九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

政治・祭祀(さいし)・工業都市のあった稲部遺跡 彦根市!

2017-01-28 | 日記


http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20161022000107


古墳期の超大型建物跡  滋賀・彦根



超大型建物と鍛冶工房が出土した遺跡の説明を聞く大勢の考古学ファンら(彦根市彦富町・稲部遺跡)

 弥生時代終末の鍛冶工房と、古墳時代前期の超大型建物が出土した滋賀県彦根市稲部町と彦富町にまたがる稲部遺跡の説明会が22日、現地で行われた。県内外から大勢の考古学ファンが訪れ、古代の近江に存在したクニを想像した。

稲部遺跡からは、弥生時代終末の鍛冶工房と推定される竪穴建物23棟と、古墳時代前期の面積188平方メートルと超大型の建物が隣接して出土。政治・祭祀(さいし)都市と工業都市の両面を併せ持つ、クニの中枢部があったと考えられる。

 説明会では、同市教委の学芸員が「『魏志倭人伝』に出てくる時代の日本、倭国(わこく)の成り立ちを考える上で今までにないきわめて重要な遺跡」と意義を説明。「この区画からは多数の鉄片と鉄製の矢尻が出土した」などと、発掘跡を示しながら調査結果を報告した。

2016年10月の記事ですが、この鍛冶工房もあった都市という処が、気になります。
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名前のトリック 

2017-01-25 | 中原氏バラバラ情報

なるほど!と思ったブログ(ごめんなさい、もうどこだったのかが見つからず、コピーしていたモノだけが私の手元にありました。)
とても納得のいく、説明でした。

諱(いみな)
「名もなき者」といえば 聞こえはいけど 「なまえのないモノ」というのは とても不安定で恐ろしい存在だと思います。 なんだかよくわからない「得体の知れないモノ」として まるきり正体も掴めず、「~みたいなモノ」 くらいにしか 表現できないからです。 

それゆえ、わたしたちは「共通認識」に役立てるためにも さまざまな事象・事物になまえをつけるのでしょう。 なまえをつけるコトによって"それ"(得体の知れないモノ)は "それ"(名づけられたモノ)という意味を与えられ 無形のモノですらも 形状を帯びてくるからです。

具体的に「~である」と わかることは、その性質や出所が明確になり さらに多くの情報が集積すると 組成や要素・成分が分析でき検証が可能となります。
(言い換えれば 名を持つとは それ以外の何モノにもなり得ない 可能性を摘むことでも あります。)

古くから(特に東洋では)"諱"(イミナ)といって 「真のなまえ」(本名)を知られることを警戒する風潮がありました。 
「真のなまえ」を知られるコトは その知った相手に対し服従を許し 人格を支配されることを意味していたのでしょう。

『陰陽師』でも 「真の名」を呼ばれた魔物が その魔力を封じられる というシーンがあります。 『千と千尋の神隠し』でも よく似た描写がみられました。 『西遊記』でも金角・銀角という悪者が孫悟空に名を呼ばれ 返事をした瞬間に瓢箪に吸い込まれる話は大抵の方がご存じだと思います。 

また、さらには最近、話題の『ゲド戦記』や 『デスノート』にも そのコンテクストが色濃く反映されているようです。

こうしたことがソシュールの示す「シーニュ」(signe)の観点以上に 表意文字を用いる東洋(特に日本:漢字に音読み・訓読みがある)で 強く影響性を持つことが頷けると思います。

記号論(意味するモノ:シニフィアン 意味されるモノ:シニフィエ)と 言語学(音声イメージ:シニフィアン 意味イメージ:シニフィエ)で 若干の意味合いの相違はあれども ひとつのことば(なまえ)から想起される概念・イメージは 表音文字の文化圏以上に 東洋(特に日本)においては非常に強い影響性を持っているのです。

古い田舎などでは特に 姓をみただけで どこそこの何某。 あの家の出(出自) この仕事に携わり生業とする者。すべての履歴・経歴が明らかにされる などというケースもあります。

言霊信仰と言ってしまえば それまでですが この風潮と思想は 今でもわたしたちの根底に強く根付いているのも事実です。

諱(イミナ)は 忌み名ともいわれ 忌み嫌われるという意味ではなく 簡単に明かすことも憚られる聖性を帯びた なまえでもあったのです。


~~~*~~~

中原は明道家でもあるので、そのあたり、本名をそのまま文書に遺していないのでは…と思いました。すべてではないのでしょうが、本名と諱と使い分けていたように感じました。

系図の中での「経重」は「重経」としてかかれたり「常重」となっていたりという可能性もあると思った次第です。

下は、年代が分からない文書ですが、中原九里経重も、重経と書いていたかもしれません。

【和暦年月日】 (年未詳)閏4月1日(55550045010)
【文書名】 左官掌中原重経請文
【底本名】 壬生家文書(図書寮叢刊)(11400002)






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中原友景  *西園寺実氏との関係

2017-01-24 | 中原氏バラバラ情報

朝日日本歴史人物事典の解説

中原友景

生年:生没年不詳

鎌倉時代中期の官人。建保5(1217)年に修明門院の下北面(院に仕える侍),嘉禄2(1226)年に使宣旨を受け,その後10年ほどにわたって検非違使として活動の所見がある。西園寺実氏の後見といわれており,武家との申次 をつとめるなど,同家において重要な立場にあったらしい。後嵯峨院の下でも,下北面の所司・御厩案主に任じられている。西園寺家の興隆を下から支えた人物のひとりといえよう。

中原師益の母親が、中原友景の娘である。

防鴨河判官左衛門権少尉中原朝臣(友景)でもある。

【綱文和暦】 寛元4年11月28日(12460110280) 2条
【綱文】 (第二条)前石見守中原友景、太政大臣実氏の使者として、関東に下向す、
【区分】 大日本史料
【人名】 中原友景,友景,藤原実氏,実氏
【官職】 前石見守,太政大臣
【地名】 石見
【事項】 使者,関東,下向



1228年、鴨川の氾濫時に、防鴨河使・勢多判官為兼(ぼうがし せたの はん がん ためかね、中原朝臣為兼)が、地蔵菩薩のお告げにより洪水を未然に防ぐことが できた。その報恩に地蔵尊坐像を安置し、雨止(めやみ)地蔵と名づけたという。

この中原為兼と関係がありそうである。



【編/冊/頁】 5編26冊294頁
【綱文和暦】 宝治2年7月19日(12480070190) 1条
【綱文】 後嵯峨上皇、院北面中原友景・同康景等に、院御領を頒与し給ふ、
【区分】 大日本史料
【人名】 後嵯峨上皇,後嵯峨,中原友景,中原康景
【官職】 上皇,院北面
【地名】
【事項】 院御領,頒与


中原友景はよほどの活躍があったと見え、文書が多々残っている。調べるのが楽しい!

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天武天皇の御陵が荒らされる。1235年

2017-01-23 | 雑記
こんなことがあったそうです。

【綱文和暦】 嘉禎1年3月20日(12350030200) 2条
【綱文】 (第二条)盗、天武天皇の御陵を発掘して、宝物を窃取す、
【区分】 大日本史料
【人名】 天武天皇,天武
【官職】
【地名】
【事項】 盗,御陵,陵,発掘,宝物,窃取

次の年に、検非違使であった中原友景が犯人を逮捕した!!

【綱文和暦】 暦仁1年2月7日(12380020070) 1条
【綱文】 検非違使中原友景、天武天皇御陵の盗犯人を逮捕し、是日、検非違使庁に押送す、
【区分】 大日本史料
【人名】 中原友景,友景,天武天皇,天武
【官職】 検非違使
【地名】
【事項】 天武天皇御陵,御陵,陵,盗犯人,逮捕,検非違使庁,押送

中原氏、快挙。

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古事記にも記載のある「豊浦」

2017-01-22 | 雑記
穴門(アナト)の豊浦宮
アナトは山口県の「長門」のこと。穴門は関門海峡をのぞむ土地。豊浦宮は山口県下関市長府町豊浦にあったとされる。

豊浦というと蘇我氏。蘇我蝦夷は「豊浦大臣」と呼ばれていました。
それは蘇我氏が豊浦に住んでいたからです。

といっても蘇我氏と仲哀天皇は関係ありません。…と他の方のブログにありましたが、

仲哀天皇とは関係ないかもしれませんが、神功皇后とはどうなのでしょうか?

このあたりは、詳しくありませんが何かありそうですね。

下の方のブログも面白かったです。

http://www.geocities.jp/ojyaru_24/toyo.html


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鷹飼町のお隣

2017-01-22 | 雑記


本郷が本郷城=久里城=九里氏がいた城である。

この鷹飼町のお隣であることは、江戸時代の地図にも書かれている。(九之里村として)



左上に見える〇〇浦は下豊浦村です。あれっ、でもここに豊浦があったとすると、鷹飼村とはちょっと離れていますね。混乱…

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真野氏のいた場所(近江国)

2017-01-22 | 雑記
そこで、近江の真野氏についても見ておきたい。
 真野臣は孝昭天皇後裔と称する和邇氏族の出であって、『新撰姓氏録』には右京皇別下に真野臣をあげて、「天足彦国押人命の三世孫、彦国葺命の後也」であり、韓地から帰来した和珥部鳥らが近江国志賀郡真野村(現大津市北部の真野)に住んで庚午年に真野臣の姓を負うとある。この後裔は史料にほとんど現れないが、当地に続いていたとみられる。
 近江の古族佐々貴山君の末裔になる称宇多源氏の佐々木一族にも真野氏が見える。佐々木系図には、佐々木行定(源三秀義の叔父。経方の子)の弟ないし息男に五郎大夫行範(真野)をあげ、その子に真野源二定時をあげるが、その子たちには石橋は見えるものの、真野の名乗りが史料に見えないから、それらの子孫のどこまで真野が名乗られたかは不明である。
 佐々木一族の真野氏が起こったのは実は志賀郡ではなく、蒲生郡真野(間野とも書き、JR近江八幡駅の南方近隣の現近江八幡市鷹飼町辺り)であったことに注意したい。五郎大夫行範の子孫に古川・武佐・船木(苗字の地はともに近江八幡市域)などもあるが、間野は古川と武佐とのほぼ中間に位置する事情がある。この真野氏は系図に間野とも見え、間宮氏がその一族にある。志賀郡から琵琶湖対岸の日牟礼八幡宮辺りに和珥一族の櫟井臣が遷ってきたが、その故にマノの地名を伝えたか同族の真野臣も一緒に遷ってきたかの事情があろう。佐々木一族にも、イチイ氏があり、五郎大夫行範の兄・三郎大夫行実の孫の家職が一井三郎と名乗っている。家職の子にも真野大輔房源定が見えるが、間野の地の北方近隣に市井があり、その付近に日牟礼八幡宮があり、その東方に浅小井、西方に船木の地がある。三郎大夫行実の長子が浅小井源太盛実で、これが一井三郎家職の父であった。

 『太平記』には巻二に佐々木判官時信(嫡宗の六角氏)の配下として真野入道親子が見えている。この真野入道の系譜は不明であるが、宇多源氏の佐々木一族と称する真野氏が四目結紋を用いたと『日本紋章学』に見えるから、佐々木一族真野氏の子孫はあったものか。戦国期には真野城に真野元定がおり、六角氏に属したといい、その子孫が江戸幕臣の真野五兵衛盛次だといい『寛政譜』に家紋が「丸に四目結」と記す。これら近江の真野氏においては、どうも古代真野臣と佐々木氏族が系譜的にも所伝的にも混融しているようだが、その実態が不明である。
 なお、藤原支流という真野氏は菊紋、藤紋、茗荷紋、桜紋を用いたと同書にあるが、茗荷紋は平姓を称する真野氏も中根氏も用いたというし、平姓の三浦氏族の出という真野氏で藤丸・藤巴を用いたともいうから、この辺の区別はよく分からない。
 
九里のいた場所と近いあたりが、また気になる。

この上記の記事、webからいただいていて、どうしてもどなたの文章だったのかが見つからないので、無断借用です。ごめんなさい!
いろいろな記事の【継ぎはぎ】だったかもしれません。

でも、とても重要なことです。
コメント (18)
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豊浦庄(近江国)

2017-01-22 | 雑記
活津彦根神社 (イクツヒコネ)
御祭神
活津彦根命
御神紋
横木瓜
御由緒
創祀年代不詳。社伝によると豊浦庄の産土神の意を以て正神大明神と称す。社宝として永禄7年2月23日飯道寺善光坊法印行慎佐々木豊浦村山王大権現正神大明神の墨書の銘ある十一面観音像を蔵す。慶長15年8月杉田九郎兵衛の寄進の金燈寵銘文にも正神大明神と記されている。正徳3年6月に吉田家より正一位の宗源宣旨を受け、その宣旨には正一位活津彦根大明神と記されている。詔勅6年石鳥居を建つ、現在の社殿は寛永3年柱を根継ぎ等の大修理せしものである。明治9年村社に列す。同42年神饌幣帛料供進指定。
本殿・境内建物
〔本殿〕三間社流造 間口二間三尺 奥行二間三尺
〔拝殿〕切妻造 間口六間 奥行四間
境内社(摂社・末社)
蛭子神社 津島社

~~~*~~~

この【津島社】であるが、真野氏との関係をご覧になっていただきたい。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/mano1.htm

http://tsushimajinja.or.jp/story.html

http://www.yasaka.org/KOBO/tokitunaoboegaki.html

そして、九里には九里対島守が鹿苑日録に出てくるのである。

江戸時代には九里九郎右衛門が対馬を訪れている記録も残っている。

真野氏と九里氏の接点を見つけた思いである。


私的メモ。


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関裕二氏の「天武天皇 隠された正体」と「素鵞」そして「蘇我氏」と「物部氏」

2017-01-22 | 雑記
このところ、まとめて関氏の本を読んでみた。「物部氏の正体」を昨年読み、「聖徳太子は蘇我入鹿である。」を読み、「天武天皇 隠された正体」に入り、「天孫降臨の謎」をこれから読む予定であるが、この方の説をそのまま信じると、天武天皇は蘇我入鹿の息であることになる。

私は、いつもド素人の立場なので、まっさらな固定観念のない目で見ることができる…とおもっているが、この方の説は、わが九里氏の歴史との接点で考えてもあっているのではないかと思う。

なぜならば、九里を調べていると、どうしても聖徳太子との関連も見え、かつ近江国御家人井口中原系図での始祖は天武天皇である。

そして、説によると天武天皇の大和時代前の舞台が出雲であった過去となっている。



久利氏が清原氏となったのが「石見国」一宮は「物部神社」であり、出雲国のお隣である。ちなみに出雲国の一宮は「出雲大社」である。

九里浄椿がこだわったことに「豊浦庄」の代官になりたいということがあったが、この「豊浦」とは「豊浦宮」と関係があるのではないだろうか。
とすれば、推古天皇は、第29代欽明天皇の皇女で、母は大臣蘇我稲目の女堅塩媛。第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟。蘇我馬子は母方の叔父、であり、蘇我氏と関係があり、しかも用明天皇の妹である。
そして、幼名が「額田部皇女」である。



天武天皇は「飛鳥浄御原宮」(あすかのきよみはらのみや)で政治を行うが、そこは蘇我入鹿が殺されたところである。=父親であった聖徳太子の亡くなったところ…となる。

http://www.asukabito.or.jp/sansaku/2008/01/post-14.html


橘寺・飛鳥寺・・これらも蘇我との関係のある寺であり、その近くに宮を置くこと自体が「蘇我氏」と深いものがあったと思うのである。

蘇我は素鵞でもある。

以上は私的メモ。

http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90

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金沢の九里氏

2017-01-18 | 九里バラバラ情報
【赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!】さんのページで、金沢の九里氏のことが紹介されている。
http://blog.goo.ne.jp/magohati35/e/84c3b5b701e1e6aa3b844d61267fafb6

とても嬉しい発見であり、その中の富田景州(周)と九里のキーワードで検索してみると、意外なことも発見することに至った。

【加越能三州志】の289頁に「九里少蔵」は庄蔵であり、覚右衛門の祖である。と出ているのである。

私の持っている金沢の系図を復習すると…

1543年(天文11年生まれ)九里甚左衛門正貞 二人の息がおり、永正と貞則である。又、二人の娘は小塚氏・岩田氏に嫁している。

九里永正が、先ほどの三州志に記載のある覚右衛門の父である。

覚右衛門正長は1613年(慶長18年生まれ)夕庵となる。

その息が将興
彼は子が早世し、妻も亦先に没し、精神のバランスを崩してしまう。

それまでの将興の舊過を以って、夕庵の家督を折半し、九里覚右衛門貞正治兵衛泰孝が継ぐこととなる。
貞正は1689年(元禄2年生まれ)九里喜兵衛貞政の息である。

では、この覚右衛門永正の父甚左衛門正貞の父(要は永正の祖父)が少蔵(庄蔵・勝蔵)なのであろうか?
この少蔵は佐々成政と戦った時の記録に名前が載っていたはずである。

そして、この貞政こそが「政」の通し字である柏原藩の九里政直の系とどこかで繋がるのではないだろうか?
しかし、我が家の系は八郎右衛門なので、違うかもしれない。

これからの課題として調べたい。







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