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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

コンタクト・インプロヴィゼーションは

2006年11月22日 | Weblog
身体の脱セックス化かあるいは新しいセックスの発明か。

美容室は、ファッション誌を読むのによい機会として認識している。最近行ったら、何とか言う(『クリオ』だったかな?)雑誌で、伊藤キムが島田雅彦にダンスを教えていた。アシスタントの女性二人に抱きしめられてそこから抜ける、するとそこに自分の抜け殻ができあがるというワークショップで伊藤氏が普段行っているものと予想されるアイディアを島田が体験していた。そのときの島田は、女の人に突然抱きつかれることに困惑しながら(恐らく)紅潮した頬でもって感想を漏らしていた。詳しいことは失念したが、新しいセックスのようだ、と言っていたように思う。

こういったコンテンポラリー・ダンス的身体への取り組みやコンタクト・インプロがもっている大きな特徴として、身体をニュートラルにするということがある。ぼくは正直かねてからこれに疑問をもっている。あ、時間が。また夜。

かねてから疑問をもっているんですよね。コンタクト(身体的接触)することは普通恥ずかしいし、照れくさいことだし、これはコンタクト・インプロですよという約束事がなかったならば、やばい行為になりもすること。そのとまどいがイレーズ出来るのはあなたの体も他の人の体もどれも同じ体だといった、身体をニュートラルなものにする思考が根底にあるからだろう。脱セックス化してもののように身体を扱えるから、コンタクトすることがなんらとまどうことのないものになっているわけですよね。

そうか、おそらくその脱セックス化した、ニュートラルな、もの(object)としての身体は、ジャドソン・ダンス・シアターを出発点とするインプロの父スティーヴ・パクストンらしいアイディアとみるべきなのかもしれない。

ともかく、ものとなった身体が、しばしばコンタクトに向けてそう言われるような「自己発見」を牽引するとはあまり考えにくい。非個性化した身体を通して見出す自己は、すでにそうとう堅い枠に制約された自己なのではないかと。

しかし一旦強い禁止を課せられた身体から、島田がつい漏らしてしまったような「新しいセックス」がほのかにでも感じられるのなら(感じることを否定しないのなら)、それは「コンタクト」のちょっと面白い展開といえなくもない。島田は、身体のムズムズを否定することが出来ない(繊細な文学者らしく?)。それは正直な感想で、とはいえしばしば現場で禁じられる感想だろう。けれども、否定することはうそをつくことになる。そのうそのなかにとどまることでコンタクト・インプロやコンテンポラリー・ダンスが学校やワークショップでの「優良な教育」に奉仕しようとするなら(実際、そう言う傾向が出てきていると思うが)、ぼくはそれはあまり賛成できないのだ。

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