水早 -mizuha- 神社と写真と一人旅。

カメラ片手にゆるり神社めぐり。
公共機関&徒歩での日帰り参拝記録をメインに綴っています。

京都2 木嶋坐天照御魂神社-1 <京都市右京区太秦森ヶ東町>

2016-03-30 | ├ 京都(ひとり旅)

 

京都つづき。

 

 

 

 

 

さて、與杼神社を出て淀駅から再び京阪電車に乗り、
三条で地下鉄に乗り換え、太秦天神川駅で下車します。

 

 

北へ向かって歩き出してすぐ、一の鳥居到着。

 

 

蚕養神社(こかいじんじゃ)と記されていますが、
これは木嶋坐天照御魂神社の境内にある社のこと。

 

 

 

駅から5分ほどで、社頭につきました。

 

 

式内社 木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)

通称、
木嶋神社、蚕の社。

秦氏ゆかりの神社です。

 

 

一見しただけでは読めないであろうこの社名は、
「木嶋に鎮座する、天照御魂神(あまてるみむすびのかみ/あまてるみたまのかみ)の社」
という意味。

なので、「天照御魂神」を祀った神社とされます。

この「天照御魂神」は、いわゆる皇祖神の天照大神ではなく、
別の太陽神と考えられています。

 

 

 

二の鳥居

 

 

注連縄って、土地によって様々だよね。

この注連縄もシンプルで素敵。

 

 

では神橋を渡って境内へ。

 

 

 

 

正面に拝殿が見えます。

 

 

四方が開放された、大好きなタイプですわー。

 

 

 

太秦と聞いてまず思い浮かべるのは映画村かなあ。

映画村には、小学校の修学旅行と、
子供が小さい頃の二度ほど訪れたことがあります。

が、神社好き目線で考えると、太秦=「秦氏」になるでしょうか。

 

 

木嶋坐天照御魂神社が鎮座するここ太秦は、
山城国における秦氏の本拠地です。

秦氏は、先日訪れた「伏見稲荷大社」や、
このあと参拝する「松尾大社」を氏神として祀っていました。

 

 

太秦の秦氏族は、松尾山に松尾神を奉鎮し(=松尾大社)、
その支流である深草の秦氏族が、
稲荷山三ケ峰に稲荷神を奉鎮(=伏見稲荷大社)した・・という流れのようです。

秦氏つながりの伏見稲荷大社、木嶋坐天照御魂神社、松尾大社に、
時期を同じくして参拝することになったのには特に意味はなく、
ただの偶然というか、要はたまたまです。(笑)

 

 

木嶋坐天照御魂神社に行きたいなあ~と漠然と思っていた頃は、
それが秦氏と深く関わる場所だという知識はなかったし、
伏見稲荷大社に至っては、当時は興味すらなく・・。

(参拝する神社を決めるときは、
御祭神でピックアップして、社殿の画像をネットで眺めて判断しています。
由緒は出掛ける直前にようやくチラ見する。)

 

 

今回は、
與杼神社と木嶋坐天照御魂神社をセットで訪れるにあたり、
もう一か所ぐらい長居できそうな場所として、
場所的に松尾大社あたりがベストかなー?ってな感じで予定を立てました。

いつものように由緒などは全く調べておらず、
参拝の2日前ぐらいにこちらの三柱鳥居の方角云々をネット情報で知り、
そこではじめて、木嶋・松尾の二社が秦氏つながりだってことに気付きました。

さらには先日の伏見稲荷大社も。

 

 

振り返れば、
尾張氏めぐり、物部氏めぐり・・みたいに、
特に意図せずとも結果的にグループ分け参拝みたいになる事もあったから、
きっと今は秦氏の波でも来てんのね~ってことにしとこうかな。

 

 

拝所

 

 

このあたりから、空気が変わる。

境内入ってすぐ思ったけど、
すごくいいです。この神社。

京都の真名井さん以来の、強固な神気を感じる。

放射状に力が飛んでくるんじゃなくて、
どっかん!と強くて大きなもんが一つここに有る・・みたいな。

 

 

 

社の創建は、701年より以前。

古来より祈雨の神としての信仰篤い神社です。

御祭神は、
天御中主命、大国魂神、穂々出見命、鵜茅葺不合命。

 

 

御祭神をみると、秦氏特有の神じゃないことに気付きます。

秦氏が創始した松尾大社や伏見稲荷大社も同様で、
御祭神は、渡来系である秦氏がこの地に進出してくる以前から祀られていた、
在地の神さんです。

 

 

秦氏は、自分たちが来る前に鎮座していた地主神を排さず、
その祭祀を継承、あるいは自分たちの神と旧来の地主神とを併祀したと
いわれています。

進出した土地の神を尊重し、
その祭祀を受け継ぐという形で定着していく秦氏のやり方は、
とても平和的かつ賢いんじゃないかなと思います。

 

 

 

石垣部分にある石碑を見て、
思わず 「しゅくしゅくしゅく???」 と空見しましたが(笑)、
あとでネットで調べたところ、「縮 縮緬 仲間 (ちぢみ ちりめん なかま)」でした。

文化14年(1817年)に、西陣の織屋の組合が奉納したもののようです。

 

 

左右の大きな岩は、狛さん的な存在なのかな?

 

 

 

その2へつづく・・。

 

 

 

 

 


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