九重自然史研究所便り

昆虫採集と観察のすすめ

阿倍の文殊院の獅子の股をくぐった話

2017-12-17 10:36:46 | 日記

阿倍の文殊院の獅子の股をくぐった話
奈良学大三年秋、教育実習が終わるとすぐ、東大寺の青々中学校校長から岩田教授を通じて、その中学校は私が卒業する年に東大寺学園と名前を変え中高一貫教育の男子校として発足するので、その中学校と高等学校の理科(生物、地学)の先生になって欲しいと勧誘された。当時は全国的に中学・高校理科教員が極度に不足しており、奈良学大理科はたった6名、生物・地学は私1人だったから、3年生の後半に青田刈りされた。奈良市内の学校だし、青々中学校を受験する小学生の家庭教師をしていたので、学校の様子も大体わかっていた。おまけに南大門を入って左側にある学校だから、私の大好きな仁王と毎日会えるので引き受けてしまった。新しい高等学校を作るには教員免許を持つ(あるいは開学時までに取得できる)一定数を越える教員を確保しなければならなかったらしい。また学大4年生の時は青々中学の1年生の理科を土曜日に2時間臨時に担当した。
 その頃はまだ卒論テーマが決まる前で、岩田教授と相談し卒論研究は、奈良春日山原生林の昆虫相を調査しようと考えたが、奈良県・奈良市の許可が得られず、岩田教授は私を東京教育大学菅平高原生物実験所の安藤先生の元で、卒論研究するよう計らって下さった。これが私にとっては、生涯の師と出会い学者人生を歩む第一歩となった。もし調査が認められていたら今も奈良市に住んでいたと思う。
学大桜寮にいた3ヶ月の間、採集した蛾のリストを、名古屋昆虫同好会誌に発表したが、それが春日山の昆虫を具体的に調べた唯一の資料だったらしく、澤田教授が春日神社からその論文を神社の出版物に転載したいと頼まれ、私がフィリピン滞在中で連絡がとれず帰国後、先生は君に無断で承諾したと謝って来られ、春日神社からもその記事が載った2冊子を送ってきた。
 安藤先生の元で菅平の蛾の卒論研究をやっているうちに、研究、特に考えることが、面白くなり安藤先生のところで大学院に進みたいと思った。しかし、澤田先生から君は少し年を取り過ぎているから、給料がもらえる長崎大学熱帯医学研究所の助手になれと薦められ長崎に移った。移る前の1年は奈良で過ごす最後の年なので、1964年11月27日不退寺と法華寺から始め、1965年正月は飛鳥で過ごし、合計100近くの神社仏閣を1965年4月12日まで20回一人であるいは友人と、また最後の方は東大寺学園の教え子と訪ね、「飛鳥・大和路」というその旅を記録した1冊のノートが残っている。
2017年12月7日、小金丸さんの息子さんが運転する車で私と妻の4人で、阿部の文殊院を訪ねた。私がもう一度見たい仏像は獅子の背中にまたがっている大きな文殊さんだと言ったので、じゃあ、そこへ行こうということになり、出かけた。昔、佐藤優君と行ったときは、確かに獅子の股をくぐった記憶があり、獅子の大きな睾丸に頭がぶつかりそうになったことを覚えている。しかし、今日見た文殊は7mもあり獅子の背中にある座の上に直立しており、また今は獅子の股をくぐることはできなかった。しかし、昔は公然とくぐれたことは確かである。なぜなら長崎へ移った後、京都で学会があった時、1968年4月7日阿部の文殊院に立ち寄った記事がそのノートにあり、「獅子の股をくぐると知恵がつくと云われており、みんなでくぐった」とあり証人もいる。熱研の中富大学院生、東大寺学園の教え子3人(浜田、山中、喜多)が同行して獅子の股をくぐり、文殊の知恵を授かりお陰でみな成功している。しかし2017年の今は、股くぐりはできないようになっている。
ところで添付した文殊院の今回のパンフレットの文殊は獅子の上に座っている写真である。多分、文殊像は着脱でき、ある時は獅子の背に立つ7mの仏像、股くぐりをさせる時は上半身あるいは、別の小さな像を載せるらしい。

九州の思い出の町を巡る旅と京都の歳末

2017-12-14 18:47:43 | 日記
九州の思い出の町を巡る旅と京都の歳末
九州の思い出の町を巡った旅は、熱研では不快な気持ちになったが、時津は驚くほど変わっており、都会化し、妻の実家の周りに家が建ちそのうち西海橋まで人家や商店が続くかもと思われる勢いだった。大分市も都市化していた。
九重自然史研究所は、私が愛した樹木がすべて伐採され、広い土地の真ん中にぽつんと建っていた。私は森の中の一軒家に住むのが夢で木を植えたが、ようやく少し枝をはらわなければと思うころ手放した。妻はネコの餌入れがそこに置いてあったので、ロッキーとランランの一族は住民から可愛がられていると喜んだ。私は昔、犬派だったからここでロッキーと出会わなかったらネコの観察をすることはなかっただろう。地蔵原高原はそれほど変わっていなかった。

京都の年中行事の一つとして400年も続いている南座の東西合同大歌舞伎は南座が修理中で、去年も今年も別の場所でやっていた。私の父母は歌舞伎が好きで、特に師走の南座の歌舞伎は母が生きていた間は二人で必ず見に行ったようだ。私は歌舞伎に興味がなかったが、偶然、私の昆虫標本を守るため滋賀県に戻り、京都に近い草津市に住むことになって、妻も日々の買い物に京都へ行き、いつの間にか京都の地理を覚え、桜や紅葉の名所がある神社仏閣を探訪する生活が続いている。
大分市富士見ヶ丘の家からトキワ百貨店のある市街地へ行くバスの往復運賃と、草津~京都間のJR運賃がほとんど同じ、要する時間もこちらが短い。だから手芸をやっている妻は、突然、必要な糸が無くなるとさっさと京都へ糸を買いに行く。草津に豆バスがあり、それで駅へ行き、帰りは歩くこともある。
季節の移ろいは、南禅寺から哲学の道を歩くと良くわかる。その道に曲がる角に中年過ぎた夫婦がやっているコーヒショップがある。亭主がカメラ愛好家で古いカメラが集まっている。そこは私たちの好きな店で必ず立ち寄り食事をすることが多い。食事時間でなくてもコーヒを飲みに立ち寄る。
年末になると行われる吉例顔見世興行は出演者の名を連ねた招き看板を竹矢来と松飾の上に隙間なく並べる。昔も今も京都の師走はこの看板が南座に並ぶと始まる。今年見たのは夜の部で良弁杉由来二月堂、俄獅子、人情噺文七元結(この中で襲名口上があり、贔屓から成駒屋!の声がかかる)。良弁杉は2~3人の役者が会話する語りで動作は殆どないが、寺侍、坊さんなどが続々と一人ずつ登場し分かれて座り、終わるまで座っている、その数は50人を超えているようだ。襲名披露の後、大江山酒呑童子は鬼退治の物語で踊りを見せる趣向だから、鬼退治と言っても凄惨な感じはなく、鬼が疲れ果てて倒れで終わる。歌舞伎は華やかで、囃子方が高揚すると、踊りも激しくなり観客と役者は一体になり酔いしれる。私はその一体感が何とも言えない、いい気持なので歌舞伎が好きだ。

熱研よ死ね!シリーズ・中塚正行先生と片峰大助先生の思い出

2017-12-12 13:08:32 | 日記
中塚正行先生と片峰大助先生の思い出
熱研幹部が深く反省し、熱研が新しい体制に引き継がれるまで「熱研」時代の思い出を書くときはこのシリーズ名称で書くことにする。、
宮田 彬
私は同年齢の人がそろそろ博士になる頃、風(ふう)研(けん)助手になった。師匠は中林教授で入門直後、私に「一日一外国語論文を読め」と言われた。私は奈良学芸大卒、卒論の主査は寄生虫学者岩田正俊先生だが、私は菅平高原の蛾の研究で卒論を書いたから、寄生原虫のことは何も知らなかった。だから一日2~3論文読むと、すぐに辞書なしで読めるようになり、トリコモナス培養、蛍光抗体法でトキソプラズマ検出、原虫の凍結保存法など与えられた課題の他に、小動物の寄生原虫を調べ、約6000点の文献をパンチカードにメモし整理した。特に吸血性無脊椎動物により媒介される脊椎動物のTrypanosomaや胞子虫類の起源を探ることに興味を持ち、熱研でも新種原虫を10種以上命名した。
長崎大は学閥意識や名門意識が希薄で、特に長崎市民は江戸時代全国各地から学びに来た若者を受け入れた伝統があるからか、他の九州諸県と比べると郷党意識が非常に薄い。だから私より少し若い医学部出の大学院生と交わりよく飲み議論した。私にとって熱研時代は第二の青春で本当に楽しかった。
しかし中林先生が阪大に戻られた後、私は他の教授に仕える積りはなく、熱研を去る決意をし、着任した新任教授に「寄生原生動物」を出版後、助手を辞めると伝えた。幸い文部省の出版補助金を受け13年間の原虫学の集大成「寄生原生動物−その分類・生態・進化」(1979)2巻2000頁の著書出版作業を始めた。こっそり校正を手伝ってくれた他部門の助手がおり、教室の助教授も校正を手伝って下さった。完成した48,000円の本を車に積み医学部の同窓生に強引に販売してくれた私より若い助教授もいた。付き合いが無かった臨床系教授がおめでとうと肩を叩き現金で買ってくれた。
私は1969~1973年、熱研マラリアチームの一員として、四度フィリピン・パラワン島へ派遣された。その時の長大学長は中塚先生だった。当時は海外出張がまだ珍しく、帰国すると全員で学長に挨拶に行った。しかし、ある年隊長命令で私が独り帰国挨拶に行った。助手が一人で来たから、学長はご機嫌斜め座れとも言わない。挨拶を済ませ、ささやかな土産を恐る恐る差し出すと、急に学長はニコニコし秘書に「オーイ、宮田君が土産を持ってきたぞ。コーヒを出してやれ」と命じ、やっと座れと言い、学長はフィリピンの話、私の専門、将来、生物系に戻りたいことを巧みな話術で聞き出した。新設大分医大学長はその中塚先生で、片峰先生を通じ大分医大の医動物と教養の生物学助教授の打診があり私は生物を望んだ。赴任後、学長に会うと君は熱研が育てた原虫学者だ。今は昆虫に専念しても、いつか原虫学者の君を必要とする時は協力しろと頼まれた。大分に移る前、卒論の考察2編と私が編集した「対馬の生物」(長崎県生物学会1976)をトヨタ財団が高く評価、研究助成金を2年受け昆虫学に専念した。片峰先生も中塚先生と同じように頼まれ、転勤後2~3年熱研と長大医学部の原虫学講義・実習を担当、また他大学の原虫学講義も引き受け、鹿児島大獣医学部が6年制になった年は寄生原虫学講義・実習を30時間担当した。さらにJICAと大分医大のドミニカ共和国消化器病プロジェクトは、三舟先輩から求められ、東南アジアでの研究を中止、ドミニカで寄生虫専門家やリーダを約4年務めた。中塚・片峰両先生の期待に反し生物学を選んだ私の我儘を咎めず、しかし軌道を外れないよう、両先生は私を上手に導かれたのだと思う。お陰で憧れの昆虫学者としても活躍でき感謝している。

クスアオシャク幼虫の飼育

2017-12-10 17:35:14 | 日記
クスアオシャク幼虫の飼育
仲良しアオスジアゲハ幼虫が見つかった草津市エルシティ弐番館のアベリアの垣根に生えてきたクスノキの幼木は枝を伸ばし大きくなって、新しい生き生きとした葉をつけていた。
しかし今年は私がこのマンションの管理組合理事長をやっており、管理人さんの希望で新しい剪定鋏など一式を購入した。いずれ働き者の管理人さんにそのクスノキの幼木も見つかり、おそらく根元から切られるだろう。草津市はクスノキが多く、私が住んでいる付近の通りはクスノキの街路樹が多い。種子は付近のクスノキから供給されているらしい。
そんなことを考えながら、散歩のたびにアオスジアゲハ幼虫が発生した場所のクスノキの小枝を、時々眺めていると、2017年10月24日葉についていた体長20㎜のヤガ科かシャクガ科の蛹を発見した(写真5)。この写真ではずんぐりしているが、撮影角度のせいでそうなったので、実際は細く、太さ5~6㎜で、間もなく羽化するらしく、翅の部分が蒼黒く色づいていた。
そしてそのあたりを探すと、クスノキの細くやや濃紅色の茎や葉柄に擬態している体長21㎜のアオシャク亜科の幼虫を見つけた(写真1)。10月25日同じ場所を調べていると同じアオシャク幼虫が成長し大きくなったと思わる体長32㎜の幼虫を見つけ撮影した。これは終齢幼虫らしく、前の齢よりも体色が明るくなった(写真2)。この幼虫はプラスチック製コーヒカップの中で体が縮み薄緑色の太い前蛹になった(写真3)。
11月1日最初の蛹からクスアオシャクPelagodea subguadrariaが羽化し、引き続き11月8日1頭羽化、最後の蛹は11月28日、1頭羽化し合計3成虫が羽化したことになる。
つまり11月末にすべての蛹が羽化したから、おそらく越冬態は卵らしい。もしそうであれば春になってから孵化し、クスノキの葉を食べていくら成長が早くても第1化は6月ころから羽化するのだろうと思った。
そこで琵琶湖博物館の私のコレクションを調べると、長崎県、大分県、和歌山県、滋賀県彦根市石ヶ埼町産の7標本があり、最も早い成虫の採集日は長崎市坂本町産の1967年6月23日、ほとんどが8~9月に採集されており、もっとも遅い採集日は前記石ヶ埼町の1960年9月27日である。この採集記録から恐らく年2化と思われる。
ところが今回の草津市の成虫羽化日は11月1~28日だから2ヶ月近く遅い。つまり草津市ではクスアオシャクは3化するらしい。琵琶湖博物館のオナガミズアオでも似たような現象があった。
なんでも温暖化の影響だと決めつけることはできないが、確かに少年時代から比べると体感でもまた昆虫の出現時期が変わるなど、温暖化は確かに進んでいると思われる。
本種は暖地のガで関東以西の本州、四国、九州、対馬、屋久島、沖縄、台湾、中国に分布している。図鑑では北限は高尾山である。クスノキの分布も関係するが、クスアオシャクの北限はもっと北上するだろう。