九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

大内氏 と 内藤氏 

2022-09-08 | 雑記

大内氏は各地にいて、様々なルーツを持っているらしいのだが、一番気になる方が ↓

大内 惟信(おおうち これのぶ)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府御家人清和源氏義光平賀氏の一族で、大内惟義嫡男。母は藤原秀宗の妹(藤原秀康の叔母)。

wikipediaには、

平賀氏の一族も、こちらの多々良氏の一族の「大内氏」も、どちらも鎌倉時代に「御家人」と書かれている。

 

多々良氏一族「大内氏」 鎌倉時代(wikipedia)

『鎌倉時代になると、大内一族は周防の国衙在庁を完全に支配下に置き、実質的な周防の支配者となった。そして鎌倉幕府御家人として、六波羅探題評定衆に任命されている。』

「大内氏」は、重源に訴えられているほどなので、鎌倉時代周防にいたことがわかる。

重源は周防に東大寺再建の際の柱となる杣を探しに行ったのだが、それを運搬する際に大内弘盛の妨害を受けたそうである。

その頃長門守護となった佐々木高綱重源上人を助けて東大寺のための材木搬出(杣だし)に尽力したそうである。

 

 

鎌倉初期にはまだ御家人ではなかった??

  • ^ 建久3年(1192年)1月に重源から幕府に訴えられたが、「大内介は関東所勘の輩に非ず」として訴えを却下されるほど勢力があった(『吾妻鏡』)。

大内介は関東所勘の輩ではないから、朝廷に奏聞するように」として訴えを却下している。(室町文化の中にみる大内文化の遺宝展 - 6 ページ) 大内弘盛のこと。

 

 

この西国の大内氏は、久利氏ともかかわりがある為、久利家文書にもその名が登場している。

内藤氏との関りは、次に!

 

大内氏

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ohuti.html

 

 

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平賀氏 と 大内氏

2022-09-05 | 清原氏バラバラ情報

平賀氏は源の新羅三郎義光の子孫となる。wikipediaより関係しそうなところをコピペする。

新羅三郎義光の子盛義佐久郡平賀邑を有したことに始まり、子の平賀義信の代に、源氏御門葉として、また御家人筆頭として隆盛を誇った。

義信の子惟義は文治元年(1185年)に相模守となる。2代将軍頼家以降では京都守護として活躍し、幕府から伊勢・伊賀・越前・美濃・丹波・摂津という近畿6ヶ国の守護を任され、更に朝廷の後鳥羽上皇の近臣となり、大内冠者と呼ばれた。最終官位は修理権大夫で四位に昇進したと考えられる。惟義は、承久元年(1219年)正月27日、3代将軍実朝の右大臣昇進の鶴岡参宮行列に列したのを最後に記録上から姿を消す。

 

惟義の弟朝雅は、父義信に次いで武蔵守となり、北条時政の娘(牧の方所生)を妻に迎えて京都守護と伊賀・伊勢の守護を兼ね、さらに伊賀の国主と栄達を重ねるが、義父時政の寵愛が災いして元久2年(1205年)牧の方が朝雅を将軍にしようとした陰謀(牧氏事件)が発覚、京都で誅された。

朝雅の死後(時政の失脚後)も惟義の権威は揺らがなかったが、鎌倉幕府内では執権北条氏の権威が確立し、当初は御家人筆頭であった席次も北条氏の下座に着くようになる。また惟義の後を継いだ惟信は、承久3年(1221年)の承久の乱で京方に付き、平賀氏は没落した。

👇

平賀氏が大内氏となる。石見国を調べていると久利氏と大内氏のやり取りが見える。(久利家文書)

大内 惟信(おおうち これのぶ)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府御家人清和源氏義光平賀氏の一族で、大内惟義嫡男。母は藤原秀宗の妹(藤原秀康の叔母)。

 

 

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伊賀守朝光・光季 と 土岐光基・光衡・光行・頼基(2)

2021-01-21 | 山内・伊賀・深尾・下河辺・野本・結城

手に余ることを書いているために、読みにくく、意味不明かもしれません。すみません!

ただ、この伊賀氏と土岐氏、どうも関係がありそうです。


伊賀氏も土岐氏も、千葉氏と婚姻関係で結んでいる。
伊賀光季の姉妹「伊賀の方」は北条義時に嫁ぎ、土岐光定の妻も北条氏である。(時代は違う)

更に土岐光基の娘も藤原秀宗に嫁いで
藤原秀康・秀能は、藤原北家秀郷流の養子となった藤原秀宗の子として誕生している。(実は和田義盛の弟・宗実(宗妙)の子である。)

ここで、和田氏とも繋がっていることになる。

土岐光基は、秀郷流とつながり、弟光重は源頼政の義兄弟で「波多野御曹司」である。(馬場仲政為養子・住下総国)
既に、何等かのつながりができていたのではないだろうか?

日本通信百科事典によると、この藤原秀宗は「波多野秀宗 : 官職は河内守。相模波多野氏(秦野氏)一門。土岐光基の娘を妻とした。」

承久の変では秀能は院方のようである。「承久3年(1221年)の承久の乱では挙兵の際に京都守護・伊賀光季を攻め殺す。」と、wikipediaにある。
伊賀氏とは敵対。





藤原秀能の猶子に能茂(1204生)がいて、母は平定清の娘となっている。この人物は中原定清(貞清)と思われるが、年代が合うだろうか。秀能の妻に平定清の娘と成ると、中原氏との接点が増える。

詳しくはまだ調べていないが、中原氏との接点「中原定清」承安四年・建久九年の文書にも名前が出ていた。





===*===

波多野義通の妹が中原某に嫁ぎ「久経」を産み、私のアバウトな仮想では「政経・経久・‥‥」と続く。
中原政経は、一条家の家司であり、三左衛門の変で捕まって、近江国伊香郡に逼塞する。
其の流れで行くと伊賀の変の「一条実雅」ともつながりがあったであろうと思われる。

伊賀氏の母・妻にも「中原氏」がいたのかもしれない。

===*===
話がずれたので、もとに戻そう。

土岐光基は長生きしたのかもしれないが、頼基は平清盛に誅され、光衡は「土岐三郎」と幕府の文書に記載がありながらも、1206年に歿している。
光衡の本当の父光長も、光衡の兄弟光経も1184年に歿している。

下の系図の赤い線に、ココで切る!のような「チョン」と印がある。
これは、光衡の兄弟であった光季を(藤原秀郷流の朝光に)養子に出したことを意味しているのではないかと思ってしまう。



伊賀光季「京都守護」として素晴らしい活躍をしていた。気持ちの良いほど、闊達に!
承久の乱がなければ‥‥と思ってしまうほど。
北条義時の親類という事で、殺されてしまったようである。

元の同僚たちに‥‥である。むごい…



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安井権守源頼高の父を探す。頼高の母は「源義経の娘」と云う。

2020-01-23 | 清和源氏

本来の九里探しを忘れてはいません。(弁明)
でも、この話はとても気になります。
どこかで、重なっているような気がしているのです。

===*===

http://kuwaichi.dip.jp/u_2_3.html

http://kuwaichi.dip.jp/2_3_4.html

上の二つの記事を読んで、気になって仕方がないので、私なりに考えてみようと思う。

安井権守源頼高の父は「頼基」というそうだ。その頼基の妻となったのが義経の娘になる。

まず「安井氏」を全く知らないので調べてみよう!

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/yasui1.htm
「浅野長政の実父系・安井氏」とある。

源頼政と源光重(土岐氏よりの養子:深栖光重)の例もあるので、土岐光基の息である「頼基」も関係があるかもしれない。
土岐の頼基の立ち位置というか、系図の場所が一定ではなく、光基の三男であったり、光長の五男であったり、もしくはもっと離れて光基の弟?光義 - 光国-光有-伊賀頼基であったり、である。

何故「頼基等の実の息子たち」ではなく、養子の「光衡」に土岐氏を伝えていったのか、その謎と関係があるのだろうか?

国長、光経、光衡は「源光長の息たち」で本当の兄弟である。
前の記事で、「光経の息光助が長沢になった」と書いた。

今度は、光衡の義理の兄弟「頼基」なのだろうか。
光基の息という事は、光基の娘と兄弟姉妹である。
波多野秀宗の妻が光基の娘であるので、藤原秀康、藤原秀能の叔父が頼基となる。

其の源頼基(父が土岐光基)
1207年2月12日に「頼高」が生まれたとある。

「頼隆」も頼高と読めるが、系図の場所が後ろ過ぎるので、光基の孫あたりの年代かその一代後と思う。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/asano_k.html

「浅野氏」と「安井氏」が関係していることからも、何かありそうである。

ちょうど満仲をいれて八代目に土岐光基の息の頼基がいる! 
安井氏になった頼基は、土岐氏の光基の息のことではないだろうか?


野木氏のことは、長沢氏の件で出てきた同じ「光綱」がいるために、どこかで混乱したのかもしれない。

ただ、土岐氏と佐々木氏で、何等かあったのか…・とも思われる。

「佐々木義清」の周辺と関係がありそうなことがらは、

この義経の娘は、亡くなったと言われている「河越重頼の孫」のような気がする。
なぜなら、河越氏と渋谷氏は同じ秩父氏の一族であるのだが、渋谷氏には佐々木氏が婿に入っている。
そして生まれたのが「佐々木義清」である。
さらに妻は大庭景親で、波多野氏もお世話になっている。

河越重頼の娘は「郷御前」と言い、母親は比企尼の二女である。

wikipediaによると
「義経が京都の近辺に潜伏していた文治2年(1186年)に娘が誕生している」
「文治5年(1189年)閏4月30日、頼朝の命を受けた藤原泰衡が、従兵数百騎で義経が暮らす衣川館を襲撃。義経は持仏堂に入り、22歳の郷と4歳の娘を殺害したのち自害した。 」とある。

4歳の子。1207年には21歳である。
この河越氏の郷御前の娘なのではないだろうか?

そして、河越氏にいては危ないので、渋谷氏を通じ佐々木義清へ。
佐々木高綱の息であった「光綱」と共に育った可能性もあるのではないだろうか?
光綱は1187年生まれである。

さらに光綱の妻は「佐々木義清の娘」とある。
ひょっとすると河越重頼の孫娘かもしれない。。。と想像は膨らむが、そうなってくると安井氏との関係はどうなのだろうか。

二つの別々の事のようにも感じる。

wikipediaで安井氏を見ると「清和源氏の一流河内源氏の流れを汲む足利氏の一門、畠山氏の庶流にあたる。 」とある。
畠山氏も「秩父氏」である。

日本通信百科事典によると
畠山氏の項なのだが「庶家に岩松氏・下野田中氏・美濃畠山氏・二本松氏(奥州源氏)[2]・渋川氏(河内渋川氏)・安井氏(河内渋川氏の庶家)などがある。 」とある。

難しすぎて、よくわからない。。。

===*===

wikipediaの安井重継というページの「安井氏」「浅野氏」の註を読むと、どちらも土岐氏の関係となる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%BA%95%E9%87%8D%E7%B6%99

名古屋市博物館紀要
研究紀要第30巻

900円 A4判76頁。(2007)

尾張藩士安井将監家の新旧家譜考-安井将監秀勝「秀長」改名記事を中心に-、太刀拵佩緒結びの雛形、二躯の大日如来像(興正寺ならびに水野平蔵家伝来)について、絵葉書のイメージ・リーディング

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美濃国の守護

2019-09-28 | 雑記

鎌倉時代の美濃の守護は大内惟義、大内惟信、その後は北条氏、宇都宮氏であり、鎌倉時代に土岐氏が守護になったことはない。…とあって、意外であった。美濃と言えば土岐氏と思っていた。

守護
鎌倉幕府

1187年~1211年 - 大内惟義
?~1221年 - 大内惟信?
1252年~? - 宇都宮泰綱
1285年~? - 北条氏
1296年~1300年 - 北条時村
?~1333年 - 北条政高?

室町幕府

1336年~1339年 - 土岐頼貞
1339年~1342年 - 土岐頼遠
1342年~1387年 - 土岐頼康
1387年~1389年 - 土岐康行
1390年~1394年 - 土岐頼世
1395年~1414年 - 土岐頼益
1422年~1465年 - 土岐持益
1468年~1495年 - 土岐成頼
1495年~1519年 - 土岐政房
1519年~1542年 - 土岐頼芸


大内氏・・・惟信はコトバンクによると
「承久1(1219)年ごろに父が死去すると,その譲りをうけて伊勢,伊賀,美濃,越前,丹波,摂津などの守護職を兼ねたらしい。惟信の母は後鳥羽上皇の近臣藤原秀康・秀能兄弟の叔母に当たる。この姻戚関係も一助となって上皇との関係は緊密になり,承久の乱(1221)に際しては京方についた。東山道の大井渡に鎌倉幕府軍を迎えうつが敗北し,京方軍全体が退却する因をなした。乱後は出家して叡山に隠れ住んでいたが,寛喜2(1230)年になって捕らえられ,西国に流されたという。」 本郷和人 



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深栖光重とその周辺 + 牧宗親 牧の方

2019-05-26 | 雑記

今回「乾氏」を集中的に調べてみて、ふと気になる人物が「深栖氏」であった。
なぜなら、清和源氏・土岐氏と波多野氏をつなげる「波多野御曹司」の存在があるからである。

波多野御曹司は源光重であり、源光信(土岐光信)の息である。
その光重の兄弟には「光基、光重、光長、光義、国時、信保、石清水八幡宗清法印室」がいる。

この光長の妻は、橘道清女、宣能卿女白川局。
光長の息は、国長、光経、光衡。
その光衡が源光基の跡をつぐ。
光基の実の子に「頼基、光行、河内守藤原秀宗室」らがいる。
藤原秀宗室 - 藤原秀康・秀能の母となった女性である。
頼重は後白河院蔵人であり、伊賀氏を名乗る。

(どこかでwikipediaが間違っているのかもしれないと思う。
源氏物語研究者と言われている「源光行の息にも光重」がいる。
この光行は1163年に生まれているため、光重の兄は1185年生まれとされる。
こちらの光重は別人と思われるがクリックすると源光信の息の光重につながってしまう。
間違いと思われる。)

つまり
土岐光信の息光重=源仲政の養子
そう仮定し、進めていく。

光重の姉か妹に「石清水八幡宗清法印室」がいる。

つまり、土岐氏から石清水八幡に嫁いでいるひとがいる。
この人物とイコールかどうかは分からないが「美濃局」が文書に見えるのである。


美濃局紀家子(光清女)  道清自幼少為美濃局猶子

==*==

深栖光重の三男は、【堀三郎頼重】という。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E9%A0%BC%E9%87%8D

源義経と「東国旅人諸陵助重頼(頼重)を相語らい、約諾せしめ…」とあるように、この人物が案内をしたようである。

その頼重は諸陵頭、皇后宮侍長となっていたようで、3人の息がいた。
頼時(九条家勾当)、重胤らがある。

頼政の義理ではあるが甥となる頼重。
波多野御曹司光重の息。

web上では、「源頼政の甥深栖頼重は、下総国の荘園下河辺荘の高野館に帰るとき、 源義経をその行列に紛れこませて、奥州の藤原秀衡に送り届けている。」との記述もある。


下河辺荘の高野館! 何かのヒントになるかもしれない。
また、諸陵頭というのも、牧氏との関係につながっていくかもしれない。

深栖・牧氏・乾氏と深尾氏までもつながりそうなのである。









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平賀・大内氏と藤原秀能との関係

2019-03-03 | 雑記

平賀義信は、妻が比企尼の三女であったそうである。
さらに子には「大内惟義、平賀朝雅、小野朝信、平賀隆信、小早川景平」がいる。

この大内惟義のwikipediaによると
大内 惟義(おおうち これよし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・鎌倉幕府御家人。清和源氏一門の重鎮であった平賀義信の長男。新羅三郎義光の曾孫にあたる。

惟義が伊賀国に赴任した時期に大内姓を称したが、後に戦国大名となる周防国の多々良姓大内氏とは関係がない。 …とある。

惟義は一ノ谷の戦いの後に、伊賀国守護(惣追捕使)に補任される。
伊勢平氏の権力基盤の一部であった伊賀を抑える役割を期待されての人事と思われる。
同国大内荘(九条家領の荘園)の地頭職を兼ねたともいわれ、このころから大内冠者と記されるようになる。

承久3年(1221年)、承久の乱が勃発。後鳥羽院ら京方の挙兵に対し、惟義の死後に近畿6国守護職を受け継いでいた子の惟信は、後鳥羽院の下へはせ参じ、京方として鎌倉幕府軍と戦う。しかし、あえなく敗戦して消息を絶ち、ここに源氏御門葉平賀・大内氏は滅亡する。

この惟義の妻が「藤原秀宗の妹」。つまり藤原秀康・秀能の叔母にあたる女性なのである。







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検非違使 丹生谷哲一著 平凡社

2019-01-05 | 雑記

お正月にふさわしくない話題なので、お気になさる方はスルーしていただきたいです。

中世のけがれと権力 という副題のついた本書。
表紙の絵 一番右の烏帽子姿が「藤原秀能」だという。

お正月にはふさわしくない場面である。

~~~*~~~

この話を進める前に、私は最近驚いたことがあった。(忘れてただけ。)
それは「和田氏」=「大中臣氏」であったことである。和田氏=にぎた・し
大中臣和田氏である。こんなところで、和田氏とつながってくるのか…と和田義盛の和田氏が関係するのかどうかまでは調べていないのだが、楠木氏とは関連すると思う。

和田氏は九里氏を調べていてよく出てくるので、どこかで繋がっていると思う。
ただそれが、京・鎌倉・千葉・熊野・伊勢・近江甲賀などいくつもの接点があるためにかえってどの和田氏とのつながりなのかがわからない。

甲賀の和田氏を遡っていくと良いのだろうと思うのだが…まだである。

~~~*~~~

話を「藤原秀能」に戻す。
題名の「検非違使」より

関白二条良基(1320-1388)の著「百寮訓要抄」に、検非違使の別当(長官)に関する次のような説明がある。

別当、大理卿大納言殊器量をえらばるる職なり。白川院の仰には五カの徳あるものを任ずべしとあふせられけるとぞ。容儀・才学・富貴・譜代・近習也。

すなわち、検非違使の別当――何も別当に限らなかったがーーに任命するための条件として、容儀・才学・付記・譜代・近習の五つがあげられているわけである。



本来、非違検断と何ら関係のないはずの容儀や富貴が、検非違使補任の条件とされているのは何故か。その理由を「法然上人絵伝」で考察してみよう。



図は、建永二年(1207)二月、法然の弟子安楽房が、六条河原で処刑される場面を描いたものである。(表紙はその一部分)

画面の中央(表紙の場合は右)右手に檜扇、左手に弓を持ち、紅の単衣の上に白狩衣・指貫を着、毛沓を履き、背に切斑のある矢を負って威儀を正しているのが、一行の頭目、使大夫尉藤原秀能である。秀能は、かの承久の乱(1221)における後鳥羽院方の総大将藤原秀康の実弟で、『尊卑分脈』によれば「獄執行官人・防鴨河判官・使大夫尉」とある。

~~~*~~~

秀能は獄執行官人でもあったのである。
そして、法然の弟子を処刑したのだ。


もう一つ、「清め」や「掃部」の役は、処刑の後の「キヨメ」でもあったのだ。
これは昔ならば当然であったと思うのだが、私には思いが至らなかった。
清めることとは、祭祀の際の事ばかりと思っていた。

処刑の後片づけや、その場をもとに戻し、「清め掃く」ことも仕事であったのだ。

そのことと、大中臣和田氏と関係があったのではないか?と言うのが、今回の気づきであった。

祭祀の大中臣氏とはまた違うような気がする「大中臣和田氏」
そして、防鴨河判官も中原氏も請け負っていたことのある職である。

ここも、その「キヨメ」とつながるのではないだろうか。
中世?河原に亡くなった人を置いていたという。(私の読んだ本の中の記憶)

川の氾濫を防いだり、氾濫後を処理したりするだけではない仕事もあったはずである。

誠にお正月にはふさわしくない話題であるが、この本は、本日返却しなければならず、やむを得ず…

なかには、中原親実も出てくる。

もう一度借りなくちゃ!!である。
私にとっては、読みやすく勉強になる、心強い本である。











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新宮十郎義盛から新宮十郎行家に

2017-10-06 | 熊野氏
忘れていたこと。「新宮十郎」のことである。

義盛の盛
長範の息「宗盛・盛勝・覚盛・盛意・盛範・範智」の【盛】
そして行範と行家の【行】

以前書いた記事にあった↓
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/c/8d55ece74681fa739bfae5d131a9425a/1
【行家の母は田鶴原姫】だから半分は熊野の血が入っている。

googlebooksより
日本水軍史
「 承久の乱は、さらに熊野の姿勢を明確にしてくれる。乱の発端は、後鳥羽上皇寵愛の ...
上皇軍は第一一軍として宇治,瀬田に一一万五千騎を配したが、宇治橘警備の佐々木
中納言有雅軍中に、熊野別当軍が加わっている。」

承久の乱
討幕計画に参加した上皇方の「合戦張本公卿」と名指しされた一条信能、葉室光親、源有雅、葉室宗行、高倉範茂ら公卿は鎌倉に送られる途上で処刑され、坊門忠信らその他の院近臣も各地に流罪になったり謹慎処分となった。また藤原秀康、藤原秀澄、後藤基清、佐々木経高、河野通信、大江親広ら御家人を含む京方の武士が多数粛清、追放された。(wikipedia)

有雅は、源有雅のことで、佐々木野中納言と呼ばれていた人物である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%9C%89%E9%9B%85

妻は藤原範光の娘で「憲子(岡前別当三位)(?-1239) - 源有雅室、順徳天皇乳母」である。

~~~*~~~

【橘廣方】または【長】(行宮の「行」なのかもしれない通字。)
平安時代中期の豪族・貴族。氏姓は熊野連のち橘氏に改姓。熊野国造の嫡流で、牟婁郡大領・熊野広継の子。
寛平9年(897年)宇多天皇の熊野行幸時に行長として行宮に奉仕し、その功労により郡司に任ぜられる。
醍醐朝の昌泰3年(900年)従五位下に叙爵すると同時に、橘氏に改姓(橘良殖の猶子となったか)した。牟婁郡大領、熊野本宮大社神職を務めた。
広方の娘は同族の鈴木良氏に嫁いで鈴木重氏の生母となった。広方の3代後の橘良冬(和田良冬)が和田庄司を称した。

【鈴木重氏】
平安時代中期の貴族・豪族。穂積姓、藤白鈴木氏の当主。通称、鈴木大夫。官位は押領使、美濃権介。
父は検非違使・鈴木良氏で、生母は熊野国造家の橘広方の娘。押領使、応和2年(962年)からは美濃権介を務めた。永観元年12月8日(984年1月13日)に卒去。父:鈴木良氏
母:橘広方の娘
生母不詳の子女
男子:鈴木重豊 - 従五位下左近将監
男子:鈴木重実 - 従七位上出羽大掾


【鈴木重実】
平安時代中期の武将・豪族。穂積姓、藤白鈴木氏の当主で、鈴木重氏の子。通称、鈴木庄司。官位は、従七位上、出羽大掾。
天禄元年(970年)、紀伊国名草郡藤白荘年領。長徳2年(996年)に従七位上出羽大掾に任官し、長徳4年(998年)に出羽介・平維茂に従って藤原諸任と戦い58歳で戦死する。兄の鈴木重豊(左近将監)には娘がおり、藤原実方に嫁いで熊野別当・泰救を生んだ。
父:鈴木重氏
母:不詳
妻:侍従・藤原定時の娘
男子:鈴木重武 - 掃部允
生母不詳の子女
男子:鈴木基安
男子:鈴木倫安 - 子の允重は常陸大掾。子孫に鞠子氏、前田氏。
男子:鈴木基兼 - 右京亮。

【鈴木重武】
平安時代中期の武将。穂積姓、藤白鈴木氏の当主。父は重実、母は侍従・藤原定時の娘。官位は掃部允。
長元元年(1028年)の6月に前上総介・平忠常が謀反を起こした際、追討のため中原成通に随行して東国に下向した。永承7年(1052年)9月15日に81歳で没した。
父:鈴木重実
母:藤原定時の娘
妻:眞砂清行の娘
男子:鈴木重康
生母不詳の子女
男子:鈴木重孝 - 下総鈴木氏の祖。
男子:鈴木重親 - 那智鈴木氏の祖。
女子:田屋権大夫室。

【鈴木重康】鈴木氏(穂積氏)は紀伊国熊野地方を本拠としていたが、重康の代に同じ紀伊国内の名草郡藤白浦に居を構えて住み、以降は藤白神社の社家として続いたと云われる。
父母
父:鈴木重武、母:眞砂清行の娘
兄弟
重康、重孝、重親、女子(田屋権大夫室)

帯刀左衛門尉俊澄の娘

重光 

【鈴木重光】
鈴木重光(従六位上、右衛門少尉)

~~~*~~~
【藤原 定時】
平安時代中期の貴族。藤原北家小一条流、左大臣・藤原師尹の長男。官位は従五位下、侍従。
妻は宇多源氏の祖の左大臣・源雅信の娘。百人一首で有名な藤原実方は長男で、定時の早世のため叔父の藤原済時の養子となった。娘は熊野神職の鈴木重実の妻となった。

父:藤原師尹
母:藤原定方の娘
兄弟
弟:済時
弟:定照
女:藤原芳子
妻:源雅信の娘
男子:実方
男子:実光
女子:鈴木重実室

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藤原秀能 と 藤原定家 

2017-05-29 | 雑記
母は伊賀守源光基(みつもと)の女である【藤原秀能】
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E5%BA%B7

兄は『藤原秀康』である。(秀能と同母)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A7%80%E5%BA%B7

この最後の行に『優れた歌人であった弟の秀能は出家して許され、後に遠島された後鳥羽法皇を慕い隠岐島へ渡っている。』とある。『新三十六人撰』作者の一人で十首とられている他、『新古今集』以下の勅撰集に七十九首入っているそうである。

優れた歌人であったことで命拾いをしたようだ。
wikipediaによると「承久の乱では朝廷方の大将として一手を担った。このために戦後、鎌倉幕府の命令で熊野山に追放されて出家の身となり、如願と号した。」とあり、「『遠島御歌合』や西園寺家の歌会などに出詠している。」とコトバンクに載っている。

その秀能は「藤原秀行」の父になるわけで、源頼政と同じ敷地かお隣に住んでいたかもしれない。
そして、秀能だが歌関係で西園寺家の歌会に出ていただけではなく、藤原定家とも時代が被るので行き来があったであろうと調べてみると…

秀能女が「定家の妻」であり、定家との間に長男となる「光家」を生んでいるのである。
ところが、その光家は歌のことで定家からは厳しい批判を受けている。また、秀能女とも離縁となる。

webにあった光家情報 http://www.geocities.jp/wasedachuseinokai/happyoyoshi7.html

(1)『浄照房集』の歌枕・地名歌について 修士二年の方の研究である。

 『浄照房集』は藤原定家の一男藤原光家の家集である。浄照房という房号を外題にし、四一首(内他人詠三首)の小歌集であるという外貌を持つ光家の家集は、俊成・定家と続く御子左家の名跡に繋がる家集としては異色なものといえよう。その四一首の内約半数の二二首は、俊成、定家もまだ経験したことのない筑紫往還の歌枕、地名歌が占めている。家集の中心にこれらの歌を据えた家集編纂者の意識を検討し、あわせて自他撰の判別の検討をも試みる。

 『浄照房集』には光家の二度の筑紫往還の歌が対置されている。一度目は順徳天皇の即位を宇佐宮に告げる宇佐使としての侍従光家の歌が、二度目はその順徳院の御代は既になくなり、僧体に身をかえた浄照房の歌がそれぞれ収録されている。


 初度の旅の歌には最勝四天王院障子和歌に設題された歌枕や、源氏物語、栄華物語の文学遺跡である歌枕などをとりこみ、筑紫に左遷された道真、伊周ゆかりの地名を詠みこむなどして古典や故事に通じていることのアピールともとれる歌が並び、また定家の歌に依拠したと思われる歌が多く見られるところから、これらの歌は定家を宛先として詠歌されたものと思われる。また宇佐使いとしての任務を遂行しているというパフォーマンスともとれる歌もあるところから順徳院も宛先に想定していたと考えられる。

 さて、宇佐使の旅の途次で門司関を詠んだ光家の歌が、建保名所百首の順徳院の白河関題の歌に発想、設定、趣向が著しく類似していることについて、内裏名所百首題の選定者であり、順徳院の歌の指導者、光家の父である定家の介在を想定することは極めて自然なことと考えられる。

光家の順徳院即位を受けて旅した初度の筑紫往時の歌は、定家の手によって、歌紀行か小歌集のようにまとめられ、順徳院の叡覧に供せられたのではないだろうか。自らの歌が叡覧に供せられたばかりか、順徳院の発想の根源になったとなれば、それは、光家の詠作史における最も輝かしい事跡に違いない。こうした折の作品を選歌して家集に編纂するのは当事者ならではの営為と考え、『浄照房集』は自撰であることの理由の一つと考えた。

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…なるほど。

wikipediaに【『明月記』天福元年(1233年)4月17日条に定家と浄照房(光家)が出家前にもうけた娘の行く末について相談したことが記されているものの、その後は九州方面に下ったとされること以外、動静は明らかでない。】とあったが、順徳天皇は承久の乱後佐渡に流されているので、天福元年以降の九州方面…とは、二度目の筑紫行だったのかもしれない。

すっかりと道がそれたが、私が調べたかったのは秀行のことであった。。。。
秀行は又の機会に。

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