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人は憂いと混迷に汚された「これ」(=非アートマン)の森を越えて、自己のアートマンに到達する。

2007年06月11日 | 名言[東洋思想]
●シャンカラ
『ウパデーシャ・サーハスリー』

p24
……
人は憂いと混迷に汚された「これ」(=非アートマン)の森を越えて、自己のアートマンに到達する。

p30
この一切万物は、美しい装飾品のように、無明のために〔アートマンに〕付託された限定である。それゆえにアートマンが知られたときには、一切万物は非存在となるであろう。

p31
賢者は、「私」と考えられているもののなかの「これ」の部分を、アートマンではないと理解して、捨てるべきである。「私はブラフマンである」(『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』1/4/10)という〔天啓聖句のなかの「私」は〕前述の事情からすれば、捨てずに残された部分である。

統覚機能にのぼった一切のものは、〔認識の起きる〕すべての場合に、つねに私によってみられる。それゆえに、私は最高のブラフマンである。私は全知者であり、一切に偏在している。

p32
太陽光線に照らされると、赤色などの形相が宝石のなかに輝き出るように、私が存在すると、一切万物は〔統覚機能のなかに〕みえるようになる。それゆえに太陽光線によって、〔赤色などの形相が宝石のなかに輝き出る〕ように、私によって〔一切万物がみえるようになる〕。

p33
私(=アートマン)自身純粋精神を本性としている、おー意(=統覚機能)よ。〔私と〕味などとの結合は、お前の混迷に由来するものである。それゆえに、お前の努力によるいかなる結果も、私には属さない。私は一切の特殊性をもたないから。

幻影からなる活動を捨て、非存在を求める努力を止めて、つねに安らぎに到れ。私はつねに最高ブラフマンであり、解脱したもののように、不生にして唯一者であり、二元を欠いているから。

p40
全く不二にして無垢な知識があるとき、偉大な精神の持ち主は、憂いも混迷ももたない。憂いも混迷ももたないときには、行為することも、生まれることもない。これがヴェーダ聖典に精通している者の確信である。

p41
生類が監視者(=ブラフマン)であることは、それだけで確定したことであって、監視者と異なる〔かに見える〕のは無明に由来するのである。それゆえにその〔監視者との〕別異性は、「君は有である」という〔言葉〕によって除去される。

p42
目覚めるまでは、夢は真実であるように、アートマンの知識が〔得られる〕までは、身体とアートマンとの〔同一性〕は〔真実であり〕、直接知覚などが知識根拠であることや覚醒状態も〔真実で〕ある。

虚空のように、一切生類のなかに住しつつも、私は〔一切〕生類の諸欠点から自由である。私は目撃者であり、観察者であり、属性なく、清浄なブラフマンである。それゆえに私は絶対者である。

p45
それゆえに、無知を原因とする行為から不死となる望みはない。解脱の原因は知識であるから、解脱は知識以外のなにものにも依存しない。

p46
人は、光に照らされている身体を、誤って発光体である、と見なすように、見者(=アートマン)であるかのように現れている心(=統覚機能)を、「私である」、「見者である」と考える。

身体をアートマンと同一視するものは苦しむ。身体を持たないもの(=アートマン)は、熟睡状態にあるときと同じく、〔覚醒状態において〕本来苦しむことはない。見(=アートマン)から苦を取り除くために、〔聖典……などは〕、「君はそれである」といっているのである。

p49
アートマンは行為の主体である、という観念は、身体はアートマンである、という観念に基づいているから、誤りである。「私は何もしない」という観念は真実であり、正しい知識根拠に由来している。

p50
虚空が一切のものの中にあるように、私は、実に、その虚空の中にすら存在している。私は不変であり、不動であり、清浄である。不老であり、解脱しており、つねに不二である。

p51
目がないから、私は見ない。同様に、耳のない私が、どのように聞くことがあろうか。言語器官をもたないから、私は語らない。意(思考器官)をもたないから、どうして思考することがあろうか。

虚空のように〔一切に〕偏在する私には、飢えも渇きもなく、憂いも迷妄もなく、老衰も死もない。身体をもたないから。

p55
一切生類の中で、私とは別の、いかなる認識主体も存在しない。(私は)業の監督者であり、目撃者であり、観察者であり、恒常であり、属性をもたず、不二である。

p56
別異と不異、一と多、認識対象と認識主体、行動と行動主体、という〔区別は〕誤って想定されたものであって、どうして唯一な私にありえようか。

捨てるべきものも、取るべきものも、私にはない。なぜなら、私は不変であり、つねに解脱しており、清浄であり、つねに悟っており、属性なく、不二であるから。

このように、精神を集中して、一切万有をアートマンとして知るべきである。私が、各自の身体の中にあると知れば、人は解脱し、不動の聖仙となるであろう。

▼第十四章 夢と記憶

p57
夢のなかで乞食(こつじき)に歩いているのが見られた身体は、かれ自身ではないように、かれ(=アートマン)は覚醒状態において見られる身体とはまさしく別のものである。〔かれは客体であるその身体を〕見る主体であるから。