「あい」の風景画

短いものがたり、そしてふぉとに添えた言葉たち

想いはきっと

2006年04月23日 | 無色のスケッチ
「おばあちゃんが、倒れた」
母から電話が入ったのは、里佳が仕事に行こうと身支度をしている時のことだった。

里佳が、全くの気まぐれに単身で沖縄へ渡ったのは昨年の秋のことだ。
親戚も友人もいない知らない土地。
生まれ育った東京に飽きてしまったから、という単純な理由に、父も母ももちろん反対したが、それを押し切る形で飛び出した。

おばあちゃんは父の生まれ故郷、名古屋で一人暮らしをしていた。
憧れの沖縄に移り住んだはいいけれど仕事以外の知人もなく、かといって両親に弱音も吐けなかった里佳は、おばあちゃんに手紙を書いた。
「行動力のある里佳を、誇りに思うよ。だけど最後に味方になってくれるのはお母さんだからね、お母さんは大切にしなくちゃいけないよ」
返信にはそうしたためられていた。
それから半年後の3月、里佳の誕生日祝いに添えられたおばあちゃんの手紙には、
「来月あたり、暖かい沖縄にお邪魔するとしますかね」
と書き添えられていた。
里佳は喜んで、贈り物のお礼の手紙に、
「いつでも待ってるよ。空港にも迎えに行きます」
と書いてポストに投函をした。
母から電話が来たのはその翌日だった。

父の妹である早紀子叔母が同じ名古屋市内に住んでいる。
たまたま会う約束をしていたのに、待ち合わせ場所に来ないのを不審に思った叔母がおばあちゃんの家を訪ねて、ベッドに横たわったまま大きなイビキをかいているのを見つけた。
「くも膜下出血」。
飛行機で駆けつけた里佳を含む親族を前に、医師はそう病名を告げた。
手術をしても回復の見込みは低い。
元気だった頃のおばあちゃんが「ぽっくり死にたい」と口癖のように言っていたのを、集まったみんなは覚えていた。
「延命治療は止めよう」。
意識が戻らないおばあちゃんの周りに、遠くに近くに住む子供や孫たちが次々と訪れて、毎日交代で付き添った。
外国に住んでいた孫がようやく帰国してその手を握った3日後、おばあちゃんは静かに息を引き取った。

おばあちゃんの亡骸が家に帰った日、里佳はそっとポストを開けた。
手紙は届けられたまま、ポストの底で眠っていた。
「おばあちゃん、私、ちゃんと幸せになるからね。見守っててね」。
里佳は心の中でつぶやきながら、その手紙を柩に納めたのだった。

てきすたいる・スケッチ0413

2006年04月13日 | てきすたいる・スケッチ
まだ赤ん坊の妹は泣き声すらあげずに、ぼんやりと薄目を開けたまま眠っている。
枯れ木のように腕の細い彼女の唯一生きている証は、膨らんだ腹部がわずかに上下し続けていることだけだった。
ざらっとした風が一瞬吹き過ぎて、開け放したテントの入り口から細長い葉が舞いこんできた。
少年はひざを固く抱いていた腕をほどいて手を伸ばし、その葉を指先で摘み上げた。
それはキャンプ地のあちこちに細々と生えている雑草の切れ端だった。
ふちのほうから茶色く乾いて、中心部が申し訳程度に緑を残している。
少年は機械的にそれを口の中に押し込んだが、口の中のいやな感触に気付いてすぐに吐き出した。
そんな葉が食べられるはずもないことくらい、学校に通っていない彼でもよく知っていた。
目を開けたまま横たわっていた弟が、少年の吐き出した物に気がついてすっと手を伸ばしたが、少年はその手を力なく叩いてそれを制した。
弟は砂埃にまみれた手をノロノロと戻すとまた黙って空中を見つめた。
黒い大きなハエが耳障りな音を立てて、眠っている赤ん坊の腹に止まった。

卒業式前夜

2006年03月16日 | 雪色のスケッチ
ホワイトデーに遠藤くんから、他の女の子と少しでも違うものがもらえたら、卒業式の日に告白をしよう。
それは茉未のバレンタインデーの日の決心だった。
3年間、ついに一度も一緒のクラスになることができなかった彼。
サッカー部のエースで、他校との試合ともなればあちらこちらの観客席から黄色い声援が飛ぶ。
茉未は高校に入学してすぐ、中学時代からの親友である蒼子に誘われて、サッカー部のマネージャーになった。
ショートカットの髪にえらの張ったあご。
腕も足もむっちりとして、健康そうではあってもセクシーさのかけらもない。
正直言って自分でも女らしいとは思っていなかった。
それに比べて蒼子は華奢でかわいらしいという言葉が似合う子で、部員からはきちんと女扱いされていた。
茉未はと言えば、仲間や友だちとしての親しさは示してもらえても、それ以上に見てもらえない。
部活の中ではそれで構わなくても、遠藤に想いを寄せるようになってからはそのキャラクターは茉未にとって辛いものになった。

名門とまでは言えなくてもそこそこの成績を残している茉未たちのサッカー部は、朝も放課後も休みの日も、練習三昧の毎日だった。
そして夏休みいっぱいで、三年生は引退となる。
最後の試合で負けてしまったことよりも、これからはめっきり会える機会が減るということが、彼女にとっては何より悲しかった。
受験も終わり、今度は卒業式が近付いてくる。
卒業してしまえばもう本当に会うチャンスはなくなってしまう。
バレンタインデーは自由登校日だったが、茉未は蒼子と一緒にたくさんのチョコレートを手作りして、サッカー部のみんなに配ることにしていた。
三年は誰が登校してくるかということ自体が賭けだったが、茉未は蒼子に励まされて、他の部員のものより少しだけ豪華に作ったチョコを持って、遠藤のクラスを訪れた。
「元マネージャーから、みんなへ最後のチョコだよ」
蒼子が軽く言って、昼前に登校して来た遠藤に、茉未は無事にチョコを手渡すことができた。

ホワイトデーは卒業式のリハーサル日に当たっていた。
受験の終わった元部員たちは、なんとなく登校してきてなんとなく部室に集まる。
クラスの女の子や後輩からたくさんのチョコをもらった遠藤は、お返しを配るのに走り回っていた。
夕方になって後輩たちの部活の終わり時間も近付いた頃、ようやく遠藤がみんなに合流した。
「モテる男は大変だねえ」
「マジ疲れたって」
「俺らもらえない分、今日は楽だったぜ」
みんなの会話を笑って聞いているふりをしながら、茉未の緊張は嫌が応にも高まっていく。
「ちょっと、まだ終わってないよ、私たちの分は?」
蒼子が両手を差し出しながら遠藤に言う。
「なに、まだマネージャーたちに渡してなかったのかよ」
誰かが茶々を入れて、遠藤が苦笑いをする。
それから右肩にかけていたリュックを下ろして、きれいにリボンのかかった小さな箱をふたつ出した。
「はいよ、お返し。蒼子と茉未にはマネージャースペシャルっつーことで、ちょっとだけ高めのやつにしたんだからな。感謝しろよ」
「さっすが遠藤ちゃん」
蒼子が言い、
「わかってんじゃん、ま、私らがいなかったらうちのサッカー部はなかったといっても間違いじゃないからね」
飛び上がりたい気持ちがバレないようにと茉未もあわてて口車に乗った。

小箱に入っていたのは、ラベンダー入りクッキーの小袋とハーブティーの詰め合わせ、それにゼリーキャンドルだった。
キャンドルは半透明の紫で、中に小さな貝殻まで入っている。
茉未はその夜、ハーブティーをすすりながら、キャンドルに火をつけずにいつまでも飽かずながめていた。
明日、告白しよう。
このクッキーに感謝以上の気持ちが入っていなかったとしても、そして振られたとしても、気持ちを伝えずにただのマネージャーで終わりたくはない。
せめて遠藤の高校時代の大きな思い出として憶えていてもらえる存在として、明日は必ず想いを言葉にするんだ。
遠藤に告白する子は他にもいるかも知れない。
でも負けるもんか。
茉未は大学の合格発表の前日よりも興奮がおさまらないまま、なかなか眠りに就けないでいた。

仕事仲間

2006年02月07日 | 闇色のスケッチ
私と美紀は合わなかったのかもしれない。
こず枝は美紀のことを思い出すたびにそう感じる。
こず枝のバイト先である全国チェーンのドラッグストアに美紀が入ってきたとき、彼女の第一印象はあまり良くなかった。
美人で悪い子ではなさそうだったが、自分のことばかり話したがるのが気になった。
それでも同じ化粧品売り場の担当になって仕事を教えてみると飲み込みは悪くなく、仕事後に一緒にご飯を食べに行くなど仲良くなれたようにこず枝は思っていた。
バイトの中では26歳のこず枝は年かさのほうだった。
大概が学生バイトで、美紀のようなフリーターでも20歳そこそこという子が多い。
こず枝は年下の子たちともまあまあ仲良くやっていると感じていたが、23歳と、より年が近くて社交的な美紀は、入って間もなく他部門や社員も含めたみんなと親しくなっていた。
たまにしか来ない本部の社員とも、先にいた自分より親しげに話すのを見て、こず枝は落ち着かない気持ちにさせられることもたびたびだった。
こず枝がもうひとつ、美紀のことで気になることがあった。
それは美紀が気分屋だということだ。
調子のいいときには熱心に仕事をするのに、前日に遊びすぎて疲れていたり気分が乗っていなかったりすると、平気で売り場を抜け出して休憩をしている。
他の子たちは彼女のいない場所でそのことに文句を言うが、面と向かっては言わない。
社員ですら見て見ぬ振りをするのが、こず枝には余計に腹立たしかった。
かといってこず枝が注意をすれば、美紀は「与えられた仕事はきちんとしている」と胸を張る。
そしてついに、転勤して来たストアマネージャーと付き合うようになってからは、お店は彼女の天下のようになってしまった。
美紀自身のことは、なんだかんだ言っても嫌いにはなれずにいたこず枝だが、新しいストマネのやり方や考え方はどうしても納得がいかない。
美紀の彼氏でなかったら、口も利きたくないくらいだ。
そんな状態が半年ほど続いて、ストマネに再び転勤辞令が出て、美紀もそれについていくことになりこず枝のいる店を去った。
転勤した美紀からは、時々思い出したようにメールが来る。
けれども他の子のところに来るように、電話がかかってきたりはしない。
私が彼女とどこか合わないと違和感を感じ続けて来たように、彼女も自分を本当に頼りにしていたわけではないのだろう、とこず枝は思う。

てきすたいる・スケッチ0114

2006年01月14日 | てきすたいる・スケッチ
植え替えて間もない水草たちの間を、魚たちがゆらゆらと泳いでいる。
流木に巻きついたウィロモスは水槽の中の水流に身を任せて、コケのような短くて濃い緑の葉をひらひらと振って見せている。
時おり流木の陰から覗き見をするように姿を見せる小エビは、すっと上を通りがかる魚の影におののいて、一瞬にして身を潜めてしまう。
人工的に作り出された二酸化炭素の泡が水流に乗って60cmの水槽の中にいきわたり、これから育とうとする水草たちはエサを求める魚のように、こぞってその泡を身にまとっていた。
ごく小さな無数の水泡が、水槽の上のライトに照らされてイルミネーションのように輝いている。
身体の大きなエビが泡にまみれながら、細長い手足を器用に使って葉に付いたコケをつまんでは口に運ぶことを繰り返す。
その横を群れをなしたネオンテトラがすべるように泳ぎ過ぎていく。
水槽の壁まで行けばふっと向きを変えて、また同じように群れながら泳ぐ。
サーモスタット付きのライトに温度計、電気モーターで動く濾過器、厚手のガラスに囲まれた人工の水空間は、電子機器類の真ん中で生活をしているようなわたしに、静かに呼吸する瞬間を与えてくれている。

一周年

2005年12月21日 | 草木色のスケッチ
最初に告白をしたのは恵一のほうだった。
わかばの友人で隣のクラスにいる三奈の親しい仲間の一人に恵一がいて、何度かみんなで遊びにでかけているうちに仲良くなった。
高校一年の二学期、終業式の終わった後に行ったボーリング場で、ジュースを買いに外れたわかばを追いかけてきた恵一が、彼女に告白をした。
2人にとって、お互いが初めての彼氏と彼女。
気になっていた恵一から告白されたわかばは有頂天だった。

クリスマスには一緒に映画を観に行き、ネットで交換日記をする。
初詣はいつもの仲間とみんなで一緒に行った。
短い冬休みが終われば学校が始まり、恵一は剣道部の活動が忙しくなってなかなか一緒には帰れなくなった。
帰宅部のわかばは放課後、用事もないのに学校に残っては、恵一の部活が終わるのを待った。
けれども彼はわかばが「待ってるよ」とメールを送っても、「先に帰りなよ」という返事をするだけで、部活が終わってもメールのひとつもせずに部活仲間と帰ってしまう。
放課後の短い時間が、クラスの違う彼と会える唯一の時間。
そう思っている彼女は何とかして会いたいと、恵一が電車を乗り換える駅のホームで何時間も待つこともあった。
照れているだけなのか、それとも「好き」と告白はしたものの付き合うつもりはなかったのか。
空っ風の吹くホームで、ある日はむせ返るような暑さの中で、わかばは恵一を待った。
時々どうしても不安になって「ウザい? 迷惑?」と聞けば、恵一は決まって「そんなことはないよ」と答える。
けれどもいつの間にか、ネットの交換日記も途絶えてしまっていた。

不安定で今にも切れそうな弱い糸のような付き合いながら、それでもちょうど1年が経った。
わかばは、今まで相談に乗ってくれていた友だちに会うたびに「今日で1周年なんだ」と弾んで報告をした。
6時限目の授業が終わる直前に、わかばは恵一からのメールを受け取った。
『放課後、セブンで待ってる』。
恵一の方から一緒に帰ろうと誘ってくるなんて。
なんだかんだ言っても、彼も1周年を意識しているのかも知れない。
わかばは帰りのホームルームが終わるなり教室を飛び出した。
そんなわかばを待っていたのは、彼女が望んだのとは正反対の恵一の言葉だった。
「ごめん、わかばのことが好きな気持ちは変わらないけど、なんか違うんだ。どういうつもりがあったってわけじゃないんだ。でも、これ以上お前とは付きあえない。友達に戻ろう」。

頭の芯がじんじんと痺れて言葉が出て来ないわかばの背中をそっと支えるようにしながら、恵一は彼女を最寄の駅まで送った。
その仕種が、今までで一番「彼氏らしい」ように、わかばには思えた。

てきすたいる・スケッチ1217

2005年12月18日 | てきすたいる・スケッチ
さらさらとまっすぐに、休むことなく粉雪たちが落ちて来る。
窓から道路向こうの家を眺めているだけなのに、遮るように降り続く粉雪のせいで青い外かべさえもが白っぽく霞んで見えた。
日がな一日大きな窓の外の移り変わっていく雪を見つめていると、ふいに自分の上にもそれが静かに積もり始めているような錯覚におちいる。

粒は細かくても、町全体が大型冷凍庫のような大気でしっかりと作られているから、地上に降りてもきちんと残る。
落ち損ねたナナカマドのグリーンピース大の実にも、投函されたチラシでできた新聞受けのすきまにも、粉雪はさらりと落ちて来てはチンと座っている。
そうして町にある色という色の全てを奪って、いつの間にか自分たちの色一色に塗り込めてしまうのだ。
きれいなものも、醜いものも何もかもを隠し、音さえも吸い込んでいく。
時が流れて太陽がまた力を取り戻し、冷凍庫の鍵を開けてくれるまで。

クリスマス・プレゼント

2005年12月10日 | 錆色のスケッチ
12月に入ってから、美紅はバイト先を体調を壊したという嘘をついて長期の休みをもらった。
バイトに行こうと家を出れば、右も左もクリスマスムードであふれかえっている。
それに、どうしても耐えられなかった。

一年前の今ごろ、美紅には敬二という優しい彼氏がいた。
付き合って6年、次の正月には彼が美紅の両親に正式に挨拶をするということにもなっていた。
そのことを美紅も心から嬉しく思っていたはずだった。
毎年お互いの誕生日とクリスマス、バレンタインとプレゼントを贈りあっていれば、だんだんどうしてもネタがなくなってくる。
そこで敬二が言い出したのは、お互いがお互いに年末ジャンボ宝くじをプレゼントする、というアイディアだった。
「もし3億当たっちゃったらどうしよう?」
「いくらなんでも3億は欲張りすぎだね」
「でも100万くらいは当たるかもしれないでしょ」
「当たったら、どうする?」
「どっちが当たっても、一緒に使おうね」
最後にはどちらからともなく、もしも本当に当たったら結婚資金にしようねと言い合った。
売出しが始まるとさっそく「夢をプレゼント」を合い言葉に、2人はそれぞれ縁起のいい売り場を探して宝くじを買いに行った。
その場所で美紅は、隆基に会ってしまった。

17歳から22歳までの間、隆基は美紅の彼氏だった。
ただしずっと付き合っていたのではなく、付き合っては別れ、よりを戻してはまた別れるという不安定な関係だ。
5歳年上の隆基には、いわゆるできちゃった婚の妻と子供がいる。
それを承知で付き合っては苦しむことを繰り返していた美紅を、思い切らせてくれたのが、当時彼女のバイト先で社員として働いていた敬二だった。
敬二と付き合い始めてからようやく安心した気持ちになれて、隆基のこともきれいに忘れることができたと美紅は思っていた。

けれども宝くじ売り場で再会した隆基は、独身に返っていた。
「ずっと、お前が忘れられなかったんだよ。今度こそ、俺の彼女として付き合ってくれないか」
懐かしさについ教えてしまった美紅の携帯に、隆基から毎日メールが来る。
それを無視する強さは美紅にはない。
敬二に悪いと思いながらも、美紅は隆基に返事をするのをやめなかった。

正月になれば美紅は敬二とともに実家へ行き、彼は両親に正式な挨拶をする。
そうなるともう後戻りはできない。
敬二を想う気持ちに変わりはなくても、隆基への想いは日増しに募っていく。
「当たると、いいね。抽選が楽しみだね」
美紅にクリスマスプレゼントを渡しながら無邪気に言う敬二の言葉に、美紅はあいまいにうなずいた。
その次の日、美紅は短い手紙だけを残して敬二と暮らしてきた部屋を出た。

除夜の鐘がかすかに聞こえてくる隆基の部屋で、美紅は敬二からのメールを受け取った。
『この瞬間に、プロポーズする予定だったのに』

結局、半年も経たずに隆基の浮気が発覚して、美紅は彼の部屋を去った。
今さら敬二のところには戻れない。
一人で暮らし始めるための引越しを終えてすぐ、美紅はカバンの底からプレゼントの宝くじを見つけ出した。
ネットで当たり番号を照合してみると、10万円の当たりくじが1枚ある。
けれどもそれを換金する気持ちにはなれなかった。
美紅はふちがほんの少し黄ばみ始めたように見えるそのくじを昨年の手帳に挟み込むと、押入れの箱の中にそっとしまいこんだ。

その穴の向こう

2005年10月15日 | 炎色のスケッチ
一、十、百、千、万、十万、百万……。
旅行も飲み会の誘いも断った。
洋服もほとんど買っていない。
化粧品は最低限だけ。
だって、もうすぐきれいになったら必要なものが大きく変わってしまうもの。
乃々花は貯金通帳を眺めながら、ひとりにやりと笑った。

団子っ鼻はすっきりとした鼻筋に。
ぽってりとした唇は薄く美しい形に。
厚い奥二重はぱっちりとしたきれいな二重に。
それから、それから。

小さい頃からコンプレックスだった乃々花の顔に、勇気をくれたのは秋男だった。
そしてその勇気を手ひどく砕き散らせたのも秋男だった。
社会人5年目にしてできた生まれて初めての彼氏、秋男。
自分に自信が持てなくていつもうつむいていた乃々花に、
「お前はそのままで十分かわいいよ」
「そのままのお前が好きなんだ」
秋男はいつもそう言葉をかけてくれていた。
最初のうちこそ素直に受け止められなかった乃々花だったが、やがてそれを信じてまっすぐ前を向いて歩けるようになれたのだった。
付き合いが5年を越えて乃々花が結婚を意識し始めた頃、秋男は突然に別れを切り出した。
何もかもが上手くいっていたはずなのに。
乃々花はどうしても納得ができなかったが、秋男は明確に理由を答えないまま彼女の前から姿を消した。

それから間もなくして、風のうわさが乃々花の耳に届いた。
「あいつ、結婚とか考えてたみたいなんだ。性格はいい奴だし文句はないんだけどさ、結婚は一生だろ? 俺、5年付き合ってもあいつの顔にだけは慣れなかったんだ。そんなんじゃ、結婚なんか絶対に無理だよ」
かわいい、という言葉は秋男が彼自身に言い聞かせるためのものだったのか。
心からそう思ってくれていたのではなかったのか。
乃々花は今までに感じたことがないほどの激しさで、全身の血が逆流するのを感じた。

整形してやる。
結婚資金にとコツコツ貯めてきたお金を全てつぎ込んで、別人になってやる。
そして秋男を探し出し、自分に惚れさせてからフッてやる。
以来、乃々花の唯一の楽しみは通帳の数字が増えていくこと、になった。
生まれ変われる日は近い。

逸る気持ちを抑えきれない乃々花には、目的を果たすことに成功した後の自分に残るであろう、深く底の見えない穴へ思いを馳せる余裕はなかった。

親心は時として

2005年09月15日 | 葡萄色のスケッチ
30歳近くになっても消極的で、彼女の話ひとつ聞こえないような息子の岳が、パソコンを買ってやってから少し積極的になったように見えて、律子はなんとなく嬉しい気持ちになっていた。
家にいるときは部屋にこもりがちなのは昔からだったから気にはならない。
仕事にもきちんと行っているし、と思っていたら、近頃はたまに寄り道をしてくるらしく帰宅の遅い日もある。
前にはほとんどやっていなかった携帯でのメールも、最近ではちょくちょく使っている。
これはもしかして、と勘ぐり始めていたときに、
「彼女ができたんだ」
と岳のほうから律子に告げてきた。

初めての彼女。
母親としてもどんな女性なのかが気になる。
けれども岳はそれ以上に詳しくは言おうとしなかった。

それから1ヶ月ほど経ったある晩、仕事から帰ってきた岳の顔は血の気を失っていた。
「騙されたのかもしれない」
そういう岳の厚い唇は震えていた。
慌てて律子が問い質すと、岳はポツポツと今までのことを話し始めた。

岳とその彼女は、出会い系サイトではないが、ネット上の趣味の掲示板で出会った。
話も合って、直接メールをやりとりしているうちに、それほど遠くないところに住んでいることがわかって会ってみることになった。
ちょっと派手めにも見えたけれど、自分より7つも年下となれば今どきの子はこんな感じかとそれほど気にも留めなかった。
それよりもこんなにいたって普通の子と付き合えることのほうが嬉しかった。
何度目かのデートの時、彼女が、自分の親に誕生日プレゼントを買ってあげたいと言い出した。
「自分のボーナスは来月だけど、親の誕生日は今月、自分はカードを持っていないからカード払いはできない。ボーナスが出たらすぐに返すから、立て替えて欲しい」
というのだった。
彼女の親ならいずれは自分の親になる人かもしれない。
岳は言われるがままにブランド物のバッグ、アクセサリー、それにプラズマテレビを買ってやった。
カードの限度額いっぱいだった。
そして、彼女からの連絡がプツリと途絶えた。
心配になった岳は、以前聞いていた彼女の住所を訪ねてみたが、そこは貸金業の窓口ばかりが入っているビルが建っているだけだった。

話を聞いて驚いた律子は、すぐさま品物を買ったという店に電話をし、騙されたから返金して欲しいと言ったが、現物がなければキャンセルはできないとすげもなく断られた。
次にカード会社に電話をかけ、同じように事情を説明して引き落としを止めてもらうように頼んだが、本人が利用してサインをしている以上、買った店からのキャンセル依頼がなければ止めることはできないと言われた。
「お店では、キャンセルできないと言われたんです。息子を殺す気ですか!」
電話口に向かっていくら訴えてみてもムダだった。
どうしてこの状況をわかってくれないの。
律子は悔し涙がこぼれてきた。
「警察にご相談されてみてはいかがですか」
カード会社との電話でそう言われて、警察ならきっと事件として扱ってくれるだろうと、律子は岳を連れて警察に行く決心をした。
律子は息子が不憫でならなかった。
端から見ればどうして騙される、と思われるかも知れないが、息子にとっては初めての彼女だったのだ。
嬉しくて、彼女の望みならなんでも叶えてあげたいと思ったに違いない。
そんな息子の優しさを、ずるく利用した女が許せない。
なんとしてでも罰してもらわなくては。

律子は怒りをふつふつと胸に蓄えたまま、警察署に足を踏み入れていった。