ユグドラ旅情

方向性が見えない

5/8の新宿ロフトプラスワンのイベントに行ってきた

2013-07-16 11:14:25 | ねらわれた学園
内容は暇になったら書く
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『ねらわれた学園』関連で当ブログ来られた方へ(ねらわれた学園の解説について)

2013-04-01 00:00:00 | ねらわれた学園
表記に該当する方は基本的にストーリーなどに疑問を持ってる方と推測します。一連の記事は管理人の備忘録のようなものですので、正解ではありません。この点に関してはご了承願います。是非、自分なりの解釈を見つけてみてください。
また、作品の鑑賞回数を重ねるごとに私の考えも変遷していっています。ゆえに、考察は番号順にご覧になることをお勧めします。

基本的に作品から得られる情報を元とした考察ですので、ねらわれた学園の無難な解説としては一定の役割を果たせていたら、と願っています。


2013年1月17日追記
これまでの考察を順番を入れ替え、不要な部分を削り一つにまとめる作業中です。考察・解説まとめを読めば大凡の内容を咀嚼できると思いますので、初めてご覧になる方はどうぞ。

ねらわれた学園考察・解説まとめ前半(途中)

ねらわれた学園考察・解説まとめ後半(途中)
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ねらわれた学園考察その22 春河カホリはなぜ母子家庭なのか?

2013-01-19 00:03:46 | ねらわれた学園
カホリは母一人子一人の母子家庭のこどもである。父親がいない原因はモノローグで語るように嵐の夜に波に落ちた仲間を救出しようとし事故死したためである。事故が原因なので悲劇ではあるが両親の不和による離婚ではないし、母親も女手ひとつながら育て上げている。カホリは成長過程において大きな問題はなく、芯の通った精神良好な明るい子に育っている。

世間でいうところの“良い子”だが、父親の命を奪い母が怖れる海へサーフィンをしに出る。彼女はそのことをいけないこと、たった一つの反抗と感じているわけだが同時に海を通じて父親と触れ合うことができると感じている。

と、ここまでは劇中で語られることなのだが一つ疑問が湧いた。サーフィンをする理由づけとして必ずしも父親が亡くなっている必要はないのではないか。カホリがサーフィンをすることは物を通じて他者と触れ合うことができることの一例であり、テレパシーなどがなくとも人と人は通じ合える可能性を示すものだ。彼岸と此岸をつなぐキーとしてサーフィンを持ってきているのだが、たとえば父親の趣味がサーフィンで現在は遠く離れた地で暮らしている、という設定でも話は大きく破たんしないはずである。

ここで、主要登場人物4人の家族構成を振り返ってみることにしよう。ナツキは核家族であり、父母と弟がいる。一方、ケンジの家庭には耕児がいるので3世代が一緒に生活していることになる。祖母はなくなっているのか登場しないが、祖父・父母・妹がいる。ケンジとナツキは家族の在り方として新旧のステロタイプを表しており対比構造になっている。一方カホリはこれまで述べたとおり母子家庭。リョウイチは父子家庭だが親子間の関係は希薄なようだ。彼もまた物心つく前に母を亡くしている。このようにカホリとリョウイチの家庭も対比構造になっていることが分かる。

カホリは父性を、リョウイチは母性を成長過程において欠いている。ここからは推測であり、一般的な母子家庭や父子家庭の話ではないのだが、両名とも欠いている親性を双方に求めたのではないか。すなわちカホリは父性をリョウイチに求め、リョウイチはカホリに母性をもとめたのではないか。この仮定を元にするとどうして二人が惹かれあったのかを説明しやすくなる。

また、それぞれが辿ろうとした末路がそれぞれの求めた親と同じ行動をしようとしている。リョウイチはケンジとの決戦の中自らのチカラを使い果たし時のはざまの中で水に沈んだ。カホリはリョウイチと共に未来へと行こうとした。これは原作の高見沢みちると同じ行動だ。カホリはみちるの単なるオマージュではなくリョウイチの母と同じ行動をしようとしていたのだ。

エレクトラコンプレックスやエディプスコンプレックスという概念があるが二人は外的要因により異性の親を奪われており、これらの抑圧が発生しづらい。が、あえて言うならばカホリにとってのサーフィンやリョウイチにとっての数少ない母の遺品が親の意向に反する象徴である。が、結局のところ生身である異性の親に触れられないことには変わりはない。その隙間を埋めるのがリョウイチでありカホリなのではないか。

纏めると、この二人の家庭の関係は単なる対比だけでなく意識下の相互依存性を象徴するものであり、設定もメタ的に意味を持たせたのではないか。こういった見方もできる。ただし、今回の論はいささか飛躍するところが多いため今後も検証が必要となろう。
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ねらわれた学園考察・解説まとめ前半(途中)

2013-01-17 00:14:09 | ねらわれた学園
これまでのものを編集中……。


多くの人が初めて見た際に悩んだであろう、ケンジのセリフ。「俺、本当はこのとき死んだんだ」について。

監督曰く、ケンジと幼いナツキとの意思の不通を示したかったということもあり、理解するのは難しいが不可能であるわけではない。情報は提示されている。

「この時」にケンジが死亡したという事実。そして、その過去を変えるためにナツキが時間をさかのぼり身代わりとなってケンジを救出し、同時に代償としてチカラを失った。
ケンジがその場で話した情報は以上である。では「この時」とはいつなのか?ナツキとケンジの衣装から、ナツキの夢に出てきた内容と結びつける人がほとんどだろう。夏祭りの時高台公園へ行った時に何かがあったのではないか、と。
だが、ナツキの夢はあくまで夢であり真実とは誰も言っていない。主観によるもので客観性がない。そこで客観的情報を加える必要がある。
糸電話で会話中にケンジが2階、正確には屋根から落下しているという情報も提示されている。
こちらはカホリがケンジの部屋に来たときにナツキとケンジが会話しているときに出てきた内容。注意していないとケンジの記憶があやふやである、と流すだけだろう。しかし、この会話が重要なファクターとなる。ナツキとケンジの記憶が食い違っているのだ。ケンジはナツキが落ちたというが、それに対しナツキはケンジが落ちたという。この記憶に関しても客観性はない。双方の家のいずれかの保護者に聞けば一発で解決することなのだが、さらっと終わっているのだ。
しかし、ケンジが自身の死を告白したときに糸の切れた糸電話が写っている。これを見落としてはならない。
「ケンジは糸電話で会話中に誤って転落して死亡した」のである。まとめると次のようになる。
お互いの部屋から糸電話でケンジとナツキが会話する。その際にケンジは誤って転落し、死亡。ケンジの死という忌むべき過去を改変するためにナツキが過去へとさかのぼり、ケンジを助ける。そして2階から転落したのはナツキに代わる。(その際ナツキはチカラを失う。この改変のためナツキの記憶が混濁する)
また、おそらくこのころケンジのチカラを耕児が封印したと考えられる。ナツキからケンジへチカラが譲渡されたと観る向きもあるが、関家は耕児やケンジの妹も能力者であることが終盤でわかるし、ケンジについては京極の使い魔が生まれついての能力者と断じている。また、京極救出時に幼いナツキとケンジが一緒に来たこと、これまた使い魔が二人を消せと言ったことからナツキとケンジは生まれつきの能力者であるとみてよいはずである。
では、耕児はなぜケンジの力を封じたのか。一つの考えとして京極(父)のような存在が未来からまた来ることを危惧して力を温存させていた、と考えることもできる。しかしナツキが過去を改変したことを知っていたとすれば、強力な超能力を持つケンジが分別のない状態で過去を変えてしまうことを恐れたと考えるのが自然だろう。
たまたまナツキは平和的にしかも局所的に過去を改変したが、耕児は京極(父)たちと対決して超能力の恐ろしさを理解している。ケンジが成長し自分の意志でチカラを使うか使わないか判断できるときまで封印しておこうと考えたのではないか。

ケンジはナツキのことをどう思っていたかについて。

ケンジは物語冒頭からカホリに憧れている。幼馴染のナツキはというと、お隣さん、常に一緒にいるもの。そう考えていた。恋愛対象ではなかったのである。
しかし、最終的には告白に近い言葉を残し未来へと旅立っていった。物語の中でカホリからナツキへとシフトがおきているのだ。(正確に言うとカホリをすっぱり諦めたわけではなく憧れを抱いたままであっただろう)

明確な恋愛対象ではなかったが、ケンジはもともとナツキをとても大切にしている。

・理由はよくわからないが傷つけたので謝ろうとした(ナツキの気持ちを理解していないので的外れだが)こと
・不登校になった際に連絡を取ろうとし続けたこと。
・ナツキを登校させるために、つらい経験であるカホリへの告白の失敗をナツキに話したこと。
・周囲の目を気にしつつも自転車に乗せ、気分が落ち着くまでずっとそばにいてあげたこと。
・ナツキは意識の対象であると暗に含んだこと。
・靴がないナツキに自分の靴を貸したこと。
・生徒会に連行されたナツキを助けに行ったこと。
など。

特にカホリへの告白が玉砕したことを告白するのは、ケンジにとって嫌なことなのだがほとんど躊躇せずに話している。これはナツキに登校してほしいという気持ちの表れであり、彼の優しさがうかがえる。

この作品は、ナツキ、カホリ、ケンジ、リョウイチの4人で強固な四角関係ができている。そのため他の人間が絡んでくることがほとんどない。せいぜい山際ゆりこぐらいだが、彼女は当て馬云々にすらなっていない。裏の主人公といったぐらいのポジションである。このように他の女子とケンジの絡みが全くないことから、ケンジの女性に対する姿勢というのがわからないのが難点だ。

要するに、女性全般にやさしいのかそれともナツキだから優しいのかは実は曖昧にされている。だが、ナツキに言っていたように彼は誰でもいいというわけではないようだ。
(の割にはリョウイチと一緒にいた山際ゆりこを見て顔を赤らめている描写もあったのだが。若干美人に弱い気もある?)


このままではわかりづらいので、カホリとリョウイチを持ち出そう。

この二人は最終的には両想いであることが判明し、夏の夢の引用よろしく悲恋に終わるのだが、美男美女であるため大人っぽく見えるし感情を露に表わすために理解しやすい。
だが、身もふたもないことを言えば両方とも一目ぼれである。いや、一目ぼれが悪いこととは言わない。長続きしないとか軽い恋愛だとか、そんなものは結局は当人同士の問題だ。だが、これだけは言える。初めから完成に近い恋愛であること、そして双方初恋であること。劇的ではあるものの彼らの恋は子供染みたものなのだ(繰り返し言うがそれが悪いことではない。むしろ中学生の恋愛としては当然なのではないか)。
例えて言うならば彼らの恋愛はデジタルである。立場や主義の違いによる葛藤もあろうが、階段のような恋。外から見ていてわかりやすい。

では、ナツキとケンジの関係はどうなのか。これこそアナログだろう。単なる幼馴染からかけがえのない存在への遷移に回心は見られない。外から見てわかりづらい。
キスをされたら好きになるか?そうではない。きっかけではあったのだが、意識が幼馴染から好きな人へと急激に変わったはずはない。
だが、ケンジはもともとナツキを大事な存在だと認識していた。それが幼馴染としてなのか別のものなのか、本人が明確に意識することはなしに遷移していっただろう。
恋愛としてはカホリとリョウイチに比べればこちらの方が精神的に進んでいるともいえる。



イメージシーンについて

各パートの最初にはケンジ、ナツキ、カホリ、リョウイチのモノローグが入る。だが、このなかで一人だけ特異なキャラクターがいる。
ケンジだ。
他の三人にはイメージシーンがあるがケンジだけは明確な情景描写(桜が散りすぎではあるが一応現実描写である)になっている。もっと突き詰めると、かれだけ現在のことを述べているのだ。他の三人は過去のことについて述べており、過去の人とのつながりをこちらに提示してくる。

これは、実はケンジに過去がなかったこと(=実は死んでいた)ということや、過去に悩むことはなく常に未来を見ているということを暗示しているのではないか。

実際、ケンジはあまり悩まない。カホリに思いを伝えようとする際もウジウジ悩まずストレートに聞いている。ナツキに対してもリョウイチに対しても過去にとらわれることなく未来への行動を提案する。そんな彼の性格を表しているのではないか――?


糸電話について

糸が切れる→思いが伝わらない。死。
糸がつながる→絆を取り戻す。
だが、糸が元通りになったのではなく、糸は結ばれた。過去に戻ったのではなく、新たなつながりが生まれた。
ケンジは決して過去に戻るわけではない。未来へと前へと進む存在。

作中の時間について

ガイドブック36p:ナツキは数日休んでいる(5月下旬)
ガイドブック43p:1か月ぶりの登校(6月上旬)

ごく常識的な日本語で考えるならば、数日はどれだけ多く見積もっても10日未満である。わたしの感覚からしてみれば5日以下ぐらいだ。そうでないと日本語としておかしいと思う。つまりガイドブックはどちらかが誤りと見るべきだ。
では正しいのはどちらか。この情報だけだと判断が難しいので作中に登場する花も考慮に入れよう。

作中では藤棚で藤が咲いている。ナツキとカホリがリョウイチと山際ゆりこが会話しているのを目撃した場面、そしてカホリが神野ゆうが会話した場所もおそらく同じ場所。藤の開花時期は鎌倉だと5月初頭から中旬。

リョウイチとゆりこが会話していたのを目撃したのはナツキが休む直前の日に当たる。そして、カホリと神野が山田先生の家に行くことを決意した日にカホリはナツキに会っており、その後にナツキが学校に復帰している。
幾らなんでも藤の花は1か月も持たないので、ナツキが休んでいたのは数日であると結論付けてよい。1か月という記載は誤りだ。

さらにガイドブックを紐解くと次のような記述がある。

ナツキの靴が隠された日:6月上旬(43P)
ナツキが審判にかけられた日:7月上旬(50P)

という記述がありやはり、1か月飛んでいたようだ。

C・Dパートは
曽我はるか覚醒~カホリイメージシーン~カホリが攻撃を受ける:7日ほど
ナツキ復帰~リョウイチイメージシーン~プール事件:1か月ほど

となる。アジサイの花は結構持つ方だが、成就院のアジサイがきれいすぎるように見える。
とはいえ、桜の花びらの演出を考えると季節の花程度と考える方が妥当なのかもしれない。


超能力について

●遠隔精神感応能力
能力を覚醒させられる前でも、素養があるものは心の声を能力者に聞かれてしまう。

この映画においてテレパシーとは千里眼のようなものであって、受信能力に肝があると考えることができる。
送信に関しては素養のあるものは常時発信しており、能力覚醒により双方向通信が可能となる。

そして、この能力は超能力者全員に備わる基本能力であり、それ以外の能力に関しては個人差がある。

●念動力
作中に登場する人物の中で基準以上の能力を持つのはリョウイチ、ケンジ、ゆりこの三人であると推測される。
リョウイチとケンジはある意味当然だが、ゆりこも念動力に類する力は持っていると考えることができる。
生徒会の中で曽我を差し置いてリーダー格についているように見える描写があるし、カホリに対し攻撃を仕掛けることができたことから推測される。
ケンジは更に強力なチカラを有しており、生徒会室の門番の男子生徒3人を軽くのす、生徒会室全体に浮遊効果を与える、ナツキを浮かび上がらせ問題なくコントロールする、などをやってのけた。

●時間操作能力
劇中で最強クラスの超能力者しか有していないチカラであり、作中時間で有しているのはリョウイチとケンジ。過去にはナツキがこのチカラを持っており、さらにケンジの妹と耕児も程度は劣るが時間操作を行えるようだ。
心臓に負担をかける他チカラの大半を消費する能力であり、ナツキは力を失いリョウイチは存在すらできない状態となる。ケンジはリョウイチを未来に送り届け現在に戻ってくるなど並外れたチカラを示して見せた。

★超能力にはキャパシティがある?
テレパシー程度の微弱な超能力では大したことはないようだが、運命さえも捻じ曲げる時間操作能力は多くのリソースを消費するようだ。

★砂時計について
リョウイチを現代に繋ぎ止めるための碇のようなもののようだが、素養のある人間を覚醒させるデバイスでもあるようだ。更に使い魔とひも付けされていると思われる。
リョウイチにとってはチカラの象徴であり、覚醒させられた生徒たちのチカラの源であると推測される。これがなくなってしまうと生徒たちの超能力は失われると推測される。
これはラストでケンジがリョウイチが未来に帰ったら破壊すると述べていることからの考えである。
砂時計の中の砂はリョウイチのチカラの容量そのものであり、おそらく未来の技術を使い超能力者のチカラを具現化しているものなのだろう。このことからも超能力は有限であることが示唆されている。

★学校が元通りになっているが、どのタイミングで?
「お前が帰ったらこれ(砂時計)壊すよ」と言っていたので、砂時計が生徒たちの超能力にひも付けされている可能性がある。するとリョウイチが力を使い果たしたことで砂時計が破損したのでその時点で解決した


★超能力の先天性と後天性
ゆりこや新生徒会の面々は後天的な超能力者。リョウイチはカホリに語る内容から考えるに先天性。ケンジについても先天性だと使い魔が発言しており、ケンジの妹も先天性、耕児は不明。問題はナツキで、彼女も先天的な能力者だと考えられる。

★テレパシーは生まれつきの能力者はコントロールしきれるのか?
ナツキとケンジの過去を紐解くカギとなる。ナツキとケンジは生来の能力者だった。テレパシーはあらゆる超能力者に備わる能力のはず。
では糸電話はいったい何のためにあったのか、ということになる。テレパシーでつながるのなら糸電話なんてアナクロな手段は必要ない。これは少なくとも1人以上がテレパシーの能力を有していなかったからと考えるのが妥当。すると、能力を封じられていたケンジがそれに該当するということになる。
ケンジは物心つくころに能力を封印されていたので、糸電話のシーンのころが妥当。すると、死亡する前までには能力が封じられていたと考えられるが……。

★ケンジの能力を耕児はなぜ封印した?
一言でいえば強力すぎるからである。耕児も能力者であるのでケンジのチカラに気づき重要性を認識した。そのため能力を封印した。耕児は誰彼かまわず能力を封印しようとしていたわけではないようで、ケンジ妹は特に能力を封印されている描写はない。
ナツキは隣に住んでいたのだが、彼女もそれなりのチカラを有していたと考えられるのに耕児がなぜ何もしなかったのは謎である。他人の家のことだから関わるのをやめたのか、ケンジの力を封じるだけで精一杯だったのか。どのタイミングでケンジの力を封じたのかはよくわからない。

★花火=封印
と、ここまで考えてみると打ち上げ花火は曖昧な過去の幻想ではなく、花火こそが封印であり封印されたことによりケンジはナツキから手を離し、封印によりナツキの声はかき消されてしまったことを表していると観ることができる?


月齢について

本作はリョウイチが月出身だということもあり、月が幾度も登場する。殆ど満月しか登場しないのでまずは満月を見てみたい。

1回目:使い魔が初登場するとき
2回目:山際ゆりこが自殺未遂を起こすとき
3回目:リョウイチがカホリに身の内を語るとき
4回目:リョウイチとケンジが未来へ旅立つとき

おおむね月相は30日弱で一巡する。1回目の満月は始業式の日であるから、各満月の日は月初めであることが推測される。つまり4~7月を表していることがわかる。満月はABCDパートのそれぞれに登場することから、各パートはおおむねひと月ずつだということが推測される。


前項にもあげた三日月に関しては謎が多い。この三日月が見られた日は確実に満月の次の日である。ドングリ鉄砲の日にゆりこは自殺未遂を起こしており、その翌日にナツキが自転車で泣きながら登校している。その日にゆりこが登校している。
これを真面目に解釈すると地学や物理に反してしまうので棚上げしたほうがよさそうである。

さて、三日月の夜にプログラムをゆりこに任せることが使い魔の口から語られるのだが、どうやらその翌日にはるかが覚醒したわけではないようだ。

流しながら見ていていると、リョウイチと使い魔が話し合いプログラムをゆりこに進まさせる決定を行った“次の日”に曽我はるかが覚醒したように思える。そうなると、ナツキが学校を休み始めたのが5月上旬ということになってしまう。しかし、以前の記事でも考察したがナツキは1か月も休んでいないと考えるのが妥当。その考察の時は藤の花を論拠としたが、ナツキとカホリが藤棚にいるリョウイチとゆりこを見かけた際にナツキが「最近あの二人よく一緒にいるね」と言っているので、山際ゆりこが復帰してからこの日までしばらく日数が経過していなければおかしい、ということがわかる。ゴールデンウィークを挟んでさらにしばらく経過しているのではないか、と推測される。
三日月の描写が変だ、と指摘したがナツキの休んだ日が三日月の夜だとすると凡そ18日後となり、5月下旬となる。このあたりに休むのならば問題はないし話の整合性が取れる。

どうもこの作品は2012年の月齢に近い描写となっている。(参照:月齢カレンダー)月の姿を見てどれくらいの日なのかに思いをはせるのもよいだろう。
※ただし、7月の満月は週末ではないので厳密に同じというわけではない。

自転車について
劇中、ナツキとケンジが二人乗りするなどして印象深い自転車。自転車の二人乗りは青春の記号としてありふれていて鉄板とさえ言えるものだが、ただそれだけの解釈で済ませてしまうのはもったいない。そこで、今回は自転車をクローズアップして見ていきたい。

劇中、自転車に乗るのはナツキとケンジに限られる。ケンジの自転車は純粋に移動手段としての道具として見て構わないが、ナツキの場合は彼女の状況を象徴する存在となっている。ナツキが自転車を扱うのは劇中で2回。“夢”を見た後に泣きながら学校へ行くシーン、そして学校に復帰した日の放課後のシーン。この二つである。

これは言葉遊びなのだが、自転車は「自ら回転する車」であり、発展して考えるとこれは「他者に頼ることなく走る車」である。ナツキの心情に当てはめると、ケンジの隣にいることを諦め一人で走っていくことを意味する、と取れる。事実ナツキは東京の高校へ進学することを考え始めていた。ケンジからの独立が1回目の自転車の意味である。

2回目に自転車を取り扱うときにナツキは自転車に乗っていない。靴を隠されてしまったし自転車の空気も抜けてしまっていた。空気の抜けた自転車は走ることができない。タイヤは空気が入り張っていなければならないのである。これをナツキの状態と照らし合わせると、気丈にふるまっていた(=タイヤに空気が張っていた)ナツキは弱さを見せ(=空気が抜けてしまう)、一人で走ることは出来なくなってしまった。だから彼女はこの場面で自転車を捨てる。前日にケンジが自分にずっと一緒にいたいと言ってくれたのを彼女は受け入れた、ということだ。
ナツキの自転車はこれ以降一切登場しない。普通パンクしたぐらいで自転車は廃棄しないのだが、なぜここで自転車がいなくなってしまったのかというとナツキが一人で走ることをやめたからだろう。

東洋的なお話

天岩戸
最終決戦時、満月が翳っていくが皆既の時に完全な闇へと変わる。これは日食の欠け方だ。リョウイチのチカラの象徴であるため満月であることに変わりはないだろうが、なぜ日食と同じ欠け方をするのか。
ここで、(皆既)日食とそれによる世界の破滅をキーワードとすると何が思い起こされるか考えてみて欲しい。日本人ならば思いつくだろうが、それは天岩戸だろう。アマテラスオオミカミがスサノオノミコトの所業に怒り天岩戸へ身を隠してしまう。すると世界は闇に包まれる。八百万の神々は対策を講じ、どうにかこうにかしてアマテラスを外へと連れ出す。すると世界に光が戻るのだ。
コミュニケーションを絶ち一人闇へと沈んでいくリョウイチを救い出したのはケンジたちだった。彼らは笑いかけながらリョウイチの心の扉へと働きかける。そして彼が心を開くと世界に光が戻るのである。

胡蝶の夢
世界の時間が静止した際、関家の縁側が写されるがその際に二頭の蝶が登場する。これはただの背景ではなく、蝶をクローズアップしているカットもあることから意味を持つことだと容易に推測される。では、二頭の蝶は何を意味するか。夏の夜の夢をモチーフにしている映画であることを思い出せば、容易に答えにたどり着けるだろうが、これは胡蝶の夢だ。
胡蝶の夢は荘子が胡蝶になった夢を見た際、自分は胡蝶だと認識していた。目が覚めると今度は人間であると認識している。どちらが本来の自分なのかは区別は付かない。このことから夢と現実の境界はあいまいであること、世は儚いこと、そしてどんな形であれ自分は自分であること、などを示す故事となっている。
話を戻す。リョウイチはこの直前にカホリに夏の夜の夢を喩えに
して自分がこの時代に来てからの数ヶ月は夢のようなものだった、夢が覚めたら皆自分のことを忘れてしまうだろう、と言って別れを告げた。そして実際未来に帰ったとき、人々は彼に関する記憶と記録を失い彼は元からいなかったものとされてしまった。リョウイチを未来へ送っていったケンジも同様である。
だが、ケンジが言うようにいないはずの人間なんていないのである。現実と夢の境界があいまいだっただけのことで、ケンジはケンジでありリョウイチはリョウイチであることには変わりがないのだ。
ケンジはそのチカラのモチーフとして東洋を想起させるものが多い。チカラの象徴は龍だし儚さの象徴も胡蝶の夢である。これはチカラの象徴が砂時計で、儚さの象徴が夏の夜の夢であるリョウイチと対比的である。

山際ゆりこについて

山際ゆりこはこの映画において敵のポジションである。とはいえ、映画の中の印象では完全な悪人ではなく、むしろリョウイチに心酔しているだけにも見える。山際ゆりことはいったいどういうキャラクターなのか。それを知るためには彼女が不登校になった原因である携帯事件を推測しなくてはならない。

山際ゆりこは劇中昨年度に携帯電話が起因する事件が原因で不登校となり、出席日数が足らずに留年した。主な情報はこれぐらいしかないため何があったのかは明確にはされていない。しかし、生徒会会議での会話やゆりこの自殺未遂の場面でリョウイチが「周囲の理解が得られず」と発言していることから推測は可能だ。山際ゆりこは事件を起こした首謀者で出席停止となりそのまま登校拒否を続けた、というわけではない。要するに彼女は被害者側だった。
具体的にどういった事件だったのかはわからないが、学校裏サイトや他の女子による村八分などが考えられる。この事件を機に彼女は強烈な疎外感を覚え心に傷を負った。ここまでが映画の前の段階となる。

さて、彼女は自暴自棄になり自殺未遂を起こすがリョウイチの指摘する通り真実死ぬ気はさらさらなかった。彼女の行為は周囲の目を自分へ向けたい思いからの表れであり、死へ肉薄した行為を行い自らの存在を確認したい、そういった行為である。(のわりには街中で飛び降り騒ぎを起こさなかったのはなぜなのか気になるところである)心の不安定なまさにその時にリョウイチに救われ、さらに自分を理解してくれたと思ったことで彼女に大きな転換が生まれる。人の心を読むことができるという能力を獲得し、そしてその能力は未来を救うためのチカラであり、自分は選ばれた人間なのだという認識を得た。

要するに山際ゆりこは(最近よくつかわれる邪気眼の意味ではなく本来の意味に近い)中二病を体現するキャラクターと化した。一つ中二病と違うのは彼女に本当に選ばれたものがもつチカラが備わってしまったということだ。
自分が敬愛する人間に初めて能力を覚醒させてもらい、今まで自分を見下していた(とゆりこが考えている)人間と立場を逆転させることができる。当然彼女は暴走を開始し、生徒会を新たなものへと変貌、その中心人物となる。新生生徒会でも会長は曽我はるかのままだが、明らかにリーダーは山際ゆりこだ。はるかはナツキの尋問の際には発言すらしない。

と、ここで山際ゆりことCVが同じである魍魎の匣の柚木加奈子を思い返してみると、彼女もまた特殊な環境下にありアンビバレンツな状態にあった。彼女は幻想小説をもとに神秘的なふるまいをし似た境遇の楠本頼子を友達に引き入れた。しかし演技であった加奈子の神秘性ががとある些細なことで崩れ去り一連の事件へと発展していく……わけだが、話の筋自体は重要ではない。魍魎の匣の加奈子とねらわれた学園のゆりこは、境遇はかなり違うが両者ともに思春期特有の孤独感を感じていたことは共通している。今回の山際ゆりこへの戸松遥の起用はこの件に関する意図があったことが推測される。

閑話休題。ゆりこはチカラを手に入れ新生生徒会の中心となれたことでフラストレーションを解消したかに見えた。だがこれは結局奴隷道徳であり、君主足りうるものではなく彼女の不満が昇華されたわけでも彼女が成長したわけでもない。すべてはナツキの指摘した通り彼女は戦わず逃げているだけで真のコミュニケーションは得ていなかった。
しかし、彼女はコミュニケーションをするに至る。ギャグシーンなので見過ごしがちだが、ケンジが股間から携帯電話を取り出したのを見て1年生の女子が気を失い倒れてしまうが、ゆりこはそれをあわてて助け起こしている。対象は気を失っているのでテレパシーではない。心で会話できなくても手を取り合うことはできる、と後にケンジがリョウイチへ言ったことをここでゆりこも体現しているのだ。

最終的にはエンディングで石川あかりと会話する様子が描かれている。悪役というポジションではあったが、彼女もまた成長した。山際ゆりこはこの物語の影の主人公だった。


テレパシーはクオリアの壁を突破できるか?

この作品においてテレパシーを使っている描写は一切ない。観る者は彼らがテレパシーを使って意思疎通を図っているという情報しか提示されないし、それが真実かどうかも分からない。ただ、能力者たちの意思疎通ができていないという話は上がっていないし学校という限られた社会の中でも一致団結するだけの結果は見せているのでテレパシーそのものの存在は疑う必要はないだろう。

このテレパシーだが、実際にはどういったものなのかは謎に包まれている。わかっていることを挙げてみると、能力者同士にのみ可能な情報伝達手段であり覚醒前でも能力者には心の声が聞こえるものである、といったところか。今回着目するのは相手の考えていることがわかるというのはどういったことか、ということである。

われわれは日常で言語を使って会話を行うし、言語をもとに思考する。それが自然言語であれ人工言語であれ言語なしに思考することは甚だ困難であると言ってよい。もちろん私たちは言語なしにイメージすることはできる。特に芸術家たちは言語なしに思考することに長けているかもしれない。だが人は言葉なしに物事を抽象化し論理立てて考えることはできないというのは確かだろう。

言語において表記が先か能記が先か、といった話はあるが多くの基本単語では能記が先だと考えることができる。人は言葉を使って概念を抽象化してきたが、一定のイメージに対して確定した表現方法があるとは限らない。もしそうならば世界の言語は同じになっているだろう。バベルの塔の崩壊はなかったことになる。現実には、多言語間で完全に共通した表記は存在しない(近代になって共通語として定められた言葉などもあるがそれは自然発生的ではない)。

では翻訳可能性を盾に能記が同じ別表記間の逐語訳は可能かと言えば、そうではないはずである。たとえば「海」(表記)と「Sea」(表記)は別の能記かもしれない。日本人の見る“海”(能記)とイギリス人のみる“海”(能記)は別の“海”(能記)であることが予想される。この2つの国が面する海洋はまるで違うからだ。ならばそれぞれの国の見る「海」と「Sea」は近い能記であっても完全に等しい能記であるとは限らないのではないか。文化的な地理的な膨大な間テクスト性を無視して似た言葉だからと言って簡単に置き換えることができるか?できないというのは、英会話を学ぶ上で通らねばならぬ道ではなかろうか。別に英語に限らずあらゆる言語間での完全な互換はあり得ない。

そして同じ言語、例えば日本語でも同じ現象が起きるのは自ずと導かれる結論である。「海」でも日本海と太平洋では全く別の性質を持っている。日本海側に育った人間と太平洋側に育った人間では同じ海という単語でも別のイメージを抱くはずである。

それならば、全く同じ環境に育った人間はどうなのか。これですらも人間は同じ“言葉”を使っているとは言い難い。クオリアの問題が発生する。クオリアというのは脳科学において色だとか匂いだとかといった感覚的なもののイメージである。たとえばこの文字の色は赤だが、私が見ている赤とこの文章を読んでいる方の赤は同じ赤なのか?と言った問題を提起できる。極論を言ってしまえば、「私が赤だと認識するクオリア」は「あなたが緑と認識するクオリア」なのかもしれない。もっと大きな話になると『火の鳥・復活編』のような事態もありうるかもしれない。だが、クオリアが異なっていても言葉上では意思疎通はできるのである。

われわれが痛いと感じるクオリアを全く感じることのできない人間がいるとする。しかし彼は他の人が痛みを覚える刺激を感じ取ることはできる。その彼がそういった刺激に対し痛みを感じていると話したとしたら、われわれ他の人は感知することはできない。だが意思疎通は出来てしまう。クオリアの問題は実に相対主義的な問題で、他人の表情や言葉をもとに他人を自分の中でエミュレートはできるもののどうやっても他人の感覚を自分のものにすることはできないのだ。

では、この話をねらわれた学園のテレパシーに適用するとどうなるか。もしテレパシーがクオリアをも共有するとなると大変なことになる。個という概念は取り払われ一つの大きな個となってしまう。それはエヴァンゲリオンの人類補完計画にかなり肉薄する内容だが、ねらわれた学園では生徒会の面々は各個人の自我が存在していた。よって彼らはクオリアを共有しえていない。伝達手段が変わっただけで言葉という存在から逃れられていない。

山際ゆりこはシャボン玉を意思疎通に例えたのだが、実はテレパシーは心の壁を突破するほどの代物ではないと言えないだろうか。確かにテレパシーはディスコミュニケーションを取り払う助けになるかもしれない。だが、テレパシーが言語の呪縛から逃れられない以上、言葉の奥に潜む能記やイメージ、クオリアと言った内容そのものを知りたいと願わない限りは未来が変わることは無いのかもしれない。

伏線や隠喩のまとめ
●散る桜
青春の一過性と季節は巡ることの暗示。桜は散ってしまう儚さがあるが同時に散るぞ美しき、という日本人の美意識がある。桜が散る描写は中村監督作品に多く登場するもので特徴と言ってもよい。桜は散ってしまうが、季節が廻ればまた咲く。これはエンディング後の展開を暗示してもいる。

●ケンジのヘッドフォン
後にリョウイチが指摘するが、音声言語をシャットダウンしていても伝わるものがある。

●リョウイチの立ち位置
リョウイチは高確率で左側(アニメでいう上手)に立つ。

●タイトルロゴ
タイトルロゴは光の記号が含まれている。全体を通して過剰ともいえるレンズフレアの使用があるが、それと同じく青春の煌びやかさを示している。

●職員室の様子
大人が登場するほぼ唯一の場面と言ってよい。この作品に大人は耕児と斉藤先生ぐらいしか役目は負わされていない。一応ナツキの家族なども登場するが徹底的と言っていいほど排除されている。これは超能力の導き手として耕児、旧来のコミュニケーションの導き手として斉藤先生が置くための意図ととれる。

●リョウイチの出身地と格好
花巻市は宮沢賢治ゆかりの地であり、宮沢賢治の代表作の一つに風の又三郎がある。リョウイチの存在は風の又三郎とも取れる。またケンジたちの学校の男子生徒の制服はブレザー。転校生というマレビトの存在を示すためにリョウイチは詰襟となっているが、詰襟の超能力者と言えばバビル2世だろう。

●曽我はるかと神野ゆうの会話
原作を知っている人にはわかりやすい会話かもしれないが、これからの学校で起こる事件の暗示となる内容。しかし、主役4人の恋の示唆でもある。自分の気持ちというものは自分の中にあるものだが、他人とのふれあいでも生まれる。これは人が流されやすいということとも取れるし、人と人が触れ合うことにより生まれる感情も確かにあるということを示す。

●リョウイチ「好きなんだ、月が」
リョウイチが月出身だからと流しやすい告白ではあるが、彼の身の上や彼は初めて地球にやってきたことを考えると途端に意味深な言葉になる。はたして故郷だから好きだと言ったのか。

●人のいない江ノ電
こんな状況は現実にはまずない(桜やきれいすぎる星空も同様だが)ので、ここはカホリの心情を表していると考えるといいかもしれない。

●満月と桜
満月がまるで舞台のスポットライトのように描写される。これも監督の前作と似ている使用法。『魍魎の匣』では二人の少女が舞うときには月が巨大化すらした(そのあと現実的な大きさに戻る)。

●ライサンダーのセリフ
リョウイチとカホリ、ナツキとケンジの未来を暗示しているような内容。『夏の世の夢』でも四角関係が描かれている。

●斉藤先生の話
この時点ではリョウイチはテレパシーがあるのだから口頭での会話に意味があるのか疑問を抱いている。これがのちのDパートでのセリフに生きる。また、演劇とは演ずることで自分自身を見つめなおすことである。相手に思うことを簡単に伝えられるからと言っても、自分自身を見つめない限り本当に伝えたいことは伝わらない。『ねらわれた学園』という作品を鑑賞するうえで重要なテーマの一つである。

●ナツキのケンジの呼び方
2人称としてはしばらく「アンタ」が多い。3人称だと「ケンジ」が多い。後に「ケンちゃん」に戻る。

●トンビ
ナツキが先に好きだった相手はカホリに、ケンジが好きだった相手はリョウイチに恋をした。まるでトンビのようである。

●テレビの超能力者
3回にわたりリョウイチの状況を示唆する謎の番組

●ケンジの妹
良く見ていると箸をまだうまく使えないようで交差箸になっている。しまいにはご飯をうまく口に運べず肩を落とす。余裕があったら見てみよう。ちなみに次の夕食ではスプーンを使うようになる。

●耕児
原作の主人公なので超能力に関してもよく知っている。

●ケンジとナツキの家の配置
最初は左がケンジの家、右がナツキの家。次に左がナツキの家、右がケンジの家。最後に左がケンジの家、右がナツキの家。二人のコミュニケーション(ドングリや枕含)の方向性を考えると上手下手の関係がつかみやすいだろう。

●落ちるゆりこ
1回目のパンチラ。ナツキに比べると大人っぽいデザインのようだ。

●リョウイチとゆりこの位置関係
やはりリョウイチは左側にいる。加えて満月がスポットライトの役目を果たし後光となる。ゆりこにとってリョウイチが神秘的に映る描写。

●ナツキの夢
浴衣に花火なのでこちらがメインと思われがちだが、実は糸電話の方が重要。この糸電話の会話後ケンジが落下する。そのごナツキが過去を改変し今に至る。

●ゆりこが登校した朝
外で見ているのは勝木、平田、(おそらく)根津の三人。ゆりこはナツキにあいさつするがリョウイチにはあいさつをしない。それをナツキはいぶかしがる。

●ナツキ「すぐ卒業ってことになっちゃうよ?」カホリ「いいの。私は」
このときナツキは思いを伝えられないカホリを見て自分自身を重ね合わせている。

●カホリ「こんなにきれいだったっけ」
恋をすると世界はきらめいて見える。

●ナツキの横顔を見るカホリ
思っていることと表現していることの違い。演劇につながる一描写。むろん、この時カホリはナツキの思いを察していると思われる。

●飛び跳ねるナツキ
2回目のパンチラ。ナツキはシンプルな下着のようだ。

●東京の高校へ
夢の内容とは違う。ナツキがケンジを諦めようとしている一端が見える。

●第80回演劇祭のポスター
ずいぶんと歴史のある学校のようだ。

●ナツキの鼻歌
後のカホリに比べるとあまり上手くはない……。

●使い魔の攻撃を受けるナツキ
ここで非能力者を攻撃しているのは使い魔の方である。ゆりこは悦に入っているだけ。また、このときナツキは「助けてケンちゃん!」と叫ぶ。どんなに隠そうともとっさの場合はケンジに助けを求めてしまうのが彼女の乙女なところである。

●舌を出すカホリ
リョウイチがいなくてちょっと残念だったようだ。

●カホリがサーフィンをする理由
父はいなくても、会話ができなくてもサーフィンを通じて心を通わせることができる。ナツキの糸電話や、リョウイチが参拝した母の家の墓などと同じ要素。テレパシーに比べ旧来のものだが、物を通じてでも人は心をつなげることができる。

●シロの年齢
犬で10歳以上、シロのような中型犬だと10歳だと65歳前後(計算の仕方に依存するが少なくとも壮年以上であることは確実)となる。カホリの指摘する通りおじいちゃん犬になるのだが、シロは若々しい。年齢の指摘や、日本犬に注連縄の首輪がつくことなどから狛犬やそれに準ずる精霊のような存在であることを示す伏線。

●ナツキの欠席日数
二人の会話に具体的な数値が出ていないので、数週間以上休んではいないだろうと推測される。

●校則の改定
変則的な手段とはいえ、5人しかいない生徒会での多数決もあったものではない。

●藤棚でのカホリとゆうの会話
藤がまだ散っていないことから、ナツキが欠席してから日数はあまり経過していないことがここからもわかる。

●二人の会話をガラス越しに見るゆりこ
カホリとゆうは超能力の素質がないので心が読めないということ、そしてテレパシーという力を持ってもゆりこが自身の問題を解決できていないことの暗示。

●シャボン玉その1
普通のシャボン玉はここまで長持ちはしない。中性洗剤やガムシロップなどを適切な配分で混合することにより強力な膜を作ることができる。勿論、ゆりこがシャボン玉にチカラを込めたことによりその形状を保っている。ゆりこはシャボン玉を各個人の世界に例え、その膜を壊さない限り人は孤独だと説く。カホリの指摘する通り囲いがない世界は消えてしまう。この場面の重要なポイントは、シャボン玉が心の壁の比喩なのかそれとも伝達手段の限界の比喩なのか暈してあるということ。ゆりこは前者の例えのつもりだろうが、果たしてテレパシーは解決手段になっているかどうかは生徒会での対決までその回答を預けることになる。

●シャボン玉その2
寝ているケンジのもとに御霊神社の様子が映ったシャボン玉が飛んでいく。ケンジはこれに気づきカホリのもとへ走る。

●シャボン玉その3
今回の攻撃はゆりこが行っている。それにしても砂時計を(監視役の使い魔がいるとはいえ)ゆりこに預けてもよかったのだろうか。

●降りた遮断機
ゆりこはやはり人と真に分かり合うに至っていないということを示唆する描写。

●使い魔「誰が何の目的でかは」
無論耕児がケンジのチカラを封じている。使い魔(京極博士)はかつて耕児と対決した関係。超能力ではない泥臭い手法で邪魔をされたために、耕児は超能力否定派だと考えている。ケンジが自分たちの陣営につくかどうか未知数ではあるが、それ以前に超能力が封じられているために最終判断が下せないままとなっている。

●過去に落ちたのはケンジかナツキか
二人の記憶が食い違う。ケンジがとぼけた性格なので流しがちな会話だが、2階から落ちたことの記憶が間違っているということはありうるだろうか、といった疑問を持つことからこの映画の謎を解いていける。この世界ではケンジの言っていることの方が正しい。
どちらが落ちたのかを大人に聞いていないというのが味噌。

●ケンジのベッドの枕元にある糸電話
単なる幼馴染だとしか思っていないかもしれないが、ケンジはナツキとの思い出を大事にしていることがわかる。

●墓参り
リョウイチと耕児が参拝している相手はともに高見沢みちる。原作小説にて耕児の敵方にあたるヒロインであり、リョウイチの母である。後にリョウイチの口から語られるように彼女は未来でなくなっている。それゆえこの墓に彼女の骨は当然ない。一応、行方不明者は一定年数経過すると死亡扱いすることができるが、未来へ去ってしまった人間のことを人は忘れてしまう可能性があることから、墓碑銘にみちるの名前はないのかもしれない。だが、そのことを二人は従前承知である。墓はこれを通じて各自の心の中の高見沢満と会話するための手段なのである。

●ナツキの帽子
劇中で帽子をかぶる人物はこの場面でのナツキのみ。この帽子は彼女のペルソナを示す。“ぶっちゃけた”後はペルソナがはがれ、ペルソナを置き去りにし、ケンジはそれを見つめて戸惑うのである。

●ナツキ『なんて振られたのかな?』
実は「どこでケンジは振られたことをナツキに言ったのか」という疑問が残るのだが、道すがら話したのかもしれないし彼の様子を見て察したのかもしれない。

●ナツキの復帰した朝
衣替えを行っていることから他の情報と併せて6月初めの日であることが推測される。このときカホリに抱きついたナツキの足元が映し出されることに着目すると、このあとの靴隠しを示唆していることが分かる。

●靴を隠されたナツキ
超能力を得た割にやっていることが随分と古臭いイジメ。結局テレパシーという手段は携帯電話の代替手段でしかない。自分たちを拒むもの、自分たちの集団と異質なものは排除するというムラ根性のようなものは残存している。

●画面左から右へ走っていく自転車
ナツキが精神的に参っているのを示すシーンである。ちなみにこの時3回目のパンチラ。ナツキとケンジは下着を披露する機会が多い二人である。なんだかんだ似通っているのだろうか。

●画面右から左へ歩いていくカホリ
リョウイチに真意を問いただそうとする強い意志が受け取れる。

●リョウイチの説明のシーンでの使い魔とシロ
二頭とも超能力者のチカラを象徴する生き物であり、その対比を意味する

●口へのキスをやめ、額にキスをするリョウイチ
母のこともあるので一歩引いた態度をとってしまう彼の哀愁が伝わるシーン。

●埠頭で寝そべるケンジとナツキ
靴下も脱いでいるが、靴との位置関係がおかしいかもしれない。ケンジの靴下は黒でナツキの靴下は白。高台公園で履物を入れ替えているので、スニーカーの傍には白い靴下、スリッパの傍には黒い靴下があるべきなのだが、ここでは元の組み合わせに戻っている。

●リョウイチのモノローグ
ナツキとカホリに比べればイメージシーンが現実的な描写になっている。過去への思いを抱こうにも抱けなかった彼の立場を示唆しているのかもしれない。

●右から左へと歩くカホリ
やはり強い意志を感じることができる演出。

●シロを散歩させる耕児
何気ないシーンだが、耕児は夕方の散歩の担当である。この時点で異例の散歩であることがわかる。

●生徒会メンバー
冷静に考えるとこの子たちは授業中に何をしているのだろうか。週6授業の土曜日の4限目、ならばまだわかるが授業中にうろつきまわる方が問題である。

●生徒会を見て逃げる遠藤さおり
彼女も携帯電話を持ち込んでいるようだが、無視されたようである。ナツキが執拗なターゲットになっていることが分かる。

●異様な生徒会室
大きな窓があるのにカーテンで閉め切っているし、なぜかプールの監視台のような尋問席がある。映画全体で共通する虹色の光はここでもみられるが、怪しげな色を発している。
ナツキの後ろ側から生徒会室の座席を映すシーンは完全に演劇の舞台照明そのものであり、ナツキが生徒会という舞台においてこの作品にかかわる重要なテーマを聴衆に語りかけていることが分かるシーン。

●視線を寄せるだけで何も話さない曽我はるか
生徒会長であるはずなのに尋問を行っていない。一連の騒動の中心は彼女でないことがここでも分かる。

●ナツキの言葉の返答に詰まるゆりこ
痛いところを点かれたため返答することができなかった。

●ゴーグルをかけるケンジ
ウルトラアイのオマージュ?もともとケンジはゴーグルを目に着用していないため、あの場面でゴーグルをかけて登場する必要性はない。

●ケンジのチカラそのものとなったシロがケンジの元へ駆ける描写とそれを追いかける幼いナツキ
ケンジのチカラが元に戻るということはケンジが元のチカラと記憶を取り戻し、ナツキと別れるということ。それを示唆するシーン。

●お姫様抱っこ
女の子の憧れ。好きな相手にして貰えたので表情も幸せそうである

●ケンジが入院しているイメージシーン
本作最大の疑問となる告白。ナツキのイメージシーンに登場する糸電話、ナツキとケンジの記憶の不一致などの伏線がここに集合する。
そして記憶もチカラも取り戻したケンジは月の方向へと去っていく。ナツキとの別れを予告するシーン。

●記念写真
この写真には4人が写っているが、エンディングでナツキのベッドわきに置いてある写真を見ると……。

●カホリの手にキスをするリョウイチ
結局唇にキスをすることなく彼は未来へと去っていくことになる。ナツキとケンジの二人と対照的である。

●リョウイチを見送りに来たケンジ
チカラを得たケンジはリョウイチのチカラの元、生徒会メンバーのチカラの元がなんなのか理解している。リョウイチが未来へ去った後砂時計を破壊してしまえば、学校の事件は解決する。

●突然飛び出す砂時計
ケンジが超能力で砂時計を取り出した。勝手に砂時計が飛び出したのではない。

●エンディングのナツキのベッド脇
歴史が改変され、ケンジとリョウイチがいないことになっているので、海での写真もナツキとカホリしか映っていない。ケンジとリョウイチが消えている。存在そのものが抹消されてしまった。

制作ミスと思われるもの

●ほぼ確実にミスとみられるもの
1.始業式の朝、遠藤さおりのセーラーのスカーフが描かれている
キャラ表や前後の場面を見れば分かるが、遠藤さおりはスカーフを着用しない。ところが、斉藤先生が現れ廊下側からの画面になった際彼女がこちら側に振り向くのだが、その際にスカーフが描かれている。周囲の女生徒につられて描いてしまったミスと思われる。

2.ナツキが復帰した日の中央入り口前で桜が咲いている。
ナツキが復帰したのは明示されてはいないが6月の頭であり、衣替えをしている日でもある。いくらなんでもこの日に桜が咲くのはおかしい。この場面は校門前と中央入り口前の2シーンにおいて、始業式の朝の場面をトレースしている。そのため、登場するキャラクターの動きは全く同一である。校門前ではキャラクターの衣装は夏服へと変わっているのだが、中央入り口前になると冬服になっている。おそらく編集ミスと考えられる。

●ミスか演出なのか怪しいもの
3.リョウイチとケンジがハンバーガーを食べた日の夜、見晴台でリョウイチと使い魔が語った後の月が三日月になっている。
この日はゆりこが学校に復帰した日の翌日となっている。前日の夜の月は満月であり、翌日ならば16日月となっているのが正しい。また、仮に三日月だった場合、三日月は夕刻に西の空に見える月である。ところがこの時の月は東の空から登り始めていた。
漫画的表現と解釈しない限り、おかしな月となっている。月に関しては、また別項で取り扱う。

4.ナツキがはるかのレビテーションを行っている場面に遭遇したときの顔のブラシ
前編通して頬染めは斜線なのだが、一瞬ジブリの幼年児につくようなものへと変わる。光の具合に合わせてなのかどうかは謎。

Comment

ねらわれた学園考察・解説まとめ後半(途中)

2013-01-17 00:11:54 | ねらわれた学園
『銀色飛行船』について
Aメロの部分がカントリーロードのサビ部分を髣髴させるメロディ。カントリーロードは青春物語の金字塔である『耳をすませば』のテーマソング。どちらも中学生の恋愛を取り扱っているので似てくるのは当然の摂理なのかもしれない。
そしてタイトルおよび歌詞にたびたび登場する銀色飛行船はやはり、砂時計の比喩なのだろうか。別に葉巻型のUFOでも形は似ているが、それだと情緒ではなくフォークロア方面に話が行ってしまうので、銀色飛行船という比喩は最も適当なのではないか。
文字数が多すぎて怒られた。



中村監督の過去作とのつながりについて
わかりやすいものだと、走れメロスとPerfect Dayは江ノ電沿線をモデルにしている。走れメロスは昭和25年と60年以上前であるため当然情景は異なる(弁天橋がない)が、極楽寺駅周辺を描写している。Perfect Dayに関しては現代であるためかなり似た描写がある。これらの制作が影響しているのは明々白々である。

中村監督は桜を過剰に散らせるイメージがあるが、どちらかというと浮遊物を散らせるのを好むらしい。魍魎の匣や走れメロスでは桜、Perfect Dayでは羽根を画面上に散らせている。はかなさや幻想を示す、と言ったところか。

さて、ここで走れメロスに視点を絞ってみてみよう。この作品は40分程度と短いがねらわれた学園との共通項が見つけ出しやすい。魍魎の匣は13話構成であることや、原作が長いので走れメロスに比べれば共通項が少ないのである。
Perfect DayはPVなので扱いが難しいので保留。一部のしぐさがリョウイチと同じ、ということなどは見ていて面白い。

走れメロスは「待つ方がつらいのか。それとも待たせる方がつらいのか」ではじまり、同じ言葉で〆る。これはねらわれた学園と同じ構造だ。同じ言葉なのに伝える意味が変わってきている。セリフはそこに至る流れが大事だ。こういった構造にすることで冒頭と結末がつながり再度の視聴に耐え、より深い味わいを持つことができる。

そして、走れメロスは物語の中に劇を持ち込み劇と現実の相互が影響を及ぼしあい、さらには登場人物の投影が展開により入れ替わってしまう。主人公の高田は自分の作品と対話し、自分自身の過去に悩み葛藤する。見ていてもつらくなるような生みの苦しみに溺れる。劇とは、言葉とは自分自身との対話であり、それこそが他人との対話につながる。これはねらわれた学園で示唆されていたこととまるで同じなのではないか。

ちなみに、走れメロスではロミオとジュリエットが登場し、ねらわれた学園では夏の世の夢が登場する。シェイクスピアつながりだ。悲劇と喜劇の差は双方の結末を端的に表しているともいえよう。また主人公の高田を担当したのは木内秀信。魍魎の匣では関口巽を担当し、ねらわれた学園では斉藤先生を担当した。実は中村監督作品皆勤賞。

閑話休題。走れメロスで中村監督は舞台劇について勉強している。その影響もねらわれた学園に表れているようだ。

ねらわれた学園では過剰なまでのレンズフレア効果があるが、あれはある種の舞台照明なのだとも考えることはできる。もともと光を意識した画面構成をしている監督で、魍魎の匣では埃の舞う日本家屋の空気を光で表現している。これはHD制作がなせる業でもある。走れメロスは劇中劇であるから、舞台では照明をそのまま描写している。これは見ていてかなり強烈に記憶に残る演出で、これを覚えているとねらわれた学園の光の効果は納得しやすい。
わかりやすいものでいえば、ナツキが尋問を受けるところ。あそこの照明は光の原色がまじりあい不気味さを醸し出しているが、向かって階段の席の方に画面が移ったところでは走れメロスにてディオニス王が自らの心のうちを吐露するシーンの照明そのままだ。私はここで、舞台をイメージしている作品なのではないか、と考えたのだ。

思い返せばわかるのだが、たとえば神野ゆうはかなりオーバーなアクションをするキャラクターである。彼は感情を体全身で表現し、目で語る。藤棚でカホリと会話するシーンは必見だろう。ナツキのオーバーアクションは漫画的と見る向きもあるが、演劇的と見てもいいのではないか。遠目で見るには派手なアクションは必要となってくる。

『ねらわれた学園』を観る上での『青い文学シリーズ走れメロス』の視聴のすすめ
青い文学シリーズは2009年の秋アニメ。くわしい説明はWikipediaに譲るとして、このシリーズは作品ごとに監督や脚本、キャラクターデザイン、音楽が異なっているオムニバスなのだが、その中の『走れメロス』は中村監督が担当している。日本テレビ側から監督の前作『魍魎の匣』風にと注文があったため、『魍魎の匣』を見たことのあるものならば容易に類似性を感じることができる作りとなっている。

下敷きとした題材は太宰治の走れメロスであるのだが、このアニメでは走れメロスを劇中劇に据えメインは走れメロスという劇を執筆する一人の劇作家の話になっており、彼の過去と現在が走れメロスのテーマと交差し、『青い文学シリーズ走れメロス』という作品を形作っている。2話完結の短い作品だが、原作の走れメロスのアレンジの仕方やビジュアル、音楽、そしてメロスを元にした劇作家の物語との融合性の完成度が高く、『青い文学シリーズ』の中でも屈指の人気を誇る作品となっている。

この『走れメロス』は『ねらわれた学園』へつながる要素が多く、作品の構成の仕方や演出を含めてメロスを視聴することで『ねらわれた学園』をより楽しむことができるだろう。スタッフがほぼ同じであることは勿論、舞台もケンジやナツキの家の傍である江ノ島電鉄極楽寺駅周辺だし、桜が散ることに始まり桜が散ることに終わる展開、冒頭と終幕がつながっているという構成、幻想と現実の協会が曖昧であること、作品内で語られる作品が現実の隠喩となり、現実が作品内作品を示しているという相互性、演劇を意識したキャラクターの演技、月の使い方、光の使い方、など。監督が同じだから似ていると言ってしまえばそれまでだが、それ以上に作風が似ていることが感じ取れる。

43分という短い作品なので13話構成で難しい用語も多い『魍魎の匣』に比べハードルの低い作品であること、作品の完成度そのものが高いことなどから『ねらわれた学園』を気に入り、まだ『走れメロス』を見たことのない方にはぜひお勧めしたい作品である。現在BDは発売元にも在庫がないようでDVDでしか手に入らないが、DVDでもそのクオリティは体感できるのでぜひレンタルしたり購入したりして見ることをお勧めする。




涼浦ナツキの物語
ねらわれた学園の主役は間違いなく涼浦ナツキ・関ケンジ・春河カホリ・京極リョウイチの四人で間違いない。では主人公はと問うと関ケンジと答える人も多いことだろう。なるほど冒頭のモノローグはケンジなのでそう考えるのも然りだ。しかし私は涼浦ナツキこそこの物語の主人公だと主張したい。
ナツキの初登場シーンは自宅そばの橋から早朝ランニングを行うところ。その後ケンジに会いいきなり蹴飛ばす。ショートカットに華奢ながら健康的な体つき、そしてランニングウェア(ジャージ)と行動や外見から見てスポーティで活発なキャラクターだと取ることができる。その後のカホリとのやりとりや復帰したゆりこへの接し方も含めて考えると社交的な性格であることは間違いない。
映画の中ではメインとなるのがケンジとの関係、サブとなるのがカホリとの関係となる。リョウイチとは曽我はるかの儀式の際に会話するぐらいで希薄だ。むしろ山際ゆりことの関わりの方が彼よりもウェイトを大きくしている。
ケンジについては物語上の初対面の際に蹴り飛ばしたり、下らないことを言おうとした彼を台本で吹き飛ばしたり、靴を投げつけたり、不用心なセリフに対し平手で思い切り打ちつけたり、と序盤では暴力的行為が目立つのだが劇中彼にしか行わないことには留意しておきたい。これは彼への思いを隠すための反動となっており、“ぶっちゃけた”あとはそのような行動は激減しているし、前半で見せていたようなアクロバティックな動きもしなくなっている。
呼称についても同様で前半は「アンタ」。後に幼少期と同じ「ケンちゃん」に戻る。アンタは相手との心の距離感がある呼び方だろう。もちろん親しい仲でないとなかなか使えない呼び方であるが、この場合は“お隣さん”として親しいことを表しており自制などがなくても問題なかった幼少期とは違ってしまっていることを意味する。
ナツキのケンジへの思いは台本読みのころから示されているが、明示されるのは彼女の夢である。物語上でも鍵となる要素が多いシーンであるが、夢とその直後のモノローグ含めてわかるのはケンジへの恋心、幼いころと変わってしまっている距離感。今自分が置かれている人間関係でのもどかしさだろうか。
夢をみた日の翌朝ナツキは自転車に乗って登校する。徒歩の時と自転車の場合があるようだが劇中でナツキが自転車にきちんと乗っているのは実のところここだけ。自転車はケンジとのおとなりさんを諦め一人で東京の高校へ進学するという後の決意を暗示する道具だと考えられる。
ゆりこが登校してきた日の中庭でナツキはカホリに「好きな人がいるのなら登校するのでは」と言っている。このセリフは表向きとしてはカホリがナツキの恋心を推測するための材料という扱いがされているが、後述の内容にも効いてくる。映画の中では大事なセリフの中の一つだ。
カホリとの恋バナをするにあたりナツキはカホリがリョウイチへの思いを伝えなくても構わないと告げる場面に於いて暗に同意を示している。直後ケンジへの思いを言葉上では否定するも表情は隠しきれずカホリには伝わってしまっている。
言葉に出すことで自分自身に暗示をかけたためか、この時を境にナツキはケンジへの思いを諦め初めいつまでも一緒にいるという幼少期の願いを捨て東京の高校への進学を考え始める。
ナツキの転換期は確実にはるかの儀式に遭遇してしまったところからだろう。攻撃を受けた際ナツキは「助けてケンちゃん!」と叫ぶ。どんなに隠そうと余裕がない際、すなわち人の本性が露わになる場面ではケンジに助けを求めてしまう。しかしこれ以降彼女は学校を休むようになる。ここで前述の「好きな人がいるなら登校してしまう」というセリフが効いてくる。すでにケンジのことを諦め始めていたからこそ登校しなくても構わなかったのだ。助けを誰に求めていないことも同様だ。
暫く学校を欠席している中ケンジの部屋から枕を回収するところでケンジに招かれたカホリと遭遇し、自分の遭遇した事件について吐露する。どんな形にせよ悩みは人に聞いてもらえるだけで解決するようなところがあり、この時にはケンジに枕を投げつけ自室に戻る際は体操選手張りのアクロバティックな動きを見せていた。彼女が本来の姿に立ち戻ったことの証左だろう。
カホリを家まで送るときの衣装は七分丈のズボンにサスペンダーそして帽子とボーイッシュな衣装だが劇中において帽子を被っているのはこの時のナツキだけである。ケンジに自分の気持ちを「ぶっちゃけた」時に帽子が飛びそのまま放置されることから推測されるのは帽子が彼女のペルソナであり盾であったという隠喩。これ以降のナツキは素をさらけ出したことにより少女らしい格好をするし、弱みもあまり隠さないようになる。
キスのシーンはケンジにとってのターニングポイントともなる重要な場面。もう少し詳しく見ていくと、14歳のナツキはここで始めて涙を流す。ケンジを平手打ちしたときにも涙は見えているがその時は堪えていた。ペルソナがはがれていなかったためだ。今回すでに素の自分を出しているために涙をながしているのである。
翌日靴を隠されてしまった時にケンジの姿を見た途端泣き出し彼の胸へと飛び込むが、学校を休んでいた際の時と比べてみるとよい。視覚的に何に困っているのかは明瞭であるのだがそれをどうして欲しいかも直ぐに表現しているところが浮かび上がってくると思う。
この時に自分の自転車を捨てているが以降自転車に乗るときはケンジの後部に乗るのみであり再び一緒にいたいと思うようになったことを示していると考えられる。最初自転車は画面左から右に走る。これは上手から下手への動きであり強いものが弱くなることをも示す(すべてにおいてではない)。ショックを受けている状態なので精神的に参っている様子を示している。
しかし高台公園でケンジが自分の心配をしてくれたことや翌日も登校するという発言を聞いたことにより勇気づけられた。それゆえ、海へ向かうときには自転車は画面右から左へと走っていく。これは先ほどとは逆の動きであることからもわかるとおり、自身のあり方の回復を指す。
約1か月後プールの授業の際に新生徒会から目を付けられていたナツキは着替える余裕も与えられずに生徒会室へと拉致される。ここで山際ゆりこと対決することになる。ゆりこはナツキをポジとしたらネガにあたる人物。自分の気持ちが伝わらないことに絶望し自殺を演じて見せようとし、超能力を得ることで満たされていたと考えていた。だがナツキの指摘する通りゆりこは相手の考えを覗いたことで相手のことを理解していたつもりになっていただけであり、人との触れ合いからは逃げ続けていた。
コミュニケーションは時に痛みを伴う。痛みを覚えながらも前に進もうとしているナツキと表面上はコミュニケーションをしているように見えて実は足を踏み出せていないゆりこ。二人の対比構造こそが映画が表したかった主題の顕現だ。この対比こそナツキが本物語において主人公である所以であり、決して主題歌がナツキを描いていたりキャスト一覧で最初に出てきたりしているからだけではない。ケンジの助けが入ったが、ナツキの言葉はゆりこを打ち負かしていたと思う。
ゆりことのやり取りの直後ケンジの助けが入るがここでお姫様抱っこをされる。絶妙なタイミングでデウスエクスマキナが入り自分の好きな相手にお姫様抱っこをされる。女の子にとっては心躍らずになんとしようか。股間に入っていた携帯電話についてひと悶着するも確りと手を彼の首に回している(余談だがお姫様抱っこは抱える相手が首に腕を回さないと持ち上げている側は辛いという話もある)ことからも受け入れていることは明白。
翌日、海でリョウイチに対し恐怖も何も見せていないことから彼に対しては特に負の感情を抱いていないことがうかがわれるが、どちらかと言えば0に近いのではないか。ナツキはリョウイチに対し特に思うところはないと考えたほうがよさそうだ。
弁当を食べた後卒倒してしまい、ケンジの今後の運命を示唆するシーンに突入する。「ずっとおとなりなんでしょ」と発言しているあたりからを見るに、もう完全にケンジと一緒に居続ける気持ちになっていることがうかがい知れる。
目を覚ました後は初めてカホリにケンジへの思いを語るが、「ズルいよ」と泣くだけでそれ以上カホリを責めることはしていない。カホリは何も悪くないしケンジがダメなわけでもないだろう。どうすることもできない想いの擦れ違いにナツキは泣いているのであって、カホリをズルいというのはどうしようもない気持ちの持って行き先に過ぎないのではないか、と考えられる。
4人で海で遊んでいるときにはスイカ割りをしくじったケンジをひっぱたたき、砂に埋めて竹刀で叩くなど物語当初のような振る舞いをする。ひとしきり海で遊んだあとは私服に着替えるが、この時の格好はこれまでと違ってフェミニンな格好。自分の気持ちを隠さなくなったので衣装も命一杯女の子らしいものにしようとしていることが分かる。
リョウイチの今後の行動を悟ったケンジに「ナツキがいないと俺をこの時代につなぎ止めておくものがなくなっちゃうみたい」とほぼ告白に近い言葉をかけられるが、どうも伝わったわけではないらしい。一緒に高台公園へ向かいリョウイチを待つこととなる。
ケンジとリョウイチの決戦の後、リョウイチを未来へと送り届けるケンジとの別れの時となる。待っていてと告げられるが彼らが旅立った後ナツキはケンジのことを忘れてしまう。この場面でもナツキが主人公であることが分かる。もし、ケンジが主体だとしたらナツキの「ケンちゃんって誰だろう……」というセリフはおかしい。忘れてしまうのも発言するのも主体はナツキであり、直後のエンディングでも残された人々を描いている。ナツキが覚えていないが大事なものとして糸電話を持ち続けるというのは彼女主体だからこその行為なのだ。
エンディング後ケンジが現代へ帰還、携帯電話をキーとしてケンジのことを思い出す。彼女にとってはすべてが報われた瞬間であり嬉しさの涙「バカッ」という言葉でナツキの物語は終わる。

関ケンジの物語
ケンジもナツキと並び物語の中心となるキャラクターであるが、役どころはダブル主人公かと言うとそうではなく彼は狂言回しの役割にあると言える。一般論として主人公とされるキャラクターは何等かの精神的成長をしなければならない。ところが、ケンジの場合精神的成長をしているかと見ていくとほとんど変わらないのが分かると思う。こう書いてしまうと彼は幼稚な人間であると誤解を受けるかもしれないが、そうではない。中学二年生相応の幼さはいくらか見せるものの、精神的に成熟しており初めから完成しているともいえる人物像となっている。
ケンジが登場するのはリョウイチの次となる。高台公園で不思議な砂時計と共に妖しげな雰囲気を放つ少年、舞い上がる桜吹雪。彼との出会いから物語が始まる。ここでのケンジのモノローグはまさに狂言回しそのもののセリフ。このシーンの後カホリとナツキと出会う。かように彼を中心として主要キャラクターの紹介がなされていくのだ。リョウイチは不思議な少年だし、カホリはケンジの憧れとなる生徒会の少女、ナツキはケンジと幼馴染で気が強い活動的な少女、と観る側に伝えてくれる。
逆にケンジ自身のことは実はあまり伝わってこない。後の3人のモノローグを聴けば分かるがケンジは他人の説明はしながらも自分の説明はそれほどしていないのだ。彼らは主観的過去の説明をしてそれに対して自分はどう思っているかの説明をするのだが、ケンジだけは現在の状況しか説明していない。冒頭だから当然ともいえるのだが、ケンジの過去は封じられているということの示唆でもある。
ナツキと出会ったときや汗だくになりながら学校へ急ぐシーンを見ると彼はどこか抜けている少年だということが分かる。ケンジの容姿も含めかわいらしさ、親近感などがわく表現であるが、中庭にて一人で食事(カロリーメイトだろうか)するところなどを見るとマイペースだというのが分かるではないだろうか。
その直後でのナツキとの会話シーンでは年相応の性欲というよりも女の子への意識を持っていることもわかる。劇中その手の表現がされるのはケンジだけであることは覚えておきたい。要するにここまででも分かるとおり観る側は自然とケンジの視点に誘導されていく構造になっているのだが、彼自身の我が強いかと言うわけでもなく絶妙に一歩引いた立場を維持している。
時間は飛んで約1か月後、サーフィンをするカホリに見惚れながらシロの散歩を行うケンジ。そしてそのまま雨が降る中『夏の夜の夢』の台本読みをする4人のシーンにつながる。ここはリョウイチの境遇を暗喩で示すシーンだがナツキとケンジの関係をも示唆するところである。バカなことを言おうとしてナツキに張り倒されるケンジ。頭についた草を払う様子を見て笑うカホリとそれに気づき笑うケンジ。そしてこのやりとりを不満げに見るナツキ。三角関係をそれとなく示す展開になっている。
だが、この場面も実のところ主はナツキ側にありケンジについては従である。なぜならばケンジの立場はすでに冒頭で説明されているので殊更強調すべき内容でもない。あくまでナツキの思いを示すためのシーンである。ケンジを動かすことによりナツキの心情やコミュニケーションとはいったい何なのかを表す。
学校の裏山のシーンも同様で一見ケンジの感情に主眼が置かれているように見えるがその後の帰宅の場面も合わせ一連の話はナツキの心情を表すためのものである。
「お前に俺の気持ち、分かるわけないじゃん」というセリフはケンジの鈍さを表すが、後のナツキが“ぶっちゃける”シーンにつながる大事な内容でもある。この言葉が胸に刺さったナツキはケンジを張り倒す。唐突な攻撃によりケンジ含め多くの鑑賞者が戸惑うのだが、ここを含めてさんざんナツキの暴力にさらされ続けるケンジは「痛ってー!」の一言だけで済ませ、逆ギレも一切していない。心身ともに頑丈な少年であり同年代の少年に比べ実に度量が深い。
夕飯の時にTV番組を観て超能力があったらと思うことは無いかと祖父耕児に愚痴をこぼす。ここの発言は昼間のリョウイチの発言、そして夕刻のナツキとのやり取りを思い出してのもの。ケンジは超能力に対してはあまり肯定的ではない。常識的に考えてないとか超科学を信じないだとかの明確な理由ではなく感覚的な否定なのだが劇中で超能力を否定しているのはケンジぐらいである。
ナツキの夢の中では幼少のころから仲が良かったことが伺える。ただし、あくまでナツキの主観しかも真偽が不明な夢の中での話であることには注意したい。ケンジの心はナツキに向かっていたわけではなくこのころから鈍感であったということは伝わるがあくまでナツキの主観である。夢の中で彼らは未就学児ないしは小学校低学年ぐらいとみられるがそこにカホリは当然ながらいない。このころケンジの思いが誰に向いていたのかはわからないのだ。
翌朝ナツキとケンジは合うが泣きながらナツキが猛スピードの自転車で走り去って行ってしまいケンジとナツキが会話をするのは5月中旬ぐらいまで待たねばならない。劇中時間で2週間ほどまともに会話を取り合っていないと推測される。
ゆりこが登校してきた日、ケンジは一人趣味の写真撮影をしながら高台公園に至る。ケンジの能力について知っていたリョウイチに話を振られるがチカラを封じられているケンジは対応に困る。能力を持つものと持たざる者の行き違いを描くシーンだが、ケンジが見せるコミカルな表情につられてリョウイチもあわてて反応を返す。ゆりこと一緒に怪しい反応を見せるもケンジは特に気にしている様子はない。お辞儀をして去っていくゆりこを見て顔を赤らめるが、どうもカホリを含め美人には弱いらしい。
雲の写真からリョウイチとの一対一の会話につながる。このシーンでリョウイチは一切嘘をついていないのだが、観る側はケンジと同じ視点におかれているため彼の言っていることが良くわからない。ケンジと一緒にいぶかしむこととなる。
数週間が経ちナツキに謝罪するケンジだが彼女が怒っている理由を謬見しているためナツキの苛立ちは増すばかり。加えてナツキの胸のふくらみを見るためにゴミ箱の制裁を食らうこととなる。このあと頭に脱脂綿を貼っているが、その程度ですむ彼はつくづく丈夫である。
はるかの覚醒の儀式の際にはなんの力もないはずのケンジはナツキの声を聞く。これはのちのカホリ救出のシーンにもつながる話で、チカラがないはずのケンジも実はテレパシー能力があるのではないか、ということを示している。そしてケンジはナツキの帰宅を待つkが一向に彼女が帰る気配はない。再びナツキとの会話が途絶えてしまう。隣同士なのにすれ違ってばかり、という状態が物語中盤では多い。
一週間弱が経ちカホリと早朝出会い、ついに彼女に本心を聞くこととなるがズボンの社会の窓が開いていることに気づきまともに告白することもできずに撃沈。傷心のまま登校し教室のカホリを見て涙ぐむ。ケンジが感情由来の涙を見せるのはこのシーンぐらいで他は痛くて出す生理的な涙。そしてこの教室の場面でも涙を流すことはない。主要4人の内涙を流す描写がないのはケンジだけである。涙を見せる時ですらどこかコミカルな描写であり他の3人が好きな相手を思って涙するのとはどこか違った印象を抱くのではないだろうか。
もちろんケンジ自身亜は真剣だし落ち込みもしている。次に彼が登場するのは高台公園の入り口となるのだが、電話に出ないナツキに不満の声を上げている。カホリへの恋が玉砕しナツキに電話がつながらない。何か疲れて草の上で微まどろむのだが、そこでゆりこのセリフと共に携帯電話が彼の手から零れ落ちる。これはナツキと携帯電話がつながらないディスコミュニケーション状態にあることの暗喩と取ることができよう。
そして再び離れている人間の声を聞くこととなり御霊神社へと急ぎ、カホリを助けに入る。カホリを起こそうとしたら一度目は転び、二度目は胸を掴んでしまい本来なら格好いいシーンなのに今一つ締まらない。後のナツキのシーンと対比すると分かるのだが、ケンジは誰の白馬の王子様かというと結局のところナツキにとってのものであり、カホリには不適合なのだとも取ることができはしないだろうか。
カホリを伴い自分の家へと帰ったケンジ。ここで内緒にしておこうとするのはこの歳の少年らしい行動ではないか。女の子、しかも意中の子を自室に上げるというのは初心な少年なら隠したがるものである。直後カホリはパジャマ姿のナツキと対面、ひと悶着起きるがそのナツキに対しケンジは顎を出しながら注意する。ナツキとケンジは久しぶりに会話するはずなのにこれまで通りのケンカ、と変わらない部分を見せる。二人の関係性を示すやり取りだ。
そしてナツキが何かをされたという話に対し瞳孔を小さくする。劇中で驚くことは何度もあるが瞳孔を小さくするような驚き方はここだけであり、ナツキのことを大事にしているかが分かる。男子と女子が中学生ともなると幼少時に比べれば深い付き合いは出来なくなるが、単なるお隣さんだけにとどまらない感情を持っているのではないかとも推測できる。
ひとしきり3人で話し合い女子二人が日常へと戻るが手助けをしたのはケンジ。彼自身は触媒のような存在でしかないが他人の変化をもたらすそんざいとして大切だ。もともと触媒とは自らが化学変化を起こさずに他物質の化学変化を促進するもの。転じて化学変化以外にも使われるようになった。原義に近い役どころと言えないだろうか。
無事カホリを家へと送り届けた後ナツキとの会話をするケンジ。「おまえ、いつもぶっちゃけているじゃん」と言うがこれは怒りの感情がストレートにぶつけられ続けていたからの発言であり、ケンジ自身が鈍感であることもあるがナツキが不器用であることの証左でもある。ナツキの主観で言えばなぜ伝わらないのかというもどかしさがあるが、ケンジからすれば幼馴染としての戯れであったわけだ。
ケンジ自身に罪はなくナツキ自身もそれを理解しているが、かような気持ちの微細な擦れ違いこそ残酷でもある。ナツキの本心に気づかずとも関係性を保とうとし続けるというのが海岸での会話である。ナツキを登校させるためにカホリへの告白の失敗を話すのは本人にとって気乗りのしないことだが葛藤はごく短い。ここは二通りの解釈ができる。カホリへの思いは大したことがなかったか、それともナツキに登校してほしいからか。前者はナツキへの回答の後の様子からして否定できる。ここは後者の解釈を採用すべきだ。

キスシーンは劇中で3回あるが唇同士のキスはここだけだし時間も一番長い。言うまでもなくナツキとケンジの関係が変わる最重要な場面である。ナツキにとっては隠してきたことを相手に伝える自身のペルソナを脱ぐという意味を持つがケンジにとってはナツキに対しての認識がコペルニクス的転回を迎える場面であり大きなショックでゆさぶりをかけられる。ファーストキス(かどうかは分からないが近いものであることは確かだろう)の衝撃もあると見られるが人物観の急激な変更は戸惑わせるに十分だ。
ところが、翌日の放課後靴を隠され自転車の空気も抜け自らに飛び込んできたナツキへの対応は特に意識したものではないように映る。優しくするのは告白を意識してのことかこれまで通りの対応なのか判断が微妙なところだがナツキ(の胸)を意識するのは誰でもいいということではないらしい。
ゴミ箱をぶつけられた時を含めナツキの性を意識していないわけではないのだが、これが女子全般に及ぶのかどうかはよくわからない。綺麗どころに弱い面はあるが判断材料が少なすぎる。ただ、ずっと一緒にいたいと願う人間はこれまでも一緒にいたからという帰納的理由だったものがふとしたきっかけで別の理由になるというのは特段不思議な話ではない。だからナツキの問いに対して「おまえは誰でもいいのかよ?」と返したのだろう。誰でもよくない女の子がスリッパのままいるのは放っておけない。自分の靴を貸すのはごく自然なことだったと思う。
ナツキの認識が変わったのちでもカホリへの憧れの気持ちは変わらない。海辺での会話はそれを示している。しかし、この日以降カホリと直接的に会話をすることがないことに注目しておく必要がある。憧れは憧れのままだが手の届くかもしれない場所にいたものは象徴化アイドル化してしまい、彼から少し離れた。ケンジとやりとりを行うのはナツキとリョウイチに限られることとなる。
ナツキが新生徒会に拉致されそれを救出しに行ったこと。ナツキにとっては好きな人が自分を助けに来てくれたということで思いは一杯だろうが、ケンジにとっては当然すべきことである。翌日に海へ行った際ナツキはカホリの前で涙するが、ナツキもケンジの心情の変化を理解しきれているわけではないことが分かってくるのではないか。
生徒会からナツキを救出した後にリョウイチと対峙するが、ここで対決は避け海へ遊びに行くことを提案する。ケンジが他者の心の中を観ているかどうかはわからないのだが後の行動を見るとリョウイチが何をしようとしているかは知っているようなので彼の覚悟も知りえたと推測できるそのうえで海へと行こうと言ったのは、相手の動揺を誘おうとするような心理合戦を展開したかったのではなく、ごく単純に友達だと思っている相手と遊びたかったからではないか。少なくとも学校で起きることは自身のチカラが抑止力になるので気にする必要はない。ここでも注意しておきたいのは抑止力があるから緊張状態を解くために遊びに行こうと考えたのではなく、問題が片付いたのだから遊びに行こうという考えを抱いたということ。定期試験が終わったから皆ではしゃごう、というぐらいのレベルの発想だと思われる。
海の日、再びナツキの主観であるがケンジは超能力と共に過去を取り戻していることが分かる。超能力とはチカラそのものであり過去でもある。主要キャラクターの中で唯一過去について語ることのないケンジだったが、ここにおいて初めてその理由が分かるわけだ。幼いナツキに過去を説明するが彼女の主観では話はまるで分からない。ケンジの主観だけを追っていくとケンジでの部屋の会話から言っている意味は分かる。誰の視点で進んでいるのかということを明確にしない映画のため物語の認識をゲシュタルト崩壊させるセリフでもあるのだが、ケンジも真実しか述べていない。各キャラクターの主観では正しいのに全体を客観的に見ると齟齬が生じる。これもコミュニケーションの難しさを物語る構成だ。
糸の切れた糸電話、ケンジに掛けるナツキのセリフ、月の方へと歩くケンジ、彼の周囲を舞う羽根。儚さを象徴する小道具と今後の展開の暗示が見られる。過去も未来も永遠に同じ環境で続くわけではない。
倒れていた3人の目が覚めた後ケンジはリョウイチと戯れる。ケンジはリョウイチより格上の能力者なので心を読まれることは無い。ケンジもリョウイチの心を読めるからと言って何から何まで読むつもりはないのだろう。言葉、そして水の掛け合いという実にアナログな方法で触れ合うこととなる。ここでリョウイチは自身を月、ケンジを太陽ととらえるがタロットカードの大アルカナにおいて月は正位置だと将来の不安や欺瞞を意味する。逆位置にならない限りプラスの意味を持つことはできない。一方太陽のアルカナは約束された将来や成功を意味する。ケンジ立場を変えることは特になく安定していることから正位置のままと見ることができる。アルカナとしてより上位にある彼がリョウイチをどう導くかがここからの展開だろう。
ナツキ・カホリと合流した後はスイカ割りを失敗しナツキに叩かれ砂に埋められ竹刀で頭をたたかれる、と一瞬これまで日常に戻ったようなシーンになる。これらは写真撮影されているという演出がなされているが、刹那性と思い出の二つを意味するところだろう。
集合写真を撮ったのちはカホリ・リョウイチと別れナツキと会話をする。彼は『夏の夜の夢』の妖精パックについて語るが、これは勿論リョウイチの暗喩。学校に騒動を巻き起こしてはいたがリョウイチ自身は真剣で孤独であったことを説明することとなっている。
そしてリョウイチの分かれの時が迫っていることを知り見送りに行くことを決意。この時点では自身が未来へ行くことまで予期していたのではないと考えられるが「ナツキがいないと、俺をこの時代につなぎとめとくものが、なくなっちゃうみたい」と告げる。SFとしてはナツキがこの時代のビーコンのような役目であるとも取れるが、この映画はSFの要素は薄いので一緒にいてほしい、果ては好きだという告白にきわめて近い発言と取ったほうが良い。
高台公園でリョウイチにあったケンジは彼のバッグに入っている砂時計を超能力で取り出す。砂時計は学校にどのような効果をもたらしているか理解したため、リョウイチが未来へと帰った後壊すと発言した。リョウイチは立場上それを阻止しなければならないためすべてのチカラを使い時のはざまへとケンジを落とし込む。そのことに気づいたケンジは「戦いたくない」と発言する。チカラを取り戻してからケンジは事象を理解し言葉で説明されなくとも会話をすることができるようになっている。客観的には情報不足でケンジが何を言っているのかわかりづらい面がある。リョウイチがチカラを使い果たしたのちは彼を救出。その時発したセリフが「俺とおまえは確かに心がつながっていない……でも手をつなぐことはできる」である。リョウイチ含め能力を持つ者は皆超能力により自縛されていた。しかし、ケンジはそれを超え超能力はあくまで手段に過ぎないということを証明して見せている。こここそ彼が泰然自若していることの極致でで、能力に振り回されることなくありのままでいること、他者と触れ合うのは超能力でなくてもできることの実例を見せてくれる。
同時に能力の否定もしていない。リョウイチを未来に送り届けることの意志、「何万光年離れても友達」という発言は超能力の肯定から生まれる発言だ。自らのチカラに地震があるのでナツキに待っていてほしいと笑顔で告げケンジは未来へと旅立っていく。
そして帰還。またもズボンのチャックが開いているが今度は自分で閉めながら登場しており、抜けているところは改善されているということが分かるが制服はリョウイチに比べだらしない着こなしでありケンジの性格が変わっているのではないことが分かる。
劇中で否定されていた携帯電話と超能力の二つを使いナツキの記憶を呼び戻すのは映画を語る中で大事な演出。どんな道具も使い方次第であり、何より大切なのは人とつながっていたいという思いなのだ、ということを短時間で示すシーンなのだ。ナツキがケンジを思い出したことで彼の物語は終わる。


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ねらわれた学園考察その21

2013-01-15 03:26:11 | ねらわれた学園
関ケンジの物語
ケンジもナツキと並び物語の中心となるキャラクターであるが、役どころはダブル主人公かと言うとそうではなく彼は狂言回しの役割にあると言える。一般論として主人公とされるキャラクターは何等かの精神的成長をしなければならない。ところが、ケンジの場合精神的成長をしているかと見ていくとほとんど変わらないのが分かると思う。こう書いてしまうと彼は幼稚な人間であると誤解を受けるかもしれないが、そうではない。中学二年生相応の幼さはいくらか見せるものの、精神的に成熟しており初めから完成しているともいえる人物像となっている。
ケンジが登場するのはリョウイチの次となる。高台公園で不思議な砂時計と共に妖しげな雰囲気を放つ少年、舞い上がる桜吹雪。彼との出会いから物語が始まる。ここでのケンジのモノローグはまさに狂言回しそのもののセリフ。このシーンの後カホリとナツキと出会う。かように彼を中心として主要キャラクターの紹介がなされていくのだ。リョウイチは不思議な少年だし、カホリはケンジの憧れとなる生徒会の少女、ナツキはケンジと幼馴染で気が強い活動的な少女、と観る側に伝えてくれる。
逆にケンジ自身のことは実はあまり伝わってこない。後の3人のモノローグを聴けば分かるがケンジは他人の説明はしながらも自分の説明はそれほどしていないのだ。彼らは主観的過去の説明をしてそれに対して自分はどう思っているかの説明をするのだが、ケンジだけは現在の状況しか説明していない。冒頭だから当然ともいえるのだが、ケンジの過去は封じられているということの示唆でもある。
ナツキと出会ったときや汗だくになりながら学校へ急ぐシーンを見ると彼はどこか抜けている少年だということが分かる。ケンジの容姿も含めかわいらしさ、親近感などがわく表現であるが、中庭にて一人で食事(カロリーメイトだろうか)するところなどを見るとマイペースだというのが分かるではないだろうか。
その直後でのナツキとの会話シーンでは年相応の性欲というよりも女の子への意識を持っていることもわかる。劇中その手の表現がされるのはケンジだけであることは覚えておきたい。要するにここまででも分かるとおり観る側は自然とケンジの視点に誘導されていく構造になっているのだが、彼自身の我が強いかと言うわけでもなく絶妙に一歩引いた立場を維持している。
時間は飛んで約1か月後、サーフィンをするカホリに見惚れながらシロの散歩を行うケンジ。そしてそのまま雨が降る中『夏の夜の夢』の台本読みをする4人のシーンにつながる。ここはリョウイチの境遇を暗喩で示すシーンだがナツキとケンジの関係をも示唆するところである。バカなことを言おうとしてナツキに張り倒されるケンジ。頭についた草を払う様子を見て笑うカホリとそれに気づき笑うケンジ。そしてこのやりとりを不満げに見るナツキ。三角関係をそれとなく示す展開になっている。
だが、この場面も実のところ主はナツキ側にありケンジについては従である。なぜならばケンジの立場はすでに冒頭で説明されているので殊更強調すべき内容でもない。あくまでナツキの思いを示すためのシーンである。ケンジを動かすことによりナツキの心情やコミュニケーションとはいったい何なのかを表す。
学校の裏山のシーンも同様で一見ケンジの感情に主眼が置かれているように見えるがその後の帰宅の場面も合わせ一連の話はナツキの心情を表すためのものである。
「お前に俺の気持ち、分かるわけないじゃん」というセリフはケンジの鈍さを表すが、後のナツキが“ぶっちゃける”シーンにつながる大事な内容でもある。この言葉が胸に刺さったナツキはケンジを張り倒す。唐突な攻撃によりケンジ含め多くの鑑賞者が戸惑うのだが、ここを含めてさんざんナツキの暴力にさらされ続けるケンジは「痛ってー!」の一言だけで済ませ、逆ギレも一切していない。心身ともに頑丈な少年であり同年代の少年に比べ実に度量が深い。
夕飯の時にTV番組を観て超能力があったらと思うことは無いかと祖父耕児に愚痴をこぼす。ここの発言は昼間のリョウイチの発言、そして夕刻のナツキとのやり取りを思い出してのもの。ケンジは超能力に対してはあまり肯定的ではない。常識的に考えてないとか超科学を信じないだとかの明確な理由ではなく感覚的な否定なのだが劇中で超能力を否定しているのはケンジぐらいである。
ナツキの夢の中では幼少のころから仲が良かったことが伺える。ただし、あくまでナツキの主観しかも真偽が不明な夢の中での話であることには注意したい。ケンジの心はナツキに向かっていたわけではなくこのころから鈍感であったということは伝わるがあくまでナツキの主観である。夢の中で彼らは未就学児ないしは小学校低学年ぐらいとみられるがそこにカホリは当然ながらいない。このころケンジの思いが誰に向いていたのかはわからないのだ。
翌朝ナツキとケンジは合うが泣きながらナツキが猛スピードの自転車で走り去って行ってしまいケンジとナツキが会話をするのは5月中旬ぐらいまで待たねばならない。劇中時間で2週間ほどまともに会話を取り合っていないと推測される。
ゆりこが登校してきた日、ケンジは一人趣味の写真撮影をしながら高台公園に至る。ケンジの能力について知っていたリョウイチに話を振られるがチカラを封じられているケンジは対応に困る。能力を持つものと持たざる者の行き違いを描くシーンだが、ケンジが見せるコミカルな表情につられてリョウイチもあわてて反応を返す。ゆりこと一緒に怪しい反応を見せるもケンジは特に気にしている様子はない。お辞儀をして去っていくゆりこを見て顔を赤らめるが、どうもカホリを含め美人には弱いらしい。
雲の写真からリョウイチとの一対一の会話につながる。このシーンでリョウイチは一切嘘をついていないのだが、観る側はケンジと同じ視点におかれているため彼の言っていることが良くわからない。ケンジと一緒にいぶかしむこととなる。
数週間が経ちナツキに謝罪するケンジだが彼女が怒っている理由を謬見しているためナツキの苛立ちは増すばかり。加えてナツキの胸のふくらみを見るためにゴミ箱の制裁を食らうこととなる。このあと頭に脱脂綿を貼っているが、その程度ですむ彼はつくづく丈夫である。
はるかの覚醒の儀式の際にはなんの力もないはずのケンジはナツキの声を聞く。これはのちのカホリ救出のシーンにもつながる話で、チカラがないはずのケンジも実はテレパシー能力があるのではないか、ということを示している。そしてケンジはナツキの帰宅を待つkが一向に彼女が帰る気配はない。再びナツキとの会話が途絶えてしまう。隣同士なのにすれ違ってばかり、という状態が物語中盤では多い。
一週間弱が経ちカホリと早朝出会い、ついに彼女に本心を聞くこととなるがズボンの社会の窓が開いていることに気づきまともに告白することもできずに撃沈。傷心のまま登校し教室のカホリを見て涙ぐむ。ケンジが感情由来の涙を見せるのはこのシーンぐらいで他は痛くて出す生理的な涙。そしてこの教室の場面でも涙を流すことはない。主要4人の内涙を流す描写がないのはケンジだけである。涙を見せる時ですらどこかコミカルな描写であり他の3人が好きな相手を思って涙するのとはどこか違った印象を抱くのではないだろうか。
もちろんケンジ自身は真剣だし落ち込みもしている。次に彼が登場するのは高台公園の入り口となるのだが、電話に出ないナツキに不満の声を上げている。カホリへの恋が玉砕しナツキに電話がつながらない。何か疲れて草の上で微まどろむのだが、そこでゆりこのセリフと共に携帯電話が彼の手から零れ落ちる。これはナツキと携帯電話がつながらないディスコミュニケーション状態にあることの暗喩と取ることができよう。
そして再び離れている人間の声を聞くこととなり御霊神社へと急ぎ、カホリを助けに入る。カホリを起こそうとしたら一度目は転び、二度目は胸を掴んでしまい本来なら格好いいシーンなのに今一つ締まらない。後のナツキのシーンと対比すると分かるのだが、ケンジは誰の白馬の王子様かというと結局のところナツキにとってのものであり、カホリには不適合なのだとも取ることができはしないだろうか。
カホリを伴い自分の家へと帰ったケンジ。ここで内緒にしておこうとするのはこの歳の少年らしい行動ではないか。女の子、しかも意中の子を自室に上げるというのは初心な少年なら隠したがるものである。直後カホリはパジャマ姿のナツキと対面、ひと悶着起きるがそのナツキに対しケンジは顎を出しながら注意する。ナツキとケンジは久しぶりに会話するはずなのにこれまで通りのケンカ、と変わらない部分を見せる。二人の関係性を示すやり取りだ。
そしてナツキが何かをされたという話に対し瞳孔を小さくする。劇中で驚くことは何度もあるが瞳孔を小さくするような驚き方はここだけであり、ナツキのことを大事にしているかが分かる。男子と女子が中学生ともなると幼少時に比べれば深い付き合いは出来なくなるが、単なるお隣さんだけにとどまらない感情を持っているのではないかとも推測できる。
ひとしきり3人で話し合い女子二人が日常へと戻るが手助けをしたのはケンジ。彼自身は触媒のような存在でしかないが他人の変化をもたらすそんざいとして大切だ。もともと触媒とは自らが化学変化を起こさずに他物質の化学変化を促進するもの。転じて化学変化以外にも使われるようになった。原義に近い役どころと言えないだろうか。
無事カホリを家へと送り届けた後ナツキとの会話をするケンジ。「おまえ、いつもぶっちゃけているじゃん」と言うがこれは怒りの感情がストレートにぶつけられ続けていたからの発言であり、ケンジ自身が鈍感であることもあるがナツキが不器用であることの証左でもある。ナツキの主観で言えばなぜ伝わらないのかというもどかしさがあるが、ケンジからすれば幼馴染としての戯れであったわけだ。
ケンジ自身に罪はなくナツキ自身もそれを理解しているが、かような気持ちの微細な擦れ違いこそ残酷でもある。ナツキの本心に気づかずとも関係性を保とうとし続けるというのが海岸での会話である。ナツキを登校させるためにカホリへの告白の失敗を話すのは本人にとって気乗りのしないことだが葛藤はごく短い。ここは二通りの解釈ができる。カホリへの思いは大したことがなかったか、それともナツキに登校してほしいからか。前者はナツキへの回答の後の様子からして否定できる。ここは後者の解釈を採用すべきだ。
キスシーンは劇中で3回あるが唇同士のキスはここだけだし時間も一番長い。言うまでもなくナツキとケンジの関係が変わる最重要な場面である。ナツキにとっては隠してきたことを相手に伝える自身のペルソナを脱ぐという意味を持つがケンジにとってはナツキに対しての認識がコペルニクス的転回を迎える場面であり大きなショックでゆさぶりをかけられる。ファーストキス(かどうかは分からないが近いものであることは確かだろう)の衝撃もあると見られるが人物観の急激な変更は戸惑わせるに十分だ。
ところが、翌日の放課後靴を隠され自転車の空気も抜け自らに飛び込んできたナツキへの対応は特に意識したものではないように映る。優しくするのは告白を意識してのことかこれまで通りの対応なのか判断が微妙なところだがナツキ(の胸)を意識するのは誰でもいいということではないらしい。
ゴミ箱をぶつけられた時を含めナツキの性を意識していないわけではないのだが、これが女子全般に及ぶのかどうかはよくわからない。綺麗どころに弱い面はあるが判断材料が少なすぎる。ただ、ずっと一緒にいたいと願う人間はこれまでも一緒にいたからという帰納的理由だったものがふとしたきっかけで別の理由になるというのは特段不思議な話ではない。だからナツキの問いに対して「おまえは誰でもいいのかよ?」と返したのだろう。誰でもよくない女の子がスリッパのままいるのは放っておけない。自分の靴を貸すのはごく自然なことだったと思う。
ナツキの認識が変わったのちでもカホリへの憧れの気持ちは変わらない。海辺での会話はそれを示している。しかし、この日以降カホリと直接的に会話をすることがないことに注目しておく必要がある。憧れは憧れのままだが手の届くかもしれない場所にいたものは象徴化アイドル化してしまい、彼から少し離れた。ケンジとやりとりを行うのはナツキとリョウイチに限られることとなる。
ナツキが新生徒会に拉致されそれを救出しに行ったこと。ナツキにとっては好きな人が自分を助けに来てくれたということで思いは一杯だろうが、ケンジにとっては当然すべきことである。翌日に海へ行った際ナツキはカホリの前で涙するが、ナツキもケンジの心情の変化を理解しきれているわけではないことが分かってくるのではないか。
生徒会からナツキを救出した後にリョウイチと対峙するが、ここで対決は避け海へ遊びに行くことを提案する。ケンジが他者の心の中を観ているかどうかはわからないのだが後の行動を見るとリョウイチが何をしようとしているかは知っているようなので彼の覚悟も知りえたと推測できるそのうえで海へと行こうと言ったのは、相手の動揺を誘おうとするような心理合戦を展開したかったのではなく、ごく単純に友達だと思っている相手と遊びたかったからではないか。少なくとも学校で起きることは自身のチカラが抑止力になるので気にする必要はない。ここでも注意しておきたいのは抑止力があるから緊張状態を解くために遊びに行こうと考えたのではなく、問題が片付いたのだから遊びに行こうという考えを抱いたということ。定期試験が終わったから皆ではしゃごう、というぐらいのレベルの発想だと思われる。
海の日、再びナツキの主観であるがケンジは超能力と共に過去を取り戻していることが分かる。超能力とはチカラそのものであり過去でもある。主要キャラクターの中で唯一過去について語ることのないケンジだったが、ここにおいて初めてその理由が分かるわけだ。幼いナツキに過去を説明するが彼女の主観では話はまるで分からない。ケンジの主観だけを追っていくとケンジでの部屋の会話から言っている意味は分かる。誰の視点で進んでいるのかということを明確にしない映画のため物語の認識をゲシュタルト崩壊させるセリフでもあるのだが、ケンジも真実しか述べていない。各キャラクターの主観では正しいのに全体を客観的に見ると齟齬が生じる。これもコミュニケーションの難しさを物語る構成だ。
糸の切れた糸電話、ケンジに掛けるナツキのセリフ、月の方へと歩くケンジ、彼の周囲を舞う羽根。儚さを象徴する小道具と今後の展開の暗示が見られる。過去も未来も永遠に同じ環境で続くわけではない。
倒れていた3人の目が覚めた後ケンジはリョウイチと戯れる。ケンジはリョウイチより格上の能力者なので心を読まれることは無い。ケンジもリョウイチの心を読めるからと言って何から何まで読むつもりはないのだろう。言葉、そして水の掛け合いという実にアナログな方法で触れ合うこととなる。ここでリョウイチは自身を月、ケンジを太陽ととらえるがタロットカードの大アルカナにおいて月は正位置だと将来の不安や欺瞞を意味する。逆位置にならない限りプラスの意味を持つことはできない。一方太陽のアルカナは約束された将来や成功を意味する。ケンジ立場を変えることは特になく安定していることから正位置のままと見ることができる。アルカナとしてより上位にある彼がリョウイチをどう導くかがここからの展開だろう。
ナツキ・カホリと合流した後はスイカ割りを失敗しナツキに叩かれ砂に埋められ竹刀で頭をたたかれる、と一瞬これまで日常に戻ったようなシーンになる。これらは写真撮影されているという演出がなされているが、刹那性と思い出の二つを意味するところだろう。
集合写真を撮ったのちはカホリ・リョウイチと別れナツキと会話をする。彼は『夏の夜の夢』の妖精パックについて語るが、これは勿論リョウイチの暗喩。学校に騒動を巻き起こしてはいたがリョウイチ自身は真剣で孤独であったことを説明することとなっている。
そしてリョウイチの分かれの時が迫っていることを知り見送りに行くことを決意。この時点では自身が未来へ行くことまで予期していたのではないと考えられるが「ナツキがいないと、俺をこの時代につなぎとめとくものが、なくなっちゃうみたい」と告げる。SFとしてはナツキがこの時代のビーコンのような役目であるとも取れるが、この映画はSFの要素は薄いので一緒にいてほしい、果ては好きだという告白にきわめて近い発言と取ったほうが良い。
高台公園でリョウイチにあったケンジは彼のバッグに入っている砂時計を超能力で取り出す。砂時計は学校にどのような効果をもたらしているか理解したため、リョウイチが未来へと帰った後壊すと発言した。リョウイチは立場上それを阻止しなければならないためすべてのチカラを使い時のはざまへとケンジを落とし込む。そのことに気づいたケンジは「戦いたくない」と発言する。チカラを取り戻してからケンジは事象を理解し言葉で説明されなくとも会話をすることができるようになっている。客観的には情報不足でケンジが何を言っているのかわかりづらい面がある。リョウイチがチカラを使い果たしたのちは彼を救出。その時発したセリフが「俺とおまえは確かに心がつながっていない……でも手をつなぐことはできる」である。リョウイチ含め能力を持つ者は皆超能力により自縛されていた。しかし、ケンジはそれを超え超能力はあくまで手段に過ぎないということを証明して見せている。こここそ彼が泰然自若していることの極致でで、能力に振り回されることなくありのままでいること、他者と触れ合うのは超能力でなくてもできることの実例を見せてくれる。
同時に能力の否定もしていない。リョウイチを未来に送り届けることの意志、「何万光年離れても友達」という発言は超能力の肯定から生まれる発言だ。自らのチカラに地震があるのでナツキに待っていてほしいと笑顔で告げケンジは未来へと旅立っていく。
そして帰還。またもズボンのチャックが開いているが今度は自分で閉めながら登場しており、抜けているところは改善されているということが分かるが制服はリョウイチに比べだらしない着こなしでありケンジの性格が変わっているのではないことが分かる。
劇中で否定されていた携帯電話と超能力の二つを使いナツキの記憶を呼び戻すのは映画を語る中で大事な演出。どんな道具も使い方次第であり、何より大切なのは人とつながっていたいという思いなのだ、ということを短時間で示すシーンなのだ。ナツキがケンジを思い出したことで彼の物語は終わる。
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ねらわれた学園考察その20

2013-01-06 04:55:00 | ねらわれた学園
涼浦ナツキの物語

ねらわれた学園の主役は間違いなく涼浦ナツキ・関ケンジ・春河カホリ・京極リョウイチの四人で間違いない。では主人公はと問うと関ケンジと答える人も多いことだろう。なるほど冒頭のモノローグはケンジなのでそう考えるのも然りだ。しかし私は涼浦ナツキこそこの物語の主人公だと主張したい。

ナツキの初登場シーンは自宅そばの橋から早朝ランニングを行うところ。その後ケンジに会いいきなり蹴飛ばす。ショートカットに華奢ながら健康的な体つき、そしてランニングウェア(ジャージ)と行動や外見から見てスポーティで活発なキャラクターだと取ることができる。その後のカホリとのやりとりや復帰したゆりこへの接し方も含めて考えると社交的な性格であることは間違いない。

映画の中ではメインとなるのがケンジとの関係、サブとなるのがカホリとの関係となる。リョウイチとは曽我はるかの儀式の際に会話するぐらいで希薄だ。むしろ山際ゆりことの関わりの方が彼よりもウェイトを大きくしている。

ケンジについては物語上の初対面の際に蹴り飛ばしたり、下らないことを言おうとした彼を台本で吹き飛ばしたり、靴を投げつけたり、不用心なセリフに対し平手で思い切り打ちつけたり、と序盤では暴力的行為が目立つのだが劇中彼にしか行わないことには留意しておきたい。これは彼への思いを隠すための反動となっており、“ぶっちゃけた”あとはそのような行動は激減しているし、前半で見せていたようなアクロバティックな動きもしなくなっている。

呼称についても同様で前半は「アンタ」。後に幼少期と同じ「ケンちゃん」に戻る。アンタは相手との心の距離感がある呼び方だろう。もちろん親しい仲でないとなかなか使えない呼び方であるが、この場合は“お隣さん”として親しいことを表しており自制などがなくても問題なかった幼少期とは違ってしまっていることを意味する。

ナツキのケンジへの思いは台本読みのころから示されているが、明示されるのは彼女の夢である。物語上でも鍵となる要素が多いシーンであるが、夢とその直後のモノローグ含めてわかるのはケンジへの恋心、幼いころと変わってしまっている距離感。今自分が置かれている人間関係でのもどかしさだろうか。

夢をみた日の翌朝ナツキは自転車に乗って登校する。徒歩の時と自転車の場合があるようだが劇中でナツキが自転車にきちんと乗っているのは実のところここだけ。自転車はケンジとのおとなりさんを諦め一人で東京の高校へ進学するという後の決意を暗示する道具だと考えられる。

ゆりこが登校してきた日の中庭でナツキはカホリに「好きな人がいるのなら登校するのでは」と言っている。このセリフは表向きとしてはカホリがナツキの恋心を推測するための材料という扱いがされているが、後述の内容にも効いてくる。映画の中では大事なセリフの中の一つだ。

カホリとの恋バナをするにあたりナツキはカホリがリョウイチへの思いを伝えなくても構わないと告げる場面に於いて暗に同意を示している。直後ケンジへの思いを言葉上では否定するも表情は隠しきれずカホリには伝わってしまっている。

言葉に出すことで自分自身に暗示をかけたためか、この時を境にナツキはケンジへの思いを諦め初めいつまでも一緒にいるという幼少期の願いを捨て東京の高校への進学を考え始める。

ナツキの転換期は確実にはるかの儀式に遭遇してしまったところからだろう。攻撃を受けた際ナツキは「助けてケンちゃん!」と叫ぶ。どんなに隠そうと余裕がない際、すなわち人の本性が露わになる場面ではケンジに助けを求めてしまう。しかしこれ以降彼女は学校を休むようになる。ここで前述の「好きな人がいるなら登校してしまう」というセリフが効いてくる。すでにケンジのことを諦め始めていたからこそ登校しなくても構わなかったのだ。助けを誰に求めていないことも同様だ。

暫く学校を欠席している中ケンジの部屋から枕を回収するところでケンジに招かれたカホリと遭遇し、自分の遭遇した事件について吐露する。どんな形にせよ悩みは人に聞いてもらえるだけで解決するようなところがあり、この時にはケンジに枕を投げつけ自室に戻る際は体操選手張りのアクロバティックな動きを見せていた。彼女が本来の姿に立ち戻ったことの証左だろう。

カホリを家まで送るときの衣装は七分丈のズボンにサスペンダーそして帽子とボーイッシュな衣装だが劇中において帽子を被っているのはこの時のナツキだけである。ケンジに自分の気持ちを「ぶっちゃけた」時に帽子が飛びそのまま放置されることから推測されるのは帽子が彼女のペルソナであり盾であったという隠喩。これ以降のナツキは素をさらけ出したことにより少女らしい格好をするし、弱みもあまり隠さないようになる。
キスのシーンはケンジにとってのターニングポイントともなる重要な場面。もう少し詳しく見ていくと、14歳のナツキはここで始めて涙を流す。ケンジを平手打ちしたときにも涙は見えているがその時は堪えていた。ペルソナがはがれていなかったためだ。今回すでに素の自分を出しているために涙をながしているのである。

翌日靴を隠されてしまった時にケンジの姿を見た途端泣き出し彼の胸へと飛び込むが、学校を休んでいた際の時と比べてみるとよい。視覚的に何に困っているのかは明瞭であるのだがそれをどうして欲しいかも直ぐに表現しているところが浮かび上がってくると思う。

この時に自分の自転車を捨てているが以降自転車に乗るときはケンジの後部に乗るのみであり再び一緒にいたいと思うようになったことを示していると考えられる。最初自転車は画面左から右に走る。これは上手から下手への動きであり強いものが弱くなることをも示す(すべてにおいてではない)。ショックを受けている状態なので精神的に参っている様子を示している。

しかし高台公園でケンジが自分の心配をしてくれたことや翌日も登校するという発言を聞いたことにより勇気づけられた。それゆえ、海へ向かうときには自転車は画面右から左へと走っていく。これは先ほどとは逆の動きであることからもわかるとおり、自身のあり方の回復を指す。

約1か月後プールの授業の際に新生徒会から目を付けられていたナツキは着替える余裕も与えられずに生徒会室へと拉致される。ここで山際ゆりこと対決することになる。ゆりこはナツキをポジとしたらネガにあたる人物。自分の気持ちが伝わらないことに絶望し自殺を演じて見せようとし、超能力を得ることで満たされていたと考えていた。だがナツキの指摘する通りゆりこは相手の考えを覗いたことで相手のことを理解していたつもりになっていただけであり、人との触れ合いからは逃げ続けていた。

コミュニケーションは時に痛みを伴う。痛みを覚えながらも前に進もうとしているナツキと表面上はコミュニケーションをしているように見えて実は足を踏み出せていないゆりこ。二人の対比構造こそが映画が表したかった主題の顕現だ。この対比こそナツキが本物語において主人公である所以であり、決して主題歌がナツキを描いていたりキャスト一覧で最初に出てきたりしているからだけではない。ケンジの助けが入ったが、ナツキの言葉はゆりこを打ち負かしていたと思う。

ゆりことのやり取りの直後ケンジの助けが入るがここでお姫様抱っこをされる。絶妙なタイミングでデウスエクスマキナが入り自分の好きな相手にお姫様抱っこをされる。女の子にとっては心躍らずになんとしようか。股間に入っていた携帯電話についてひと悶着するも確りと手を彼の首に回している(余談だがお姫様抱っこは抱える相手が首に腕を回さないと持ち上げている側は辛いという話もある)ことからも受け入れていることは明白。

翌日、海でリョウイチに対し恐怖も何も見せていないことから彼に対しては特に負の感情を抱いていないことがうかがわれるが、どちらかと言えば0に近いのではないか。ナツキはリョウイチに対し特に思うところはないと考えたほうがよさそうだ。

弁当を食べた後卒倒してしまい、ケンジの今後の運命を示唆するシーンに突入する。「ずっとおとなりなんでしょ」と発言しているあたりからを
見るに、もう完全にケンジと一緒に居続ける気持ちになっていることがうかがい知れる。

目を覚ました後は初めてカホリにケンジへの思いを語るが、「ズルいよ」と泣くだけでそれ以上カホリを責めることはしていない。カホリは何も悪くないしケンジがダメなわけでもないだろう。どうすることもできない想いの擦れ違いにナツキは泣いているのであって、カホリをズルいとい
うのはどうしようもない気持ちの持って行き先に過ぎないのではないか、と考えられる。

4人で海で遊んでいるときにはスイカ割りをしくじったケンジをひっぱたたき、砂に埋めて竹刀で叩くなど物語当初のような振る舞いをする。ひとしきり海で遊んだあとは私服に着替えるが、この時の格好はこれまでと違ってフェミニンな格好。自分の気持ちを隠さなくなったので衣装も命一杯女の子らしいものにしようとしていることが分かる。

リョウイチの今後の行動を悟ったケンジに「ナツキがいないと俺をこの時代につなぎ止めておくものがなくなっちゃうみたい」とほぼ告白に近い言葉をかけられるが、どうも伝わったわけではないらしい。一緒に高台公園へ向かいリョウイチを待つこととなる。

ケンジとリョウイチの決戦の後、リョウイチを未来へと送り届けるケンジとの別れの時となる。待っていてと告げられるが彼らが旅立った後ナツキはケンジのことを忘れてしまう。この場面でもナツキが主人公であることが分かる。もし、ケンジが主体だとしたらナツキの「ケンちゃんって誰だろう……」というセリフはおかしい。忘れてしまうのも発言するのも主体はナツキであり、直後のエンディングでも残された人々を描いている。ナツキが覚えていないが大事なものとして糸電話を持ち続けるというのは彼女主体だからこその行為なのだ。

エンディング後ケンジが現代へ帰還、携帯電話をキーとしてケンジのことを思い出す。彼女にとってはすべてが報われた瞬間であり嬉しさの涙「バカッ」という言葉でナツキの物語は終わる。
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ねらわれた学園のスタンプラリーに行ってきた

2013-01-03 23:32:36 | ねらわれた学園
表題通り、スタンプラリーを行っただけでいわゆる聖地巡礼はしていない。理由はごく単純で、スタンプラリーへ参加できる期限が迫っていたことからスタンプラリーをどうしても敢行せねばならないと思ったため、聖地巡礼は後回しにしたということ。そして午後の遅めの時間に向かったのでスタンプ台の設置時間(17:00)への猶予がなかったこと、三が日で江ノ電や寺社に人が多くゆっくりできないと感じたこと、寒空なので春~夏を扱った作品とは合わず今一つ昂揚しなかったこと、が上げられる。

兎も角、スタンプラリーは無事終了。アクセスの関係上江ノ島駅が最寄りだったので、江ノ島駅からスタート、長谷寺まで一気に向かい極楽寺、七里ヶ浜を経て江ノ島駅に戻った。単線かつ鈍行だが時間はさほどかからない。



スタンプ台の宿命としてあたり一面にスタンプが押される、というものがあるがケンジとリョウイチは顔に押されていたがナツキとカホリは無事だった。女の子は女の子というだけで得である。カホリはスタンプラリーに参加していない少女も別の紙にスタンプを押しているのを見かけた。

つい先日、極楽寺駅で土砂崩れがあったがその修復の跡が生々しく残っていた。映画だと花が咲いている崖側だが、もとからそのようなものはない。どうせなら花でも、と言いたいところだが崩れるようなところに花を植える余裕は無かろう。



途中小腹がすいたので、ケンジがリョウイチと一緒にハンバーガーを食したファーストキッチンで軽食を取った。七里ヶ浜駅からだと横断歩道を通りたくなるが、わたらずに左へ進み地下トンネルを経たほうが店に入りやすい。うっかりわたるとドライブスルー入口まで歩く必要があった。当初はチーズバーガーでも食べようかと思ったが、七里ヶ浜店限定のハワイアンダブルベーコンエッグバーガーがあったのでそれを注文。要するにダブルベーコンエッグバーガーにパイナップルを挟み込んだ代物なのだが、記念にはなる。ここに来たら頼んでみるのも一興。
(肝心の味だが、パイナップルは缶詰のため甘い。ケチャップとタルタルソースの酸味がないと甘いものが苦手な人には向かないかも。酢豚にパイナップルが入ることを許せない人にはなおさらである)




スタンプラリーは17時前に無事終了。


ねらわれた学園展をやっているえのでんはうすに向かう。江ノ島駅から江の島方面へまっすぐ歩いていけば右手に見える場所。入口には幟が立っていた。


しかし展と言っても内容はかなり簡素。ファンが行ってもそんなに楽しいものではないと思う。



原画は新宿ピカデリーで配られたものと同じ原本を使用しているとみられる

スタンプラリーと同様、ねらわれた学園展も1月6日までだが遠方の人がムリしてまでくる必要性はない。どうせ来るならば作品の季節に合わせて春~夏ぐらいが最適だと思う。私も春になったらもう一度訪れる予定。今度はロケ地なども巡りたい。
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ねらわれた学園考察その19

2012-12-13 21:59:37 | ねらわれた学園
自転車について

劇中、ナツキとケンジが二人乗りするなどして印象深い自転車。自転車の二人乗りは青春の記号としてありふれていて鉄板とさえ言えるものだが、ただそれだけの解釈で済ませてしまうのはもったいない。そこで、今回は自転車をクローズアップして見ていきたい。

劇中、自転車に乗るのはナツキとケンジに限られる。ケンジの自転車は純粋に移動手段としての道具として見て構わないが、ナツキの場合は彼女の状況を象徴する存在となっている。ナツキが自転車を扱うのは劇中で2回。“夢”を見た後に泣きながら学校へ行くシーン、そして学校に復帰した日の放課後のシーン。この二つである。

これは言葉遊びなのだが、自転車は「自ら回転する車」であり、発展して考えるとこれは「他者に頼ることなく走る車」である。ナツキの心情に当てはめると、ケンジの隣にいることを諦め一人で走っていくことを意味する、と取れる。事実ナツキは東京の高校へ進学することを考え始めていた。ケンジからの独立が1回目の自転車の意味である。

2回目に自転車を取り扱うときにナツキは自転車に乗っていない。靴を隠されてしまったし自転車の空気も抜けてしまっていた。空気の抜けた自転車は走ることができない。タイヤは空気が入り張っていなければならないのである。これをナツキの状態と照らし合わせると、気丈にふるまっていた(=タイヤに空気が張っていた)ナツキは弱さを見せ(=空気が抜けてしまう)、一人で走ることは出来なくなってしまった。だから彼女はこの場面で自転車を捨てる。前日にケンジが自分にずっとに一緒にいたいと言ってくれたのを彼女は受け入れた、ということだ。

ナツキの自転車はこれ以降一切登場しない。普通パンクしたぐらいで自転車は廃棄しないのだが、なぜここで自転車がいなくなってしまったのかというとナツキが一人で走ることをやめたからだろう。
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ねらわれた学園考察その18(『銀色飛行船』について)

2012-12-13 01:16:36 | ねらわれた学園
Aメロの部分がカントリーロードのサビ部分を髣髴させるメロディ。カントリーロードは青春物語の金字塔である『耳をすませば』のテーマソング。どちらも中学生の恋愛を取り扱っているので似てくるのは当然の摂理なのかもしれない。
そしてタイトルおよび歌詞にたびたび登場する銀色飛行船はやはり、砂時計の比喩なのだろうか。別に葉巻型のUFOでも形は似ているが、それだと情緒ではなくフォークロア方面に話が行ってしまうので、銀色飛行船という比喩は最も適当なのではないか。

ふと、そんなことを考えた。

YouTubeでも公式PVを観ることができるようになった。

supercell 『銀色飛行船』
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ねらわれた学園考察その17

2012-12-11 01:46:15 | ねらわれた学園
伏線や隠喩のまとめ その2
※数が多すぎるため全部の把握はできていない。
※あくまで伏線と隠喩メインなのでラスト付近の項目は減っている。
羅列するのは野暮天極まりないが、こういったことに気を付けると面白いよということで。

●シロの年齢
犬で10歳以上、シロのような中型犬だと10歳だと65歳前後(計算の仕方に依存するが少なくとも壮年以上であることは確実)となる。カホリの指摘する通りおじいちゃん犬になるのだが、シロは若々しい。年齢の指摘や、日本犬に注連縄の首輪がつくことなどから狛犬やそれに準ずる精霊のような存在であることを示す伏線。

●ナツキの欠席日数
二人の会話に具体的な数値が出ていないので、数週間以上休んではいないだろうと推測される。

●校則の改定
変則的な手段とはいえ、5人しかいない生徒会での多数決もあったものではない。

●藤棚でのカホリとゆうの会話
藤がまだ散っていないことから、ナツキが欠席してから日数はあまり経過していないことがここからもわかる。

●二人の会話をガラス越しに見るゆりこ
カホリとゆうは超能力の素質がないので心が読めないということ、そしてテレパシーという力を持ってもゆりこが自身の問題を解決できていないことの暗示。

●シャボン玉その1
普通のシャボン玉はここまで長持ちはしない。中性洗剤やガムシロップなどを適切な配分で混合することにより強力な膜を作ることができる。勿論、ゆりこがシャボン玉にチカラを込めたことによりその形状を保っている。ゆりこはシャボン玉を各個人の世界に例え、その膜を壊さない限り人は孤独だと説く。カホリの指摘する通り囲いがない世界は消えてしまう。この場面の重要なポイントは、シャボン玉が心の壁の比喩なのかそれとも伝達手段の限界の比喩なのか暈してあるということ。ゆりこは前者の例えのつもりだろうが、果たしてテレパシーは解決手段になっているかどうかは生徒会での対決までその回答を預けることになる。

●シャボン玉その2
寝ているケンジのもとに御霊神社の様子が映ったシャボン玉が飛んでいく。ケンジはこれに気づきカホリのもとへ走る。

●シャボン玉その3
今回の攻撃はゆりこが行っている。それにしても砂時計を(監視役の使い魔がいるとはいえ)ゆりこに預けてもよかったのだろうか。

●降りた遮断機
ゆりこはやはり人と真に分かり合うに至っていないということを示唆する描写。

●使い魔「誰が何の目的でかは」
無論耕児がケンジのチカラを封じている。使い魔(京極博士)はかつて耕児と対決した関係。超能力ではない泥臭い手法で邪魔をされたために、耕児は超能力否定派だと考えている。ケンジが自分たちの陣営につくかどうか未知数ではあるが、それ以前に超能力が封じられているために最終判断が下せないままとなっている。

●過去に落ちたのはケンジかナツキか
二人の記憶が食い違う。ケンジがとぼけた性格なので流しがちな会話だが、2階から落ちたことの記憶が間違っているということはありうるだろうか、といった疑問を持つことからこの映画の謎を解いていける。この世界ではケンジの言っていることの方が正しい。
どちらが落ちたのかを大人に聞いていないというのが味噌。

●ケンジのベッドの枕元にある糸電話
単なる幼馴染だとしか思っていないかもしれないが、ケンジはナツキとの思い出を大事にしていることがわかる。

●墓参り
リョウイチと耕児が参拝している相手はともに高見沢みちる。原作小説にて耕児の敵方にあたるヒロインであり、リョウイチの母である。後にリョウイチの口から語られるように彼女は未来でなくなっている。それゆえこの墓に彼女の骨は当然ない。一応、行方不明者は一定年数経過すると死亡扱いすることができるが、未来へ去ってしまった人間のことを人は忘れてしまう可能性があることから、墓碑銘にみちるの名前はないのかもしれない。だが、そのことを二人は従前承知である。墓はこれを通じて各自の心の中の高見沢満と会話するための手段なのである。

●ナツキの帽子
劇中で帽子をかぶる人物はこの場面でのナツキのみ。この帽子は彼女のペルソナを示す。“ぶっちゃけた”後はペルソナがはがれ、ペルソナを置き去りにし、ケンジはそれを見つめて戸惑うのである。

●ナツキ『なんて振られたのかな?』
実は「どこでケンジは振られたことをナツキに言ったのか」という疑問が残るのだが、道すがら話したのかもしれないし彼の様子を見て察したのかもしれない。

●ナツキの復帰した朝
衣替えを行っていることから他の情報と併せて6月初めの日であることが推測される。このときカホリに抱きついたナツキの足元が映し出されることに着目すると、このあとの靴隠しを示唆していることが分かる。

●靴を隠されたナツキ
超能力を得た割にやっていることが随分と古臭いイジメ。結局テレパシーという手段は携帯電話の代替手段でしかない。自分たちをを拒むもの、自分たちの集団と異質なものは排除するというムラ根性のようなものは残存している。

●画面左から右へ走っていく自転車
ナツキが精神的に参っているのを示すシーンである。ちなみにこの時3回目のパンチラ。ナツキとケンジは下着を披露する機会が多い二人である。なんだかんだで似通っているのだろうか。

●画面右から左へ歩いていくカホリ
リョウイチに真意を問いただそうとする強い意志が受け取れる。

●リョウイチの説明のシーンでの使い魔とシロ
二頭とも超能力者のチカラを象徴する生き物であり、その対比を意味する

●口へのキスをやめ、額にキスをするリョウイチ
母のこともあるので一歩引いた態度をとってしまう彼の哀愁が伝わるシーン。

●埠頭で寝そべるケンジとナツキ
靴下も脱いでいるが、靴との位置関係がおかしいかもしれない。ケンジの靴下は黒でナツキの靴下は白。高台公園で履物を入れ替えているので、スニーカーの傍には白い靴下、スリッパの傍には黒い靴下があるべきなのだが、ここでは元の組み合わせに戻っている。

●リョウイチのモノローグ
ナツキとカホリに比べればイメージシーンが現実的な描写になっている。過去への思いを抱こうにも抱けなかった彼の立場を示唆しているのかもしれない。

●右から左へと歩くカホリ
やはり強い意志を感じることができる演出。

●シロを散歩させる耕児
何気ないシーンだが、耕児は夕方の散歩の担当である。この時点で異例の散歩であることがわかる。

●生徒会メンバー
冷静に考えるとこの子たちは授業中に何をしているのだろうか。

●生徒会を見て逃げる遠藤さおり
彼女も携帯電話を持ち込んでいるようだが、無視されたようである。ナツキが執拗なターゲットになっていることが分かる。

●異様な生徒会室
大きな窓があるのにカーテンで閉め切っているし、なぜかプールの監視台のような尋問席がある。映画全体で共通する虹色の光はここでもみられるが、怪しげな色を発している。
ナツキの後ろ側から生徒会室の座席を映すシーンは完全に演劇の舞台照明そのものであり、ナツキが生徒会という舞台においてこの作品にかかわる重要なテーマを聴衆に語りかけていることが分かるシーン。

●視線を寄せるだけで何も話さない曽我はるか
生徒会長であるはずなのに尋問を行っていない。一連の騒動の中心は彼女でないことがここでも分かる。

●ナツキの言葉の返答に詰まるゆりこ
痛いところを点かれたため返答することができなかった

●ゴーグルをかけるケンジ
ウルトラアイのオマージュ?

●ケンジのチカラそのものとなったシロがケンジの元へ駆ける描写とそれを追いかける幼いナツキ
ケンジのチカラが元に戻るということはケンジが元のチカラと記憶を取り戻し、ナツキと別れるということ。それを示唆するシーン。

●お姫様抱っこ
女の子の憧れ。好きな相手にして貰えたので表情も幸せそうである

●ケンジが入院しているイメージシーン
本作最大の疑問となる告白。ナツキのイメージシーンに登場する糸電話、ナツキとケンジの記憶の不一致などの伏線がここに集合する。
そして記憶もチカラも取り戻したケンジは月の方向へと去っていく。ナツキとの別れを予告するシーン。

●記念写真
この写真には4人が写っているが、エンディングでナツキのベッドわきに置いてある写真を見ると……。

●カホリの手にキスをするリョウイチ
結局唇にキスをすることなく彼は未来へと去っていくことになる。ナツキとケンジの二人と対照的である。

●リョウイチを見送りに来たケンジ
チカラを得たケンジはリョウイチのチカラの元、生徒会メンバーのチカラの元がなんなのか理解している。リョウイチが未来へ去った後砂時計を破壊してしまえば、学校の事件は解決する。

●突然飛び出す砂時計
ケンジが超能力で砂時計を取り出した。勝手に砂時計が飛び出したのではない。

●エンディングのナツキのベッド脇
歴史が改変され、ケンジとリョウイチがいないことになっているので、海での写真もナツキとカホリしか映っていない。
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ねらわれた学園考察その16

2012-12-10 00:56:31 | ねらわれた学園
伏線や隠喩のまとめ その1
※数が多すぎるため全部の把握はできていない。
羅列するのは野暮天極まりないが、こういったことに気を付けると面白いよということで。

●散る桜
青春の一過性と季節は巡ることの暗示。桜は散ってしまう儚さがあるが同時に散るぞ美しき、という日本人の美意識がある。桜が散る描写は中村監督作品に多く登場するもので特徴と言ってもよい。桜は散ってしまうが、季節が廻ればまた咲く。これはエンディング後の展開を暗示してもいる。

●ケンジのヘッドフォン
後にリョウイチが指摘するが、音声言語をシャットダウンしていても伝わるものがある。

●リョウイチの立ち位置
リョウイチは高確率で左側(アニメでいう上手)に立つ。

●タイトルロゴ
タイトルロゴは光の記号が含まれている。全体を通して過剰ともいえるレンズフレアの使用があるが、それと同じく青春の煌びやかさを示している。

●職員室の様子
大人が登場するほぼ唯一の場面と言ってよい。この作品に大人は耕児と斉藤先生ぐらいしか役目は負わされていない。一応ナツキの家族なども登場するが徹底的と言っていいほど排除されている。これは超能力の導き手として耕児、旧来のコミュニケーションの導き手として斉藤先生が置くための意図ととれる。

●リョウイチの出身地と格好
花巻市は宮沢賢治ゆかりの地であり、宮沢賢治の代表作の一つに風の又三郎がある。リョウイチの存在は風の又三郎とも取れる。またケンジたちの学校の男子生徒の制服はブレザー。転校生というマレビトの存在を示すためにリョウイチは詰襟となっているが、詰襟の超能力者と言えばバビル2世だろう。

●曽我はるかと神野ゆうの会話
原作を知っている人にはわかりやすい会話かもしれないが、これからの学校で起こる事件の暗示となる内容。しかし、主役4人の恋の示唆でもある。自分の気持ちというものは自分の中にあるものだが、他人とのふれあいでも生まれる。これは人が流されやすいということとも取れるし、人と人が触れ合うことにより生まれる感情も確かにあるということを示す。

●リョウイチ「好きなんだ、月が」
リョウイチが月出身だからと流しやすい告白ではあるが、彼の身の上や彼は初めて地球にやってきたことを考えると途端に意味深な言葉になる。はたして故郷だから好きだと言ったのか。

●人のいない江ノ電
こんな状況は現実にはまずない(桜やきれいすぎる星空も同様だが)ので、ここはカホリの心情を表していると考えるといいかもしれない。

●満月と桜
満月がまるで舞台のスポットライトのように描写される。これも監督の前作と似ている使用法。『魍魎の匣』では二人の少女が舞うときには月が巨大化すらした(そのあと現実的な大きさに戻る)。

●ライサンダーのセリフ
リョウイチとカホリ、ナツキとケンジの未来を暗示しているような内容。『夏の世の夢』でも四角関係が描かれている。

●斉藤先生の話
この時点ではリョウイチはテレパシーがあるのだから口頭での会話に意味があるのか疑問を抱いている。これがのちのDパートでのセリフに生きる。また、演劇とは演ずることで自分自身を見つめなおすことである。相手に思うことを簡単に伝えられるからと言っても、自分自身を見つめない限り本当に伝えたいことは伝わらない。『ねらわれた学園』という作品を鑑賞するうえで重要なテーマの一つである。

●ナツキのケンジの呼び方
2人称としてはしばらく「アンタ」が多い。3人称だと「ケンジ」が多い。後に「ケンちゃん」に戻る。

●トンビ
ナツキが先に好きだった相手はカホリに、ケンジが好きだった相手はリョウイチに恋をした。まるでトンビのようである。

●テレビの超能力者
3回にわたりリョウイチの状況を示唆する謎の番組

●ケンジの妹
良く見ていると箸をまだうまく使えないようで交差箸になっている。しまいにはご飯をうまく口に運べず肩を落とす。余裕があったら見てみよう。ちなみに次の夕食ではスプーンを使うようになる。

●耕児
原作の主人公なので超能力に関してもよく知っている。

●ケンジとナツキの家の配置
最初は左がケンジの家、右がナツキの家。次に左がナツキの家、右がケンジの家。最後に左がケンジの家、右がナツキの家。二人のコミュニケーション(ドングリや枕含)の方向性を考えると上手下手の関係がつかみやすいだろう。

●落ちるゆりこ
1回目のパンチラ。ナツキに比べると大人っぽいデザインのようだ。

●リョウイチとゆりこの位置関係
やはりリョウイチは左側にいる。加えて満月がスポットライトの役目を果たし後光となる。ゆりこにとってリョウイチが神秘的に映る描写。

●ナツキの夢
浴衣に花火なのでこちらがメインと思われがちだが、実は糸電話の方が重要。この糸電話の会話後ケンジが落下する。そのごナツキが過去を改変し今に至る。

●ゆりこが登校した朝
外で見ているのは勝木、平田、(おそらく)根津の三人。ゆりこはナツキにあいさつするがリョウイチにはあいさつをしない。それをナツキはいぶかしがる。

●ナツキ「すぐ卒業ってことになっちゃうよ?」カホリ「いいの。私は」
このときナツキは思いを伝えられないカホリを見て自分自身を重ね合わせている。

●カホリ「こんなにきれいだったっけ」
恋をすると世界はきらめいて見える。

●ナツキの横顔を見るカホリ
思っていることと表現していることの違い。演劇につながる一描写。むろん、この時カホリはナツキの思いを察していると思われる。

●飛び跳ねるナツキ
2回目のパンチラ。ナツキはシンプルな下着のようだ。

●東京の高校へ
夢の内容とは違う。ナツキがケンジを諦めようとしている一端が見える。

●第80回演劇祭のポスター
ずいぶんと歴史のある学校のようだ。

●ナツキの鼻歌
後のカホリに比べるとあまり上手くはない……。

●使い魔の攻撃を受けるナツキ
ここで非能力者を攻撃しているのは使い魔の方である。ゆりこは悦に入っているだけ。また、このときナツキは「助けてケンちゃん!」と叫ぶ。どんなに隠そうともとっさの場合はケンジに助けを求めてしまうのが彼女の乙女なところである。

●舌を出すカホリ
リョウイチがいなくてちょっと残念だったようだ。

●カホリがサーフィンをする理由
父はいなくても、会話ができなくてもサーフィンを通じて心を通わせることができる。ナツキの糸電話や、リョウイチが参拝した母の家の墓などと同じ要素。テレパシーに比べ旧来のものだが、物を通じてでも人は心をつなげることができる。
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『ねらわれた学園』を観る上での『青い文学シリーズ 走れメロス』の視聴のすすめ

2012-12-09 21:19:49 | ねらわれた学園
青い文学シリーズは2009年の秋アニメ。くわしい説明はWikipediaに譲るとして、このシリーズは各作品ごとに監督や脚本、キャラクターデザイン、音楽が異なっているオムニバスなのだが、その中の『走れメロス』は中村監督が担当している。日本テレビ側から監督の前作『魍魎の匣』風にと注文があったため、『魍魎の匣』を見たことのあるものならば容易に類似性を感じることができる作りとなっている。

下敷きとした題材は太宰治の走れメロスであるのだが、このアニメでは走れメロスを劇中劇に据えメインは走れメロスという劇を執筆する一人の劇作家の話になっており、彼の過去と現在が走れメロスのテーマと交差し、『青い文学シリーズ 走れメロス』という作品を形作っている。2話完結の短い作品だが、原作の走れメロスのアレンジの仕方やビジュアル、音楽、そしてメロスを元にした劇作家の物語との融合性の完成度が高く、『青い文学シリーズ』の中でも屈指の人気を誇る作品となっている。

この『走れメロス』は『ねらわれた学園』へつながる要素が多く、作品の構成の仕方や演出を含めてメロスを視聴することで『ねらわれた学園』をより楽しむことができるだろう。スタッフがほぼ同じであることは勿論、舞台もケンジやナツキの家の傍である江ノ島電鉄極楽寺駅周辺だし、桜が散ることに始まり桜が散ることに終わる展開、冒頭と終幕がつながっているという構成、幻想と現実の協会が曖昧であること、作品内で語られる作品が現実の隠喩となり、現実が作品内作品を示しているという相互性、演劇を意識したキャラクターの演技、月の使い方、光の使い方、など。監督が同じだから似ていると言ってしまえばそれまでだが、それ以上に作風が似ていることが感じ取れる。

43分という短い作品なので13話構成で難しい用語も多い『魍魎の匣』に比べハードルの低い作品であること、作品の完成度そのものが高いことなどから『ねらわれた学園』を気に入り、まだ『走れメロス』を見たことのない方にはぜひお勧めしたい作品である。現在BDは発売元にも在庫がないようでDVDでしか手に入らないが、DVDでもそのクオリティは体感できるのでぜひレンタルしたり購入したりして見ることをお勧めする。
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「ねらわれた学園」プレミアムショップのすすめ

2012-12-09 00:34:32 | ねらわれた学園
公式ページでもすでに告知されているが、新宿ピカデリー直近にある紀伊國屋書店新宿本店にてねらわれた学園のプレミアムショップが開催されている。
こじんまりとしたスペースだが、ここでしか買えないグッズもあるのでファンの方は足を運んでみてはいかがだろうか。
開催は12月23日までだそうである。

私はブックカバー2種を購入した。他にもここ限定のTシャツ、トートバッグ、ランチバッグなどがある。通常のグッズも置いてあるので映画館の物販よりも良い穴場的場所だ。
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ねらわれた学園考察その15

2012-12-08 23:49:30 | ねらわれた学園
テレパシーはクオリアの壁を突破できるか?

この作品においてテレパシーを使っている描写は一切ない。観る者は彼らがテレパシーを使って意思疎通を図っているという情報しか提示されないし、それが真実かどうかも分からない。ただ、能力者たちの意思疎通ができていないという話は上がっていないし学校という限られた社会の中でも一致団結するだけの結果は見せているのでテレパシーそのものの存在は疑う必要はないだろう。

このテレパシーだが、実際にはどういったものなのかは謎に包まれている。わかっていることを挙げてみると、能力者同士にのみ可能な情報伝達手段であり覚醒前でも能力者には心の声が聞こえるものである、といったところか。今回着目するのは相手の考えていることがわかるというのはどういったことか、ということである。

われわれは日常で言語を使って会話を行うし、言語をもとに思考する。それが自然言語であれ人工言語であれ言語なしに思考することは甚だ困難であると言ってよい。もちろん私たちは言語なしにイメージすることはできる。特に芸術家たちは言語なしに思考することに長けているかもしれない。だが人は言葉なしに物事を抽象化し論理立てて考えることはできないというのは確かだろう。

言語において表記が先か能記が先か、といった話はあるが多くの基本単語では能記が先だと考えることができる。人は言葉を使って概念を抽象化してきたが、一定のイメージに対して確定した表現方法があるとは限らない。もしそうならば世界の言語は同じになっているだろう。バベルの塔の崩壊はなかったことになる。現実には、多言語間で完全に共通した表記は存在しない(近代になって共通語として定められた言葉などもあるがそれは自然発生的ではない)。

では翻訳可能性を盾に能記が同じ別表記間の逐語訳は可能かと言えば、そうではないはずである。たとえば「海」(表記)と「Sea」(表記)は別の能記かもしれない。日本人の見る“海”(能記)とイギリス人のみる“海”(能記)は別の“海”(能記)であることが予想される。この2つの国が面する海洋はまるで違うからだ。ならばそれぞれの国の見る「海」と「Sea」は近い能記であっても完全に等しい能記であるとは限らないのではないか。文化的な地理的な膨大な間テクスト性を無視して似た言葉だからと言って簡単に置き換えることができるか?できないというのは、英会話を学ぶ上で通らねばならぬ道ではなかろうか。別に英語に限らずあらゆる言語間での完全な互換はあり得ない。

そして同じ言語、例えば日本語でも同じ現象が起きるのは自ずと導かれる結論である。「海」でも日本海と太平洋では全く別の性質を持っている。日本海側に育った人間と太平洋側に育った人間では同じ海という単語でも別のイメージを抱くはずである。

それならば、全く同じ環境に育った人間はどうなのか。これですらも人間は同じ“言葉”を使っているとは言い難い。クオリアの問題が発生する。クオリアというのは脳科学において色だとか匂いだとかといった感覚的なもののイメージである。たとえばこの文字の色は赤だが、私が見ている赤とこの文章を読んでいる方の赤は同じ赤なのか?と言った問題を提起できる。極論を言ってしまえば、「私が赤だと認識するクオリア」は「あなたが緑と認識するクオリア」なのかもしれない。もっと大きな話になると『火の鳥・復活編』のような事態もありうるかもしれない。だが、クオリアが異なっていても言葉上では意思疎通はできるのである。

われわれが痛いと感じるクオリアを全く感じることのできない人間がいるとする。しかし彼は他の人が痛みを覚える刺激を感じ取ることはできる。その彼がそういった刺激に対し痛みを感じていると話したとしたら、われわれ他の人は感知することはできない。だが意思疎通は出来てしまう。クオリアの問題は実に相対主義的な問題で、他人の表情や言葉をもとに他人を自分の中でエミュレートはできるもののどうやっても他人の感覚を自分のものにすることはできないのだ。

では、この話をねらわれた学園のテレパシーに適用するとどうなるか。もしテレパシーがクオリアをも共有するとなると大変なことになる。個という概念は取り払われ一つの大きな個となってしまう。それはエヴァンゲリオンの人類補完計画にかなり肉薄する内容だが、ねらわれた学園では生徒会の面々は各個人の自我が存在していた。よって彼らはクオリアを共有しえていない。伝達手段が変わっただけで言葉という存在から逃れられていない。

山際ゆりこはシャボン玉を意思疎通に例えたのだが、実はテレパシーは心の壁を突破するほどの代物ではないと言えないだろうか。確かにテレパシーはディスコミュニケーションを取り払う助けになるかもしれない。だが、テレパシーが言語の呪縛から逃れられない以上、言葉の奥に潜む能記やイメージ、クオリアと言った内容そのものを知りたいと願わない限りは未来が変わることは無いのかもしれない。
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