水早 -mizuha- 神社と写真と一人旅。

カメラ片手にゆるり神社めぐり。
公共機関&徒歩での日帰り参拝記録をメインに綴っています。

長野県 6 戸隠神社-4 九頭龍社、奥社 <長野県長野市戸隠>

2015-05-27 | ├ 長野(ひとり旅)

 

戸隠神社つづき。

 

 

 

 

 

息を切らし、やっとの思いでたどりつきました。

 

 

階段をのぼると、左に九頭龍社。右へ行くと奥社です。

 

 

この狛さんは140年ぐらい前のもの。

 

 

両方とも角つきです。

なんとなく愛嬌あってかわいい。

 

 

手水舎

 

 

 

九頭龍社

この式年大祭の期間中は、「結びの糸」という特別な鈴緒になっていました。

九頭龍大神より繋がる九色の糸で結ばれた鈴緒ということで、九つの鈴がついています。

 

 

 

奥社よりさらに創建が古く、戸隠神社のなかで最古のお社。

戸隠神社は、パワスポなんて軽い言葉で形容してはいけない気がする。

 

 

 

何もかもに圧倒されるなー。

そうそう、この社殿を写してたとき、
フレーム内に太陽を含めるとこんな感じで光の輪がたくさん出てきれいでした。

レンズに良くないと知りつつ、陽の光できらきらする写真が好きなんでよく逆光写真をとりますが、
いわゆるフレアとかゴーストとか、よくある現象の一種です。

決してオーブだの何だのじゃありません。

でも、これだけ光が写ったのは初めてでした。

(ほんとは5~6個浮かんだのですが、写真としてはイマイチなのでシャッター押してない。)

どう角度を変えても輪がいっぱい出来るのは、こういった環境独特の現象なのかなあ。

写真っておもしろい。

 

 

神社って穏やかさを感じるところが多いのに、ここは強さとか激しさがそれに勝ってる。

うまく形容できないけど、
境内の面積分の太さの空気の柱が、地面から空に向けてどーんと突き抜けていってるみたいな。

水場からは、くるくると螺旋状に空気が上昇してく感じがする。

この空間にいると、力とか元気とか、強いものを体に充電できるような気がするわ。

いやあ、来てよかった。

 

 

右側に見えているのが奥社です。

背後には戸隠山。

 

 

奥社の鳥居は、戸隠神社唯一の神明鳥居です。

 

 

奥社

 

 

創建は紀元前210年といわれる奥社ですが、
雪崩による被害が起きて何度も崩壊・再建を繰り返した結果、
現在ではコンクリート製となっています。

 

 

 

土日ともなると奥社の社殿からこの階段のずっと下、さきほどの石段あたりまで、
参拝者の列が出来るのですね・・(´-ω-`)

(手前の皆さんは御朱印まち。)

 

 

ちなみにこの奥社は、標高1,350メートルだそうです。

 

 

社殿や空気に神仏習合の匂いが色濃くのこる戸隠神社。

一般的な神社をイメージして訪れましたが、
実際この地に立ってみると、ここがかつて神仏習合の修験霊場として栄えたお寺だったのだと、
実感せざるを得ませんでした。

 

 

創建から1000年近くは神社。

神仏習合がなされた平安後期から明治前までは、
戸隠山顕光寺として多くの修験者や参詣者を集めていたのだから、
それも当然の事かもしれない。

今から150年ほど前の神仏分離政策によって、寺と分離されて神社へ。

僧侶は神官になり、仏像などは廃棄したり近隣の寺へ移動させたり。

それがどれほどの痛みだったか、
特別参拝のパンフや神職さんのお話の端々から強く伝わってきました。

 

 

ここで、なんとなく由緒に突っ込んでみたくなった。

戸隠神社公式サイトによれば、“「天の岩戸」が飛来し現在の姿になったといわれる戸隠山を中心に発達し、
祭神は「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々を祀っている。”

とのこと。

 

 

戸隠山の開山あたりから明治までを時系列で並べると、

 

①大古

 先住の人々が神を祀る。(のちに九頭龍神と称された地主神)

 

②紀元前210年頃

 越後~信濃にかけて根を張っている出雲系の諏訪族に対抗するため、

 天孫系の尖兵として天八意思兼命が御子神(天表春命=阿智祝の祖)らを従え信濃国に天降り、

 信濃の国境をおさえる最重要地点である長野県下伊那郡阿智に駐留。

 伊那西南部一帯を開拓、経営。

 ※下伊那郡阿智の阿智神社は、一説によれば戸隠神社の元宮であり、
   天八意思兼命の御子神:天手力雄命がここに鎮座した後、戸隠神社奥社へ遷座したという。

   (また、中社(御祭神:天八意思兼命)や、宝光社(御祭神:天表春命)は、
   平安中期(950年前後)に阿智神社から分祀されたとも伝わる。)

 

③691年

 持統天皇が、信濃の国の須波、水内などの神を祀らせた。

 (一説には、この水内の神が戸隠神社ともされる。)

 

-----------このあたりまでは神社(社殿などがあったかは不明)---------

 

④800年代の中頃

 「学門」という名の行者が、奥社の地で「9つの頭と龍の尾を持つ鬼」(先住の九頭龍神)を

 法華経の功徳によって岩戸で封じ、そのおかげで善神に転じた鬼は、水神として人々を助けた。

 

-----------ここから急速に仏教化---------

 

⑤平安時代

 山岳密教の霊場として、戸隠に行者が入るようになった。

 

⑥鎌倉時代

 高野山・比叡山に匹敵する一大霊場に数えられ、

 「戸隠三千坊」と比喩されるほどに栄えた。

 

⑦江戸時代

 徳川家康から千石の神領が寄進され、朱印状が与えられた。

 

-----------ここから神社---------

 

⑧明治時代

 明治維新の神仏分離令により神領は没収され、廃仏毀釈によって仏宝は追放・排除。

 戸隠山顕光寺は「戸隠神社」となり、九頭龍大権現は「九頭龍大神」に、

 奥院・中院・宝光院の三院は、現在の「奥社」・「中社」・「宝光社」と称するようになった。

 

だいたいこんな感じですかね・・。(間違ってたらごめんなさい)

 

 

奥社の創建よりも古い「先住の九頭龍神」だけど、
仏教伝来まえは九頭龍神じゃなくて何て呼ばれてたんだろ?

単に水害などを神格化したもので、もしかしたら名前なんて無かったのかもしれないけど、
なんとなく、クズ(クス)というと国栖や来栖、久須などの土蜘蛛が思い浮かぶ・・。

関連性はあるのかしら・・。

とりあえず、わかんないので無難に「地主神」としておこう。

 

 

ということで、

奥社創建からおよそ1000年後、
学問さんによって岩戸に閉じ込められた「九頭で龍尾の鬼」(=地主神)は、
仏教のおかげで善神になり、水神(九頭龍神)となりましたとさ。

めでたしめでたし。

 

 

って、めでたくないじゃん。

いつのまにか、地主神は「鬼」と表現されていて、岩戸に閉じ込められてた。

しかも仏教の力のおかげで善神になってるし。

 

日本各地にある九頭龍神の逸話とおなじ。

荒ぶる龍が退治され、改心して神さまになったよってオチですか。

古来より神として崇敬されていた蛇や龍も、
仏教的な解釈だと神どころか畜生ですもんねー。

 

神身離脱 (神々も仏道に帰依することで救済されるという考え) と、

護法善神 (仏法を守る善神として取り込まれていった土着の神)

ここまでは、まだ分からないでもない。

 

 

でも、

本地垂迹 (神々の正体は、仏や菩薩が化身として現れた権現であるとする考え) とかまでいくと、
もう自分には理解不能(理解拒否)だ。

戸隠神社に来たときの表現できない違和感はこれなのかな。

 

 

「神仏習合」が自分にはピンと来ないんだろう。

たぶん。

お寺と神社が明確に分かれているのが当たり前の時代に育ったからでしょうか。

 

 

神も仏も同じように身近で、かつ尊ぶべきありがたーい存在。それはどちらも同じ。

特にこだわりもなく、初詣は神社、お墓は寺・・と大半の日本人と同じように生活してますし。

だけど、

神道、神社は日本固有のもの。

仏教はよそから渡来したもの。

という観念があるかな、やっぱ。

 

土着の水神・蛇神信仰が、仏教との習合で弁財天になったり、あるいは九頭龍になったり。

ふだん神社めぐりしてるときは、そのへん深くは考えてないのですが、
こういった、お寺色の強い神社へお邪魔するとついあれこれ思ってしまうのでした。

 

 

その⑤へつづく・・。

 

 

 


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