森の空想ブログ

高千穂神楽最古級の仮面「尾迫の荒神」とは/高千穂:岩戸五ケ村神楽にて④[2016:宮崎神楽紀行<15>]

「岩戸五ケ村神楽には高千穂最古級の神楽面が出ますよ」という一級の情報を得た。仮面研究者としてそれをまだ見ていないのは「手落ち」ではないか、というのだったが、一般には、この情報は出ていない。どのような仮面なのかもわからない。私にとって12月の第一土曜とは、悩ましい週である。この夜は宮崎県内各地で夜神楽が開催されており、中でもこの週には、椎葉・嶽之枝尾神楽、米良・狭上神楽、木城・比木神楽、霧島・狭野神楽などの魅力的な神楽が集中しており、私の身体は一つしかないから、どこを訪ねるか、毎年、選択に迷うこととなる。それで、岩戸五ケ村神楽が先送りされていた、という事情がある。と、他者にも自分にも弁明をしながら見たこの仮面は、まさしく高千穂神楽の最古級の仮面であり、高千穂神楽の成り立ちや起源にまで思いをめぐらすことのできる一級の資料であった。以下はその記録と私なりの考証。



「尾迫(おさこ)の荒神」という。神楽序盤の「杉登(すぎのぼり)」で降臨し、最終盤の「舞開(まいひらき)」で「日・月」の鏡を採り物に舞い、一夜の神楽を舞い収める。この様式は、高千穂全域の神楽に共通する。秋元神楽では「秋元太子大明神」、二上神楽では「二上様」、他の地区では「荒神様」等々の地区の氏神・鎮守神が最初に降臨し、最後に舞い収めるという型を持っているのである。
「尾迫の荒神様」は気難しい神様である、と地元の人は言う。機嫌が悪いと、神楽の場においでにならないこともあるという。荒ぶる神「荒神」の性格がすでにここに示されている。尾迫の荒神様は、岩戸五ケ村地区の地主神であろう。



「尾迫の荒神」は、豪快な作風の鬼神面である。この面(仮面のことを「おもてさま」と高千穂地方では尊称する)を伝える家の当主が捧持して祭壇に飾り、出番のたびに、箱から取り出してほしゃどん(奉仕者=祝子)が顔につける。この様式は、高千穂神社に伝わる十社大明神の神面と同様である。高千穂の鎮守神である十社大明神(ミケイリノミコトを表す)の面は、高千穂神社の宮司が捧持して、当日の神楽宿へと降り、「荒神」の演目などに出る。十社大明神の神面の製作年代は、鎌倉時代あるいは平安期にまで遡るのではないかと推測されているが、記銘・墨書等の記録がないので確定していない。
「尾迫の荒神」は、現在までの調査では室町時代頃の作とされているようだが、これも記銘・墨書などがないから断定できない。
私の目視(つまり〝感〟である)による判定では、もう少し時代は古いように思える。金色の目、大きくてぐいと下に曲がった鼻、皺の多い造形、「獣耳」と呼ばれる耳の造形などは各地の「追儺面」に共通する様式である。追儺とは古代中国に起源を持つ「鬼追い」の儀礼であり、日本へは仏教とともに渡来し、平安期に大流行した。その後各地に普及し、現代の「節分」に至るまで定着している。追儺面もこの頃に多く製作され、全国に分布する。
「舞楽面」との共通項も見落としてはならない。舞楽面とは宮中で舞われた舞楽に使用された仮面である。各地に共通項を持つ面が分布している。「室町期」には「能面」が様式化される時期であるから、追儺系や舞楽系の仮面はすでに製作される例は少なくなっていたという調査報告がある。
これらの情報を総合して、私はこの「尾迫の荒神」を南北朝・鎌倉期(あるいは平安朝)頃の製作によるものではないか、と推測したのである。
それで、神楽が終わった後、この神面を拝見しながら、
「国東半島の「修正鬼会」の面に類似のものがあったように思う」
という主旨のことを呟いたら、面を伝える家の当主の佐藤氏は、
「そういえば、このおもてさまの兄弟面が豊後の国東半島方面の神社に伝わっているという言い伝えがあります」
という。これで、情報が一つ繋がってきた。国東半島の「修正鬼会」には、平安時代の「鬼会面」が多数伝わっている。神楽の女面の源流と思われる「鈴鬼面(平安時代の墨書あり)」もある。佐藤家は地区の「歳(とし)神社」の神職だったが、古い時代に転出し、この神面だけがこの地に伝えられたのであるという。
ちなみに、この神面は、箱に入れられたまま、佐藤氏が捧持して神楽宿へと降るのだが、その一年に一度だけしか使われない面箱の、指の当たる部分だけが、穴が開くほどに磨り減っている。ここにも使われ続けた膨大な年月が示されている。仮面研究においては、古い時代には記銘・墨書の習慣がなかったものだということを念頭に置いておかねばならない。「書かれた資料」にだけ判定の基準を設定していると、大切なことを見落とすことにもなりかねない。



「尾迫の荒神」は、朱漆の下地に黒漆が塗られ、それが年月とともに上塗りが磨り減り、下塗りが少しずつ上辺に滲み出て、微妙な風合いを描き出す「根来塗り」の特徴も見られる。鎌倉期に紀州・根来寺で隆盛した根来塗りは、当時各地に販路を持っていたが、鉄砲鍛冶・忍者集団としてもその名を知られた「根来衆」が、根来寺とともに信長・秀吉によって壊滅させられた後、職人が各地に散り、その技法を伝えた。九州には薩摩半島を経由して米良の山中にその痕跡が残る。
高千穂地方は、南北朝期には米良の山中に落ち延びた南朝の残党との交流も認められることから、この神面のルーツを知るもう一つの手がかりとして把握しておいてよい。同様の様式の仮面は米良山中に「宿神=星宿神」として伝わっている。いずれも鎌倉・南北朝期にその起源を求められる。神面の収められた面箱を捧持し、あるいは背負って、神楽宿へと「お降り」になる様式は米良にも高千穂にも共通する。

高千穂には、先住神「鬼八(きはち)」の霊を鎮める「猪掛け祭り」が伝わっており、古式の「笹振り神楽」が奉納されるが、この最古の神楽と思われる神楽には仮面神は出ない。

高千穂神楽を江戸期の資料に基づいて議論する風潮や、明治期、戦後にわたり改変されて古形が残っていないとする研究者も多いが、これは論外。「仮面史」という視点から見渡すと、仮面を用いる高千穂神楽のルーツは少なくとも平安朝まで視野を広げて置くことが肝要である。今後、それを裏付ける資料は発見されると私は確信している。
シュリーマンは、ギリシア神話にもとづき、トロイの遺跡を発見した。スゥェン・ヘディンは、現地の伝説をもとにさまよえる湖ロプ・ノールと砂漠に埋もれた幻の都市・楼蘭王国を発見した。
日本民俗学の創始者・柳田國男は、たとえ小さな伝説・説話・伝承でもそれをおろそかにしてはいけない、それは、必ずなんらかの事実が基層としてあり、時代とともに変容しながら伝えられたものである、と言っている。同時代の南方熊楠は、民俗学・博物学などの知識を駆使しながら、世界の事例と比較し、紀州田辺市の沖合いに浮かぶ「神島」の森と生態系を守り(これには当時の天皇が脱帽、敬意を表した)、神社合祀令という馬鹿げた国の施策を廃止させた。
仮面研究の分野では後藤淑氏が優れた研究を残されたが、その仕事は全国の分布調査の域でとどまっている。後藤先生なきあと、私たちは頼るべき指標を失っている感があるが、ここはそのお仕事のあとを継ぎ、空白部分を埋める作業を継続しなくてはならない。

仮面研究については多少の想像、推測、仮説などは許される。それをふまえて歩き、神楽を訪ねると、興味と面白さと感動はさらに深まる。
「仮面を着けて神楽を舞う」という様式が、いつ頃完成し、どのように普及したのか、それを示す決定的な資料も研究もまだ出ていない。これもまた未踏の領域であり、魅力的な調査課題である。推理小説やSF、マンガ、近代文学などを私はしばらく読んでいないが、それらをはるかに上回る面白さがこの領域には残されている。
私の周囲には、これまでに出た私の著作を小脇に抱えて、
「勉強に来ました」
と訪ねてくる少年や、各地の神楽を見て歩き、来春には小学一年生になる神楽少年、次代を担う各地の伝承者たち、さらには私の出した本を手に神楽を訪ねる神楽女子などが増えてきている。彼らの純真なまなざしに応える仕事を私は残しておかねばならない。



「尾迫の荒神」が「日・月」の鏡を持って舞い収めた。

*追記 高千穂歴史民俗資料館 学芸員・緒方俊輔氏よりフェィスブックを通じて資料提供がありました。

・神道文化会「高千穂阿蘇」1960年のP438に安藤更生博士が「室町時代」と書かれています。「高千穂の古事伝説民話」にもたくさんの話が掲載されています。紀年銘も無いので、形から考えるしかないと思いますが、いつなのか知りたいですね。

・神道文化会「高千穂阿蘇」1960年のP456〜458に小国村黒淵鉾納社の舞楽面と尾迫の荒神面と相通ずる点があると書かれています。

緒方さんありがとうございます。実は、僕は、小国から日田方面へ少し下った神社で「弘仁四年」の墨書入り仮面を確認しています。これについては、ある研究機関は「ありえない」と言っています。古い年号が書かれていれば事例がないのでありえないと言い、何も書かれていなければ古くないとかわからないとかいう判断となる。仮面研究とは厄介な世界ですが、それも含めて面白い。

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