小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

追悼 柳家喜多八

2016年06月14日 23時29分40秒 | 経済
      





 落語好きです。といってもハマりだしたのはわずか四年ほど前のあるきっかけからです。そのころたまたま柳家喜多八師匠を聴いたのですが、いっぺんで気に入ってしまいました。この人の芸風は、初めやる気のないような調子で話し始め、徐々に盛り上げていき、後半に至ってその熱演ぶりで聴衆を一気に魅了するタイプです。滑舌はあんまりよくないが、それはテンポのいいべらんめえ調と表裏一体。渋い、という言葉はこの人のためにあるようなものです。
 その喜多八師匠が、今年5月17日に66歳の若さで亡くなりました。落語界で60代といえば、旬と言ってもいい年齢です。まだまだこれからという時に惜しい人をなくし、残念でなりません。
 師匠の噺を最後に聴いたのは、2月23日でした。幕が開くと最初から高座に座っています。もともと小柄な人ですが、この時は痩せてずいぶん小さく見えました。すでにがんに深く侵されていたのでしょう。もはや立って歩くことができず、車椅子を使って、弟子に助けてもらって高座に上ったものと思われます。しかしそんな 姿をお客さんに見せちゃあ、噺家の名が廃るってもんだ、てなことをよくよく周りにふくめたんでしょうな。
それでもトリで演じたのは、あのたいへんな精力を要する「らくだ」でした。半次が大家を脅す場面、屑屋が半次に勧められた酒を重ねるうちに豹変していき、ついに立場を逆転させる場面など、病気とは思えない味と迫力でした。まさか死の3か月前とは知る由もありませんが、痛々しい印象はぬぐえなかったので、一流芸人の筋金入りのすごさに舌を巻いたものです。
 今となってみると、あれを見ておいてよかったと思っています。記録によりますと、死の8日前、5月9日まで演じていたそうですから、その芸人根性にはただただ頭が下がります。舞台や高座の上で死ぬのが一生を芸に託した者の本望だとはよく言われることですが、そういう意味では、師匠の死も限りなく本望に近いものだったと断じて、けっして誤りではないでしょう。
 じつは昨年(2015年)八月の暑いさかりに、新宿のRyu's Bar(道楽亭)という所で四十人余りの観客を相手に「喜多八連続六夜」というのがあり、それに一夜だけ出かけました。隣席の客と話が通じて聞いてみると、全夜通しで来ているとのこと。まあ、よくもと思ったので、あんたの人生、もうおしまいなんじゃないのとからかってやりたくなりました(言いませんでしたが)。贔屓というのは恐ろしいものですね。師匠はこうした玄人筋にすこぶる人気があったようです。
 その時のこと、会場前に立ち並んでいると、やがて普段着の小さなおじさんが出てきて私たちを招き入れてくれます。はじめ気づかなかったのですが、師匠自らドアボーイをやってくれていたのですね。思わず声をかけたくなり、「連日の出演で疲れませんか」と聞くと、師匠、淡々と「いや、演じていて疲れるということはないです」。
 もちろんまだこの時は、彼が重い病にかかっていることは知りませんでしたから、なるほどそういうものかと単純に感心してしまったのですが、あとから考えてみると、「演じていて疲れることはない」という言い方の中には、病気が進行しているから衰えは感じるが、というニュアンスが暗に込められていたのですね。この短い会話が、師匠と交わした最初で最後の会話でした。
 さて開演間際になると、身動きもできないような狭い片隅にいて、羽織袴に着替えていきます。さえないドアボーイのおじさんが、一流の師匠に忽然と変身してゆく。その見事な早業がとても印象に残りました。
 私は昔から職人芸にあこがれてきました。ドアボーイをやったそのままの延長上で高座に上って脱力気味に話し始めながら、最後は聴衆を笑いと興奮の世界に連れて行ってしまう喜多八師匠。私も死が間近に迫ってきてなお書くことを続けていられたら、さりげなく言ってみたいものです――「いや、書いていて疲れるということはないです。」
 遅ればせながら、合掌。












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6 コメント

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魅力的な芸風でしたね (美津島明)
2016-06-15 01:13:39
小浜さんの思いが、ダイレクトに伝わってくる名エッセイであると思います。

柳家喜多八さんは、芸人魂という力こぶの入りそうな言葉を、一見そうは見えない洒脱な芸風にしっかりと包み込んでいらっしゃった噺家だったのですね。なんとも粋です。

でも、亡くなってしまったのですね。もう二度と、その芸風に接することはかなわない。その喪失感は、生前、決してファンとは言えないほどの関心しか持ってはいなかった私にも、十二分に伝わってきます。
美津島明さんへ (小浜逸郎)
2016-06-15 01:42:56
心のこもったコメント、ありがとうございます。ちょっと涙、です。

私とほぼ同世代なので、きっと思い入れもひとしおなのでしょうね。でもこの種のことがあると、不思議なことに、志の近しい人々への連帯感のようなものが湧いてくるのも事実です。

がんばりましょう。
併せ、追悼いたします (天道公平)
2016-06-17 22:05:46
 著者が指摘された、機会を得た天才であったような一人の芸術家の早すぎる死に際して、著者が自らにおいて止むに止まれず草されたような弔辞が心にしみるところです。
 かつて、落語を楽しむ機会をあまり持たなかった私とすれば、同時代に、自らの資質と才能を修練で鍛え一流の域に達した、目立たぬ天才の存在とその死を、このたび初めて知り、改めて括目する思いです。また、かの人も、高座を降りれば、目立たぬ普通の生活者にしか見えないという、身の処し方にも、味わいを覚えます。知る人ぞ知るというこのような方が、円熟期を前にしてなくなられるというのは大変残念なことではありますが、目立たず、あまり人にも知れず、惜しまれつつ、その生を現役でひそかに全うされたというのは、人性も捨てたものじゃないと、心温まることでもあるようにも思われます。市井の芸術家としての自負というか矜持があった方ではなかったんですかね。
 先ごろより、BS放送で、在りし日の立川談志の特集を見ておりましたが、それほど惹かれるところはありませんでした(失礼)。
 私にとって、落語家といえば、私が、つらかった時でも、ふさいだ時でも、腹をかかえて笑えた、しかしながら、不幸な形で夭折された天才、関西の「桂枝雀」を連想してしまいます。誰かのたとえではありませんが、「彼が落語を」ではなく、「落語が彼を」生きたようなその人性を思い浮かべます。
 それをいえば、関西と関東の落語の差異や、文化の違いを思い浮べてしまいますが、まったくタイプが違う(ように思える)かの天才の、名人芸を、これを機会に是非、どうにかして味わってみたいものです。
 今世でお会いできなかった、柳家喜多八師匠を、このたび私も併せ追悼いたします。

天道公平さんへ (小浜逸郎)
2016-07-15 01:57:56
コメント、ありがとうございます。これ自体が名文と拝察いたしました。

今ごろお返事する失礼をお許しください。コメントが入ると、メールでの連絡があるはずなのですが、どうも見落としていたようです。

談志師匠は、アクが強くて盛名を馳せましたが、高座ではたしかにそれほど芸達者な噺家とは言えなかったようですね。

枝雀師匠は、不幸な亡くなり方をしましたが、残念ながら、彼が活躍していたころは、私のほうが落語にあまり関心を持っていませんでした。きっと天才肌だったのでしょうね。機会を見てYOU TUBEで聴いてみようと思います。

上方落語では、最近、桂文枝(もと三枝)師匠の創作落語に触れる機会があり、その面白さと創造性、生活感覚豊かな味わいに、思わず舌を巻きました。

関西と関東の落語の違いというのはたいへん興味深いテーマですね。こちらでは、中堅どころで古今亭志ん輔、瀧川鯉昇、若手では柳家三三、春風亭一之輔といったところが注目に値します。特に一之輔の才能二は驚くべきものがあります。

幸か不幸か、いま空前の落語ブームだそうで、若い人たちのファンが増えているようです。これも不景気が続いている「面白くない」世相の反映なんだろうなあ、と思うと、複雑な気持ちになりますが、何はともあれ、公演会場の中では、笑いと人情の世界に大いに浸りたいものです。

これからもよろしく。
わざわざ、コメントありがとうございます。 (天道公平)
2016-07-22 20:48:23
 私も気づかず、失礼いたしました。

 特に落語に関して素養も累積(?)もなかった私ですが、このたび再度色々教えていただいてありがとうございました。是非、機会をとらえて、教えていただいた落語家さんの芸を見させていただきたいと思っています。

 なかなか、(行事に)参加することはできませんが、先に別にご紹介いただいた名画も、私の夏休みの間に鑑賞させていただきたいと思っています。これは、まさに、「小幸福」です。

 いつもながら脱線してしまいますが、江戸前の落語家を主人公にした、佐藤多佳子の「しゃべれども、しゃべれども」(新潮文庫)という小説は、とても楽しい本でした。まるで、手練れの落語家のしゃべくりのように、<現実的な環界>と齟齬をきたす、様々な普通の人々の、自分自身を巡る切実な悩みとその救済が、名作「坊ちゃん」のように、小気味よいリズムで面白く語られていました。 これは、まるで関東圏の上質の落語のようじゃないか、とも思われ、我が家は一家で愛読しました。私も何度も読み返し、よい著作を読んだ喜びとともに、とても良い気分転換となりました。私にとって、まさしく、「慰藉」なんですね。

 著者はすでにご承知おきかもしれませんが、もし、他に当該コメントをのぞかれた方が、未読であれば、夏休みのお供に、「是非に、」とおすすめします。
 実は、私、旅行へ行くたびに、古本で買ったこの文庫本を、共用部分の旅行先の本棚などに残して帰っています。
 勝手なコメントで、再度失礼しました。
天道公平さんへ (小浜逸郎)
2016-07-23 01:15:26
コメント、ありがとうございます。

ご紹介いただいた「しゃべれども、しゃべれども」は、未読でした。ぜひ読んでみたいと思いますので、さっそく注文いたします。

貴重な情報、どうもありがとうございました。

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