kmitoh 春夏秋冬

水生生物雑記帳・男鹿半島幻想・接写と拡大写真

水生生物雑記帳:ヒメイカ

2014-11-30 11:20:16 | 水生生物雑記帳









 ヒメイカはごく小さく、成長しても
外套長(がいとうちょう)が、わずか1.5cmしかない。
(外套とは内臓が入っている袋の部分。)
 見つけてもあまりに小さいので、別のイカの子どもと思ってしまう。

 外套膜背側には、ほかのものに粘着する部分があり、
海藻などについてくらしている。

 イカの仲間は体色を変化させる。
落ち着いているときには透明で、興奮すると黒くなる。

 ヒメイカは北海道南部以南に分布する。


 特大のダイオウイカと極小なヒメイカ、
分かれて進化するきっかけはなんなのだろう。


コメント

男鹿半島幻想:双六(すごろく)

2014-11-25 10:03:33 | 霞んだ光景


 弁天島 2004.11.27


 双六(地名)の小さな岩は、館山崎と潮瀬崎の間、岸近い場所にある。

(1)菅江真澄「男鹿の寒風(さむかぜ)」

 「むかし、双六の浜には囲碁の石にできるものがたくさんあった。
それを、殿が双六用の石として愛用されたので、双六という地名になった。
いまは、岸辺が深くなり、石はなくなってしまったという。
 この年の6月ころ、磯近くにある岩に厳島姫を祀った。
だから、この村人たちは弁天島と呼んでいる。」

 厳島姫は、市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)のことである。
本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)によって、市寸島比売命の本来の姿は、
弁天だということになった。

 天照大神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(すさのおのみこと)が、
どちらが正しいのか誓約(うけい)をした。
そのとき、天照大神が須佐之男命の十拳剣(とつかのつるぎ)を受け取り、
3つに折り、噛み砕いて吐きだした霧から3柱の女神が生まれた。
そのなかの1柱が市寸島比売命である。


(2)菅江真澄「男鹿の秋風」

 「双六の浦というところにきた。
むかし海士の家が 四、五、六 あったのでこう名づけられたという。」


 地名由来の違いは何を意味しているのだろうか。
 菅江真澄は、なぜ双六と名づけられたかをわかっていたが、
語らなかった。

 双六の隣は椿地区である。
白山信仰の宣布者、八百比丘尼(やおびくに)がツバキを植えながら
信仰を広げていったところである。

 赤神神社や増川八幡にも残っている木の仏像を彫りながら
各地をめぐり歩いた円空は白山の聖(ひじり)である。
 菅江真澄は、白山信仰と関係が深い白太夫の出自で、
円空の足跡をたどって蝦夷にまで渡っている。

 「椿」に隣接して「双六」があれば、
白山信仰と関係が深い「双六谷」からきていることを
知っていたはずである。


注:
 あくまでも私の幻想です。
 
 白山を開山した泰澄 682-767
 円空 1632-1695
 菅江真澄 1754-1829


コメント (14)

男鹿半島幻想:椿

2014-11-25 09:42:39 | 男鹿半島幻想


 2014.4.14




 椿の能登山 2014.4.14


 男鹿半島の南磯に「椿(つばき)」という地名のところがある。
その椿漁港そばの能登山には椿が密生している。
山といっても高さは10mほどの小さな丘にすぎない。
昔はこの山が海に突き出ていた。

 この能登山は自生椿の北限地として1922年(大正11年)に
国指定天然記念物になった。
 青森県夏泊半島の平内町椿山(ひらないまちつばきやま)が、
能登山と同時に天然記念物に指定された。
 当時、秋田も青森も同じ場所のように思われていたのだろう。
そして、いまでも、そう思われているようである。

 男鹿市のマンホールの蓋とゴミ袋は椿の絵になっている。


 ツバキ伝説(1)

 結婚を誓った若者が働きに行ったまま帰ってこない。
娘は小さな丘から海を見て、男が帰ってくるのを毎日待っていた。
 しかし、別れてから3年過ぎ、
若者が帰ってこないのを嘆き悲しんで海に身を投げてしまった。

 それから数年後、結婚するための金を稼いだ若者が帰ってきたが、
娘が死んでしまったことを聞き、悔し涙を流した。
 若者は、土産のひとつである椿の種を小さな丘に植えると、
村を去り、ふたたび帰ってくることはなかった。

 植えられた椿は、生長し殖え続け、能登山すべてが椿で覆われた。
いつの頃か村は「椿」と呼ばれるようになった。


 ツバキ伝説(2)

 人魚の肉を食べたために何百年もの寿命を
えた八百比丘尼(やおびくに・はっぴゃくびくに)が
椿の種をまき、花を咲かせながら全国を巡った。
 周囲の人々が逝ってしまい、取り残されて、長生きしていることが寂しく、
哀しくなって入水して命を絶ってしまう。
 
 柳田国男の説では、八百比丘尼は白山信仰の宣布者で、
ツバキを植えながら信仰を広げていったので北の方までツバキが生えている。




コメント

男鹿半島幻想:脇本:脇本城跡(4)

2014-11-24 14:04:26 | 男鹿半島幻想


 寒風山から見た「馬乗り場」。2014.11.21




 西側の道路から眺めた「馬乗り場」。2004.10.21
 現在は木が生い茂ってよくわからなくなっている。




 内館から「馬乗り場」への道。2004.10.19




 馬乗り場。2004.10.19




 馬乗り場。2012.11.14




 馬乗り場。2012.11.14


 「馬乗り場」は「古館」ともよばれる。
 12,000平方メートルの広さがあり、
脇本城の主要部分であったらしい。

 第二次世界大戦のとき、開墾されて起伏がはっきりしていないらしく、
内館とは違って、私の頭で思い描くのは難しい。


 地元の人が手入れをしてくれているけれど、
草が生い茂っているときもあり、ヘビが苦手な私は、
晩秋の景色ばかり撮影している。


コメント (6)

男鹿半島幻想:脇本:脇本城跡(3)

2014-11-22 14:27:28 | 男鹿半島幻想


 追鼻崎(おいばなさき) 2014.11.21
 海洋高校の高台から撮影。




 船川側 2014.11.21




 船川側 2014.11.20
 海沿いに、かって男鹿市から秋田市までの自転車専用道路があった。
 見上げると怖かったけれど、いまは崩れて埋まり、通行できない。

 濡れていたほうが地層が見やすいかと考えて、雨降りのときに撮影した。




 追鼻崎。船越から撮影。脇本側。2014.11.21
 手前の杭は、海苔養殖用。




 追鼻崎。船越から撮影。脇本側。2014.11.21
 海沿いの柵がかっての自転車道路。




 追鼻崎の右側、内館(うちだて)。船越から撮影。脇本側。2014.11.21


 追鼻崎はほぼ100mの高さがある。
 この追鼻崎はかっていまより700mも海に突き出ていたという。
幻想好きの私でも、この崩れやすい地形が荒海の中で形を
とどめていることは無理だろうと思う。

 ただ、地震で崩れたのは事実だろう。
地形を眺めて、その長さは数十メートルくらいに違いない。

 脇本城には、「海の中で鳴る鐘」と「金の茶釜」伝説が残っている。
 崩れ落ちた部分に、鐘楼と茶室があったのではないかと、私は幻想する。


【注意】
 脇本城跡は、追鼻崎にかぎらず、散策コースのすぐそばが崖になっている!!
 

コメント (4)