを学べる学校がほとんどないからである。この講演は1976年の講演であるから、約40年近く前のものであるが、今日の外国語教育にとっても考えさせられるところがある。
つまり、鈴木は、ある大学では英語の代わりにアラビア語が学べる、ほかの大学では英語をしなくとも朝鮮語をすればよいという風に、外国語教育を多様化しなければならないと主張している。そのためには英語、フランス語、ドイツ語といった伝統のある言語が、教育の場を少し譲らなければ、不可能であるというのである。
先のイソップ物語でいえば、英語などが犬、アラビア語、朝鮮語が牛になぞらえられる(冨田先生のご専門のベトナム語も、アラビア語、朝鮮語と同様、多様化されるべき外国語教育の一つである)。
鈴木は英語教育を軽視する意図は全くないと断りつつも、日本の外国語教育全体がおかれている実態を直視し、すでに1970年代において、このような発言をしていたことに注目したい。つまり、多様化した社会に対応するためには、外国語教育にもっと広く選択制を取り入れてもよいと鈴木は考えていたのである(鈴木孝夫『ことばの人間学』新潮文庫、1981年[1986年版]、160頁~162頁)。
2010年代の今日、外国語教育は幾分改善されたとはいえ、アラビア語、朝鮮語、ベトナム語を直接講師について学べる機会は決して多くはなく、今なお鈴木の講演内容は傾聴に値するものではないかと思う。

ところで小林秀雄は、「言霊(ことだま)」について次のようなことを述べている。
上代の人々は、言葉には人を動かす不思議な霊が宿っている事を信じており、「言霊」という古語は、生活の中に織り込まれた言葉だった。古代の人々は、人の心を動かすには、驚くほどの効果を現す言葉という道具の力を知っていた。それに対して「言霊信仰」という現代語は、机上のものであると、小林は大著『本居宣長』の中で述べている(新潮社編、2007年、230頁)。
ことばについて考えるとき、この「言霊信仰」のことを私は想起する。漱石は英語、鷗外はドイツ語、小林秀雄はフランス語に通じていた。卓越した日本語の文学作品・評論を執筆した作家は外国語に精通していた。彼らが得意とした外国語はいずれも西欧の言語であったが、今後アジアの言語に精通した作家が登場することを期待したい。
 作家ということで言えば、社会派推理作家として著名であった松本清張が、ベトナムに関心を抱いて、「ハノイで見たこと」(「ハノイからの報告」「ハノイ日記」「ハノイに入るまで」「あとがき」から成る)を1968年に書いている(松本清張『松本清張全集34 半生の記・ハノイで見たこと』文芸春秋、1974年、87頁~209頁に所収)。
その内容は「私としては、現地で見たこと、聞いたことをなるべくそのまま書くようにつとめた」と「あとがき」(208頁)で明記しているように、清張執筆のレポートであった。そして「われわれにとってハノイまでの道は遠かった」(208頁)と述べているように、物理的にも精神的にも、ベトナムは身近な国ではなかった。この清張の報告から半世紀近くの歳月が流れ、ベトナムとそれを取り巻く状況は一変した。ベトナムに関心を持つ世代も変わり、政治的側面より経済的・文化的側面に移った。まさに隔世の感を禁じ得ない。
作家ではないが、冨田健次先生のご専門であるベトナム語を大学で学んだアナウンサーがいる。夏目三久さんである。元日本テレビのアナウンサーの夏目三久さんは、東京外国語大学のベトナム語科卒業である(大学時代はフラメンコ舞踊部であったそうだ)。つまり、冨田健次先生や川口健一先生の“大”後輩である。彼女のような知的で、チャーミングな女性を輩出する時代となった。
夏目さんは、テレビ番組でベトナム人とともにベトナム料理を紹介しておられた。メディアでもベトナムの文化と歴史が取り上げられる時代となった。冨田健次先生の今回の著作を読みながら、彼女の活躍を祈るとともに、再び、ベトナムが脚光を浴びることを期待した。

《参考文献》
冨田健次『フォーの国のことば―ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ』春風社、2013年
冨田健次『ベトナム語の基礎知識』大学書林、1988年
桜井由躬雄・桃木至朗編『東南アジアを知るシリーズ ベトナムの事典』同朋舎、1999年
松本清張『松本清張全集34 半生の記・ハノイで見たこと』文芸春秋、1974年
大野晋『日本語の年輪』新潮文庫、1966年[2000年版]
白川静『漢字―生い立ちとその背景―』岩波新書、1970年[1972年版]
阿辻哲次『漢字の字源』講談社現代新書、1994年
阿辻哲次『漢字の社会史―東洋文明を支えた文字の三千年』PHP新書、1999年
藤堂明保『漢字の話 上・下』朝日選書、1986年
藤堂明保『漢字の過去と未来』岩波新書、1982年[1983年版]
遠藤哲夫『漢字の知恵』講談社現代新書、1988年[1993年版]
松岡正剛『白川静―漢字の世界観』平凡社新書、2008年
魚住和晃『「書」と漢字 和様生成の道程』講談社選書メチエ、1996年
青山杉雨『書の実相―中国書道史話』二玄社、1982年
真田但馬『中国書道史 上巻』木耳社、1967年[1972年版]
宇野雪村編『中国書道史 下巻』木耳社、1972年
榊莫山『書の歴史―中国と日本―』創元社、1970年[1995年版]
榊莫山『莫山書話』毎日新聞社、1994年
榊莫山『中国見聞記―書の源流をたずねて―』人文書院、1982年
平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]
平山観月『書の芸術学』有朋堂、1965年[1973年版]
伏見冲敬『書の歴史 中国篇』二玄社、1960年[2003年版]
天石東村『書道入門』保育社、1985年
堀江知彦『名筆鑑賞入門 中国風の書―日本の名筆・その歴史と美の鑑賞法』知道出版、1991年
堀江知彦『書道の歴史』至文堂、1966年[1981年版]
鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会、1996年[2010年版]
石川九楊『書とはどういう芸術か』中公新書、1994年
石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年ⓐ
石川九楊『書と文字は面白い』新潮文庫、1996年ⓑ
石川九楊『書を学ぶ―技法と実践』ちくま新書、1997年
石川九楊編『書の宇宙6 書の古法<アルカイック>王羲之』二玄社、1997年
石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年
石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年
石川九楊『書と日本人』新潮文庫、2007年
石川九楊『万葉仮名でよむ『万葉集』』岩波書店、2011年
神田喜一郎ほか編『書道全集』(平凡社刊、1965年~1968年、中国篇、全15冊、別巻2冊、計17冊。この全集は大学時代の恩師・寺地遵先生より譲り受けた。記して深謝の意を表したい)
神田喜一郎『墨林話』岩波書店、1977年[1978年版]
何平『中国碑林紀行』二玄社、1999年
松井如流『中国書道史随想』二玄社、1977年
鈴木史楼『百人一書―日本の書と中国の書―』新潮選書、1995年[1996年版]
鈴木史楼『書のたのしみかた』新潮選書、1997年[1998年版]
会津八一『会津八一書論集』二玄社、1967年[1983年版]
本田春玲『百万人の書道史―日本篇』日貿出版社、1987年
西川寧編『書道』毎日新聞社、1976年
西川寧編『書道講座 第二巻 行書』二玄社、1971年[1980年版]
青山杉雨「行書の歴史」(西川、1971年[1980年版]所収)
青山杉雨『明清書道図説』二玄社、1986年
西川寧『書の変相』二玄社、1960年[1973年版]
西川寧『書というもの』二玄社、1969年[1984年版]
疋田寛吉『近代文人にみる書の素顔』二玄社、1995年
武田双雲『「書」を書く愉しみ』光文社新書、2004年[2006年版]
上條信山『現代書道全書 第二巻 行書・草書』小学館、1970年[1971年版]
角井博ほか『中国法書ガイド34 雁塔聖教序 唐 褚遂良』二玄社、1987年[2013年版]
佘雪曼編『書道技法講座7 行書 王羲之』二玄社、1970年[1982年版]
吉川忠夫『王羲之―六朝貴族の世界』清水新書、1984年[1988年版]
大日方鴻允・宮下雀雪『人生を彩る書道』創友社、1987年
李家正文『筆談墨史』朝日新聞社、1965年
李家正文『書の詩』木耳社、1974年
吉丸竹軒『三体千字文』金園社、1976年[1980年版]
吉丸竹軒『楽しく学ぶ 四体蘭亭叙』金園社、2012年
小野鵞堂『三体千字文』秀峰堂、1986年[1999年版]
田中塊堂『写経入門』創元社、1971年[1984年版]
大溪洗耳『戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社、1985年
大溪洗耳『続・戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社、1985年
大溪洗耳『王羲之大好きオジさんの憂鬱』日貿出版社、1995年
岡安千尋『書の交差点―脱日本型思考・書の場合』日貿出版社、1987年
紫舟『龍馬のことば』朝日新聞出版、2010年
金澤泰子・金澤翔子『愛にはじまる―ダウン症の女流書家と母の20年』ビジネス社、2006年
村上三島『独習書道技法講座9 草書・十七帖』二玄社、1984年
春名好重『古筆百話』淡交社、1984年
加藤精一『弘法大師空海伝』春秋社、1989年
財津永次『書の美―新しい見かた―』社会思想社、1967年[1977年版]
鈴木小江『書道入門(行書編)』金園社、1987年
筒井茂徳『行書がうまくなる本 蘭亭序を習う』二玄社、2009年[2013年版]
金田石城『字のうまくなる本』光文社文庫、1985年
谷崎潤一郎『文章読本』中公文庫、1975年[1992年版]
川端康成『新文章読本』新潮文庫、1954年[1977年版]
三島由紀夫『文章読本』中公文庫、1973年[1992年版]
丸谷才一『文章読本』中央公論社、1977年
中村真一郎『文章読本』新潮文庫、1982年
向井敏『文章読本』文春文庫、1991年
井上ひさし『自家製 文章読本』新潮文庫、1987年
井上ひさし『私家版 日本語文法』新潮文庫、1984年[1994年版]
中村明『名文』ちくま学芸文庫、1993年
野口武彦『日本語の世界13 小説の日本語』中央公論社、1980年
高島俊男『漢字と日本人』文春新書、2001年
加納喜光『魚偏漢字の話』中央公論新社、2008年
江戸家魚八『魚へん漢字講座』新潮文庫、2004年
矢野憲一『魚の文化史』講談社、1983年
瀬戸内寂聴『源氏に愛された女たち』講談社、1993年
小林秀雄『現代日本文学大系60 小林秀雄集』筑摩書房、1969年
小林秀雄『文芸読本 小林秀雄』河出書房新社、1983年
小林秀雄『本居宣長』新潮社、1977年
河盛好蔵『現代日本文学大系74 河盛好蔵集』筑摩書房、1972年
西村貞二『小林秀雄とともに』求龍堂、1994年
川副国基『小林秀雄』学燈文庫、1961年[1979年版] 川副国基『小林秀雄』学燈文庫、1961年[1979年版]
西郷信綱『古事記の世界』岩波新書、1967年
安西篤子『わたしの古典21 南総里見八犬伝』集英社文庫、1996年
徳田武・森田誠吾『新潮古典文学アルバム23 滝沢馬琴』新潮社、1991年[1997年版]
山崎一頴ほか『文芸読本 森鷗外』河出書房新社、1976年
橋本芳一郎ほか『文芸読本 谷崎潤一郎』河出書房新社、1977年[1981年版]
新潮社編『人生の鍛錬―小林秀雄の言葉』新潮社、2007年
樫原修『小林秀雄 批評という方法』洋々社、2002年
高見澤潤子『兄小林秀雄』新潮社、1985年

追記
神田喜一郎ほか編『書道全集』(平凡社刊、1965年~1968年、中国篇、全15冊、別巻2冊、計17冊)という書道全集は大学時代の恩師・寺地遵先生より譲り受けた。この全集の内容は、今後一年間余りをかけて要約して、このブログで紹介してみたいと考えている。そして、「中国書史再考」と題して、改めて中国の書の歴史について考察してみたいと思う。

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《冨田健次先生の著作を読んで》その25

2014-12-31 16:25:47 | 日記
現代日本書壇とその批判について
大溪洗耳の著作として、先述したように、『戦後日本の書をダメにした七人』(日貿出版社、1985年)がある。そこで、西川寧、青山杉雨など7人の書家を批判し、真に実力ある書家は、手島右卿、日比野五鳳、小坂奇石、殿村藍田、堀桂琴、田辺古邨、石橋犀水、伊東参州らであると主張している。
西川寧、青山杉雨が主導する日展および書道界の体質について批判している。西川寧は、1902年東京生まれで、書家の西川春洞の三男で、慶応大学文学部支那文学科を卒業し、文学博士で芸術院会員で、北京留学の経験があり、慶応大学名誉教授であった。つまり「慶応ボーイのスマートボーイ」「学者でインテリで、文章がうまく、いわば痩せたソクラテス」、そして“書道界の天皇”であるという。清代の趙之謙(ちょうしけん、1829-1884)に傾倒し、昭和の三筆の一人とされ、1989年に没した。
大溪は、西川に対する尊敬できる点として、次の2点を指摘している。
①結果的に実らなかったが、会津八一を日展に持ってこようとしたこと。
②西川の若い頃の「倉琅先生詩」は、趙之謙ばりで、すばらしい作品である。
ただ、西川が、書は「用」のために在るべきでないと主張し、「用」の無用論を唱え、その弟子青山杉雨(さんう、1912-1993、大東文化大学教授、生涯一度も個展を開くことがなかった)が、「うまい書だけが書ではない」と認識している点に関しては、疑問を呈し、大溪は持論を展開している。つまり、「用」を否定することは書の技術を否定することでもあると大溪は考え、書の技術は絶対に必要であるという立場をとっている。
例えば、青山は「書家はたんにうまい字を書けばいいのではない。書とは文字を介してさまざまな文化的現象を集約して再表現することであり、そのためには哲学、宗教、絵画などの幅広い教養が必要になってくる。作品とはそうした教養、生活の象徴である。」(『読売新聞』昭和58年12月19日付)と主張している。
この青山の議論に関して、大溪は次のように批判している。「書は究極、たんにうまい字のみを目指すものではない」というのも、一つの考え方であるが、文字を介してさまざまな文化的現象を集約して再表現するには、表現する技術の「うまさ」がなければならないと大溪は主張している。
また技術の「うまさ」だけでは再表現はすべてが可能とも言えないが、しかし最低技術による「うまさ」は作家である以上避けて通過することはできないという。技術を馬鹿にする作家はすでに自ら作家であることを放棄しているのと変わらないとする。
かつての芸術院会員であった豊道春海、鈴木翠軒、日比野五鳳といった書家は、その作品のすばらしさで人の心を揺さぶり、感動・驚嘆させた。これらの書家には技術という背景があり、その技術は「うまさ」の根底を作っていたと大溪はみる。そしてその「うまさ」の上に、「うまさ」を超えた「すばらしさ」がある。またこの「すばらしさ」をもひっくるめて「うまさ」とすることもある。
しかし、青山杉雨の作品をみても、書家が最低避けて通れない前段階における技術の「うまさ」すらないと、大溪は批評している。
日展は、いくつかの書道団体が集まってやっている連合社中展であると大溪は規定している。日本の書壇、とりわけ西川寧と青山杉雨の書壇は、展覧会をやることによって支えられてきたという。そして西川、青山は二人とも社団法人の日展の謙慎書道会という最大会派に所属していた。青山が日本の書道界に“理念なき展覧会至上主義”を確立したと大溪はみている。また、書道界には師匠がいて、師匠の言う通り勉強して師匠の手本を貰って入選すれば、礼金がいるという構造で、その悪しき金権的体質を大溪は批判している(大溪洗耳『戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社、1985年、48頁~70頁、大溪洗耳『続・戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社、1985年、7頁~55頁)。
大溪と同じく、榊莫山も、日本の書壇のセクト主義を批判している。日本の書は、中国の漢字・漢詩の流れの系譜と、平安の仮名・和歌の流れの系譜がある。書壇は、漢字作家と仮名作家の二つに分断され、書家のえらぶ言葉(詩、成語、熟語)も、宿命的に決まってしまう。書という芸術を、漢字・仮名・篆刻・現代詩・少字数・刻書・墨象など、小刻みのジャンルに分類していて、展覧会になるとジャンルの旗をなびかせて、セクト主義が横行する。このセクショナリズムこそ、書壇の閉鎖的な体質を生む病巣であると榊は考えている。そのセクト主義が、書の新しい造形的発想を閉じこめ、枯渇させ、若い人たちの想像力や創造性を萎靡(いび)していると批判している(榊莫山『中国見聞記―書の源流をたずねて―』人文書院、1982年、229頁~232頁)。
ところで、書作の実質的批判点としては、独立書人団の作品展では、空間章法の悪い作品が多い点を大溪は挙げている。字を書いて作品を書いていないのだという。つまり、字を書くことに腐心するあまり、字以外が見えず、空間が見れていないと批判している。「字は書けても空間が書けない」というのである。この空間が書けるということが現代書の一つの大きな命題であるとする。
例えば、村上三島は、王鐸に没頭しながら、王鐸(1592-1652)の一番すごいところの、行間の章法、行のうねりを学ぼうとしなかったと批判している。王鐸は、明・清二朝に仕えた能書家で、明末ロマンチズムの中心的な存在で、長条幅連綿草の書表現を確立した。
王鐸の技術の三大特徴として、
①行書の各字の線の組立に見える接筆に気を配っている。この点は、米芾や顔真卿や王羲之を超えるところがあると大溪はみている。
②長条幅に見られる各字に亘る因果関係が、直感力だけで布置されていながら、王鐸独特のつっかかりのリズムを出している。
③長条幅における空間は瞠目に値し、天才王鐸の動物的直感からくる呼吸と間のすごさを大溪は賞賛している。
こうした王鐸の書の技術的側面に加えて、明末清初の動乱の中で生きた王鐸の人間性の豊かさを挙げている(大溪洗耳『戦後日本の書をダメにした七人』日貿出版社、1985年、34頁~37頁、163頁~164頁。『王羲之大好きオジさんの憂鬱』日貿出版社、1995年、8頁)。
王羲之と王鐸とを対比させながら、その相違について、わかりやすく対話形式で述べた書物として、大溪洗耳は『王羲之大好きオジさんの憂鬱』(日貿出版社、1995年)という著作を出版している。
書家の大溪洗耳自身、10代から20代前半までは、書聖王羲之を尊敬し、「蘭亭序」をすばらしいと思い、「張金界奴本蘭亭序」といった法帖を臨書していた。しかし、大学生時代から、王羲之の書の「かったるさ」が嫌いになり、その体験を踏まえて、この本を書いたようだ。王鐸大好きオジサンが、王羲之大好きオジサンを目の前に座らせて、説教をする形式で、書の極意を伝授していくといった内容である。
例えば、書で重要なのは章法であると、王鐸大好きオジサンは説いている。董其昌も「書は章法を以て一大事となす。行間茂密これなり」と言っている。空間章法は即応力で、本を読んでも会得できない。書がうまくなるのは生活神経で、情念を培うことが大切であるという(大溪洗耳『王羲之大好きオジさんの憂鬱』日貿出版社、1995年、1頁~24頁、209頁~210頁)。
そもそも大溪の基本認識は、こうである。
書家が書作品を評する時に用いる「うまさ」とは、書作の表現技術が勝れていることを意味すると大溪はいっている。例えば、筆がよく使えているとか、紙と筆との関係がよいとか、緩急もよいとか、潤渇のバランスが自然であるとか、線質が生でない、字形が自然な表情で、連綿に合理性がある。太細接筆によく神経がゆきとどいていて、文字章法もよい。天地左右行間字間と全体章法もゆるぎなく、リズムと間のとり方もよいなどを挙げている。
このような書作の表現技術の勝れた「うまさ」だけでは職業書家・プロの「うまさ」の条件には到達せず、「うまさ」の中に背景を持たなければならないと説く。背景とは、本物を身につけることであるという。本物とは、中国の碑帖をさす。例えば、鳴鶴を祖として秋鶴、尚亭に近い作家は、漢魏六朝を至上のものとして学んだ。唐代でも、宋代以降でもいいが、本場の本物を洞察しなければならないという。臨書をし、くり返し書くことで、見るは観るになり、観るは洞察になり、よいものとは何かを認識するという(大溪、1985年、23頁~25頁)。
良寛の言い分を大溪洗耳が解説すると、こうである。つまり、書家で「うまい」書を作る人はたくさんいるが、勝れた「おもしろい」書ということになると、さっぱりであるという。その理由としては、書家は書の勉強しかしないから、書の世界に埋没して周囲と関わらないから、視野が狭いというのである。
現代の書家でいえば、一年中、あっちの展覧会、こっちの展覧会、そうでなければ書の研究会、書家の集まり、と飛び走り、書が頭から離れない。だから、他の世界に首をつっこんでいる暇がなく、つまらない、いかにも書家らしい書になってしまうのではないかと、説明している。
良寛が字書きの字が嫌だといった所以もそのへんにあるのだろうと推測している(大溪、続、1985年、174頁~175頁)。
また絵画の世界を見ても、アブストラクトは本来、具象をやって導き出されたものであり、根幹はすべて具象(フィギュラテイフ)からの出発であるとみる。ピカソのキュビズムは、バルセロナ時代の6000枚のデッサンが基盤になっているという(大溪、1985年、137頁~139頁)。
そして、大溪は、書における線質が重要で、それは書作の生命であることを、次のように強調している。
「書における線質は、書作の生命である。線質が悪ければ、どんなに形が勝れていても、見れたものではない。書における線質は絵でいうマチエルである。大方の絵はマチエルを見ればその技術の程度は解かる。書における線質も、大方の場合、その基本技術の、程度がどれくらいか直ぐ解かる。線はくり返し書作をすることで練られてきて、いわゆる「なま」でなくなる。この「なま」でない状態を何時で発揮出来る技術を持ってはじめてプロといえる。書の批評は実作者でないと基本的な部分で見誤ることがあるというのは、この線質如何の見分においてである。実作をして線が「なま」でなくなる過程を十年単位で認識しないと、ほんとうの批評は出来ない。線質は多様で、同一作品中でも、人によったら千変万化する。線質を正しく見極めて、後に造形性云々を言わなければ、書の批評をしたことにはならない。線質が解らないから、形だけの話になる。形だけで作風を言ったり、見た目で言辞を弄する。」(大溪、続、1985年、130頁~131頁)。
「書において線質は生命である。書の線質だけは、書作家でないと解らないという、東洋の墨の美術の最大の特性でもある。」とも言っている(大溪、続、1985年、132頁)。
このように大溪洗耳は書において線質は生命であると考えている。

書は線の美か
ただ「書は線の美」であるというと、不十分であることを石川九楊は論じている。書は線の芸術であるという考えは、文字を構成する「点と画」を「点と線」と言ってしまったところが間違いであるという。
例えば、「大」と書いた時の一点一画は、決して野放図な点と線ではない。「大」の字を三本の線からなると言っても、実際には、第一画の横画は右上がりに書かれるのが基準であり、そこには起筆と送筆と終筆という三つの単位をもって書かれる。
また第二画は「左はらい」と言われるような先端に行くにしたがって尖る形状をもつ。そして第三画は「右はらい」と呼ばれる先端に三角形の力のためとはらいからなる形状を備えている。「大」の字は、「左はらい」と「右はらい」とでは形状が異なり、厳密には決して左右対称ではない。
そして、石川はいう。「大」という「文字」を書くのではなく、作者はなにか切実な理由があって、「大」という「言葉」を書くのであると。その「言葉であるところの文字」は点と画を積み重ねるところから生まれてくる。点と画は決して一般的な点や線ではなく、すでに言葉の一部である文字、否、言葉そのものをすでに微粒子的に含んでいる存在なのだと述べている(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、23頁~24頁)。

国際的な書とは
石川は戦後前衛書を紹介した後に、字句の判読性に書の本質はないと主張している。「書を読む」「書が読める」とは、書として表現された世界を解読することであるというのである。筆蝕と構成と角度の芸術である書は、それらの歴史的蓄積の理解の上に立って、正確に読み解かれるべきであるという。
字句が読めず、理解できなくても、書を読むことは可能であるともいう。この書にまつわりつく謎について、高村光太郎は字句が何と書かれているかわからないのに、その表現を感じとることのできるのはなぜだろうと考え、書の美の要素として、「筆触の生理的心理的統整」の存在を発見していることを石川は紹介している(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、250頁)。
そして石川は次のように述べている。
「現在は、たとえ書とはとうてい思えない形にまで歪んだ形であっても、書の本質と美質を核とし、そこに東アジアを超え、西欧をも含み込んだ世界の姿を写し込む実験と、演習をしなければなりません。現在はそのような時代であると私は考えています。」と(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、254頁)。
「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ(わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか)」(1972年)などの前衛書をものしている石川の書に対する理解には深いものがあろう。

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《冨田健次先生の著作を読んで》その24

2014-12-31 16:24:09 | 日記
石川九楊の中国書史と日本書史の基本的理解について
石川九楊は中国書史をどのように理解しているのだろうか。一言で要約すれば、中国書史は、自律的に0(ゼロ)→一→二→三→多→無限という見事な論理、つまりリズム法(折法)をもって展開をとげた姿を描いていると捉えている。
これに対して、日本書史は、中国のような見事な展開の姿を見ないという。その理由を、日本語の特質に求めている。すなわち、
「その理由は、日本語が、政治的・思想的な中国語(漢語)を核として、古くからある再編、再構築された孤島語である和語・テニヲハをこれに添え、漢語(音)の裏に和語(訓)を貼付し、和語の裏に漢語を貼りつけた構造からなる二つの異なる中心をもつ二重複線言語であるからです。日本の書史は自律的に展開しようとしても、絶えず日本語の一方の部分である漢語の国、中国からの書(言葉)の流入によってその自律的な展開が阻(さまた)げられ、乱流します。」と。
このように、その理由について、日本語の二重複線言語という特質から、日本書史は自律的展開を、漢語の国である中国からの書の流入によって阻げられたのだというのである(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、140頁、150頁)。

中国と日本の書について
楷、行、草のうち、中国では楷書を基本と考える捉え方であるのに対して、日本では行書を典型(中庸)として捉えている。書における「大陸的」=中国的とは楷書を標準にしている。それに対して「島国的」=日本的とは楷書をくずした行書的な書を基準にしている。このことは、『入木抄(じゅぼくしょう)』などで明らかである。楷書は構築性、直線性、動的、肥の傾向をもつとされ、行書は展開性、曲線性、静的、痩または肥痩の傾向をもち、柔軟、抒情的と表現される。
日本の書史を見た場合、擬似中国文化時代、遣唐使世代に属する三筆(空海、嵯峨天皇、橘逸勢)の書は中国書の吸収、消化期に位置し、中国の書に酷似している。空海の「灌頂記」が顔真卿の影響を受けているという説が流布されるのは、三筆の書が中国色をいまだ払拭しきれない事実を証明している。
ところが、漢語と和語からなる日本語が誕生し、日本が姿を見せはじめたポスト遣唐使世代である三蹟(894年に遣唐使廃止生まれの小野道風、藤原佐里、藤原行成)によって書風は一変した。運筆はなめらかで柔らかく、「S字型曲線」を描くようになり、文字形は円く均整がとれ、肥痩(ひそう)をバランスよく、ないまぜにした美しい和様の日本文字へと昇華した。
つまり、楷書の典型は中国初唐の欧陽詢、虞世南、褚遂良によって、和様・日本文字の典型は日本の三蹟によって完成した。僧寛建が道風の書を携えて入唐し、僧嘉因が佐理の書を宋の太宗に献上したというエピソードが、三蹟の書の中国風からの脱出を示している(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、199頁~200頁)。

漢字文化圏における書の担い手について
書の担い手という問題を考えてみた場合に、どのように要約できるのであろうか。漢字文化圏における書は、文化の中枢にある表現であるから、政治的・文化的中枢部に存在しつづけてきた。
甲骨文は、史官とでも言うべき存在によって亀甲や獣骨に刻りつけられていた。史官というのは、王、王と神との間の通訳である占人と並び、神政政治の中心を担っている存在であった。中国殷代の最初の文字・甲骨文は、王と占人と史官の三者の創製したものと考えられる。
秦の始皇帝時代の篆書を書き、刻りつけもした李斯も、この史官に相当する存在であった。漢代の隷書の書き手や刻者もまた、この史官に準じる存在である書記官であった。草書の時代になると、王羲之など高級貴族が書の書き手となる。
唐代には、皇帝をはじめ、欧陽詢、虞世南、褚遂良といった皇帝周辺の最高級官僚であった。宋代頃から、高級官僚やその挫折者である士大夫が書の表現を担うようになり、これは清代まで続く。
このように、中国において、書は史官、書記官、皇帝、高級官僚、士大夫という、いずれにしても高級政治家、官僚とその周辺に担われていた。
日本においても、同様で、基本的に天皇や皇后、貴族、あるいはその周辺の僧(知識人)によって書は担われてきた。江戸末期になると、新興町人階級の成熟とともに、この力を背景とした都市知識人(いわゆる日本的文人)もこれに加わり、幕末には儒学で武装した維新の革命家、明治の近代以降は、政府の書記官、さらに作家や詩人や学者によって書は担われた(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、69頁~70頁)。

中国の書と日本の書の相違について
中国の書と日本の書の相違について、石川九楊は興味深い捉え方をしている。
中国では、紀元前千数百年から初唐代まで2000年近くをかけた前史があり、その歴史的蓄積が、書の美の基本部分を成立させた。このことを象徴的に言えば、石と紙との争闘史であったという。つまり刻ることと書くこととの争闘史であり、また鑿(のみ)と筆との
争闘史であった。
中国の書は、行書、草書を従えた楷書を中心に、楷・行・草の三書体セットで立体的に成立した。その楷書書字法の中心に来るのが、「トン・スー・トン」つまり起筆・送筆・終筆の三過折=三折法の構造である。
楷書は、三折法を運筆筆蝕の中心に据え、中国の陰陽二項対立思想から来る、左右対称の構成法の上に成立する構築的、政治的な書であると石川は定義している。
一方、日本の書は、紙と石との、鑿と毛筆との争闘という書史の前提を知ることがなかった。書くと刻ることの相関を知りえなかった日本の書は、三折法をなだらかな「起筆・送筆・終筆」の階調(グラデーション)と読みかえ、「真・行・草」の深い意味合いに目が届かなかった。
「先、行字可有御習候。行、中庸の故也(まず行書からお習いなさい。行書は中庸ですから)」(『入木抄(じゅぼくしょう)』)と言われる日本の書には、極論すれば、楷書がないと石川はいう。
日本の書、とりわけ和様の書は、「トン・スー・トン」ではなく、いわば「スイ・スー・スイ」というなだらかな連続法で、ひとつの字画が「S字型」を描き、かつ左右対称性を「くずした」構成を基本とする。日本書史においては、「和様」と「唐様(からよう)」と「墨蹟」しか成立しなかった。「和様」は、三蹟のひとり小野道風の「屏風土代」がその出発であり、三蹟の藤原行成の「白楽天詩巻」で完全に成立する。また、「唐様」は中国の書の輸入との関係で成立した「中国書くずし」であり、「墨蹟」は中国から輸入した書の「くずし」である唐様の書の、禅僧によるよりいっそうの「くずし」である。中国を含む書史の全体から言えば、日本書史はそれ自体豊穣な蓄積をもってはいるものの、「コップの中の嵐」程度のことにすぎないという(石川、1994年、140頁~147頁)。

ところで日本と中国の漢字の筆順について、書家の武田双雲は興味深いことを述べている。武田双雲は、東京理科大学を卒業後、NTT勤務を経て、書道家として独立するという独特の経歴を持つ。書家としては、吉永小百合主演の映画『北の零年』の題字などを手がけている。
その武田は、筆順(書き順)は日本と中国では違いが見られることを論じている。
たとえば、日本の学校では、「右」の筆順は縦が先であると教えられる。それに対して、中国では、横画から書くと統一されているという。また、「有」も日本では縦から、中国では横画が先である。
その他にも、日本と中国では筆順が大幅に異なっている。
①「王」は、日本では横画につづき縦画であるのに対して、中国では横画、横画そして縦画である。
②「必」は、日本ではカタカナの「ソ」に似た部分から書き始めるが、中国では左の点画から右へ順番に書いていく。
③「田」」の中の「十」は、日本では縦画が先だが、中国では横画が先である。
④「母」の中は、日本では二つの点画のあとに横画だが、中国では横画のあとに二つの点画を書く。
このように、日中では筆順が異なるのである。その理由について、武田は次のような推測を述べている。日本では筆順を統一する時に、「右」の筆順のように、古典から推測される筆順に従ったのに対して、中国では「横画が先」と、古典よりは覚え易さ、わかり易さを優先させたものであろうとする(武田、2004年[2006年版]、60頁~65頁)。
また、筆順に関して、「無」という漢字に関して、石川も言及している。文部省(ママ)推奨の筆順は、第二画目と第三画目の横画につづき、四つの縦画をかき、その後、横画をかく。しかし、この場合には、必然的に第三横筆の短い「無」型の不安定な字形になるという。
一方、歴史的に多数派の書き順は、第二、三、四画目の横筆をかいて、その後、四つの縦画をかくと、第三横筆が長く伸び、安定感のある「無」字となるというのである。
要は、筆順に従って字形も変化するから、字典で筆順を確認し、検討する必要がある。

中国と日本の書の相違点
中国と日本の書の相違点として、西川寧は次の諸点を指摘している。
①中国の書には根底に建築的な強い骨組があるが、日本の書はそれよりも装飾的なあるいは図案的な平面の調和ということに進みやすい。
②中国の書には深い瞑想的なものが表われているが、日本の書はむしろ叙情的な面に特色を出している。
③中国の書には個性的な体臭というものが強く表われているが、日本の書では、ものやわらかい感覚的な味を求めていく。
④華やかな面をとっても、中国の書には重厚で荘重なものがあるが、日本のは軽い優美さが目立っている。
⑤叙情的な面をとっても、中国の書は強い骨格と重厚な精神とに根ざす複雑なものがあるが、日本の書は軽妙な流れに乗った純粋さが目立つ。
料理に例をとると、中国料理は油っこいが、日本料理は淡白である。日本のは淡白の裏に材料の自然を生かして鋭い味覚に訴えるが、中国の料理は手のこんだ作り方で、色々の材料を綜合的にあつかって、その複雑な味は人間の味覚全体を包んでしまうという。これは、中国の芸術の特色と全く同じであると西川寧は考えている。
もう一歩進めて考えた場合、中国の書は広い意味での論理主義を基礎とし、日本のは直観主義に立っていると西川はいう。これは民族性の違いや風土的な特色でもあり、書のみならず、絵画でも文学でも、この違いがある。
また、日本の優美さや純粋さにはいい所があるが、骨格の弱さや構成力の弱さ、あるいは人間的な深い心がとかく忘れがちになって、味や情緒におぼれやすい所は大きな弱点であると指摘している。西川は、作家の立場としては、この点に注意して、常に中国の書の研究につとめていると述べている(西川、1960年[1973年版]、227頁~228頁)。

日本と中国の書道展の相違について
中国の書道展は、日本のそれとはだいぶ様子がちがっていると榊莫山はいう。書に対する考えも、取り組み方もちがうようだ。
中国のそれの方が伝統的で日常的であるという。日本のように書家集団があって、作品を公募し審査し、肩書をつくって段階的に出世してゆくシステムがない。だから、大美術館で膨大な数をならべる必要もなく、たいがいは、街の人々がよく集まる公園や名所の古風な堂楼を会場にして、いわゆる書の作品と、篆刻の作品をならべる形をとっている。作品にはアマチュアリズムがあふれていると榊はみている。
中国の方が伝統的であるというのは、作風に冒険がなく、伝承性を重んじているという意味で、そのために作風の振幅は単調であるという。篆・隷・行・草・楷という書体の多様性はみられても、今一つ今日的な生々の気に乏しい。
日本の書は、漢字・仮名・篆刻・近代詩文・墨象等々、不必要なまでに細分化して、展覧会づけされているのが、現状である。そして、古典的な伝承性のつよい作風から、抽象絵画に接する新しい作風まで視野を広めつづけているという(榊莫山『中国見聞記―書の源流をたずねて―』人文書院、1982年、43頁~49頁)。

書はどこまで国際的に理解できるか
書はどこまで国際的に理解できるか。この問いに、完全に否定的であるのは、大溪洗耳(おおたに せんじ)である。大溪洗耳は、1932年に新潟県に生まれ、1958年に東京学芸大学書道科を卒業した書家である。1979年、1982年には東京新聞後援の個展を開催し、1985年当時、日本教育書道芸術院理事長および東京書作展審査委員を務めていたが、2003年に没した。
『戦後日本の書をダメにした七人』(日貿出版社、1985年、162頁、172頁~174頁)において、次のように述べている。
「書は国際的理解の中で花は咲かないのである。咲いたと思ってもそれは錯覚である。国際的な書を目指すのは、「小字数作品」だなどと、かつて言った馬鹿がいたが、この頃はもう余り聞かない」(大溪、1985年、162頁)
「二つ目は、外国人は書としては何も理解してないという事実である。確然たる理解を得なくてもいい、書は難しく考えて見るものではない、ましてや初めて見る書である、楽しく見てくれればそれでいい、ということをふまえての話ならけっこうである。外国人に解るようになったから、いよいよ書も国際的になったなどとニコニコしないのなら納得する。外国人は書を理解しようがないのである」(大溪、1985年、172頁)。
「何度もくり返すが書は国際的にはなり得ない。なったと思ってもそれは錯覚である。手前味噌である」(大溪、1985年、172頁~174頁)と述べている。
そして、具体的には、国際美術家連盟とかの偉い外人さんが、手島右卿の「崩壊」という作品を見て、読めないのにその印象だけで「崩壊」を感じたというエピソードがあるが、これなど錯覚であると大溪洗耳はいう(大溪、1985年、170頁)。
これに対して、書家の岡安千尋(おかやす ちひろ)は異なる見解を示している。岡安には、『書の交差点―脱日本型思考・書の場合』(日貿出版社、1987年)という著作がある。
その著者略歴によれば、岡安千尋は1951年東京に生まれ、慶応義塾中等部、女子高校に学び、慶應義塾大学理工学部応用化学科を卒業し、そして日本書道専門学校に学び、大田区書道連盟会長の中平南海、専修大学講師の田中常貴に師事したという。そして外国人に書を教え始める一方で、1980年代半ばから後半にかけて、東京の六本木、銀座およびパリにて個展を開いたりした。
その岡安によれば、書において用いられる文字は、ひとつの象徴という大切な意味があるという。書家というのは、モチーフの文字を選ぶ場合、自分が無意識領域の中に抱き暖めている何かを、明確な一つの意を持った文字として意識に還元する作業をやっているのだと述べている。心の中にしまい込んだ文字が、作品になるようだ。自分に内在するものの象徴としての文字を、自分の中にかかえ込んでいて、多くは技術的な種々の問題によって、つっかかっている状態のものらしい。自分の内在するものにくっつく象徴を探し、自己葛藤の中で貯えられた蓄積の文字を自分の中に持つことが書における最も大切なポイントである。ここに書が書たる由縁があり、お習字とは画然とした一本の線が引かれるところがあるという。
こうしたことを、はじめから西洋人にやれというのは無理だが、こうした自覚の下、西洋人が漢字を見て、それに自分に響くものを感じ、象徴として採用するなら、そこに書は成り立つと岡安はみている。それが、漢字の形象面からのもので、よしんばその意味や読みがわからなくとも、要は、それが自分の内在部分の象徴として、どれだけ意味があるかということが大切なのであるという(岡安、1987年、205頁~206頁)。
外国人に書を教えてきた岡安だからこその持論であり、書の国際的な理解はありえないと否定する大溪洗耳と異なる点である。
また、多くの外国人に書を教えてきた経験から、空間に対する意識の違いに注目していることは興味深い論点である。書ではないが、中近東イスラム圏では、その建築物は平面を装飾意匠で埋め尽くしている。執拗なまでに、文様でびっしりおおわれている。イスラム教の偶像崇拝禁止が影響しているかどうかは不明だが、そこには余白の美などという感覚は全くない点を岡安は指摘している。書は、空間のある一点から来る力が平面の上で仕事をし、又そのもとの一点に収束して戻っていくというような仕事であるという(岡安、1987年、184頁~186頁)。
中国や日本の書には、余白の美が重視される。とりわけ、日本の書である「かな」の作品の特性として、最も特徴的なのが「余白美」である。書家の武田双雲はその「余白美」に、日本独自の芸術観を見いだしている(武田、2004年[2006年版]、110頁~112頁)。
青山杉雨について

「書は人なり」という言葉について
この「書は人なり」という言葉はよく使われる。あの松本清張も「書道教授」という推理小説でも用いている。
勝村久子の人柄について、東京の良家の老婦人で、残光のような静かな気品があるとほめた後、その書について次のように記す。
「それに、彼女の書だ。ひとを教えるくらいだから、うまいにきまっているが、書にも気品というものがあって、これは上手とは別ものである。勝村久子の字には確かにその気品がある。書は人なりというが、まったく彼女の人柄と合致している。」(宮部みゆき編『松本清張傑作短篇コレクション 中』文春文庫、2004年、153頁)。
ところで、石川九楊は「書は人なり」という言葉について、次のように述べている。
「「書は人なり」と言うのは、書に表現世界なんて存在しないという認識と、個人は固有の性格を具有するという認識とが重なり合った場に生ずる、きわめて現代的な思想である」と(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、95頁)。
また、石川九楊は、中国宋代の蘇軾の説を紹介している。つまり、蘇軾は、「書は人なり」という説に対して、顔でさえその人を表わすと言いきることができぬのに、書が人を表わすというようなことはないよと、作者と表現の関係のとても深いところから書について語っているという。
これに対して、日本では「書は人を表わす」という説は人口に膾炙され、書についての評価は、すぐに「書は人なり」に帰着してしまう傾向が強いと指摘し、その理由として、5つ挙げている。そのうちの2つを紹介しておこう。
一、日本の書史は中国の書の流入によって左右されるため、その自律的展開が少なく、また真に評価する書が少ないため、書の価値を評することが、作者の違いを言上げすることに転化されたと主張している。日本人が作品の真贋問題を大きくとり上げるのはそのためという。
二、このため、日本では中国のような書評や書論の厚みがなく、評価法が育っていないという。
「書は人なり」という言説に対して、日本と中国とでは受け止め方が異なるのは、その背景にある書の歴史の厚みや、書論などの評価法といった文化史的蓄積の違いなどに由来することを石川が指摘しているのは興味深い(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、192頁~194頁)。
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《冨田健次先生の著作を読んで》その23

2014-12-31 16:21:43 | 日記
日本人、中国人の国民性の相違と書に対する評価について
日本では、とくに禅僧の書を「墨跡」と称して、これを珍重する風習がある。鎌倉時代は禅林様書道の栄えた時代であるといわれる。芸術と人間との相関性を自覚して、その深まりを求めるところに、道におけるきびしい鍛錬、稽古を行なうのが、禅林様の書道精神である。そこには、男性的、個性的、意力的な書風が成立したと理解されている。
鎌倉時代の禅僧で中国に入国した者は、8、90人にのぼり、その墨跡が将来され、無準師範(1177~1249)などの墨跡は今日なお伝存している。
禅僧の墨跡の特色は一般に中国の古い書道の伝統から離れた破格の書であるといわれる。中国のように、根強い文化的伝統を持つ国では、その伝統に反するものは、これを異端として拒否する傾きがつよい。したがって、中国では禅僧の墨跡はむろん疎外されたという。一方、日本においては、書道の一派をなすものとしてその価値を認めている。ここに書に対する両国の相違を平山観月はみている(平山、1965年[1972年版]、296頁)。

書の見方・鑑賞について
絵画を言葉で表現するのが難しいように、書を言葉で形容するのも困難である。その際に大いに参考となるのが、平山観月『書の芸術学』(有朋堂、1965年[1973年版])という著作である。
東晋時代の王羲之の「蘭亭序」は典雅(端正で上品)、唐時代の顔真卿の「自書告身帖」は雄渾(雄大でとどこうりない)、一方、日本の平安時代の空海の「風信帖」は淳和(てあつくやわらぐ)、同じく平安時代の伝小野道風の「三体白楽天詩巻」は優婉(やさしくしとやか)と形容している。この点について詳述してみたい。
書道における美的範疇は、主範疇と従範疇に分ける。主範疇に属するものは雄勁・優婉・飄逸の三者であり、これは基本的範疇の崇高(壮美)・純美・フモールに当たるものとする。語義的にいえば、雄勁は雄々しく強いことを意味し、優婉はやさしくしとやかなことであり、飄逸は形にとらわれず、自由無礙、放逸の態を意味し、また明るくのんきなことである。これらの三範疇はそれぞれ書の「強さ」「優しさ」「面白さ」を示す美的賓辞である。芸術書のあり方の基本的な三方向を示すものとして、これを主範疇と平山はしている。
次に従範疇として、主範疇の雄勁に所属するものとしては、蒼古・雄渾・曠達の三者をあげる。蒼古は古色を帯び、さびのあることであり、雄渾は雄大で、滞りない姿であり、曠達は度量ひろく、悠々として物事にこだわらぬ態である。
次に、主範疇の優婉に所属するものとして、淳和・典雅・流麗がある。淳和は手厚く、やわらぐ意味があり、典雅は正しく、上品なこと、みやびていることであり、流麗はなだらかで、麗しい意味がある。
次に主範疇の飄逸に所属するものに、斬新・素朴・雅拙がある。斬新は趣向の新奇なこと、素朴は人為なく、自然のままなるをいい、雅拙は一見子供じみて下手らしくはあるが、よく見れば素朴で純粋美があふれていることを意味する。
このように、主従あわせて、12の範疇に分けている。
ただし、平山は範疇の相互関係について、次の点を指摘している。
①これらのうち、ただ一つの範疇だけでは、複雑な書作品の美の様式を律しきれないことが多い。たとえば、雄勁と見るべきものの中にも、優婉味を帯びたものものあり、飄逸味を含むものもないわけではないという。
②これらの範疇は書の美的体質に名づけられる賛辞であると同時に、書者の精神、生命の動きに対する美的賓辞であることを意味する。というのも、書とはつまり、書者の内部生命の動きが筆墨紙をとおして律動的に表現されたものと平山は考えているからである。そして主範疇である雄勁・優婉・飄逸は、より精神美の方向を端的にあらわし、これに対して従範疇である蒼古以下の諸範疇は、より体感的美の方向を端的にあらわしている。
③これら従範疇のうち、蒼古・淳和・斬新は時間的契機のもとに捉えた範疇であり、雄渾・典雅・素朴は素質的契機のもとに捉えた範疇であり、曠達・流麗・雅拙はリズム的契機のもとに捉えた範疇として観察し得ることである。
なお、雄勁・蒼古・雄渾・曠達と、飄逸・斬新・素朴・雅拙とは、それぞれ対照的賓辞であり、優婉・淳和・典雅・流麗は中和的契機をもつ賓辞であるとする。
このように、平山は、書道における美的範疇の概念を捉え、中国の書の史的流れにそって、画期的な書人の作品を取り上げ、その美的賓辞について検討している。
たとえば、秦の始皇帝はいわゆる「小篆」を作ったが、その代表的な書跡である「石鼓文」(帝の頌徳の石文)は、蒼然たる色を帯び、かつ荘重、雄勁の点も見受けられるが、まず蒼古にはいるべきであろうとする。
東晋の王羲之、王献之父子は楷行草三体をよくし、「楽毅論」はその細楷として第一位に推されるもので、筆力秀勁、筆法の妙をきわむといわれ、行書の「蘭亭序」、「孔侍中帖」、草書の「喪乱帖」など用筆、結体ともに精妙で、毛筆の極致を示すものといわれている。
王羲之の書体は各体とも貴族的であり、その人間性から発散する縹渺たる仙気は、一種の悠然たる風格が備わっている。この風格は、優婉・淳和・典雅とも呼ばれるべきものであるとする。
続く南北朝時代では、北朝は北方人の雄勁な書風で、南朝は流麗な書風で、互いに対立的であった。しかしその南北の対立は、隋唐において融和し、初唐の三大家といわれる欧陽詢、虞世南、褚遂良の均斉のとれた書風になった。そして盛唐には顔真卿の豊かな生命感にあふれた書が生まれてくる。唐代の書道の盛大をなしたゆえんは、太宗の力に負うところが大きく、その太宗は帝王中第一の能書家といわれ、王羲之の書を敬愛した。初唐の三大家も王羲之に源を求めているが、虞世南の書は典雅においてまさり、欧陽詢の書は雄勁の趣を加え、褚遂良の書は蒼古の風神を湛えている点に特色があると平山は評している。
一方、顔真卿は唐王朝に忠勤をぬきんでた正義感の強い剛直の士で、妍美なものに激しく反発し、男性的な重みと、剛気とに満ちあふれた主体的なものの表現を求めたといわれる。その書そのものが「自書告身帖」にみられるように、壮重雄渾であった。剛毅であり、野逸でさえあるその書風は、まさに「書は人なり」の感を深くする(平山、1965年[1973年版]、182頁~190頁)。
その書風は、当時一般に行なわれていた王羲之風の優雅な書風に刺激を与え、書表現の思想や技術が大きく転向した。当時の楷書が隷書に源を求めていたのに対し、顔真卿はさらにさかのぼって篆書にその根底を求めた。だから、顔真卿の楷書は従来のそれに比して、文字の姿態は丸く、線はほぼ楕円形をなし、千金の量感を呈し、雄渾曠達にして度量も広く悠々たる風情があると評せられる。これが顔真卿の楷書の大きな特色である。
次に、宋代の四大家である蔡襄・蘇軾・黄庭堅・米芾は、それぞれ個性を発揮して清新な書風を開く。蔡襄の「万安橋記」の書法は顔真卿の型で雄偉、遒麗にして堂々たるものがあり、雄渾といわれる。
蘇軾の「黄州寒食詩巻」の書について、黄庭堅は「疏々密々、意のまま緩急して、文字の間に妍媚な美しさが百出するもの」と絶賛している。それは、現存する蘇書の中では神品
第一と称せられる。平山は、趣向斬新、流麗な筆致をもって鳴るものと評している。
蘇軾は、顔真卿の書を学び、その上古人の書をよく消化し、独創的な個性を表現しようとした。
黄庭堅も、蘇軾と同じく、顔法を学んだ。彼はとくに魏晋の書に見られる逸気を重んじ、晩年には唐の張旭・懐素に草書の妙をうかがい、さらに秦漢の篆隷にさかのぼって、古人の用筆と筆意を学んだ。草書の「李白詩憶旧遊」は、超妙脱塵の境地に達した書といわれ、平山は、瓢逸を主として曠達を兼ねるところの逸品と称賛している。
また米芾は晋人の高古の風を尊び、奔放な宋人らしい主観的な書をかいた。「方円庵記」は行書のうちでとくに著名で、その朗暢な書風は宋代随一と称せられている。その書風の淵源するところは、王羲之、褚遂良にあるが、流麗なリズムの中に、斬新な趣向があるといわれる。
このように宋代の書表現は、自由と個性とを中心としたものであった。
それに対して、元代の書は復古主義に戻ったといわれる。元代の趙子昴は典雅な書をかいた。彼は古人の筆跡を慕い、王羲之の書の伝統が唐の中葉以降かき乱され、宋人の書が放縦にして弊が多いのを見て、晋唐への復古を志した。その代表作「行書千字文」は温雅寛博、円熟に達した書であるといわれている。日下部鳴鶴は、「規矩を自然にし、雄奇を清穆に寓す」と評した。平山は、「まさに典雅の賓辞にふさわしい手跡というべきである」と称賛している。
さて、明代にはいっても、書流としては晋唐を目標にし、そこから脱するところまでは行かなかった。その中で董其昌は軽妙で円熟した書をかいた「項元汴墓誌銘」は、行書を交えた楷書で、遒媚にして暢達、当代第一の大家たる気品があるといわれる。
彼は、元の趙孟頫の一派がもっぱら王羲之の形似を得ることに努めた行き方を退けた。そして晋人の書法に造詣の深い米芾や、晋人の精神を得た顔真卿に共感を示したようだ。概して董其昌の書は、枯淡、秀潤、率意の妙においてすぐれているといわれる。平山は、その範疇により、枯淡は蒼古、秀潤は流麗、率意は素朴の賓辞に近いものと理解している。
清代にはいっては、金石学の興起により、再び北朝の書風が復興される。とくに劉石庵と石如が名高い。劉の「砂金箋」は豊潤でしかも気骨を内に蔵し、静かな情趣をたたえた典雅な書風は品格が高いと評される。の「漢崔子玉坐右銘」は、篆隷を当世に生かしたもので、蒼古、渾厚の気がみなぎっていると平山は解説している(平山、1965年[1973年版]、182頁~192頁)。
「楷書は立てるがごとく、行書は歩むがごとく、草書は走るがごとし」といわれるが、楷書・行書・草書の相違、特質について、言いえて妙である(平山、1965年[1973年版]、264頁)。

ギリシャ美術と書
西川寧編『書道』(毎日新聞社、1976年)において、美術史家の守屋謙二は「書の芸術性」という評論で、ギリシャ美術と書との関係を見た場合、西洋と東洋の書の相違が明確に浮き上がることを述べている。
西洋美術の本源とも見なされるギリシャ彫刻であるが、その一例として、紀元前400年ごろの製作と推定される「ヘーゲーソーの墓碑(アテナイ、国立美術館蔵)を挙げることができる。墓碑の上部なる破風形の下辺には、ギリシャ文字の銘文「プロクセノスの娘ヘーゲーソー」と刻まれている。この浮き彫りは、ヘーゲーソーが下婢のさし出した小筥(こばこ)から宝石の首飾りを取り出している場面である。その端正な横顔や、豊潤な体躯の表現はパルテノン神殿の彫刻作品にも比肩するほどである。
こうしたすばらしい彫刻的表現にもかかわらず、碑銘の文字は、字画がきわめて簡単であり、多様な雅致に富む表現をとり得ない。文字の描線は、雅拙でたどたどしく、その組み立ては均衡がとれず、不安定である。つまり書の表現は貧弱をきわめる。このことを「あたかも美人に筆を持たせると、みみずのような拙字を書くのに似ている」と守屋は表現している。
彫刻の領域において卓越したギリシャ民族は、必ずしも書道の方面でりっぱなものを生み出すとはかぎらず、二つの美術のジャンル、すなわち彫刻と書道とは実際の製作にあたって、同じ水準に達することなく、全く異なった現われ方をしているとみている(西川編、1976年、64頁~67頁)。

「気韻生動」について
絵画では六朝の後半期、5世紀頃には、六法論があらわれて、絵画への自覚に根拠が与えられた。六法の第一に「気韻生動」の一条があげられている。精神性の表現を第一とする所に中国人の美意識の特色がある。書論でもこの頃「生気」ということが第一に考えられていた。雄逸・洞達といった風な人格的なものの味得となり、その中枢にはいつも神気があった。
六朝の後半期は、書でも主知的な傾向が動き出して大きな転換をする。一画が三つの構造を確立して、新しい楷書を生み出したのもこの時期である。その挙句は、隋・唐、6世紀終わりから7世紀にかけて、楷書の典型の成立となる。平行線の統一と力の均衡による正しい構成(間架結構法)に飽和された精神、これがこの時期の特色である。そして、欧陽詢はその中心的な存在である。
しかし、典型が成立すると、反典型的な運動、つまり主観の表現を第一とするようになる。北宋の後半、11世紀に蘇東坡があらわれて、この面に新しい世界を大きく開いた。ここで書における神気の充実ということが強く自覚されてくる。書の鑑賞にも、瓢逸とか、疏宕とか瀟洒あるいは雄麗、渾摯、雅醇、婉秀などと、人格的な、性格的な、または情趣的な面が注意されてくるようになる。この視点が、大体後世の鑑賞の標準となる(西川、1960年[1973年版]、56頁~58頁)。

参差(しんし)について
構成は、書の歴史的展開の中で、まず文字の誕生とともに、整斉(せいせい)つまり対称(シンメトリー)と均等(イクオール)を知る。やがて筆で書きつける姿を文字に定着した書字(書くこと=筆蝕)の発見とともに、参差(しんし)を知ることになるという。
参差とは、字画の長短や出入りのことである。これは音楽に喩えれば音階、絵画に喩えれば色彩ということになると石川は説明している。
書論には「整斉中参差あらしむべし」という言葉がある。「整っていると言うことは画一的とは違い、音階の美をもつべきである」という意味らしい。
もともとの甲骨文、金文、篆書の時代には、同じ長さの三本の線で書き表されていた「三」の字が、隷書の時代に入って以降、三つの字画の長さが異なるように書き表されるようになったのは、この参差=音階の美の成立ゆえであるというのである。
書道家が、「作品に変化をつける」と言っているのが、参差に相当する(石川九楊『書に通ず』新潮選書、1999年、52頁)。

章法とは
一幅の字配りを「章法」、もしくは配字法、布置ともいう。扁額、条幅、扇面などの揮毫にいては、文字の巧拙よりも、むしろ、この章法に留意しなければならないといわれる。
文字を上手に書くというのは平素の練習にあるが、章法はその場合に臨んで、大いに工夫を練る必要がある。
①長い字と、短い字とがある場合に、その釣合いをどうするか、
②何十字という文字を、一幅に収める場合に、それを何行に書けばよいか、
③また書体は何が適すかというように、種々考慮しなければならない。
もっとも簡単に会得できるものではなく、「書くより慣れろ」といわれ、昔から「扇子千本(せんすせんぼん)」という言葉がある。これは扇子の揮毫はなかなかむずかしいもので、千本も書けば初めて上手に書けるようになるという意味である(小野鵞堂『三体千字文』秀峰堂、1986年[1999年版]、222頁)。

石川九楊にとって書のうまさとは何か
一方、石川九楊にとって書のうまさとは何か。このテーマでは、石川は『書と文字は面白い』(新潮文庫、1996年ⓑ、256頁~257頁)で言及している。
意外に思われるかもしれないと断りつつ、大正9年(1920)に、俳人・河東碧梧桐(かわひがし へきごとう、1873~1937)が揮毫した「蘭亭序」を「うまいなあ」と感じるとして挙げている。
 その書の書き出し部分「蘭亭序 永和九年」の写真が掲載されているが、王羲之の書風とは全く異にした文字である。その書は、一見、不自然に文字を歪めたかのように見え、抵抗を感じるかもしれない。しかし、「うまい」と言い切れる理由として、次の3点を指摘している。
①文字を紙面に配する構成。
②字画構成法。
③安定した字画運筆律の中に隠された強弱、転調、飛躍の演出法。
これら三者の組み合わせの上に見事な劇(ドラマ)が進行していると石川はみている。書き出しの先の7字について、次のように分析している。
・「蘭」の字の草冠の二つの点の強弱の様子
・「亭」の第一画の長さと傾き
・「序」の第三画のごく細い形状への転調過程
・水紋の広がりを思わせるような「永」字の形状
・「和」の偏と旁の寸法の落差
・扁平な造形と化した「九」字
・四つの横画があって三つめまでは諧調をもって漸減しながら最後に異常なまでに伸長される「年」の姿態
これらの字があいまって、劇的(ドラマチック)な展開をしているという。
また、縦画は下から、横画は右から起筆されており(いわゆる逆筆)、それにつづく次の字画も適切な位置に書かれ、どの字画も納得がゆき、どの文字も見事にきまっていると称賛している(石川、1996年ⓑ、256頁~257頁)。

書のうまさとは?
古典作品は、うまいから残ってきたとは決していえないと武田双雲は明言している。均整がとれている、バランスがいい、線がきれいというだけの話なら、他にもたくさんある。百年、千年の時を経て生き残ってきた書の古典は、素晴らしいものだが、ほとんどの作品は「うまい」とは感じられないというのである。
王羲之の「蘭亭序」といえでも、決して完璧なうまさとはいえず、余白や字形等をみても、すべてが完璧ではないという。
本当にうまい字ということであれば、近代の書家が書いた書作品の方がうまいと武田は思うと述べている。例えば、近代の書を代表する一人でもある日下部鳴鶴(くさかべめいかく、1838-1922)の「楷書千字文」は無駄がなく、「うまい」という。日下部は六朝書道を学び、清国に渡って書学を研究した明治書道界の第一人者である。
それでは、なぜ、古典は人々を魅了するのかという点については、「書は人なり」というのが一つの答えであると武田は理解している。
例えば、良寛の書は決してうまいとはいえないが、絶大なる人気を保っている。その書は、細かくて頼りない線質で、たっぷりと余白があり、丸みのある書で、人々の心を癒してきた。見ているだけで、ほっとする気がする書である。その書は単に手先の問題だけでは書けず、その書には良寛の生き様、人生観がそのままにじみ出ているというのである。
先ほどの王羲之にしても、その書に対する姿勢、練習量はすさまじいものであったといわれる。また彼の生きた時代は、書が単なる記号としての文字から、美意識を持った芸術の域にまで達し始めた頃であった。つまり、王羲之は書が芸術としての価値を高めていった時代の波を創り出した人であったと歴史的に位置づけられる。
「うまい書」ではなく、本当に「よい書」とは、このように時代性と人間性・個性という要素があらわれた書であると武田は捉えている(武田双雲『「書」を書く愉しみ』光文社新書、2004年[2006年版]、35頁~44頁)。

「永字八法」について
右はらいは、ペン字においても、やはり難しく注意を要する。書家の金田石城も次のように解説している。
右へのはらいは、タテの線と45度の角度で、ナナメ右下へスーッとペンをおろしてきて、一度ペンをとめ、筆記具を持った手の力を抜きながら、そっと右側へずらす感じで手をすべらせると、自然な終筆になるというのである。つまり、永、東、京などの右へのはらいは、一度ペンをとめたのち、そのペンを引きずるようにのばして、終わらせる形が良いとする。右へのはらいは、終筆が昆虫の足のように、ひと関節分多いのが特徴で、形としては、ちょうどバッタやカマキリが足をふんばった形のようになると説明している(金田、1985年、39頁~40頁、48頁)。
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《冨田健次先生の著作を読んで》その22

2014-12-31 16:19:54 | 日記
会津八一(1881-1956)と書の評価
鄭道昭と王羲之に対する会津八一の評価についていえば、会津は、北魏の書家である鄭道昭(?―516)が非常に好きであるという。王羲之の字がいいという人は鄭道昭の字を見てもさほど感服しないが、王羲之は少し暗すぎていかんというような考えの人が鄭道昭を見ると、非常に喜ぶそうだ。ここがいわば分かれ目であるとみる。つまり、南方と北方の趣味の差があらわれる。一言でいえば、王羲之の字は不明瞭で陰鬱であるという。文字に明瞭を求めた会津らしい言説である。王羲之の書を万人の手本とするのは、大なる誤った態度であると会津は信じていた。
会津が北方の鄭道昭の書が好きである理由として、「実にいい気持で、何か気のふさぐやうな時にそれを出して見てゐると、大変心気朗かになつてくる」点を挙げている(会津、1967年[1983年版]、24頁~25頁、64頁~65頁)。
ついでに言えば、会津は中林梧竹(1827-1913)の書は好きだが、唐の欧陽詢の書を学び、端正で明快な書風である巻菱湖(1777-1843)の書は嫌いであるという。梧竹の字は「浮世ばなれのした字」で、竹箒で書いても味わいのある字だが、巻菱湖の字は、砂の上に書いても字にならないという。巻菱湖は字はうまいが、陰気な字で、どこか痛々しいというような感じがする。それに対して、梧竹の字は「何時も明るい大きい味はひが出て来る」という。
ただ、巻菱湖という人は日本一流の名家で、明治書道界の第一人者である日下部鳴鶴(1838-1922)などに影響を与えた。もっとも、その日下部鳴鶴が晩年のような字になったのは、中国から来た楊守敬の刺戟を受けて、日本風にかたまっていた頭を開いて、別天地をそこに展開し、中国の法帖を借りて手習したり、引き写したりしたのが、晩年大成する素因をなしたようだ。その結果、日下部の暗い字も明るくなってきたと会津はみている(会津、1967年[1983年版]、67頁~70頁)。

会津の書と絵についてのエピソード
書道の練磨のために、渦巻を内側から書いたり、外側から書いたりすることを会津は勧めている。こうして、いい線が書けるようにせよという。そうすれば、書道は無論のこと、絵も描けるようになるという。
そして、今日、画家の絵が軽薄であるのは、線を書くことを知らないからだと主張している。会津が鳩居堂で、絵を描いたのを出した時、帝室博物館の美術部長である溝口禎次郎がやって来て、次のような質問をした。会津の絵は実に不思議な絵である。溝口は美術学校にいた時から雪舟の画風を慕って、花木山水を描いてきたが、会津のような線はとても書けない。いつ絵を研究されたのかと問いかけた。
それに対して、会津は別に絵の稽古などしたことはないと答えた。線が書けないで画をかくの、字を書くのというのが、そもそも間違いであると諭し、会津の線かきの秘訣を教えたという(会津、1967年[1983年版]、39頁~41頁)。

三島由紀夫(1925-1970)の書について
三島由紀夫の書を、「温感の書」と石川九楊は評している。三島は、原稿や揮毫に楷書を多用した。行、草体の草稿の方が熟練していてよほどよいのに、原稿は生真面目に楷書で浄書した。揮毫も楷書の基本である起、送、収筆の三過折(いわゆるトン・スー・トン)を脱しようとはしなかった。
ところで、『金閣寺』の原稿は、烈しい筆致がところどころ見られるが、全体は、女性的と言ってよいほど、温かいやさしい顔立ちをしていると石川は評している。つまり、男性にありがちな職業的な歪みがなく、最も均整のとれた初唐代の楷書の基本に忠実であった。
三島にとって、書とは幼い日の懐しい習字体験の再現に他ならなかったであろうと石川はみている。三島は幼い日、母親の実家で、祖父の指導の下に快い書初めを強いられた。また、学校の習字の時間は、「昔流の、肱(ひじ)をきちんと立て、筆の頭に一銭銅貨をのせても落ちぬほど筆を垂直に保つてゐなければならぬといふ、固苦しい教へ方だから、退屈していろいろいたづらをした」と振り返っている。
その書の評価はまちまちである。三島の母は、「よくそんな下手な字を人様に上げられるわね」と眉を顰めて、三島の書を評したといわれる。毛筆に常時接してきた世代の遠慮会釈のない感想である。
一方、作家の野坂昭如(あきゆき)は、高く評価した。「三島さんの楷書、なかでも自らの姓名記す場合の筆致は、しごく鮮やかであって、書の原型といえるだろう」と記す。ただ、三島由紀夫の書を好む傾向は、書への素養を欠いた世代に多いと、石川は手厳しい。
ともあれ、周知のように、三島由紀夫は、1970年11月、陸上自衛隊市ケ谷駐屯地に乱入し、割腹自殺し、衝撃的な死を遂げた。ただ、先述したように、『金閣寺』の原稿は、女性的な温感の書で、どこにも割腹自決を予感させる雰囲気はないと石川は解説している(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、79頁~83頁)。

川端康成(1899-1972)の書について
川端康成は、その生家は北条泰時の末裔であるようだ。幼くして父母が病没し、3歳で祖父母に養われた。作家としては、周知のように、『伊豆の踊子』『雪国』を発表し、横光利一とともに新感覚派の代表作家となった。そして、昭和43年(1968)、ノーベル文学賞を受賞した。
その川端の書について、保田與重郎(やすだ よじゅうろう、1910-1981)は興味深いことを記している。保田は、楊守敬の来日、碑板法帖13000点の舶載に象徴される近代書の出発点を、「歪」「弊」として否定的に評価した。一方、保田は、川端康成の書を「今の日本の書家の一人として、これほどの書は書けない」と、文人の書として絶讃した。一字もおろそかにせず、心がこもり、張っている文字の動作は、川端の可憐な文学の底にあったものと同じであるという。しかもひきしまった文字は、自然に生動していて、一見して痩硬(そうこう)の如くで、しかもなつかしいものにあふれていると述べている。その書にも、川端文学の真髄がここにあるというような気がするとし、文と書の一致した文人書の理想像が描かれているという(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、206頁~209頁)。
詩人でもあり、書道評論をも執筆した疋田寛吉(ひきた かんきち、1923-1998)も、川端康成の書について述べている。書に深く執心した作家は近代に少なくないが、生存中に自分の書の個展を催した作家は何人もいないそうだが、川端康成は死の前年、昭和46年(1971)に、日本橋の壺中居(こちゅうきょ)において個展を開いている。その時の図録に、川端は「今の私の書はまとめて人さまに見ていただく高さには達していない」とし、「五年、十年先の老後の書の道程として、力んでみたり、気負ってみたりのわざとさ」もある、いわば未完成の書を見てもらうのだということを述べている。
また、川端ぐらいおびただしい毛筆の手紙を書いた作家は、現代作家にはいないだろうといわれる。自身も「原稿はペンで書くので、原稿のほかの文字はペンで書くのがいやである。手紙など、ペンだと早くかたづくのはわかつてゐるけれども、ペンでは書く氣になれない」という。
川端は、1968年、ノーベル賞受賞の知らせのあった日に、思いがけないことに、幾つかの書を染筆した。それも川端の書業の頂点と見られる書、「秋の野に鈴鳴らしてゆく人見えず」や「秋空一鶴」を書き残している。当夜は千人ともいわれる来客で、川端家はごったがえしていたが、その寸暇を縫って揮毫したという。だからこその筆力の高揚と沈静との充実を疋田はその書に読み取っている。
自作原稿の書は、越後湯沢駅の文学碑をはじめ、『雪国』の冒頭を最も多く書いているそうだ。昭和46年(1971)に行われた生前の個展「川端康成書の個展」にも出された。その書は、ボテボテした墨の濃淡が今にも溶けてなくなりそうな雪質を偲ばせ、不思議にたどたどしい余韻を伝えている書であった。
また、「佛界易入、魔界難入」という書幅は、昭和43年(1968)7月、参議院選挙に立候補した今東光の応援演説のため京都に立ち寄った折り、「いつ死ぬかもわからぬから形見に」と保田與重郎に贈った書であるといわれる。この言葉は一休和尚の禅語である。川端はノーベル賞受賞記念講演でも、「意味はいろいろに読まれ、またむづかしく考へれば限りがないでせうが、<仏界入り易し>につづけて<魔界入り難し>と言い加へた、その禅の一休が私の胸に来ます」と触れている。また、未完の小説『たんぽぽ』でもその絵説きをしている(疋田寛吉『近代文人にみる書の素顔』二玄社、1995年、54頁~57頁)。

中村不折(なかむらふせつ、1866-1943)と書
中村不折は、洋画家で書道家であるが、昭和11年(1936)、自邸に書道博物館を開設したことで知られる。
その著書『六朝書道論』で、「美術家の最後の叫びは『自然に歸れ』の一語に在り、余は思ふ、書道に於て漢魏六朝碑に向つて所謂る自然の尋ぬべきもの多々なるを」と述べている。その結果、六朝風俳書ブームを全国に惹起させた。
中村不折は35歳(明治34年)で渡欧し、アカデミー・ジュリアンに学んだが、その外遊の旅行カバンの底に、「龍門二十品」「書譜」をしのばせ、小さな硯、筆墨をも携行していたといわれる。そして5年間、黙々と誰も訪れる者のない貧しいアパルトマンの夜の孤独を、一人習書にふけって、わずかに無聊の慰めとしたといわれている(疋田寛吉『近代文人にみる書の素顔』二玄社、1995年、172頁)。

内藤湖南(1866―1934)の書について
明治以降の人の筆跡は、高村光太郎のいうところの「余計な努力」をしているのが多く、なかなか「あたり前と見える」ものは少ないと疋田寛吉は述べている。だから、良い楷書を書いた人は数えるほどしかおらず、書家の楷書は平板か、もしくは流行の六朝振りであると嘆いている。
その点、中国人にも通用する楷書で、安心して見ていられるのは、先ず内藤湖南と長尾雨山だろうという。
のちに東洋史学者となった内藤湖南は、日本の毛筆常用時代の書を仕込まれた、最後の少年の一人であったといわれる。明治14年(1881)、明治天皇東北巡幸の奉迎文を、小学校の在校生を代表して書いている。
湖南の書の手解きは、儒者である父内藤調一(十湾)によって、懇切な指導を受けた。その手本はすべて十湾が書き下ろした手本であり、素読の四書五経の教本に至るまで、みんな父の手書きの写本だったそうだ。湖南にとって、習書は、小手先の練習として習ったのではなく、実用の学問の基礎として培ったといえよう(疋田寛吉『近代文人にみる書の素顔』二玄社、1995年、106頁~107頁)。

小林秀雄(1902-1983)の書について
また、石川九楊は『現代作家100人の字』(新潮社、1998年、209頁~211頁)において、小林秀雄の書について、次のように評している。
「小林秀雄のペン書きの色紙には丁寧な心づかいがある。<小林秀雄>のサイン部も美しくくずされているが、軽率・乱雑なところがない。丹念な筆蹟だ。」と。
また小林秀雄が一時期、憑かれたように骨董に狂ったことはよく知られている。入手した良寛の「地震後作」の軸を、吉野秀雄に贋作だと指摘されて、即座に名刀・一文字助光で斬り捨てたこともある。
美術史は同時に贋作の歴史でもあるといわれる。王羲之の名品「蘭亭序」偽作説があり、良寛の書などは真贋が相当複雑に入り組んでいるという。本物より偽物の数の方が圧倒的に多いのが、良寛や富岡鉄斎だそうだ。美を専有し楽しむには、見識と学識と相応の覚悟が要求されると石川九楊は説いている。

星新一(1926-1997)と習字について
SF作家に、星新一という人がいた。この作家は、かの森鷗外の妹、小金井喜美子(1876-1956、翻訳家で小説家、島根県生まれ)を祖母に持つ人であった。
その星新一には、習字にまつわる面白いエピソードが伝わっている。学生時代、ノイローゼに陥り、精神科医から「毎日かかさず、習字をしなさい」と命じられ、その指示に従って症状を克服したという。
心の中のむりなスピードが、習字によって、本来あるべきスピードに落とされ、いらいらしたものが消え、雑念が払われる作用があると、星新一は証言している。
この点について、書家の石川九楊は、次のように解説している。星新一の言う「いらいらしたものが消え、雑念が払われる」習字のスピードとは、単に緩慢な速度を指すだけではなく、毛筆と紙=対象との関係に生じる筆蝕(力・深度・速度・角度の全体)を指す。暗示からではなく、習字によってノイローゼ症状が癒されたとすれば、それは、鋒の遊びに生じる、運動(筆蝕)と出現する形(筆痕)との二重性、つまり筆蝕による慰撫の効用だろうというのである。
ところで、星新一の自作ショート・ショートが千篇を超えた記念に、「先閃泉」と書いている。三文字ともに「千」の音に懸けてあるが、このクレヨンかパステルで書かれた文字について、石川九楊は「癖のない、嫌味のない文字」と評している(石川九楊『現代作家100人の字』新潮社、1998年、102頁~104頁)。

大石順教(1888-1968)と口書きについて
弘法大師空海のエピソードに左右の手、左右の足、それに口を使って五本の筆を同時に操ったという「五筆和尚」の話がある。
また、享和2年(1802)、歌川豊国筆の美人画「瀬川路考(せがわろこう)[三代目菊之丞]の葛の葉狐」には、片腕で子を抱きながら、硯箱を持ち、口に筆をくわえる女性の書き姿がある。
恋しくば尋ね来てみよ和泉なる 信太(しのだ)の森のうらみ葛の葉
という歌の「恋し」の箇所を障子に口書きしている。
このように、口で書くということで言えば、伝説や絵だけの世界だけのことではなく、大石順教という女性が、現実にも存在した。
明治21年(1888)、大阪道頓堀で生まれ、12歳の頃、芸妓となったが、17歳の時、養父が狂乱し、斬殺事件を起こした際に、巻き添えとなり、両腕を失ってしまう。その後数奇な運命のもと出家し、尼となり、口で筆をとり、絵画や書にはげみ、書を驚くほど細かな文字で美しく書いたという。
その気概と努力には敬服に値する。手が不自由になったから字が書けないなどと泣き言をいうのではなく、手で書けなければ足で書く、足で書けなければ口で書くというところまで、「書く」という行為は人間の大事な営みである。人間の営みと努力の可能性について考える際に、示唆的な話であろう(石川、2007年、150頁~152頁)。

ダウン症の女流書家・金澤翔子について
金澤翔子は1985年6月、母親泰子の42歳で授かった子であったが、誕生後、すぐにダウン症と診断される。娘の翔子が1000人に1人と言われているダウン症と母親の泰子に正式に伝えられたのは、出産後、約2ヶ月が経った頃であった。一方、父親は、翔子が生まれる際に、仮死状態で敗血症を起こしていたため、生まれてきた子はダウン症だから、交換輸血をしてまで助けるのはどうだろうかと、医師から冷静に説明されたそうだ。父親はクリスチャンで、「主よ、あなたの挑戦を受け入れます」と誓い、自ら交換輸血をして、我が子の命を助けた(その父親は、翔子が15歳のとき心臓発作で突然亡くなる)。父親から母親に娘がダウン症であることを告げると、母親は絶望感を味わい、3年間は辛い思いで、涙を流しながら娘を育てて、子どもを道連れに死のうかと悩んだという(金澤泰子・金澤翔子『愛にはじまる―ダウン症の女流書家と母の20年』ビジネス社、2006年、6頁~8頁、10頁~11頁)
ところで母親の金澤泰子(1943年生まれで、明治大学政治経済学部卒業)は1990年、東京・大田区に「久が原書道教室」を開設し、翔子は5歳で、母親に師事し、書道を始める。
翔子が10歳の小学4年の時、難しい漢字ばかりの272文字(経題を含む)の『般若心経』を涙を流しながらも、ひたすら書き続けた。涙の跡が残るこの時の書は、「涙の般若心経」として知られている。複雑な漢字を楷書で繰り返し書いたこの経験が、技術的なベースにもなったと母親はみている。歌人の馬場あき子は、翔子が10歳で書いた『般若心経』や『観音経』のひしひしとした文字並びから、幼くしてすでに誠実な持続の意志の深さを感じ取っている。また馬場は、翔子の20歳の成人に達したのを記念して催された初の個展を鑑賞して、強く心打たれた。銀座書廊の入口を入るとすぐ正面に飾られていた「如是我聞」の大字四文字に、鮮やかな意志と力と、空の広さを得て躍る虚心坦懐の純粋さを感じた。
翔子の書は、2012年のNHK大河ドラマ「平清盛」の題字も話題となった。
翔子は、ダウン症のため、競争や優劣比較とは無縁の世界を生き、優しい無垢な魂を奇跡的に保ち、それが書に反映され、見る人の心に響くのではないかと母親はみている。
書家の柳田泰雲・泰山に師事した母親の泰子は娘の翔子の書を「技術的にはそれほど優れてない」と冷静に見ているが、「人の心を揺さぶるエネルギーは、誰もかなわない」と言う。
「人に勝ちたいという競争心がないから、魂が世俗的なものにまみれておらず、うまく見せようという欲もなく、喜んでもらいたいという気持ちだけで、純度の高い魂が生み出す書だから、見る人を素直に感動させるのであろう」と、東京芸術大学評議員をも務める母親として分析している(金澤泰子・金澤翔子『愛にはじまる―ダウン症の女流書家と母の20年』ビジネス社、2006年、1頁~2頁、20頁、50頁~55頁、86頁~87頁)。

青山杉雨(1912-1993)という書家
後述するように、大溪洗耳は青山杉雨を批判している。しかし、断っておかなければならないことは、大溪洗耳が批判する青山杉雨には『明清書道図説』(二玄社、1986年)というりっぱな仕事がある。
著者略歴によれば、青山杉雨は、明治45年(1912)に名古屋市に生まれた。西川寧に師事し、謙慎書道会理事長をへて、大東文化大学教授についた。また日展常務理事、日本芸術院会員になり、文部大臣賞、日本芸術院賞を受け、そして勲三等旭日中綬賞を受けた。

青山は、中国歴代の書を通観してみて、最も「うまい字」を書いたのは誰かと問われたら、宋代では米元章(米芾)、明代では王鐸、清代では趙之謙に躊躇なく指を屈すると答えている。青山杉雨は、明末のロマン派の中心的存在として、王鐸を捉えている。そして、
「王鐸の書は実にうまい。またいい素質にも恵まれている。そうでなければあの様に縦横に筆を駆け廻らせては紙面が破綻してしまう筈なのに、それにうまくけじめがつけれるのは、その豊かな資質の然らしむるところであると見ている。また実によく線が伸び且行きとどく。羲之書を連綿草で書いた作などを見ると、よくあれ丈逸気にまかせて情懐を発展させながら、停る部分ではちゃんとキマリがつけられるものだと感心させられる」と記している。
また、王鐸の書は「うまい字」であるが、しかし傅山の書は「いい字」であり、書におけるロマンチズムの精神を傅山は最高のレベルにまで高めたと結論している。生き方においても、王鐸が清王朝に再出仕して節度を非難されて、その名を埋没させたが、傅山は出仕を固辞し隠棲し、清名を後世にまで語りつがれた点も対蹠的であった(青山杉雨『明清書道図説』二玄社、1986年、16頁~20頁)。

紫舟という書家
紫舟という女流書家は、NHK大河ドラマの「龍馬伝」の題字、NHKの美術番組「美の壺」の題字でよく知られている。
「美の壺」は、風景や文物について、日本の伝統美を紹介する番組である。題字「美の壺」の「壺」という漢字を見ていると、華道で花を生ける壺がイメージできるし、題字「龍馬伝」の「馬」という漢字からは、逸る馬を思い浮かべる。それはフランスの宮廷画家ダヴィッド(1748-1825)が描いた「サン・ベルナール峠のボナパルト」に登場するような馬が想起される。もちろん、このアルプス越えは史実とは異なり、実際には馬ではなく、騾馬であったようだ。ともあれ、紫舟の書いた「馬」という漢字からは、逸る馬と、血気に逸り、勇み立つ龍馬のイメージが重なり合う。
紫舟『龍馬のことば』(朝日新聞出版、2010年)という本において、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の題字を書くにあたり、紫舟は苦労したことを記している。つまり、龍馬への想いを一番伝えられる書体を見つけるために、龍馬に関する伝記・小説を読み、主演の福山雅治の音楽を何度も聴き尽くしたという。そして、その題字について、自ら、次のように記している。
龍馬さんの「若い志」と福山さんの繊細なシャープ感に焦点を合わせ、激動の時代を生きた龍馬さんの人生を書にしたいと思いました。「龍」には、龍馬さんと福山さんの背の高い風貌と福山さんのシャープな繊細さ、「馬」には、時代と格闘し天空までもを駆け抜けた龍馬さんの動きを、そして「伝」には北辰一刀流の免許皆伝でありながら人をあやめなかった龍馬さんの太刀筋を表現しました」とある。こうして、紫舟は天空を激しく駆け巡った龍馬の人生を書に託したのである。
紫舟という女性書家は、文字にイメージ表現や表情をつけ、情報としての文字に意思を吹き込んでいる。彼女は、2010年には、第5回手島右卿賞を受賞している(紫舟、2010年、24頁~25頁、94頁~99頁)。
 ところで、この題字の「馬」とは、対照的な字として「やじ馬」という書を書いている。この言葉は、慶応2年(1866)7月、木戸孝允(桂小五郎)あての書簡からの一節「どうぞ又やじ馬ハさしてく礼まいか」から、取り出している。紫舟自身、「こんな状況のなか(下関を長州対幕府の戦争がはじまり、長州が勝利した状況―筆者注―)、あえてやじ馬ということばを用いた気持ちを、今すぐにでも足をぐるぐる回して駆けつけたい動きで表現しました」と説明しているだけあって、「馬」という字の四つの点が、足跡のように表現されており、面白いが、その字がかもしだすイメージも品格も「龍馬伝」の「馬」の字よりも、劣る(紫舟、2010年、74頁~75頁)。
龍馬は、伏見より江戸へ旅立つときに、「又あふと思ふ心をしるべにて 道なき世にも出づる旅かな」と、『詠草 四 和歌』に詠んだ。また会うことができる、その気持ちだけを頼りに、志をまっとうするべく道なき世へ旅立つと、語りかけている。
書家の紫舟は、この一首から「道」という字を選び、書にしている。「辶」が特色的で、途中、筆を一周させて、収筆へと向かっている。紫舟は、「自分自身の行くべき道へ進もうとする行動と、しかし後ろ髪を引かれる感情、その相反する気持ちを書にしました」と説明している(紫舟、2010年、54頁~55頁)。

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