越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉輝虎(旱虎)の略譜 【49】

2013-06-19 01:34:12 | 上杉輝虎(謙信)の略譜

永禄12年(1569)5月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正小弼)【40歳】


朔日、相州北条氏康(相模守)が、遠江国懸川城(佐野郡)に立て籠る今川氏真と、それを攻める三州徳川家康との間の講和を図り、三州徳川家の宿老である酒井左衛門尉忠次へ宛てて書状を発し、このたび敢えて申し上げること、蔵人佐殿(徳川三河守家康)に対し、駿州(今川氏真)との一和の件について、玉瀧房(乗与)をもって申し届けること、氏康に於いても一和の成就念願していること、ほかでもない其方(酒井忠次)に取り成しに奔走してもらいたいこと、これらを懇ろに伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』号「酒井左衛門尉殿」宛北条「氏康」書状)。

7日、相州北条方の取次である北条氏照(源三。氏康の三男。武蔵国滝山城主と下総国栗橋城主を兼務する)から、取次の柿崎和泉守景家と山吉孫次郎豊守のそれぞれへ宛てて書状が発せられ、取り急ぎ申し届けること、越・相御一和により、御誓詞を取り交わされるからには、山王山衆(下総国関宿城の付城である山王山城に拠る氏照衆)を撤収させるべきとのこと、この越府(輝虎)から御内儀について、遠左(遠山左衛門尉康光。氏康の側近)と垪刑(刑部丞康忠。氏政の側近)に寄せられた沼田衆の一札を、このたび氏康父子が披読されたこと、こうして御一和の成立を迎えるからには、関宿への遺恨を捨て去られて、速やかに城砦を破却して軍勢を引き上げるように指示が下されたこと、氏照人衆が拠った山王山については、関宿城の自落は目前に迫っていたが、すでに率先して御一和のために奔走する覚悟を示したからには、破却に異存があるはずもなく、すぐさま実行に移すつもりなのであること、こうした趣旨を(輝虎に)御理解してもらいたく、御披露を任せ入ること、これらを懇ろに伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』724号「山吉孫次郎殿」宛北条「氏照」書状写)。

8日、相州北条氏康が、武蔵国岩付城(埼玉郡)に在番している富永孫四郎政家(政家。江戸衆)へ宛てて書状を発し、その地(武蔵国岩付城)に交代要員の大須賀信濃守(他国衆・千葉氏の一族衆。下総国助崎城主)が到着されるのと同時に出立されるべきこと、江城(武蔵国豊島郡の江戸城)には帰還せず、そのまま瀧山領(武蔵国多西郡)へ向かい、由井・八日町に着陣されるべきこと、甲州衆(甲州武田軍)が八王子筋(多西郡)へ出張してくるようであること、彼の地(八王子)には一切の人数を配備していないので、はなはだ心許なく、一刻も早く急行されるべきこと、これらを懇ろに伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』号「富永孫四郎殿」宛北条「氏康」書状)。

9日、伊豆国三島陣(田方郡)の相州北条氏政(左京大夫)が、父・氏康の側近である南条四郎左衛門尉が到来したのを受け、南条へ宛てた書状を託し、このたび南四(南条)をもって仰せ越された筋目は心得ていること、懸川の件について、(三州徳川家康から)無事落着を伝える使者が到来したので、改めて合意された内容を報告すること、こちらにも内藤(左近将監康行。相模国津久井郡の津久井城主。津久井衆)から、敵勢(甲州武田軍)が津久井口に出張してくるとの確報が寄せられたこと、当陣の様子は南条が詳述するので、この書面では詳細を申し上げないこと、こうした趣旨を御披露願いたいこと、これらを懇ろに伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』号「南条四郎左衛門(尉)殿」宛北条「氏政」書状)。

11日、懸川無事がまとまったことから、相州北条家の一門衆である玉縄北条左衛門大夫綱成(武蔵国玉縄城主)が、今川上総介氏真の側近である三浦左京亮元政へ宛てて返書(進上書)を発し、このたび(今川氏真)御直札を下されたので、謹んで拝読させてもらったこと、武田信玄が駿州から撤収されたので、早々に懸川衆を御迎えに上がるべきところ、信玄が間違いなく撤収されたのかどうか、敵勢(甲州武田軍)の動向を見極めるために慎重を期していたこと、(氏政から)内々に拙者(北条綱成)が御迎えの役目を務めるように指示を受けていたが、このほど信玄自ら相州筋へ出撃されるとの情報により、本国には若輩の将士しか残っておらず、今日未明に本国防衛の任に就くように指示が変更されたので、無念にも御迎えに行けなくなったこと、この事態は、信玄が相州に出陣している間に御迎えに行ける好機でもあること、松平(三州徳川家康)については、不備はなく調整されたので、首尾よく計画は進んでいること、詳細については、御厨伯耆(守)が口述すること、こうした趣旨を御披露願いたいこと、これらを懇ろに伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』号「進上 三浦左京亮殿」宛「北条左衛門大夫綱成」書状)。

15日、今川上総介氏真並びに相州北条氏康・同氏政父子と三州徳川家康の間で和議が整い、今川氏真は懸川城を徳川方に明け渡すと、海路で駿河国蒲原城(庵原郡)へ向かっている。

18日、相州北条氏政が、一族の長老である幻庵宗哲と久野北条新三郎氏信(幻庵の世子)の妻(西園寺氏)へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申すこと、このたび力の及ぶ限り奮戦したゆえ、(武田)信玄を敗北させたこと、もはや遠国(遠江)手出しする様子は見受けられないこと、昨17日に氏真御二方(今川氏真・早河殿(氏康の娘)夫妻)以下を無事に蒲原城(北条氏信が守将を務める)に引き取ったので満足していること、御同意であろうこと、このたび小当たりしたところ、奇特にも幸運な結果を得られたこと、「三浦しんさう(幻庵の姉)」についても、以前に承った通り、蒲原に引き取ったので、方々に於いては御安心してほしいこと、これらを懇ろに伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』号「幻庵・久のとのへ まいる」宛北条「氏政」書状)。

同日、相州北条家の使節団を越府に先導することを命じられて越後国魚沼郡上田荘の塩沢の地へと出向いた旗本の進藤隼人佑家清が、年寄衆の直江大和守景綱・河田豊前守長親へ宛てて書状を発し、取り急ぎ申し上げること、今18日の昼過ぎに南使一行が当地に到着されたこと、一、特使の天用院は、年の頃は五十ばかりの御様相であり、氏康家中の石巻下野守(家種)の弟だそうであること、いかにも人品の備わった御僧侶であり、酒を好まれること、これには侍僧と悴者が一名づつ、氏康の中間が二名、本人の中間が六・七名、隠遁者が一名、都合十二名ほどが付き従っていること、一、沈流斎(行韵)は、大石源三(北条氏照)の使節であり、上下五人であること、ごく普通の方であり、魚を食べられること、年頃は三十余りであること、一、しづ野(志津野)一左衛門(尉)は、藤田(新太郎氏邦。氏康の四男。武蔵国鉢形城主)の家風だそうであること、院主(天用院)の案内者を務めているようであり、院主と同宿されていること、一、勝田(猿楽)八右衛門(尉)とその上下五名、一、かしょう(小川夏昌斎)とその上下六名、これらが一行の総員であること、一、氏康からは御樽(酒)を御進上されたそうであること、このたびはそれ以外の御進物はないそうであるでこと、新田(由良信濃守成繁。上野国金山城主)からは御具足を進上されたこと、当地(塩沢)の領主による御接待は行き届いており、荷馬十疋ばかりを借り受けたこと、一、同じく宿送りの人夫も五十人ばかりを借り受けたこと、一、明19日は下倉(魚沼郡堀内地域)、20日にはおぢ屋(同郡小千谷)、21日には北条(刈羽郡佐橋荘)、北条では一日逗留し、23日には柏崎(同郡比角荘)、24日には柿崎(頸城郡佐味荘)に到着する行程であり、吾等(進藤家清)は一行を柿崎まで先導したら、そのまま越府に直行すること、一、使節団は、我々が山吉(豊守)・直江(景綱)の配慮により、わざわざ差し遣わされた手筈を、松石(松本石見守景繁。上野国沼田城の城将。大身の旗本衆)から事前に説明されており、当地に到着した際、過分な厚意であるとして、繰り返し謝意を表されたこと、滞りなく通行するため、先々の通路・橋・舟渡の各員に連絡を入れて、一行が通過する際の念入りな配慮を要請したこと、いささかも気を緩めてはいないこと、日が暮れても取り急ぎ連絡したこと、しかるべく御取り成し願いたいこと、これらを懇ろに伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』726号「直大・河豊 参人々御中」宛「進藤隼人佑家清」書状)。

同日、天用院一行に同道した松本石見守景繁が、相州北条氏康に宛てて塩沢の地から書状を発し、一行の様子を知らせている。

20日、北条源三氏照が、羽州米沢(置賜郡長井荘)の伊達輝宗へ宛てて書状を発し、このたび格別な御使僧に預かったこと、なおいっそう交誼を深めるため、此方(相府)からも帰国する御使僧に玉瀧坊を添えられること、そもそも駿・甲・相三ヶ国は一体不離の間柄であったにも係わらず、武田信玄が野心を満たすために骨肉の情と誓詞の契約を捨て去り、昨冬に駿州へ侵攻したので、我慢がならなかった当方は、盟約の筋目を守り、この正月に駿州へ出陣し、薩埵山(庵原郡)に拠って甲(甲州武田軍)と対陣に及んだところ、先月24日に信玄が撤退を始めたので、追撃して多数の敵兵を討ち取ったこと、この信玄の非道な振舞いによって、長年の敵同士であった越・相両国が結び付き、大筋で一和の合意に至っており、間もなく成就するのは疑いないであろうこと、詳細については玉瀧坊が口述すること、狩野筆による扇子を十本を差し上げて、感謝を表するばかりであること、来信を期していること、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、蝋燭一合を贈ってもらい、ひたすらめでたい思いであることを伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』号「伊達殿 御報」宛北条「源三氏照」書状)。

21日、懸川を出城した今川氏真から書状(謹上書)が発せられ、このたび敢えて申し達すること、昨年より懸川籠城が引きも切らず続くなか、松平(徳川家康)が同心する意向を示してきたので、堅く誓約を交わすと、去る15日に懸川城を明け渡し、駿河国沼津(駿東郡)の地へと馬を納めたこと、当地は氏政の伊豆国三嶋陣に至近であり、諸々を相談して甲州へ進攻する覚悟であること、一刻も早く信州へ御出陣してもらいたいこと、詳細については、使僧の東泉院が口述すること、これらを懇ろに伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』749号「謹上 上杉殿」宛「源 氏真」書状)。

24日、北条氏政が、酒井左衛門尉忠次へ宛てて書状を発し、(今川)氏真の駿河帰国について、(徳川)家康と誓句をもって申し届けたこと、速やかな御返答の誓詞の到来に満足していること、取り分け、氏真並びに当方と格別の御交誼を結ばれたのは大慶であり、氏真の懸河出城の際に、其方(酒井忠次)が証人として半途まで出向いてくれたのも、まさにひたすら喜ばしいこと、これから家康と示し合わせていくなかで、取り持ちに奔走してもらいこと、黒毛馬一疋を贈ること、弟の助五郎(氏規。氏康の五男。相模国三崎城主)が詳報すること、これらを懇ろに伝えている(『戦国遺文 後北条氏編二』号「酒井左衛門尉殿」宛北条「氏政」書状)。


この間、甲州武田信玄(徳栄軒)は、駿河国興津城(庵原郡)の城将を一家衆の穴山武田左衛門大夫信君に任せるなどしたのち、甲府へ帰還すると、その穴山武田信君が、朔日、三州徳川家康の宿老である酒井左衛門尉忠次へ宛てて書状を発し、家康と連携して駿州に攻め入ったが、敵対する相州北条軍は薩埵山に布陣したきり決戦を避け、いたずらに長陣を続けているので、相州の後面に様々な策略を講じ、信玄は先月24日に取り敢えず帰国したこと、よって相州北条軍が当城や駿府に攻め寄せてくるものと覚悟していたところ、攻め掛けてくる様子もなく昨日に撤退したこと、更には、数日間は駿河国蒲原城(庵原郡)に留まると思っていたが、そのまま駿州を後にしたこと、信玄の手立てが効果を表したゆえに、相州北条氏政は日暮れ時分に山を下り、富士川を越えて逃げ去ったのだと思われるが、少なからず困惑していること、今川氏真が立て籠る遠江国懸川城の様子を詳しく知らせてほしいこと、もはや駿州の落着は疑いのないこと、駿州については、家康も承知しているように当家の領分となること、これらを然るべく取り次ぐように求めている(『戦国遺文 武田氏編二』1400号「酒井左衛門尉殿 進覧之候」宛穴山「信君」書状写)。

5日、常陸国太田の佐竹氏の客将である太田美濃入道道誉(三楽斎。俗名は資正。常陸国片野城主)の一族である太田宮内大輔へ宛てて、自ら認めた初信となる書状を発し、図らずも甲・相両国の間で抗争が起こったことから、三楽斎父子(太田道誉・梶原政景)と連携して相州北条軍に対抗したいので、父子が同調してくれるように、適切に口添えすることを頼むとともに、これについては使者の高尾伊賀守(直参衆)が詳述することを伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1401号「太田宮内太輔殿」宛武田「信玄」書状)。

7日、佐竹家に属する下野国衆の茂木 某(上野守か。下野国茂木城主)へ宛てて、初信となる書状を発し、このほど佐竹義重(常陸国太田城主)と格別な交誼を結んだので、佐竹家とは親密な間柄の貴方(茂木)とも、これより連帯できれば本望であることを伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1402号「茂木殿」宛武田「信玄」書状 切封ウハ書「茂木殿 従甲府」)。

9日、駿州在陣衆へ宛て書状を発し、守城の堅持に努めてくれており、とても安堵していること、北条氏政の伊豆国三島陣(田方郡)陣と大石源三(氏照)の本拠である武蔵国滝山領(多西郡)の両方面に向けて別働隊を進撃させること、信玄自身の出陣は、本国への帰陣後に体調を崩してしまい、残念ながら遅れているが、この一両日中には快復する見込みなので、それから三日のうちには挙行すること、公方(足利義昭)の御下知により、めでたくも甲・越両国の和与が大筋で合意に至ったこと、その方面にも近々先勢を進め、敵軍を撃滅させるつもりなので、それまでの間の忠勤に期待していること、このように示している(『戦国遺文 武田氏編二』1403号 武田信玄書状)。

17日、西上野先方衆の高山彦兵衛尉定重(上野国高山城主)へ宛てて、側近の原 隼人佑昌胤(譜代家老衆)をもって朱印状を発し、上野国箕輪城(群馬郡)の城代である浅利右馬助(実名は信種。譜代家老衆)と相談して、武・上国境に城砦を築いて在城することと、敵方に調略を施して同調者を募ることを指示している(『戦国遺文 武田氏編二』1408号「高山彦兵衛尉殿」宛武田家朱印状写【奉者】「原 隼人佐」)。

23日、三州徳川家康と懸川城に立て籠っていた今川氏真の間で和議が成立し、氏真が駿州河東(富士川以東)に引き退いたとの情報を得ると、濃(尾)州織田信長の重臣である津田国千代(織田支族である津田掃部助の子)・武井夕庵(号爾云。近習として右筆・奉行・取次を務める)へ宛てて書状を発し、旧冬に信玄が駿州へ進攻して氏真を没落させると、遠州も過半が当方に属し、氏真が逃げ込んだ懸河一城を残すのみとなり、十日余りが過ぎたところに、信長の先勢として家康が出陣してきたので、家康の要望通り盟約の旨に従って遠州諸士の人質などを引き渡したこと、その後には相州北条氏政が氏真を救うために駿河国薩埵山へと進出してきたので、信玄も即座に軍を進めて対陣に及んだこと、家康が固い信念を持って懸河城の攻略に臨んでいるからには、当然ながら懸河を落城させて、氏真を討ち果たすか、虜囚として三・尾両国の何れかに送るものと思っていたところ、小田原衆と岡崎衆が半途で会談して和与をまとめ、みすみす氏真に駿東への移駐を許してしまったのは不可解であること、家康は誓詞に於いて氏真や氏康・氏政父子と和睦しない旨を約束しており、この違約を信長はどのように考えているのかを質したいこと、然しながら、過ぎてしまった一件にこだわるつもりはないので、せめて氏真と氏康・氏政父子を敵とみなすように、信長から家康を説き伏せてほしいこと、これらについては、使者の木下源左衛門尉(直参衆)が詳述すること伝えている。更に追伸として、上使の瑞林寺と信長からの使者の佐々伊豆守(実名は良則。馬廻衆)は越後に直行し、当方に対する信長からの使者の津田掃部助は、すでに到着したことを伝えている(『戦国遺文 武田氏編二』1410号「津田国千世殿・夕庵」宛武田「信玄」書状)。


※ 武井夕庵については、谷口克広氏の著書である『信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材』(中公新書)による。

同日、駿河先方衆の長尾久兵衛尉・岡部雅楽助へ宛て書状を発し、長期の昼夜に亘る守城任務の労をねぎらうとともに、来月早々には駿州へ出陣するので、それまでいっそう城内の警戒に努めることと、懸河が落着したそうなので、山西辺りの様子を知らせるように指示している(『戦国遺文 武田氏編二』1411号「長尾久兵衛尉殿・岡部雅楽助殿」宛武田「信玄」書状)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)
◆『戦国遺文 武田氏編 第二巻』(東京堂出版)

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越後国上杉輝虎(旱虎)の略譜 【48・下】

2013-06-07 10:13:25 | 上杉輝虎(謙信)の略譜

永禄12年(1569)4月 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎。弾正少弼)【40歳】


越・相和睦の交渉を進めるにあたり、関東味方中の佐竹次郎義重(常陸国太田城主)と太田美濃入道道誉(三楽斎。資正。同片野城主)・梶原源太政景父子らの許へ、使者の大石右衛門尉(旗本衆)を派遣すると、太田道誉・梶原政景父子から、21日以降にまとめて返書が発せられる。

21日、梶原政景が、取次の山吉孫次郎豊守・河田豊前守長親へ宛てた返書を認め、先日は御懇答が寄せられたので、謹んで精読したこと、めでたく喜ばしいこと、何よりも本庄(繁長。雨順斎全長。外様衆。越後国猿沢城に蟄居中)を思うがままに落着させて御馬を納められたとのこと、御一同が喜びにひたっておられるであろうこと、我等(梶原政景)も満足していること、氏政(相州北条氏政)から御当国(越後国上杉家)に無事を懇望された件については、このほど佐竹(義重)を始めとする御味方中に見解を質されるため、使者の大石(右衛門尉)を差し越されたこと、先ずは御賢明であること、これに伴い(佐竹)義重からは小佐(宿老の小貫佐渡守頼安。譜代衆)が申し述べられること、拙夫(梶原政景)からも再び管雲斎を差し添えること、言うまでもなく適宜な御取り成しを頼み入ること、彼方(大石右衛門尉)が詳述されるので、この書面を略したこと、これらを懇ろに伝えている。更に追伸として、前日に佐竹からこちらへ派遣されてきた車信濃守によると、(佐竹)義重は貴所(山吉豊守・河田長親)へ越・相無事の是非を仰せ届けないつもりであったようで、拙夫(梶原)の見解を示したところ、本心を明らかにするべきか、思いあぐねていると申し述べていたことを伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』710号「山孫・志山(本来は河豊であったろう)」宛「梶原 政景」書状写)。

同日、太田三楽斎道誉・梶原源太政景父子が、河田豊前守長親へ宛てた管雲斎が口述するための条書を認め、一、(輝虎が)御越山されるのを待つばかりであること、一、南方(相州北条家)との御無為については、都鄙の諸勢力から望まれている状況では受け入れざるを得ないこと、この補足として、国分け(領土の画定)のこと、一、先頃に申した通り、(佐竹)義重に示された御懇切な配慮には、某父子(太田道誉・梶原政景)に於いても恐縮していること、一、武・上・常・野州の一切を統治されるべきこと、一、下総国関宿城(葛飾郡下河辺荘)の救援は緊急を要すること、一、今後の我ら親子の処遇にまつわること、この補足として、近年(佐竹氏の客将となって以降)に属した馬寄之衆(外様衆)の注文を提出すること、一、越・相御無為が成立されてからのこと、これらの条々について説明している(『上越市史 上杉氏文書集一』707号「河田豊前守殿」宛「(太田)三楽斎道誉・梶原源太政景」連署条書)。

同日、太田三楽斎道誉が、山吉孫次郎豊守・河田豊前守長親へ宛てた管雲斎が口述するための条書を整え、一、鎌倉公方は下総国古河城を御座所とするべきこと、一、公方様の御名跡のこと、一、武・上・常・野州のこと、一、西方河内守(下野国衆・宇都宮氏の親類衆。下野国西方城主)を引き立てられるべきこと、この補足として、離反を繰り返す人物であること、一、これらの一儀を誓詞をもって申し達すること、これらの条々について説明している(『上越市史 上杉氏文書集一』708号「山吉孫次郎殿・河田豊前守殿」宛太田「三楽斎道誉」条書案)。


23日、房州里見左馬頭義弘から書状が発せられ、このたび意図をもって申し達すること、(北条)氏政は薩埵山に押し上られるも、苦境に立っているため、越・相無事を懇望してきたのかどうか、よく分からなかったこと、簗田中務大輔(洗心斎道忠。晴助)の飛脚が御懇書を持参したこと、弁才のある使者を寄越すように仰せられるも、(北条)氏康の指図による下総路の警戒が厳しく、通常の使者の往来は不可能であるため、子細については、条目をもって詳しく申し達すること、(北条)氏康から頻繁に房・相和談を打診されており、そのつどはねつけていること、但し、越国が御無事を受諾するのであれば、御同意するべきと考えていること、御和談が御落着されるまでは、制海域の拡張に努めること、御和談には強硬な姿勢で交渉に臨んでほしいこと、また我等(里見義弘)を初めとする忠勇の味方中は越・相無事に懸念を抱いており、それでもなお同盟が締結されるのであれば、詳しく知らせてほしいこと、これらを懇ろに伝えらている。更に追伸として、中風を患っているために花押を書けず、印判で済ませたことへの理解を求められている(『上越市史 上杉氏文書集一』711号「山内殿 御宿所」宛「里見左馬頭義弘」書状写)。



同日、駿河国薩埵山(庵原郡)に在陣中の相州北条左京大夫氏政が、羽州米沢(置賜郡長井荘)の伊達輝宗(次郎)へ宛てて書状(謹上書)を発し、当口の様子を詳しく申し述べるため、御使僧に使いを差し添えたこと、もとより甲・相両国の間で抗争が起こったのに伴い、越国(越後国上杉家)から一味を望まれたわけであること、御心得てもらうために申し届けること、なお、遠境ではあっても、一部始終を理解して御入魂の間柄であってもらえれば、本望であること、委細は玉瀧坊(乗与)が口上すること、これらを恐れ謹んで申し伝えている。さらに追伸として、遠方より入手した誘弓(拵弓)廿張を贈ること、これらを
申し添えている(『戦国遺文 後北条氏編二』1199号「謹上 伊達殿」宛北条「左京大夫氏政」書状)。

この頃、相州北条家から条書が発せられ、一、御戦陣のこと、この補足として、細かな条々は別記すること、一、公方様の御名代のこと、一、氏康(相州北条氏康)が案じている一計のこと、一、愚息のひとりを養子として遣わすべきこと、一、書札礼のこと、一、晴信(甲州武田信玄)が企てている計略のこと、一、小田(常陸国衆の小田氏治。常陸国小田城主)と佐竹(同じく佐竹義重。同太田城主)の間を御仲裁のこと、一、八正院殿(小弓御所足利義明)御連枝の復権のこと、一、下総国衆の帰属のこと、一、太田美濃守(三楽斎道誉。資正)を引き付けられるべきこと、この補足として、扇谷(扇谷上杉家)の復活のこと、これらの条々について説明されている(『上越市史 上杉氏文書集一』709号 北条家条書写)。

24日、輝虎の主張する永禄3年の関東一乱時に於ける勢力分布での領域区分案について、相州北条氏康・同氏政父子から条書(これより山内殿と宛名書きされる)が発せられ、(前欠)一、武蔵国松山領(比企郡)については、他国衆の上田(安独斎宗調。没落した扇谷上杉氏の旧臣)の本領であり、申年一乱の際には上田父子は小田原に在城していたのは、御存じの通りであること、こうした事情を考慮して策定してほしいこと、今朝方に信玄が本国へ敗走したこと、貴国(輝虎)から戦陣の号令が発せられれば、このまま甲州へ攻め入るので、この絶好の機会を逃さずに信州へ御出馬されるのを待つばかりであること、これらの条々について説明されている(『上越市史 上杉氏文書集一』713号「山内殿」宛北条「氏康」・北条「氏政」連署条書)。



26日、越中味方中の神保惣右衛門尉長職(越中国増山城主)の一族である神保覚広(近江守)から、取次の直江大和守景綱(輝虎の最側近)へ宛てて書状が発せられ、このたび敢えて言上すること、本庄表(越後国村上陣)に戦陣については、御本意を遂げられて、 御馬を納められたこと、この国(越中国)までも喜びに沸いていること、すぐにも祝意を申し上げるべきところ、通路の確保に手間取り、遅くなってしまったこと、些少ながら杉原紙百帖を進上すること、こうした趣旨を御披露願いたいこと、これらを懇ろに伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』714号「直江大和守殿」宛神保「覚広」書状)。

同日、神保長職の宿老である小嶋職鎮(六郎左衛門尉)から、直江大和守景綱へ宛てて書状が発せられ、あらためて申し達すること、瀬波(岩船)郡村上山の戦陣については、 御屋形様(輝虎)が尊慮を達せられて落着させたので、まさにこの国(越中国)までも喜びに沸いており、筆墨に尽くし難いほどであること、本来であれば御在陣中に祝意を申し上げるべきところ、海・陸路が共に不通のために遅延したもので、いささかも軽んじてはいないこと、この国の様子については、各所が頭書をもって報告する通り、この機会の御戦陣が遅延されないように、上聞に達せられれば、恐悦であること、自訴の一件については、先書の通りに再び申し入れること、御便宜を図ってくれるように願うばかりであること、些少ながら紅糸二縷、間に合い紙百枚を進献すること、詳細については、彼の使者が口述するので、この書面を略したこと、これらを懇ろに伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』715号「直太 まいる御宿所」宛小嶋「職鎮」書状)。

同日、小嶋職鎮から、取次の鯵坂清介長実(輝虎の側近)へ宛てて書状が発せられ、このたび敢えて申し上げること、村上山陣については、尊慮を達せられて御馬を納められたので、まさにこの口(越中国)までも喜びに溢れており、愚筆に尽くし難いほどであること、本来であれば御在陣中に脚力をもって祝意を申し上げるべきところ、海・陸路が共に不自由のためにままならかったのであり、いささかも軽んじてはいないこと、太刀一腰、手綱・腹帯五具を進上すること、こうした趣旨をしかるべく御披露願いたいこと、これらを懇ろに伝えている(『上越市史 上杉氏文書集一』716号「鯵清」宛小嶋「職鎮」書状)。


※ 当文書は宛所を欠損しているが、『謙信公御書集』巻十により補ったとのこと。直江景綱宛と同様に「まいる御宿所」の脇付けも書かれていたであろう。



27日、相州北条氏康(相模守)から書状が発せられ、このたび越・相両国の使者が領境で面談した際、提示された条理を受け入れるつもりであるが、領土の画定については、いささかの再検討を願いたいこと、聞き入れられれば、感謝に堪えないこと、これらを懇ろに伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』717号「山内殿」宛北条「氏康」書状)。

別紙の追伸にて、遠方より入手した三種三荷を贈ったので、御賞味してもらえれば、本望であることを伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』718号「山内殿」宛北条「氏康」書状写)。

同日、相州北条氏康から、取次の山吉孫次郎豊守へ宛てて書状が発せられ、北丹(北条丹後守高広。他国衆。上野国厩橋城主)の進退の件について、越・相両国が一味するからには、御赦免されるように、(輝虎に)御配慮してもらいたいこと、この一儀を其方(山吉豊守)に頼み入る所存であること、委細は源三(北条氏照。氏康の三男。北条高広の指南を務める)が申し入れること、これらを恐れ謹んで申し伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』720号「山吉孫次郎殿」宛北条「氏康」書状写)。

同日、相州北条氏康から、上野国沼田城(利根郡沼田荘)の城将である松本石見守景繁へ宛てて書状が発せられ、このたび(北条)氏政が苦心して案出した条理を申し越したこと、親子の間柄を抜きにしても、一理はあるのではないかと思われるため、憚りながらも同意していること、不安の一ヶ条があり、上州全域の領有については、名利と一緒に本意が失われかねないので再考を願いたく、輝虎の御作意には反するも、御取り成しをもって、越・相両国で上州を分け合えるように念願していること、(武田)信玄の敗北により、氏政に対し、勝ちに乗じて追撃する気があるのかどうかを問いただしたところ、越・相一和を一度申し合わせたからには、信玄を撃滅する決意に変わりはないとの存念を示したので、愚老も満足していること、この上は敗北に意気消沈している信玄が立ち直らないうちに、信州へ御出張されれば、すぐさま氏政も甲州へ攻め込むので、越・相両国の連帯は今に極まり、この機会を逃しては報われないこと、遠州(今川氏真)については、帰還した使者共の報告によれば、来月上旬には兵糧が欠乏するので、これもまた御出陣を催促しているようなものではないかと思われること、一点も虚説のない意趣を八幡大菩薩と三嶋大明神の名に掛けて誓約すること。そして、遠州が御滅亡してから、御出陣されたのでは元も子もないこと、これらを懇ろに伝えられている(『上越市史 上杉氏文書集一』721号「松本石見守殿」宛北条「氏康」書状)。

同じ頃、相州北条氏康から条書が発せられ、遠路ゆえに互いの使者を往来させるのでは時間がかかり過ぎるため、このたび無礼を省みずに糊付(大事)の書簡をもって申し入れること、御存分を糊付の御返答を寄せてもらえれば本望であること、一、関東管領職については、去る頃に亡父の氏綱が、上意(古河御所足利晴氏)に従って出撃し、下総国国府台(葛飾郡)に於いて稀世御父子三人(小弓御所足利義明、その嫡男(実名は義淳か)、義明の弟である基頼)を敗死させると、その勲功によって管領を仰せ付けられ、御内書二通を頂戴しており、その筋目を拠り所としていたが、このほど(輝虎の)御名跡に氏政の実子が定められ、血縁が結ばれるからには異存はなく、貴意(輝虎)の通りに従うこと、一、国分けについては、氏政の下知に従って忠功を励んだ河内(上野国東部)の諸士がおり、あっさりと手放してしまっては、彼らに対して面目を失するので、(輝虎の)御厚情に縋って現状を維持したいが、納得してもらえなければ、敢えて望まないこと、更には、このほど領境で開催された松石(松本景繁)と遠山左衛門尉(康光。氏康の側近)・垪和(刑部丞康忠。氏政の側近)の会談に於いて、引渡しを求められた武州六ヶ所の領域については、豆・相・武三ヶ国は当家の歴代が戦功によって得たものであり、(輝虎の)御主張を全面的に受け入れて越・相和融を締結するからには、どうか現状を認めてもらいたいこと、一、公方様の御移座に於ける藤氏様(足利晴氏の長男)の御進退について、松石(松本景繁)から示されたこと、遠国ゆえに事情は伝わっていないものと思われるが、もはや永禄9年に死去されているので、晴氏様から正式に相続を認められている義氏様(晴氏の末男)がおり、これまた越・相和融を締結するからには、御筋目の正しい義氏様を立てられるのが最善であること、よって、これらの条々を調整したからには、一日も早く信州へ御出張してもらいたく、さすれば氏政も直ちに甲州へ攻め入るので、このたびの敗北に意気消沈する(武田)信玄が気力を取り戻さないうちに、信・甲を御退治されることを念願しており、越・相和融の連帯は今に極まるため、この機会を逃しては報われないことを示されている(『上越市史 上杉氏文書集一』723号 北条氏康条書)。



◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)
◆『謙信公御書集』(臨川書店)
◆『戦国遺文 後北条氏編 第二巻』(東京堂出版)

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