Train of thought

wish you were here

クルマを買うことにしました。

2011-04-26 06:55:30 | クルマ

この年齢になって初めて、クルマを買うことにした。

いままで持っていなかった理由はとても単純、お金がなかったから(苦笑)

 

20代の頃は、原チャリの免許だけで済ませていた。だから愛車も原チャリ。

20代最後の方は仕事で辛酸を嘗め、今でいう「ワーキング・プア」に。生活するのもおぼつかない日々、2台持ってた原チャリも1台は売り、細々と暮らしていた。クルマの免許もないのに、クルマの所有だなんて、考えもしなかった。友人たちはほとんど皆クルマを買っていたので、それに乗せてもらっていた。

…でも、意外に気にならなかった。クルマのことより、明日をどう切り抜けるか、今月の家賃を払えるか、そっちのほうを考えるので精一杯だったから。

 

30代半ばにさしかかるころになってようやく仕事が安定した。いままでやりたかったことに次々飛びついた。仕事がらみの勉強、音楽、バイク…

自動車の運転免許を取ったのもその頃。「仕事で必要になったから」というのが一番の理由。

クルマ自体は、子どもの頃から大好きだった割には、何だか淡白だった。

 

仕事でクルマに乗るようになり、また音楽活動で楽器を担いであちこち行くようになり、そんなこんなしているうちに、「クルマ欲しいなあ…」という気持ちも芽生えた。けれども、いろいろなことに手を出していて、蓄えがあまりない。むしろローンに追われる状態。クルマが必要な時は、レンタカーを使っていた。これはこれで、いろいろなクルマに乗れて楽しかった。

 

様々なローンもだいたい完済し、今はシルバーウィングのローンだけになった。少しばかり蓄えもできた。具体的に購入を考えても良いタイミングになった。「でも、維持費がかなりかかるだろうなあ…」そんな気持ちもあって、二の足を踏んでいた。

 

 

 

3月11日、あの地震が起きた。

 

 

報道で知る被害、仕事として利用者の生命を預かることの意味の重さ、利用者全員を帰宅させた後で自分が帰宅しようとした時の街の混乱ぶり…いろんなことを目の当たりにした。

 

自動車交通も大混乱したし、ガソリン不足も経験した。

けれど、高齢者となった自分の親、その親と暮らす弟夫婦の子どもたち、あるいは自分の友人や仲間たち、もし救い出す必要が生じたら…

 

そんなことを想ったら、

「自分のクルマがあったなら、何かできるかもしれない」

交通網は混乱するだろうが、それでも何か可能性があるだろうという気持ちになった。

 

 

そんなわけで、クルマ探しをはじめた。

どうせ手に入れるなら、以前から興味のあったタイプにしよう。

仕事でキャブオーバータイプに乗っていて運転がしやすかったのと、子どもの頃からバス好きでもあったので、箱型のクルマと決めた。

 

 

で、先日、契約に手をつけてきた。

 

こんなクルマ↓

Hiace_front_2

Hiace_rear_2

 

…仕事で時々乗っているのと大差ない、古いハイエース(笑)

 

20世紀のクルマ(爆)

何がよかったのかというと…とにかくタフ。20万キロ乗っても壊れないエンジン。

世界中の途上国で見かけるくらいだから、ちょっとやそっとじゃイカレない。

私が仕事で使っているのは、ハイエースの福祉車両(後ろから車椅子を出し入れできるように改造してあるタイプ)。10万キロを超えているけれど、エンジンは快調。ただ、ドアが開かなくなったりしたけど(大爆)

 

納車はしばらく先だけど、ちょっと楽しみになってきた。


十数年ぶりに映画館で映画を観る

2011-04-18 14:01:12 | 北海道

先週、ネットでニュース検索をしていたら、俳優の村上弘明さんが、故郷が地震と津波に遭い心を痛めている、という記事があった。それを読んでいたら、「留岡幸助」の文字。へ?…と思い、読み進めると、留岡幸助の人生が映画化されたというではないか。驚いた。

留岡幸助。一般にはほとんど知られていないが、明治から昭和初期にかけて「社会事業」に取り組んだ牧師である。20代から30代にかけては北海道の刑務所の教誨師として働きながら受刑者の処遇向上に取り組み、30代後半からは少年の更生保護と自立支援のために生涯を賭した。

私が最初に就職したのは、この留岡が開いた施設であった。

私自身がその施設の児童指導員として働いたのは20代のうちの3年間。学生の甘さを引きずっていた私は、福祉施設現場の厳しさを学んだ。またこの3年間で、留岡幸助という人がどう生き、何を願って少年たちと生活する施設を作ったのか、職員として働きながら学び調べることもできた。

児童養護の分野を離れ、福祉系とはいえ違う路線に乗り換えたのだが、留岡の精神は今でも私にとって規範のひとつになっている。

で、その映画を観てきた。

 

公式サイト

 (以下、映画の感想なのでところどころネタバレあり、注意)

 

 

 

留岡幸助の人生自体が波瀾万丈だったので、2時間の尺のなかに、いっぱいエピソードを詰め込んだ分、なんだか展開がやたら早いな、という印象は持った。この映画の監督さんが、サクサクシャキシャキ物事を進めるタイプの方なのかな、と勝手に想像。とはいえエピソード全部を丁寧に拾っていったら5時間でも終わらなくなるだろう、とは思う。

また、留岡の前半生を蔭で支え、結果的に体調をそこなって若くして亡くなってしまった夏子夫人について、この作品では非常に大きく取り上げている。このあたりも脚本を書いた監督自身のこだわりであろう。夏子夫人は施設開設の翌年に召天されているので、映画の構成も3分の2は施設開設前の牧師・教誨師時代に割かれている。

その構成のためでもあろうが、教誨師時代のエピソードについては、大井上輝前有馬四郎助、原胤昭、好地由太郎といった“知る人ぞ知る”名前(博物館・網走監獄樺戸集治監の資料館等に行くと、この方々の功績がわかります)が次々に出てくる。特に大井上との関わりがその後の留岡の方向性に大きく影響した、との見方をとっている。またこの監督が以前取りあげた「日本の児童福祉の父」石井十次も登場する。そして、これらの人々の描かれ方が、カッコいいのだ。市川笑也が演ずる好地由太郎なんて、実にカッコいい。ひとつひとつのエピソードはどうだったのかわからないが、これらの人たちは、明治の日本に実在していたのだ。

私個人の感想を言えば、留岡は有馬四郎助とは切っても切れない関係である。1ヶ月違いで生まれ、1日違いで召天されたこの二人の関係性をもっと描いてもよかったのではないかとも感じた。…とはいえ、この二人の歩みだけで大河ドラマ1年分が優に出来上がる。また巣鴨教誨師事件のからみは一切描かれていなかった。某仏教宗派への配慮なのだろう。

後半生をともにするきく子夫人の描き方もさらっとしている。施設のあゆみについてピンポイントでしか押さえることができなかったためでもあろうか。

実際のところは、留岡の北海道での教誨師生活と東京での感化事業の集大成が、遠軽の北海道家庭学校の開校に結びついていく。北海道家庭学校の運営というのもかなり実験的な内容が盛り込まれているのだが、映画では数分だけ触れられているのみである。

一番痛いのは施設運営とともに留岡が精魂傾けていたオピニオン誌『人道』について、全く触れられていない点。留岡イズムの結晶がこの雑誌なのだから、少しでも触れていてほしかった。

ちょっと煮え切らないな、という感じもあるが、留岡幸助の一生を追いかけていったらとんでもない長編になってしまうことは先述したとおり。施設を開設してから留岡が千歳烏山で永眠するまでのストーリーになると、今度は施設職員と生徒の群像劇になっていくので、またカラーが違ってしまうのだろう。さしあたっては、「一路白頭に至る」ということばをつぶやきながら困難な道を敢えて選んだ牧師・教育者・事業家がいた、ということを大きく世の中に知らせることができるだけでも、映画化は歓迎されることになるのだと思った。

 


大地の詩 ~留岡幸助物語~

2011-04-13 22:25:06 | 日記・エッセイ・コラム

日本の社会福祉の歴史をみると、明治の頃に現代のひな型を見つけることが出来る。

私が学生時代に手にした本の中に、明治維新を経てヒューマニズムに目覚め、『社会事業』(当時は社会福祉なんてことばはなかった)を興した人々の話がまとめられたものがあった。

孤児の保護に命を掛けた石井十次、同じく孤児の保護から知的障害の子どもを守り育てることへ発展していった石井亮一・筆子夫妻、監獄改良・少年感化事業の留岡幸助、貧困対策とセツルメント事業の賀川豊彦、さまざまな人がいて、苦闘の足跡が残されていた。

学生時代も終わりを迎え、たまたま御縁があって拾っていただいたのが、児童養護施設・東京家庭学校。…留岡幸助の作った施設だった。私自身がここの児童指導員として働いたのは3年間だけで、福祉施設現場の厳しさを学んだ。またこの3年間で、留岡幸助という人がどう生き、何を願って「家庭学校」を作ったのか、職員として働きながら学び調べることもできた。

児童養護の分野を離れ、福祉系とはいえ違う路線に乗り換えたのだが、留岡の精神は今でも私にとって規範のひとつになっている。

先週、ネットでニュース検索をしていたら、俳優の村上弘明さんが、故郷が地震と津波に遭い心を痛めている、という記事があった。それを読んでいたら、「留岡幸助」の文字。へ?…と思い、読み進めると、留岡幸助の人生が映画化されたというではないか。驚いた。

監督が、石井十次、石井亮一・筆子夫妻を映画にしてきた、山田火砂子さん。ああ、なるほど、と思った。岡山孤児院、滝乃川学園をとりあげたなら、家庭学校に向かわざるを得ないではないか。

 

公式サイト

 

で、その映画を観てきた。

留岡幸助の人生自体が波瀾万丈だったので、2時間の尺のなかに、いっぱいエピソードを詰め込んだ分、なんだか展開がやたら早いな、という印象は持った。この監督さんが、サクサクシャキシャキ物事を進めるタイプの方なのかな、と勝手に想像。とはいえエピソード全部を丁寧に拾っていったら5時間でも終わらなくなるだろう、とは思う。

また、留岡の前半生を蔭で支え、結果的に体調をそこなって若くして亡くなってしまった夏子夫人について、この作品では非常に大きく取り上げている。このあたりも脚本を書いた監督自身のこだわりであろう。夏子夫人は家庭学校開設の翌年に召天されているので、映画の構成も3分の2は家庭学校開設前の牧師・教誨師時代に割かれている。

その構成のためでもあろうが、教誨師時代のエピソードについては、大井上輝前、有馬四郎助、原胤昭、好地由太郎といった“知る人ぞ知る”名前(博物館・網走監獄樺戸集治監の資料館等に行くと、この方々の功績がわかります)が次々に出てくる。またこの監督が以前取りあげた石井十次も登場する。特に大井上との関わりがその後の留岡の方向性に大きく影響した、との見方をとっている。また、これらの人々の描かれ方が、カッコいいのだ。市川笑也が演ずる好地由太郎なんて、実にカッコいい。

私個人の感想を言えば、留岡は有馬四郎助とは切っても切れない関係である。1ヶ月違いで生まれ、1日違いで召天されたこの二人の関係性をもっと描いてもよかったのではないかとも感じた。…とはいえ、この二人の歩みだけで大河ドラマ1年分が優に出来上がる。巣鴨教誨師事件のからみは一切描かれていなかった。某仏教宗派への配慮なのだろう。

また、後半生をともにするきく子夫人の描き方もさらっとしている。家庭学校のあゆみについてピンポイントでしか押さえることができなかったためでもあろうか。

一番痛いのは家庭学校とともに、留岡が精魂傾けていたオピニオン誌『人道』について、全く触れられていない。留岡イズムの結晶がこの雑誌なのだから、少しでも触れていてほしかった。

ちょっと煮え切らないな、という感じもあるが、留岡幸助の一生を追いかけていったらとんでもない長編になってしまうことは先述したとおり。家庭学校を開設してから留岡が千歳烏山で永眠するまでのストーリーになると、今度は家庭学校の教師と生徒の群像劇になっていくので、またカラーが違ってしまうのだろう。さしあたっては、「一路白頭に至る」ということばをつぶやきながら困難な道を敢えて選んだ牧師・教育者・事業家がいた、ということを大きく世の中に知らせることができるだけでも、映画化は歓迎されることになるのだと思った。


泣けた鉄道写真。

2011-04-11 00:27:54 | デジタル・インターネット

鉄道写真、しかも貨物列車の写真なんて、地味なものだ。
 
育った街には、毎日のように貨物列車が通っていたから、私のなかではごくありふれたもの。
石油化学コンビナートのある町だったから、タンク車も見慣れたもの。
…でも、こんな時、こんな場所で走っているのを見ると、こみあげてくるものがある。
 

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YouTube: 東日本大震災「緊急燃料列車」第3便 最後尾に「まけるな」メッセージ

 
まだ雪が残っているのだ、この地域は。
寒いんだろうな、被災地。
 

</object>
YouTube: 被災地へ石油輸送列車

 
この列車、横浜から本州を横断して新潟に行き、そこから青森まで日本海沿岸を北上し、南下して盛岡に向かう、大迂回ルート。26時間かかるけど、調整のための停車を除けば、特急列車並みのスピードで走っている。
 
新潟から分かれて、会津を通り郡山に向かう列車もある。この路線、だいぶ以前に貨物列車は廃止になっていた。普段なら2~3両のディーゼルカーがゆったり走るローカル線。
そこを、日本中から助っ人でやってきたDD51ディーゼル機関車が重連で、可能な限りのスピードでタンク列車を牽いて行く。一刻も早く、ガソリンを、軽油を届けなければと。
 
日本海を走るロコもよく見ると、ピンク色のEF81に交じって、銀色の奴がいる。
はるか関門海峡から応援に来た、EF81-300番台。いつもは関門トンネルの往復専門だけど、性能は他のEF81と変わりない。今回の緊急輸送で足りなくなった機関車の応援には適任だった。
 
美しい風景の中を、平常時だったらその土地ではありえない、長編成のタンク列車が疾走する。その町を走ったことがないであろう機関車が牽いて。
 
貨車を整備した人たち、荷物を積み込んだ人たち、機関車の運転士の声が聞こえてくるかのようである。
「待ってろよ、もうすぐ持っていくから!」
 
石油とともに、日本中の祈りを載せて。


 
 
 
 
 
…だめだ、また…

都知事選

2011-04-10 21:05:59 | インポート
先月の大地震・大津波を「天罰」とぬかし、貸付の焦げ付きに莫大な都税を突っ込み、おまけに「3期で終わり」と言っていたのを最後に翻して、それでも投票しちゃう都民クオリティ… _| ̄|〇
  美濃部革新都政のリバウンドで、役人上がりの鈴木知事になり、名目上の赤字消しは(バブルのおかげで)出来たものの「バブルの塔」他諸々の「箱モノ行政」に傾倒。革新もダメ、保守もこれでは…で青島知事になったけれど、今度は議会が足を引っ張る。嫌気がさして1期で辞めちゃった。でも、都民はもう「政党に対して自由な立場を取れる、知名度のある人」しか受け入れられなくなっていた。残ったのが今の知事。

今度の選挙もロクな対抗候補がいなかったけれど、この爺さん以外にやってもらいたかったね。 あーあ。