永禄12年(1569)5月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正小弼)【40歳】
朔日、相州北条氏康(相模守)が、遠江国懸川城(佐野郡)に立て籠る今川氏真と、それを攻める三州徳川家康との間の講和を図り、三州徳川家の宿老である酒井左衛門尉忠次へ宛てて書状を発し、このたび敢えて申し上げること、蔵人佐殿(徳川三河守家康)に対し、駿州(今川氏真)との一和の件について、玉瀧房(乗与)をもって申し届けること、氏康に於いても一和の成就念願していること、ほかでもない其方(酒井忠次)に取り成しに奔走してもらいたいこと、これらを懇ろに伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』号「酒井左衛門尉殿」宛北条「氏康」書状)。
7日、相州北条方の取次である北条氏照(源三。氏康の三男。武蔵国滝山城主と下総国栗橋城主を兼務する)から、取次の柿崎和泉守景家と山吉孫次郎豊守のそれぞれへ宛てて書状が発せられ、取り急ぎ申し届けること、越・相御一和により、御誓詞を取り交わされるからには、山王山衆(下総国関宿城の付城である山王山城に拠る氏照衆)を撤収させるべきとのこと、この越府(輝虎)から御内儀について、遠左(遠山左衛門尉康光。氏康の側近)と垪刑(刑部丞康忠。氏政の側近)に寄せられた沼田衆の一札を、このたび氏康父子が披読されたこと、こうして御一和の成立を迎えるからには、関宿への遺恨を捨て去られて、速やかに城砦を破却して軍勢を引き上げるように指示が下されたこと、氏照人衆が拠った山王山については、関宿城の自落は目前に迫っていたが、すでに率先して御一和のために奔走する覚悟を示したからには、破却に異存があるはずもなく、すぐさま実行に移すつもりなのであること、こうした趣旨を(輝虎に)御理解してもらいたく、御披露を任せ入ること、これらを懇ろに伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』724号「山吉孫次郎殿」宛北条「氏照」書状写)。
8日、相州北条氏康が、武蔵国岩付城(埼玉郡)に在番している富永孫四郎政家(政家。江戸衆)へ宛てて書状を発し、その地(武蔵国岩付城)に交代要員の大須賀信濃守(他国衆・千葉氏の一族衆。下総国助崎城主)が到着されるのと同時に出立されるべきこと、江城(武蔵国豊島郡の江戸城)には帰還せず、そのまま瀧山領(武蔵国多西郡)へ向かい、由井・八日町に着陣されるべきこと、甲州衆(甲州武田軍)が八王子筋(多西郡)へ出張してくるようであること、彼の地(八王子)には一切の人数を配備していないので、はなはだ心許なく、一刻も早く急行されるべきこと、これらを懇ろに伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』号「富永孫四郎殿」宛北条「氏康」書状)。
9日、伊豆国三島陣(田方郡)の相州北条氏政(左京大夫)が、父・氏康の側近である南条四郎左衛門尉が到来したのを受け、南条へ宛てた書状を託し、このたび南四(南条)をもって仰せ越された筋目は心得ていること、懸川の件について、(三州徳川家康から)無事落着を伝える使者が到来したので、改めて合意された内容を報告すること、こちらにも内藤(左近将監康行。相模国津久井郡の津久井城主。津久井衆)から、敵勢(甲州武田軍)が津久井口に出張してくるとの確報が寄せられたこと、当陣の様子は南条が詳述するので、この書面では詳細を申し上げないこと、こうした趣旨を御披露願いたいこと、これらを懇ろに伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』号「南条四郎左衛門(尉)殿」宛北条「氏政」書状)。
11日、懸川無事がまとまったことから、相州北条家の一門衆である玉縄北条左衛門大夫綱成(武蔵国玉縄城主)が、今川上総介氏真の側近である三浦左京亮元政へ宛てて返書(進上書)を発し、このたび(今川氏真)御直札を下されたので、謹んで拝読させてもらったこと、武田信玄が駿州から撤収されたので、早々に懸川衆を御迎えに上がるべきところ、信玄が間違いなく撤収されたのかどうか、敵勢(甲州武田軍)の動向を見極めるために慎重を期していたこと、(氏政から)内々に拙者(北条綱成)が御迎えの役目を務めるように指示を受けていたが、このほど信玄自ら相州筋へ出撃されるとの情報により、本国には若輩の将士しか残っておらず、今日未明に本国防衛の任に就くように指示が変更されたので、無念にも御迎えに行けなくなったこと、この事態は、信玄が相州に出陣している間に御迎えに行ける好機でもあること、松平(三州徳川家康)については、不備はなく調整されたので、首尾よく計画は進んでいること、詳細については、御厨伯耆(守)が口述すること、こうした趣旨を御披露願いたいこと、これらを懇ろに伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』号「進上 三浦左京亮殿」宛「北条左衛門大夫綱成」書状)。
15日、今川上総介氏真並びに相州北条氏康・同氏政父子と三州徳川家康の間で和議が整い、今川氏真は懸川城を徳川方に明け渡すと、海路で駿河国蒲原城(庵原郡)へ向かっている。
18日、相州北条氏政が、一族の長老である幻庵宗哲と久野北条新三郎氏信(幻庵の世子)の妻(西園寺氏)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申すこと、このたび力の及ぶ限り奮戦したゆえ、(武田)信玄を敗北させたこと、もはや遠国(遠江)手出しする様子は見受けられないこと、昨17日に氏真御二方(今川氏真・早河殿(氏康の娘)夫妻)以下を無事に蒲原城(北条氏信が守将を務める)に引き取ったので満足していること、御同意であろうこと、このたび小当たりしたところ、奇特にも幸運な結果を得られたこと、「三浦しんさう(幻庵の姉)」についても、以前に承った通り、蒲原に引き取ったので、方々に於いては御安心してほしいこと、これらを懇ろに伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』号「幻庵・久のとのへ まいる」宛北条「氏政」書状)。
同日、相州北条家の使節団を越府に先導することを命じられて越後国魚沼郡上田荘の塩沢の地へと出向いた旗本の進藤隼人佑家清が、年寄衆の直江大和守景綱・河田豊前守長親へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し上げること、今18日の昼過ぎに南使一行が当地に到着されたこと、一、特使の天用院は、年の頃は五十ばかりの御様相であり、氏康家中の石巻下野守(家種)の弟だそうであること、いかにも人品の備わった御僧侶であり、酒を好まれること、これには侍僧と悴者が一名づつ、氏康の中間が二名、本人の中間が六・七名、隠遁者が一名、都合十二名ほどが付き従っていること、一、沈流斎(行韵)は、大石源三(北条氏照)の使節であり、上下五人であること、ごく普通の方であり、魚を食べられること、年頃は三十余りであること、一、しづ野(志津野)一左衛門(尉)は、藤田(新太郎氏邦。氏康の四男。武蔵国鉢形城主)の家風だそうであること、院主(天用院)の案内者を務めているようであり、院主と同宿されていること、一、勝田(猿楽)八右衛門(尉)とその上下五名、一、かしょう(小川夏昌斎)とその上下六名、これらが一行の総員であること、一、氏康からは御樽(酒)を御進上されたそうであること、このたびはそれ以外の御進物はないそうであるでこと、新田(由良信濃守成繁。上野国金山城主)からは御具足を進上されたこと、当地(塩沢)の領主による御接待は行き届いており、荷馬十疋ばかりを借り受けたこと、一、同じく宿送りの人夫も五十人ばかりを借り受けたこと、一、明19日は下倉(魚沼郡堀内地域)、20日にはおぢ屋(同郡小千谷)、21日には北条(刈羽郡佐橋荘)、北条では一日逗留し、23日には柏崎(同郡比角荘)、24日には柿崎(頸城郡佐味荘)に到着する行程であり、吾等(進藤家清)は一行を柿崎まで先導したら、そのまま越府に直行すること、一、使節団は、我々が山吉(豊守)・直江(景綱)の配慮により、わざわざ差し遣わされた手筈を、松石(松本石見守景繁。上野国沼田城の城将。大身の旗本衆)から事前に説明されており、当地に到着した際、過分な厚意であるとして、繰り返し謝意を表されたこと、滞りなく通行するため、先々の通路・橋・舟渡の各員に連絡を入れて、一行が通過する際の念入りな配慮を要請したこと、いささかも気を緩めてはいないこと、日が暮れても取り急ぎ連絡したこと、しかるべく御取り成し願いたいこと、これらを懇ろに伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』726号「直大・河豊 参人々御中」宛「進藤隼人佑家清」書状)。
同日、天用院一行に同道した松本石見守景繁が、相州北条氏康に宛てて塩沢の地から書状を発し、一行の様子を知らせている。
20日、北条源三氏照が、羽州米沢(置賜郡長井荘)の伊達輝宗へ宛てて書状を発し、このたび格別な御使僧に預かったこと、なおいっそう交誼を深めるため、此方(相府)からも帰国する御使僧に玉瀧坊を添えられること、そもそも駿・甲・相三ヶ国は一体不離の間柄であったにも係わらず、武田信玄が野心を満たすために骨肉の情と誓詞の契約を捨て去り、昨冬に駿州へ侵攻したので、我慢がならなかった当方は、盟約の筋目を守り、この正月に駿州へ出陣し、薩埵山(庵原郡)に拠って甲(甲州武田軍)と対陣に及んだところ、先月24日に信玄が撤退を始めたので、追撃して多数の敵兵を討ち取ったこと、この信玄の非道な振舞いによって、長年の敵同士であった越・相両国が結び付き、大筋で一和の合意に至っており、間もなく成就するのは疑いないであろうこと、詳細については玉瀧坊が口述すること、狩野筆による扇子を十本を差し上げて、感謝を表するばかりであること、来信を期していること、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、蝋燭一合を贈ってもらい、ひたすらめでたい思いであることを伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』号「伊達殿 御報」宛北条「源三氏照」書状)。
21日、懸川を出城した今川氏真から書状(謹上書)が発せられ、このたび敢えて申し達すること、昨年より懸川籠城が引きも切らず続くなか、松平(徳川家康)が同心する意向を示してきたので、堅く誓約を交わすと、去る15日に懸川城を明け渡し、駿河国沼津(駿東郡)の地へと馬を納めたこと、当地は氏政の伊豆国三嶋陣に至近であり、諸々を相談して甲州へ進攻する覚悟であること、一刻も早く信州へ御出陣してもらいたいこと、詳細については、使僧の東泉院が口述すること、これらを懇ろに伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』749号「謹上 上杉殿」宛「源 氏真」書状)。
24日、北条氏政が、酒井左衛門尉忠次へ宛てて書状を発し、(今川)氏真の駿河帰国について、(徳川)家康と誓句をもって申し届けたこと、速やかな御返答の誓詞の到来に満足していること、取り分け、氏真並びに当方と格別の御交誼を結ばれたのは大慶であり、氏真の懸河出城の際に、其方(酒井忠次)が証人として半途まで出向いてくれたのも、まさにひたすら喜ばしいこと、これから家康と示し合わせていくなかで、取り持ちに奔走してもらいこと、黒毛馬一疋を贈ること、弟の助五郎(氏規。氏康の五男。相模国三崎城主)が詳報すること、これらを懇ろに伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』号「酒井左衛門尉殿」宛北条「氏政」書状)。
この間、甲州武田信玄(徳栄軒)は、駿河国興津城(庵原郡)の城将を一家衆の穴山武田左衛門大夫信君に任せるなどしたのち、甲府へ帰還すると、その穴山武田信君が、朔日、三州徳川家康の宿老である酒井左衛門尉忠次へ宛てて書状を発し、家康と連携して駿州に攻め入ったが、敵対する相州北条軍は薩埵山に布陣したきり決戦を避け、いたずらに長陣を続けているので、相州の後面に様々な策略を講じ、信玄は先月24日に取り敢えず帰国したこと、よって相州北条軍が当城や駿府に攻め寄せてくるものと覚悟していたところ、攻め掛けてくる様子もなく昨日に撤退したこと、更には、数日間は駿河国蒲原城(庵原郡)に留まると思っていたが、そのまま駿州を後にしたこと、信玄の手立てが効果を表したゆえに、相州北条氏政は日暮れ時分に山を下り、富士川を越えて逃げ去ったのだと思われるが、少なからず困惑していること、今川氏真が立て籠る遠江国懸川城の様子を詳しく知らせてほしいこと、もはや駿州の落着は疑いのないこと、駿州については、家康も承知しているように当家の領分となること、これらを然るべく取り次ぐように求めている(『戦国遺文 武田氏編二』1400号「酒井左衛門尉殿 進覧之候」宛穴山「信君」書状写)。
5日、常陸国太田の佐竹氏の客将である太田美濃入道道誉(三楽斎。俗名は資正。常陸国片野城主)の一族である太田宮内大輔へ宛てて、自ら認めた初信となる書状を発し、図らずも甲・相両国の間で抗争が起こったことから、三楽斎父子(太田道誉・梶原政景)と連携して相州北条軍に対抗したいので、父子が同調してくれるように、適切に口添えすることを頼むとともに、これについては使者の高尾伊賀守(直参衆)が詳述することを伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1401号「太田宮内太輔殿」宛武田「信玄」書状)。
7日、佐竹家に属する下野国衆の茂木 某(上野守か。下野国茂木城主)へ宛てて、初信となる書状を発し、このほど佐竹義重(常陸国太田城主)と格別な交誼を結んだので、佐竹家とは親密な間柄の貴方(茂木)とも、これより連帯できれば本望であることを伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1402号「茂木殿」宛武田「信玄」書状 切封ウハ書「茂木殿 従甲府」)。
9日、駿州在陣衆へ宛て書状を発し、守城の堅持に努めてくれており、とても安堵していること、北条氏政の伊豆国三島陣(田方郡)陣と大石源三(氏照)の本拠である武蔵国滝山領(多西郡)の両方面に向けて別働隊を進撃させること、信玄自身の出陣は、本国への帰陣後に体調を崩してしまい、残念ながら遅れているが、この一両日中には快復する見込みなので、それから三日のうちには挙行すること、公方(足利義昭)の御下知により、めでたくも甲・越両国の和与が大筋で合意に至ったこと、その方面にも近々先勢を進め、敵軍を撃滅させるつもりなので、それまでの間の忠勤に期待していること、このように示している(『戦国遺文 武田氏編二』1403号 武田信玄書状)。
17日、西上野先方衆の高山彦兵衛尉定重(上野国高山城主)へ宛てて、側近の原 隼人佑昌胤(譜代家老衆)をもって朱印状を発し、上野国箕輪城(群馬郡)の城代である浅利右馬助(実名は信種。譜代家老衆)と相談して、武・上国境に城砦を築いて在城することと、敵方に調略を施して同調者を募ることを指示している(『戦国遺文 武田氏編二』1408号「高山彦兵衛尉殿」宛武田家朱印状写【奉者】「原 隼人佐」)。
23日、三州徳川家康と懸川城に立て籠っていた今川氏真の間で和議が成立し、氏真が駿州河東(富士川以東)に引き退いたとの情報を得ると、濃(尾)州織田信長の重臣である津田国千代(織田支族である津田掃部助の子)・武井夕庵(号爾云。近習として右筆・奉行・取次を務める)へ宛てて書状を発し、旧冬に信玄が駿州へ進攻して氏真を没落させると、遠州も過半が当方に属し、氏真が逃げ込んだ懸河一城を残すのみとなり、十日余りが過ぎたところに、信長の先勢として家康が出陣してきたので、家康の要望通り盟約の旨に従って遠州諸士の人質などを引き渡したこと、その後には相州北条氏政が氏真を救うために駿河国薩埵山へと進出してきたので、信玄も即座に軍を進めて対陣に及んだこと、家康が固い信念を持って懸河城の攻略に臨んでいるからには、当然ながら懸河を落城させて、氏真を討ち果たすか、虜囚として三・尾両国の何れかに送るものと思っていたところ、小田原衆と岡崎衆が半途で会談して和与をまとめ、みすみす氏真に駿東への移駐を許してしまったのは不可解であること、家康は誓詞に於いて氏真や氏康・氏政父子と和睦しない旨を約束しており、この違約を信長はどのように考えているのかを質したいこと、然しながら、過ぎてしまった一件にこだわるつもりはないので、せめて氏真と氏康・氏政父子を敵とみなすように、信長から家康を説き伏せてほしいこと、これらについては、使者の木下源左衛門尉(直参衆)が詳述すること伝えている。更に追伸として、上使の瑞林寺と信長からの使者の佐々伊豆守(実名は良則。馬廻衆)は越後に直行し、当方に対する信長からの使者の津田掃部助は、すでに到着したことを伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1410号「津田国千世殿・夕庵」宛武田「信玄」書状)。
※ 武井夕庵については、谷口克広氏の著書である『信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材』(中公新書)による。
同日、駿河先方衆の長尾久兵衛尉・岡部雅楽助へ宛て書状を発し、長期の昼夜に亘る守城任務の労をねぎらうとともに、来月早々には駿州へ出陣するので、それまでいっそう城内の警戒に努めることと、懸河が落着したそうなので、山西辺りの様子を知らせるように指示している(『戦国遺文 武田氏編二』1411号「長尾久兵衛尉殿・岡部雅楽助殿」宛武田「信玄」書状)。
◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』(東京堂出版)