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ユグドラ旅情

方向性が見えない

ねらわれた学園考察その22 春河カホリはなぜ母子家庭なのか?

2013-01-19 00:03:46 | ねらわれた学園
カホリは母一人子一人の母子家庭のこどもである。父親がいない原因はモノローグで語るように嵐の夜に波に落ちた仲間を救出しようとし事故死したためである。事故が原因なので悲劇ではあるが両親の不和による離婚ではないし、母親も女手ひとつながら育て上げている。カホリは成長過程において大きな問題はなく、芯の通った精神良好な明るい子に育っている。

世間でいうところの“良い子”だが、父親の命を奪い母が怖れる海へサーフィンをしに出る。彼女はそのことをいけないこと、たった一つの反抗と感じているわけだが同時に海を通じて父親と触れ合うことができると感じている。

と、ここまでは劇中で語られることなのだが一つ疑問が湧いた。サーフィンをする理由づけとして必ずしも父親が亡くなっている必要はないのではないか。カホリがサーフィンをすることは物を通じて他者と触れ合うことができることの一例であり、テレパシーなどがなくとも人と人は通じ合える可能性を示すものだ。彼岸と此岸をつなぐキーとしてサーフィンを持ってきているのだが、たとえば父親の趣味がサーフィンで現在は遠く離れた地で暮らしている、という設定でも話は大きく破たんしないはずである。

ここで、主要登場人物4人の家族構成を振り返ってみることにしよう。ナツキは核家族であり、父母と弟がいる。一方、ケンジの家庭には耕児がいるので3世代が一緒に生活していることになる。祖母はなくなっているのか登場しないが、祖父・父母・妹がいる。ケンジとナツキは家族の在り方として新旧のステロタイプを表しており対比構造になっている。一方カホリはこれまで述べたとおり母子家庭。リョウイチは父子家庭だが親子間の関係は希薄なようだ。彼もまた物心つく前に母を亡くしている。このようにカホリとリョウイチの家庭も対比構造になっていることが分かる。

カホリは父性を、リョウイチは母性を成長過程において欠いている。ここからは推測であり、一般的な母子家庭や父子家庭の話ではないのだが、両名とも欠いている親性を双方に求めたのではないか。すなわちカホリは父性をリョウイチに求め、リョウイチはカホリに母性をもとめたのではないか。この仮定を元にするとどうして二人が惹かれあったのかを説明しやすくなる。

また、それぞれが辿ろうとした末路がそれぞれの求めた親と同じ行動をしようとしている。リョウイチはケンジとの決戦の中自らのチカラを使い果たし時のはざまの中で水に沈んだ。カホリはリョウイチと共に未来へと行こうとした。これは原作の高見沢みちると同じ行動だ。カホリはみちるの単なるオマージュではなくリョウイチの母と同じ行動をしようとしていたのだ。

エレクトラコンプレックスやエディプスコンプレックスという概念があるが二人は外的要因により異性の親を奪われており、これらの抑圧が発生しづらい。が、あえて言うならばカホリにとってのサーフィンやリョウイチにとっての数少ない母の遺品が親の意向に反する象徴である。が、結局のところ生身である異性の親に触れられないことには変わりはない。その隙間を埋めるのがリョウイチでありカホリなのではないか。

纏めると、この二人の家庭の関係は単なる対比だけでなく意識下の相互依存性を象徴するものであり、設定もメタ的に意味を持たせたのではないか。こういった見方もできる。ただし、今回の論はいささか飛躍するところが多いため今後も検証が必要となろう。

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