よき故郷を次代へ

どこで生まれようが、そこが故郷。日本にうまれてよかった!と思える幸せ。幾多の先人の素晴らしい遺産を・・・

鏡餅

2015-01-30 21:14:57 | お餅つき
 1月30日 (前回のつづき)
 
 最初のもちで鏡餅を作ります。父が2つに分けてそれぞれを丸く鏡ににしていきます。大と中くらいの鏡が出来上がり、餅箱の中へ、そこでも鏡が修正されます。子供はさわらせてもらえません。2回目の餅で小さい鏡餅が作られます。神棚へ供えるのです。
 3回目ぐらいから小餅づくり。子供でも触れます。父が、小さくちぎってくれます。それを、手に取り、丸めるのです。「あち、あち」といいながら。餅を手の上で伸ばし、丸いあんを包むのです。これがむつかしい。餅の皮が破れたり、上は薄く、下が厚くとなかなかうまくつつめません。それを、ぱくり。「おいしい!」口にほうばりながら、次のあん餅つくり。餅が冷めて硬くならないうちに作業を終わらなければなりません。で、半分を餡餅に、残りは、小餅に。すばやくまるめていきます。「なんや、この丸め方は!」といわれながら。ときに、きれいにできたときは、きもちいい。
 雑煮に入れるこごめ(屑米)を入れたもちを2,3臼ついて終わりです。搗いたのは8臼ぐらいでしょうか。後かたずけをしたら夜でした。
 家族、一人一人がその能力に応じた持ち場があり、その責任を果たして、あわただしい年越しの餅つき、おわりです。
 我が家では「寒餅」といって、1月末の寒中にもたくさん餅をついていました。主に、1年間のおやつになる「かきもち」をつくるためです。少し乾いたもちを押切で薄く切ります。それをむしろに並べて干します。きられたあかや黄色のもちがきれいに並んでいました。
 かき餅は焼いたり、焼いてすぐに砂糖を入れたお茶につけたり、油で揚げたり、でおいしいおやつになりました。
 冷蔵庫のない昔、小餅はカビが生えないように壷の水につけて、お雑煮にして食べていました。私は、口で小さくちぎって、茶碗に戻し、あじつけ?をしてたべていました。「きたない!」て叱られた覚え、ないなあ。次回へつづく
 

ふるさとの「お餅つき」

2015-01-29 21:23:06 | お餅つき
 「もちつき」は、私にとって、6・70年たった今でも忘れがたい我が家の一家総出の楽しい行事でした。
 年の暮れ、母はもち米を水に浸します。そして、29か30日、台所の一番大きな「くど」(はがまをかけ、火を焚くところ)に水の入ったはがまを乗せます。湯が沸騰してくると、もち米のはいいた「せいろ」(木の蒸し器)を3段にのせます。せいろの上から水蒸気が立上ったころ、上だんをとり、一番下のせいろに箸をたてます。橋の通り具合で、蒸しの出来具合を判定します。父が、その蒸しあがったせいろをかかえて、石臼の中へ。白い湯気がもうもうと立ち上がります。すぐに、父は、杵を持ち、こねはじめます。その間に母は、せいろにもち米を入れ、3段目に置きます。そして、臼のそばに。父が搗き、母がこねる。「はい」「や」の母、父の声が繰りかえされます。時に、母は、手に水をつけながら。(手を冷やし、餅が着かないように)搗きあがると父は手に水をつけ臼の中で丸め、りょてに抱えて、米粉のまかれた台の上へ。ーつづくー

宗教と表現の自由

2015-01-20 21:45:24 | 戦後70年
 1月20日(火)
 
 日本政府(安倍総理大臣)は、インターネットで、身代金を請求されました。聞いて「やっぱり」と思われる方も多かったのでは。
 私も「表現の自由」は、絶対譲れない者の一人です。それは、人類の過去の歴史からです。時の支配者(権力者)は必ず、言論の統制をしてきました。しています。その犠牲になってきたのが、その社会を支えている民衆です。民衆同志を敵対させるために言論統制、武力が使われてきました。
 「人を殺すことなかれ!」の宗教も、また、その信仰のもとに沢山の殺人の罪を犯してきました。
 夫婦喧嘩でも、手を出した方が負け。わたしも、女房との口げんかに負け、手を出してしまったことが何度か。深く悔いています。
 「目には目。歯には歯・・・・・」(旧約聖書出エジプト記21-24)にありますから、ムスリムの聖典にもあるでしょう。新聞には新聞で、とこれは冗談ですが。
 言論の自由に制限があることは当然です。人権を守るためですので、その人権を侮辱するのは、許されないと。また、仮に言ったとしても聞いた人を納得させられないでしょう。
 一人として同じもののない人間。多様であるのが人間。長い歴史に培われたその土地その土地の文化も多様。お互いの「寛容と赦し」しかありません。
「話し合い、話し合い、話し合う」そこに共存の理解ができるのでは。もっと女房と話をしようと。

「死ね」と、ヘイトスピーチ

2015-01-14 22:31:39 | 戦後70年
 1月14日
 昨晩のNHK「クローズアップ現代」を見られましたか?
 私は、2,30年前女房と女房が私の大事にしているヤマモモの木の枝を勝手に切ったことを発端にした口げんかをしてる時、女房の口に勝てず「死ね!」を言ってしまいました。それ以後、何かあると「あの時、あんたは、死ね!といったね」と古い傷を出してきます。私の記憶では、人の前で「死ね」を口にしたのはこれが初めての最後。
 私のように、一時の感情でも言うべき言葉ではありませんが、それを数人のデモ行進で言うとは!言ったその先には、何の希望があるのでしょうか。誰が喜ぶのでしょうか?計画されたデモでの発言ですので、発言者の理性ある発言と思いますが。いくら言論の自由と言いながら、死ねや殺すはねえ。デモという集団だから堂々と言えるのかなあ。しかしそれが私は怖いです。

「死んで帰って来い」と「非国民」

2015-01-10 21:04:22 | 戦後70年
1月10日(土)

 先の衆議院選挙の結果を、我が日本が戦争に巻き込まれる確率が上がった、と私はとらえました。今までの「専主防衛」が「集団防衛」に変わるわけですから、日本が戦争にかかわる機会が増える。その単純な考えからです。
 7,80年前の日中、日米戦争の原因を2つ上げるとすれば、「日本経済の恐慌」と旧憲法の「統帥権」でしょう。
 今、日本は、莫大な借金を抱えながら、デフレ脱却を目指して、赤字国債を発行しつづけています。もう、発行し続けるしかないでしょう。その行き着く先は「大恐慌」
 かつて、1銭5厘の招集礼状で参戦した息子に「お国のために死んで帰って来い」と親に言わしめた背景に、遺族補償の増額の期待があったことは、ないことではありません。
 旧憲法下でも、国会の承認がなければ予算の執行はできません。しかし、政権を無視した軍部の独断行動を予算から止めることができず、ある程度うまくいっていた高橋是清の金融政策がだめになりました。軍部を称賛する雰囲気?が政府やマスコミにより作られ、その雰囲気にのまれ、流され、国民は「非国民」と言われるのが恥となり、優秀な男児は軍隊へとなったのでは。
 どうも、考えがまとまりません。70年前までと根本的に違うのは、「言論・集会・結社の自由」が認められていること。あほな私でも言える日本、いいなあ。