九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

多賀豊後守高忠の弟は久徳だった!!! (久徳定高)

2018-02-08 | 佐々木氏

久徳氏代々の居城。
文明年間、久徳定高(多賀定高)による築城。
久徳氏は多賀氏の一族で、多賀豊後守高忠の弟・二郎定高が久徳姓を名乗ったことが始まり。
京極氏・浅井氏に仕え、久徳実時の代には高宮城主の高宮氏、敏満寺の坊官・新谷氏などと婚姻関係を結び、勢力の安泰を図る。

久徳は、くのりなんだけれど紛らわしいから「きゅうとく」にしたのかな?

https://masakishibata.wordpress.com/2017/02/04/taga-kyutoku/

そして藤堂氏にも多賀高忠の弟が・・・

https://sasakigengo.wixsite.com/takatora/blank-2

そういえば、小堀遠州が金沢の九里家に短期だが滞在していた記録がある。
何かしら、藤堂氏とも関係はあると思う。(同じ江州中原姓でもあり、同じ系図内同士でもある。)


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多賀豊前守高忠の養子? 小倉左近将監実澄

2018-02-08 | 佐々木氏
早稲田大学 古典籍総合データベース の中に「実澄記」があったのでのぞいてみた。最後のページに「そうだったの?」ということが書かれていた。
この本を写本した方が書いたのだと思うが「多賀豊後守高忠 養子」と書かれていた。
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko20/bunko20_00379/index.html



浄椿が「小倉実澄」に預けられて育った話が思い起こされた。
この辺りを解くきっかけになるのではないだろうか?

多賀氏と小倉氏、そして小笠原氏や飛鳥井氏とのつながり。

浄椿の名前は高雄である。この「高」は多賀高忠からいただいた「高」かもしれない。

武家家伝 小倉氏 によると
横川景三の題した『小倉実澄寿像賛』によれば、実澄は多賀高忠と行動をともにして、犬上郡八尾城に出陣したとある~~そうである。

思い起こすと、景徐周鱗に『片岡桂嫩』と亡くなった後に付けられた名前があった。この片岡も多賀の由来の「片岡」だったのかもしれない。

片岡常春四代孫が多賀豊後守高忠になっている系図

「本阿弥系図」には多賀高忠の次男片岡次大夫の次男を光二

http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/片岡

…とすると、蒲生氏とも繋がってくるということになる。

日野と蒲生氏。

九里って、幅広い。
広すぎて、つかみきれないなぁ。。。
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佐々木荘 経方(佐々貴宮神主職) 弟 経俊 日野冠者

2018-02-08 | 佐々木氏

日野氏を調べているのだが、佐々木氏の系図の中にも「日野冠者」がいた。
佐々木経方(兵庫助 従五位下・佐々木荘下司・佐々貴宮神主職)の弟の【経俊】である。

母親も経方と同じ『後冷泉院 女房綾御方』である。
経俊が日野冠者で、その息【経貞】が日野小太郎である。


伊庭貞剛氏の『幽翁』という本に、「ご先祖佐々木経方の代より「佐佐木宮の神主に補せられた」とある。
九里もそう遠くはないはずである。

「日野冠者経俊」は、その時代の日野の下司を任されていたのではないだろうか。
経方が佐々木荘を任されていたように!

では、誰に任されていたのか。

ひとつの可能性として、「近江守源済俊」である。この人の孫は「藤原有国」である。有国は日野流七代目と言われている。

藤原 在国(改名有国)
[ 天慶6(943)年 ~ 寛弘8年7月11日(ユリウス暦:1011年8月12日) ]
大宰大弐輔道四男。母近江守源済俊(守俊の説もある)女。号・弼宰相。
永祚2年8月30日(ユリウス暦:990年9月21日)叙従三位。
従二位・参議。

コトバンクによると

天慶(てんぎょう)6年生まれ。藤原輔道(すけみち)の3男。藤原兼家の家司(けいし)。関白の後継に藤原道隆を推さなかったため,道隆ににくまれて一時官位をうばわれた。のち藤原道長の家司をつとめ,長保3年(1001)参議,従二位となる。詩は「本朝麗藻」などにおさめられている。寛弘(かんこう)8年7月11日死去。69歳。初名は在国。

平安中期の官人。もとの名は在国。従二位,豊前守輔道と近江守源守俊(一説に済俊)の娘の子。正暦1(990)年蔵人頭,次いで従三位(非参議)となる。翌年に秦有時殺害事件に連座して官位を奪われたが1年後に復位。大宰大弐を経て長保3(1001)年,参議となり修理大夫を兼ねた。摂政藤原兼家により平惟仲と共に「左右の眼」と重んじられた。摂関を子の誰に譲るか兼家から相談を受け,道兼を推したことで関白となった道隆(惟仲が推薦)に冷遇されたが,道長時代に復権した。妻橘徳子(橘三位)は一条天皇の乳母を務め,その皇子後一条天皇の乳付もした。博学で漢詩をよくし『勘解由相公集』2巻を著し,『本朝麗藻』などに漢詩を多く残す。応天門の変(866)で失脚した伴善男に容貌が似るところからその後身との説があった。

日野流はその後
 藤原資業 藤原有国の七男? 母:橘仲遠の娘 日野流8代 生没年:永延2(988)年 - 延久2(1070)年8月24日
 藤原実綱 藤原資業の子 日野流9代 …と続く。


藤原実綱(日野家流)の息に「有綱」「有俊」「有信」「有定」=(有房)「有長」「実円」がいる。

「有綱」の娘が源義家の妻となっている。
そして「有定」の孫たちが「有仁の勾当」となっているのである。
そして、「散位源行真申詞記」にでてくる「友員の兄弟たち」の名前と重なる部分があり、私は気になっているのである。



兄友房・弟末高は、日野家の有房(季隆の義兄)と季隆 がその人物にあたるのではないだろうか?
そうすると、佐々木宮の神主の一族であるらしい「友員」とこの日野家が重なることとなるのではないだろうか?

その他にも、義国の妻も日野家から出ており、日野家と源家・佐々木家とは縁が深いようなのである。



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