越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

長尾景虎~上杉輝虎期に発給された謙信文書のいわゆるa型花押と年次比定【1】

2018-11-22 19:28:48 | 雑考

 前嶋敏氏の論考である『上杉輝虎発給文書の花押とその変更』を読む機会に恵まれたところ、越後国上杉謙信が使用した数種類の花押のうち、生涯を通じて使用したa型花押は、「花押上部の署記法の違いから、大きく四種類に分類することができる」という知見を得ることができました。
 それぞれの型には使用期間があり、おおむね、a1は天文21年12月5日以前、a2は同22年8月4日、a3は弘治2年8月17日、永禄3年8月25日~同7年8月6日、同10年3月15日~同年10月13日、同12年正月8日、a4は同9年正月7日~同年11月16日、同11年2月15日~同年11月晦日、同12年2月10日以降というように考えられています。

a1   a2   a3   a4

 前嶋氏が、a型花押の書き始めとなる左側上部の一画目の形状に着目されて、四種に分類をされた型の違いを、自分なりに表現しますと、a1型は、筆を縦に入れて、右へ膨らみ弓なりに引き下げた線を軽く結んで、右に跳ね上げた線をまた弓なりに引き下げて中心線とした筆記体の「y」の字のような形、a2型は、1型とは逆に、わずかに引き下げた線が左に膨らんでいるので、より「y」の字に近い、a3型は、筆を横に入れて、やや上向きに溜めをつくった程度に横線を引き、そこから少し左斜めに引き下げると、それを右上に少し引き上げ、曲がりを引いて(直線的に引き下げている場合もある)中心線とした「了」や「ろ」の字のような形、a4型は、基本的にa3型と同じで「了」の字のような形で中心線が引かれているが、一画目がはっきりと引かれて、やや上向きの横線を軽く結んで左斜めに引き下げているので、「ろ」ではなくて「ち」の字のような形、といった感じです。ここで気になったのは、わずかに一点のみが残存するa2型であります。その書きぶりからして、a3型に含めても良いように見えました。
 そして、当ブログの長尾景虎・上杉輝虎の略譜では、『上杉輝虎発給文書の花押とその変更』における長尾景虎・上杉輝虎発給文書一覧での年次比定とは異なる箇所がありまして、この分類と照らし合わせてみましたところ、その使用期間は、一部の例外を除き、a1は天文21年12月5日以前、a3は弘治2年8月17日から永禄10年まで、a4は同11年から輝虎(謙信)が生涯を閉じるまで、というように、かなり整理できるのではないかと思われました。そこで、一点のd型、三点のe1型花押が据えられた文書を含め、そのように年次を改めた理由を示しますとともに、略譜の方にはa型の三種類の数字を付け加えさせてもらいます。


【史料1】天文22年8月4日付長尾越前守政景宛長尾弾正少弼景虎書状(『上越市史 上杉氏文書集』150号。以下、番号のみは同書からの引用になる)
今度以安田方(長秀)条々被仰越候、御存分之通、具承分候、然、御出陣之上、御留守にいたつて、自然之義ハヽ、御進退のき不可致見除由、暮々承候、是又御よきなきまてに候、既信州之面々衆一旦申通義をもつて、数年及加勢候、今日にいたるまて令劬労候、況一方ならさる子細ともに候間、争貴所御事可見除候哉、其巨細安治(安田治部少輔長秀)申分け候、併於御心腹御頼敷候、此うへにおいて、若御疑心之義ハヽ、以誓書可申宣候、委細彼方可有雑談候、恐々謹言、
             弾正少弼
    八月四日       景虎(花押a2)
    越前守殿
 
 当文書で長尾景虎は、「既信州之面々衆一旦申通義をもつて、数年及加勢候、」と述べており、景虎が信濃国衆に加勢するようになってからは数年が経過しているわけで、景虎が初めて信濃国へ出馬した天文22年にはそぐわない内容であることから、『上越市史 上杉氏文書集』が仮定している通り、弘治3年の発給文書として引用した。

※ この文書の花押は唯一のa2型であり、弘治3年当時、すでにa3型へ移行しているが、a3・a4型と同じく書き出しを右上に引き上げる筆の運びであり、軽く溜めをつくる程度の横線の書き出しが深く入り過ぎた影響からなのか、以下の線がつぶれてしまい、あのような書きぶりになってしまったように見えるので、a3型に含めても良いのではないか。


【史料2】永禄5年2月朔日付富岡主税助宛上杉輝虎書状(306号)
態申遣候、早々可出馬之処、諏方晴信(武田信玄)取懸間、無心元之間延引、於彼口安中得大利、敵数多打捕候、此上片時行可相急候、来五日義定向佐野可相動候間、其方事有用意人数打振可召連候、少不可有油断候、館林懇切之由申越候、喜入候者也、
    二月一日        輝虎(花押a3)
      富岡主税助殿

 上杉輝虎は、上野国衆の富岡主税助が味方中であった永禄5年から同9年の間、途中で富岡へ宛てた書状の書き止め文言を「恐々謹言」から「謹言」に変えたばかりか、一時的に、言い切りの「也」に変えている。それは永禄7年3月24日に輝虎が富岡に対し、従属して以来の忠信を称えて本領と係争地を安堵した(398号)のを契機に、富岡は山内上杉家の直臣となったからであり、ここを境として輝虎の富岡に対する書札札が薄礼化したと考えられることと、薄礼化が始まって以降、輝虎が「佐野」に在陣する(489号)ような状況であったのは、永禄9年の春であることから、永禄9年の発給文書として引用した。


【史料3】永禄5年3月15日付金津新兵衛尉ほか七名宛上杉輝虎書状(313号)
春日・府内・善光寺門前、其外所々火之用心之義付、重申遣候、以時夜行立之、堅可及其政道候、惣別日暮候、町人衆往行可相止候、如何共ねらい候て、火付可及成敗候、あやしき者目合申候ハヽ、不及註進、於立所可成敗候、若又、町かたの者と見儀候者、からめおき、せんさく可申候、からかい候ハヽ、是を立所にて可有成敗候、少茂油断存候、不可有其曲候、善光寺町信州の者共おほく候間、やき取なとに火付候事可有之候、火出候ハヽ、双方三間之者共可及成敗候、是急申つけ、用心させへく候、府内へも可申触候、自然、何事於有之者、如来たうをけんこにいたすへき由、新発田(忠敦)所かたく可申届候、奉公人・らう人共候と、あやしき者にて候ハヽ、無是非可成敗候、往ふく以下迄入念候、せんさく簡心候、此段尾張守(新発田尾張守忠敦)かたへ可申候、此外不申遣候、謹言、
    三月十五日       輝虎(花押d1)
      金津新兵衛尉殿
      本田右近允殿殿
      吉江織部佑殿
      高梨修理亮殿
      小中大蔵丞殿
      吉江民部少輔殿
      岩船藤左衛門尉殿
      吉江中務丞殿   

 【訂正1】のなかで示した理由により、永禄7年の発給文書として引用した。


【史料4】永禄6年4月朔日付栗林次郎左衛門尉宛上杉輝虎書状【a3】(506号)
猿京近辺之証人共、従倉内其地差越之由候処、于今不請取之段、無曲候、早々請取之用心堅申付、其元可差置候事、専一候、謹言、
  追、本庄新左衛門尉仕合不及是非候、就之浅貝為寄居、倉内
  之往覆自用候様畢竟吾分前可有之候、か様之時候間、其稼簡
  要候、以上、
    四月朔日       輝虎(花押a3)
      栗林次郎左衛門尉とのへ
 
 上杉輝虎が上田長尾越前守政景と交信する際、上田衆の栗林次郎左衛門尉を介した文書は見当たらず、永禄7年に長尾政景が横死したのち、後継者となった長尾喜平次顕景が幼年のため、輝虎が上田衆と交信する際には上田長尾一族の大井田藤七郎・長尾伊勢守、そして栗林の三人へ宛てて書状を送っており(457・458・465号)、栗林が長尾顕景の陣代として単独で輝虎と交信するようになるのは、永禄9年7月19日以降であることと、同9年末に関東代官の北条丹後守高広が相州北条・甲州武田陣営に寝返ってしまい、上・越国境が不安定に陥り、輝虎の関東在陣中、増援軍を率いて上・越国境付近を通っていた部将の本庄新左衛門尉が何らかの事故に見舞われるなどしてしまったので、上野国「猿京」周辺の地衆から証人を取らなければならなかったり、越後国「浅貝」の地に寄居を築かなければならなかったりしたのだと考えられることから、永禄10年の発給文書として引用した。


【史料5】永禄6年4月10日付富岡主税助宛上杉輝虎書状(508号)
従深谷至于其地、被成懸助之処、引付突出、凶徒数百討捕、残党利根河逐入之由、其聞候、心地好候、乍不初義、戦功無比類候、弥相挊簡要候、猶、河田豊前守(長親)可申遣候、謹言、
    四月十日       輝虎(花押a3)
      富岡主税助殿

 306号と同様に書き止め文言が「謹言」であること、『上越市史 上杉氏文書集』が比定した永禄9年の当該期、富岡主税助は上杉輝虎の総州経略に従軍しており(481号)、4月10日以前に居城の上野国小泉城で相州北条方の軍勢と戦うような状況にはなかったこと、永禄8年には、富岡に加勢した深谷上杉氏は相州北条陣営に帰属していること、残る永禄7年の当該期、輝虎は、関東遠征を終えて帰府したばかりか、その途中であろうことから、永禄7年の発給文書として引用した。


【史料6】永禄6年10月16日付富岡主税助宛上杉輝虎書状(355号)
当秋先年動事涯分雖相急、爰元皆共不調故遅々、境節晴信(武田信玄)出張、兼日如申遣、今般為可付是非不聞敢、既至于半途出馬之処、凶徒無程退散、従方々注進同前之間、一旦休人馬候、然諸口火急、畢竟油断無曲旨、北条丹後守(高広)催促度々到来、尤無余義候条、来廿日必可出庄候、其元可打着間之事、堅固之備簡要候、為意得先以飛脚馳筆候、謹言、
    十月十六日      輝虎(花押a3)
     富岡主税助殿

 306・508号と同様に書き止め文言が「謹言」であり、「皆共不調故遅々」という状況は信濃国川中嶋陣の直後で、人員がなかなか集まらなかったのであろうことから、『群馬県史 資料編』が比定している通り、永禄7年の発給文書として引用した。


【史料7】永禄7年正月6日付富岡主税助宛上杉輝虎書状(958号)
横瀬雅楽助(成繁)館林為後詰、可相動候間、其方事、有同心可相挊候、少有油断無其曲候、猶、従河田(長親)所可申遣候者也、
    正月六日       輝虎(花押a3)
      富岡主税助とのへ

 306号と同じ理由であることに加え、富岡と上野国「館林」の足利長尾景長との関係性が焦点となっていることと、書き止め文言が言い切りの「也」で締めくくられていることから、永禄9年の発給文書として引用した。


【史料8】永禄7年正月24日付富岡主税助宛上杉輝虎書状写(483号)
向佐野廿六日出馬候、日限之可相違候、急度有用意出陣簡要候、仍天徳寺(宝衍)南相通之段、従館林申越候、定近日可帰候間、如何共出京(庄)候、擬之見可申者也、館林懇之由、従両人所申越候、感之迄候、
     正月廿四日      輝虎(花押a3)
       富岡主税助とのへ

 306・958号と同じ理由であることに加え、書き止め文言が両文書とは異なり、「也」ではなくて「候」で締めくくられているが、「謹言」でもないことと、宛所の敬称が958号と同じく仮名書きであることから、『上越市史 上杉氏文書集』が比定している通り、永禄9年の発給文書として引用した。


【史料9】永禄7年4月9日付富岡主税助宛上杉輝虎書状(403号)
今月十三日向和田及行候、人衆打振、取急北条丹後守(高広)令与力、可走廻候、謹言、
    四月九日       輝虎(花押a3)
      富岡主税助とのへ

 当文書の上杉輝虎は、4月13日に上野国和田城を攻めるつもりでいたわけだが、すでに永禄7年3月7日から、少なくとも中旬までは上野国和田城を攻めていた(395・398号)。一旦、撤収したのち、再び攻撃しようとしていた可能性もあるだろうが、輝虎は遅くとも4月20日には帰国しており(404号)、『上越市史 上杉氏文書集』の年次比定には従えなかった。宛所の敬称が483・958号と同じく仮名書きであることなどから、永禄9年の発給文書として引用した。


【史料10】永禄7年7月16日付三戸駿河守宛上杉輝虎書状(422号)
態申送候、今度相守筋目、岩付之地引切、無二太田美濃守(資正)同心、対大途忠信不浅候、弥以本意稼可為簡要候、諸事従河田豊前守(長親)所可▢▢(申候ヵ)、恐々謹言、
    七月十六日      輝虎(花押e1)
      三戸駿河守殿

 上杉輝虎がe1型花押を使用していたのは、永禄7年から同9年の三年間になる。関東味方中の「太田美濃守(資正)」が、相州北条陣営に寝返った長男の太田源五郎氏資によって居城の武蔵国岩付城から追放されたのは永禄7年7月23日であり(429号)、この年に太田資正の妹婿である三戸駿河守が岩付城から離脱し、各地を転々としていた資正の許へ駆けつける状況ではないことと、同9年には5月末、遅くとも7月19日からe2型花押が使用されることから(457・458・465号)、『埼玉県史 資料編』が比定している通り、永禄8年の発給文書として引用した。


【史料11】永禄8年4月3日付長尾左衛門尉憲景宛上杉輝虎書状(507号)
至于其地、武田晴信(信玄)相動処、城内堅固、依之、無差儀退散之由、注進、稼之通、無比類候、一両日中厩橋可帰城候条、其口仕置等可申付之条、不具候、謹言、
    四月三日       輝虎(花押e1)
      長尾左衛門尉殿

 上杉輝虎がe1型花押を使用した間、永禄7年の当該期、輝虎が上野国和田城を攻めていたので、甲州武田信玄が白井長尾氏の居城である同国白井城を攻めるような状況にはなかったこと、同8年の当該期、輝虎が「越国有造意」といった事態に見舞われ、進軍の途中で引き返し、関東遠征を取り止めており(『戦国遺文 房総編』1177号)、当文書における「一両日中厩橋可帰城可候条」というような状況にはなかったこと、残る同9年の当該期、輝虎による総州経略に白井長尾左衛門尉憲景は従軍しておらず(481号)、攻め寄せてきた甲州武田軍と戦っていてもおかしくはない状況であったことなどから、『上越市史 上杉氏文書集』が仮定している通り、永禄9年の発給文書として引用した。


【史料12】永禄8年6月26日付富岡主税助宛上杉輝虎書状(463号)
態申遣候、初夏以来度々如相届、来月中至于武・上可進発覚悟候処、信・甲之間吉事之子細依有之、来八日彼口先可出馬相定候、然、(北条)氏康可及後詰之間、東口諸味方中、至于上州打着、南方之動、可被相押由及行候、吾分事、各以前令出陣、北条丹後守(高広)相談、可走廻事、専一候、猶小野主計助口上可有之候、謹言、
    六月廿六日      輝虎(花押e1)
      富岡主税助殿

 上杉輝虎は7月8日に信州口へ向けて出馬するつもりでいたことが、永禄7年6月25日付富岡主税助宛上杉輝虎書状と7月6日付「常府(常陸国衆の佐竹氏であろう)参人々御中」宛北条丹後守高広書状写(416・421号)と一致していることから、永禄7年の発給文書として引用した。


【史料13】永禄9年2月8日付北条丹後守宛上杉旱虎書状(485号)
専柳斎(山崎秀仙)可越由候つる間、午刻迄相待候共、不越候条、早飛脚越候、
一、小貫(頼安)孫次郎(山吉豊守)相尋分去春沼田迄遂当地之儀不承候処、達(佐野)昌綱御済、屋形彼者被思召替歟之由、申理候処、今日迄同陣延引別之儀無之候、始(佐竹)義重家中同陣之者共之証人可被為取由、堅承届候条、此一ヶ条至相澄、当陣押すごして陣取可申由候、今日迄、加様之儀心ニも存儀無之候、為如何子細候哉、併皆川(俊宗)之証人、此次而ニ取度事候、此返事如何可申候哉、工夫候、
一、先一札出、同陣候其上義重令談合、皆川之仕置おハ可成之候歟、当地一途候、以後々々皆川計輙候、先請乞申、同陣候、一功之上、仕置成安候、縦関東之証人悉取候共、如先年大途之破候証人可捨候、義重同陣候て、当地落居、大途之備直り候、其身共可持出候歟、於啐啄、此証文出、同陣之儀可為急候、其為認越申候、義重之一札候、謹言、
   二月八日       旱虎(花押a4)
     北条丹後守殿

 今福匡氏の論考である「「旱虎」署名の謙信書状について」によると、上杉輝虎が「旱虎」を併用した時期は永禄12年と元亀元年(永禄13年)の二年間に限られ、宛所の上野国厩橋城代である北条丹後守高広の動向により、後者の元亀元年に比定されていることから、これに従って、永禄13年の発給文書として引用した。


【史料14】永禄9年2月13日付長尾喜平次宛上杉旱虎書状(308号)
  返々、細々いんしんよろこひ入候、手弥あかり候へは、手本まいら
  せ候、以上、
入心さひ/\音信、ことに為祈念まほり巻数、よろこひ入候、爰元やかて隙あけ、帰府のうへ可申候、謹言、
    二月十三日      旱虎(花押a4)
      喜平次殿
 
 485号と同じく今福氏の論考において、上杉輝虎が甥の長尾喜平次顕景に贈ったとされる永禄11年10月年吉日付「消息手本」(『大日本古文書 上杉家文書』959号)との関連により、永禄12年とみられていることから、これに従って、永禄12年の発給文書として引用した。


【史料15】永禄9年10月13日付小中大蔵丞宛上杉輝虎書状(535号)
黒岩・なくる見之地下人相調、両地堅固之由、孫次郎方(山吉豊守)迄申越候、是吾分稼故神妙候、併余相調候間、無心元由無余義候、至于其儀、頭立之者之証人五人十人取出差置、其地、定別条有間敷候、若別条之者候、彼証人差置候者可告来候、其地之近辺候間、頓懸移、於仕置成、為差義有間敷候、然、新発田右衛門大夫・河田伯耆守懇比候間可然候、何間悪由其聞不可然候、謹言、
  追、見事之釜、喜入候、以上、
    十月十三日      輝虎(花押a4)
       小中大蔵丞殿

 当文書の発給年次は、永禄5年から上野国沼田城代を務めた河田豊前守長親、書中に現れる沼田城衆のひとりである新発田右衛門大夫、このふたりの任期から考えて、同9年から同11年の三年間に絞り込める。上杉輝虎は、永禄9年の当該期、10月11日に関東へ向けて出馬し、同22日には上野国沼田城に着陣したようであり(534・537号)、同10年の当該期、10月24日に、同じく沼田城に着陣しており(586号)、両年とも10月13日には出府しているか、その直前であったはずだが、当文書における輝虎にはそうした様子は窺えない。そして、残る同11年の当該期は、甲州武田・相州北条陣営に寝返った越後奥郡国衆の本庄弥次郎繁長の反乱により、越中・信濃・上野との国境が深雪で閉ざされるまで越府を離れられなかった(612・613号)。これは、輝虎が同年10月16日に沼田城衆の松本石見守(景繁)・河田伯耆守(重親)・小中大蔵丞・新発田右衛門大夫へ宛てた書状において、10月17日に予定していた越後国村上の地へ向けての出馬を同20日に変更したことを伝えており(619号)、在府していたのは確かであることから、永禄11年の発給文書として引用した。

 
【史料16】永禄9年11月16日付山吉孫次郎宛上杉旱虎書状(949号)
松本石見守(景繁)仕合、年月辛労心尽、有堺目成之候条、一入不敏無極候、併息有之儀候間、彼者家中之者取立、如前々可走廻事、簡要候、自然、牢人被官散失候、無曲由、家風・同心堅可申付候、謹言、
    十一月十六日     旱虎(花押a4)
       山吉孫次郎殿

 今福氏の論考を踏まえたうえで、上杉輝虎は元亀元年8月下旬から同年9月中旬の間に謙信と号するようになること(931・932・939・940号)と、永禄12年の秋頃に松本石見守景繁は上野国沼田城将を退任していること(769・820・822号)から、永禄12年の発給文書として引用した。


【史料17】永禄10年4月20日付上倉下総守ほか宛上杉輝虎書状(604号)
為其口備、安田惣八郎(顕元)人数岩井備中守(昌能)相添差越候、如聞之、何在所有之故、今度無四度計仕合出来、無是非候、所詮向後、皆々有在陣、堅固之仕置専一候、陣所之事、於其元談合候、可然様見量簡要候、猶子細備中守可有口説候、謹言、
  追、近日可取出候間、各有談合、如何共其内堅固之具簡要候、以
  上、
    四月廿日       輝虎(花押a3)
      上倉下総守殿
      奈良沢民部少輔殿
      上堺彦六殿
      泉弥七郎殿
      尾崎三郎左衛門尉殿
      中曽根筑前守殿
      今清水源花丸殿

 当文書で上杉輝虎は、信・越国境の信濃国飯山城を守る信濃(外様平)衆の上倉下総守・奈良沢民部少輔・上堺彦六・泉弥七郎・尾崎三郎左衛門尉・中曽根筑前守・今清水源花丸に対し、「何在所有之故、今度も無四度計仕合出来、」と述べており、彼ら外様平衆が以前にも同様の失態を犯し、甲州武田方の軍勢の攻撃を受けて、信・越国境の信濃国飯山領の城塞に損害を被ったことが分かる。これ以前の失態が永禄3年から同4年にかけての長尾景虎(上杉政虎)による関東遠征中、甲州武田軍が飯山領の「上蔵」の要害を攻め落として越後国に迫った事態(『戦国遺文 武田氏編』746号)を指すのであれば、当文書の年次は、輝虎の記憶に残る永禄4年からそう遠くない時期であろう。上杉輝虎は永禄7年秋中の信濃国川中嶋陣を終えた直後、信濃国飯山城に改修を施しており(436号)、こうした改修を施さなければならないほどの損害を被ったのだと考えたことから、永禄7年の発給文書として引用した。


【史料18】永禄10年6月19日付松本伊豆守宛上杉輝虎書状(521号)
急度以使者申遣候、仍関東之事、過半静謐之形候、信州之義、隣国云、上州物裏云、旁以来秋、先彼口可成行義定候、然、強相頼他之助成、雖非可権門弓箭候、且連々申通、互去年以来以神慮申合筋目、彼是今般候条、一勢立給候、自他之覚可為祝着候、方々馳走此一事候、猶吉田美濃守可有口上候、恐々謹言、
    六月十九日      輝虎(花押a3)
     松本伊豆守殿

 当文書を『新潟県史 資料編』は「輝虎を称するのは永禄四年以降、関東の「過半静謐」からみて永禄五、六年か」としている。当文書では、上杉輝虎が奥州黒川の蘆名止々斎(盛氏)の許へ旗本の「吉田美濃守」を使者として派遣しており、永禄5年11月25日付蘆名修理大夫宛上杉輝虎書状(329号)では、蘆名家から上杉家へ何度も交誼を深めるための使者が到来したのを受け、輝虎が返礼の使者として「吉田美濃入道」を派遣していることから、永禄5年の発給文書として引用した。


【史料19】永禄10年8月24日付蔵田五郎左衛門尉宛上杉輝虎書状(431号)
細々音問喜悦候、府内・春日火之用心無油断、其心懸専一候、大門・大手門、何急度可申付候、普請以下、是又堅不可油断候、当口之事、晴信(武田信玄)塩崎迄出張候得共、無差行、徒数日送候、此上猶以不可有差義候、敵之刷、言語不似躰候、可心安候、巨細各可申遣候也、謹言、
  追、門番以下急度可申付候、新発田尾張守(忠 敦)小使之者共
   ニも
、能々加意見尤候、以上、
    八月廿四日      輝虎(花押d1)
      蔵田五郎左衛門尉殿

 【訂正1】のなかで示した理由により、永禄7年の発給文書として引用した。


【史料20】永禄10年9月27日付三戸駿河守室(「としやう」)宛上杉輝虎書状(583号)
  返々、よろつ心つくしともおしはかり候、世上このまゝにて ハ
  るましく候ほとに、やかて/\ほんいうたかひあるへからす候、よ
  ろつかさねて申こすへく候、又々、
わさと人をこし候、そこもとふしきなるところに、かんにんのよし、さそ/\ならぬたいきともおしはかり候、さて又、のゝかミ(太田美濃守資正。三楽斎道誉)ちうせつあさからすゆへ、さいしよをとりのきらう/\、まことに/\いたましく候、いつかたなりともしかるへきところにさしおき候へ、みのゝかこと申におよはす候、てるとらためといゝ、又このすゑちうしんものゝいさめといゝ、いかん共見つもりたく候つれ共、みな/\そんしのことく、あきちこれなく候まゝ、うちすき候へ、うら候て、この比人をもこされす、うちたえしやう候ところに、このたひつかひをこし、くわしくそこもとのやうたいともきかせ候へ、うらもワすれ候やとよろこひ入候、くわんとうちうの事、きたてうたんこ(北条丹後守高広)にまかせおき候へ、わかまゝのあつかひともいたし候て、身のかたへもしらせす事ともおゝく候ゆへ、さたけ(佐竹義重)・よこせ(由良成繁)をはしめとして、てをかへられ候事、よきなく候、このまゝうちおくへき事にあらす候間、みのゝかかせき候て、ほんいのかたちをつけ候ハゝ、ちうせつといゝ、そのためと申、なにことかこれにすくへく候や、このよしよきやうにいけんをなすへき事、そもしまえにある候、かならす/\やかてうちこしへく候ほとに、ちんしよよりかさねて申こすへく候、かしく、
    九月廿七日     てるとら(花押)
奥ウハ書)
「   (切封墨引)
  みとするかかたへ     てる虎
          申給へ      」

 当文書の上杉輝虎は、「くわんとうちう(関東中)の事、きたてうたんこ(北条丹後守高広)にまかせおき候へは、わかまゝのあつかひともいたし候て、身のかたへもしらせす候事ともおゝく候ゆへ、さたけ(佐竹次郎義重)・よこせ(由良信濃守成繁)をはしめとして、てをかへられ候事、」という事態に陥っていた。この由良成繁ら関東味方中の越後国上杉陣営からの離脱は、輝虎による総州経略が失敗に終わった永禄9年であることが分かる(『戦国遺文 後北条氏編』977号)。これにより輝虎は、佐竹義重らを早急に翻意させる必要に迫られ、佐竹一家の東薩摩守義喬・準一家の江戸彦五郎通政・宿老の和田掃部助昭為らを通じ、義重の亡父である義昭以来の佐竹氏との交誼を復活させるため、義重の説得にあたっていた(528~531号)。『越佐史料』はこれらの文書群を永禄9年に年次を比定している。当文書では、輝虎が佐竹氏の客将である太田美濃入道道誉(資正)の妹を通じ、道誉の奔走によって、佐竹氏との旧交を復活させることを望んでおり、先の文書群と日付も一致していることから、永禄9年の発給文書として引用した。


【史料21】永禄11年7月2日付河上伊豆守・同中務少輔(丞)富信宛上杉輝虎書状(418号)
以前若林采女允(江馬)輝盛申届候処、雖不初儀候、其方取成故、弥入魂之旨喜悦候、向後之儀無二可申談心中候、畢竟、村上源五方(国清)可有演説候、恐々謹言、
  追、織田信長為音信、使僧差遣候、路次中無相違様馳走頼入
  候、以上、
    七月二日       輝虎(花押a4)
      河上伊豆守殿
      同中務少輔殿

 当文書は信濃衆の村上源五国清が取次を務めており、上杉輝虎が濃州織田信長の許へ使僧を派遣するので、常陸国高原の江馬四郎輝盛に対し、江馬領内を通行する使者に便宜を図ってくれるように依頼したものである。『上越市史 上杉氏文書集』が永禄12年に仮定している7月17日付河上式部丞宛村上義清書状(777号)では、「重濃州就用所、若林采女差越候」とあり、村上父子の重臣である「若林采女允」を続けて「濃州」へ派遣するとして、こちらでも領内通行時における便宜を頼んでおり、両文書には繋がりがあると考えたことから、永禄12年の発給文書として引用した。


【史料22】永禄11年7月29日付鮎川孫次郎盛長宛上杉輝虎書状(780号)
飛脚到来、得其意候、仍大宝寺之様子注進、委細心得候、就之大川之用心簡要之由、可申越候、然、至信州可及調儀由相催候処、自彼州申越子細候間、先以延引候、信州口・上口無心元由候て、関東味方中人数差越候、倉内之者共、今日当府打着候、其外諸軍膝下集置候条、信・越両口共擬可心易候、猶山吉孫二郎(豊守)可申越候、謹言、
     七月廿九日      輝虎(花押a4)
        鮎川孫二郎殿

 上杉輝虎が在府中、信州や北陸の状況を心配した「関東味方中」が自発的に寄越してきた「人数」を迎え入れたり、「倉内之者共(上野国沼田城に駐留する越後衆で編成された城衆)」を呼び寄せたりするようなことが可能であったのは、越・相同盟の期間中である永禄12年から元亀2年のうちであり、実際に永禄12年には焦点のひとつであった北陸へ出馬していることから(799号)、『越佐史料 巻四』が比定している通り、永禄12年の発給文書として引用した。


【史料23】永禄12年正月8日付水原蔵人丞ほか宛上杉輝虎書状(639号)
急度申遣候、仍爰元之衆、為始本庄、悉人数之義、重召寄候間、早々遣飛脚、一刻片時被相急、打振可召寄候、少有油断無曲候、本庄事千計着陣之由、日々告来間、方々之義今般候間、別可走廻候、敵退散之上、早々可返之候、謹言、
  聞子細共候間、其元之用心専一候、
    正月八日       輝虎(花押a3)
     水原蔵人丞殿
     富所隼人佐殿
     松木内匠助殿
     竹俣三河守殿
     加地彦次郎殿

 当文書には、「為始本庄、悉人数之義、重召寄候間、」とあり、『新潟県史 資料編』などでは、この「本庄」を揚北衆の本庄弥次郎繁長に比定しているが、上杉輝虎はその本庄繁長が起こした反乱を鎮めるため、彼の一党が立て籠る越後国村上城を攻めているわけで、輝虎が繁長を始めとした「人数」を手元に呼び寄せはしないであろうから、『新潟県史』などの年次比定には従えなかった。越後衆が在番している下野国佐野の唐沢山城が相州北条氏政に攻められていることと、輝虎が越府から呼び寄せた「本庄(旗本の本庄新左衛門尉であろう)」を主将とする軍勢とは、永禄10年に年次を改めるべきであろう同7年正月11日付広田式部大輔宛上杉輝虎書状(376号)における「越国残置諸勢」を指し、正月中に「半途迄着陣」していることから、永禄10年の給文書として引用した。

※ 376号文書を永禄10年に比定できると考えたのは、関東味方中の広田式部大輔直繁が「(利根川)河南有一人励忠信」というような状況になったのが、永禄9年に武蔵国衆の成田左衛門次郎氏長が相州北条陣営に帰属してしまった以降であろうことから。


※【訂正1】で年次比定を永禄10年に改めました9月18日付斎藤下野守・赤見六郎左衛門尉・小野主計助宛上杉輝虎書状写は、前嶋敏氏による「上杉輝虎発給文書の花押とその変更」の長尾景虎・上杉輝虎発給文書一覧において、すでに永禄10年の発給文書として記載されていました。


前嶋敏「上杉輝虎発給文書の花押とその変更」(『新潟史学』第73号)◆ 今福匡「「旱虎」署名の謙信書状について」(『歴史研究 第502号』)◆『新潟県史 資料編3 中世一 文書編Ⅰ 付録』〔花押・印章一覧〕868号 長尾景虎(上杉輝虎)書状、870号 上杉政虎(輝虎)条書 ◆『新潟県史 資料編5 中世三 文書編Ⅲ 付録』〔花押・印章一覧〕2718号 長尾景虎書状、2836号 上杉輝虎書状 ◆『大日本古文書 家わけ第12之3 上杉家文書』(東京大学史料編纂所)995号 上杉輝虎署名消息手本 ◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』395号 上杉輝虎書状(写)、398号 上杉輝虎判物、404号 上杉輝虎制札(写)、416号 上杉輝虎書状、421号 北条高広書状(写)、429・436号 上杉輝虎書状(写)、457・458号 上杉輝虎書状(写)、465号 上杉輝虎書状、481号 関東衆軍役覚、489号 大仲寺良慶書状、528号 上杉輝虎書状、529号 上杉輝虎書状(写)、530・531号 上杉輝虎書状(影写)、534・537・586・619号 上杉輝虎書状(写)、769号 松本景繁書状、799号 上杉輝虎書状(写)、820号 北条氏照書状、822号 上杉輝虎書状(写)、931号 上杉輝虎書状、932号 上杉輝虎書状(写)、939号 上杉謙信書状(写)、940号 上杉謙信書状 ◆『群馬県史 資料編7 中世三 編年史料2』2263号 上杉輝虎書状写 ◆『新編埼玉県史 資料編6 中世2 古文書2』447号 上杉輝虎書状 ◆『白河市史 第五巻 資料編二 古代・中世』第二編 中世 Ⅰ 文書 920号 上杉謙信輝虎書状 ◆『戦国遺文 房総編 第二巻』1177号 千葉胤富書状
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