夏になると、どこかのテレビ局で稲川淳二さんの怖い話が放送されます。その稲川さんもあまりの怖さに封印してしまったのが「生き人形」の話です。実際に死人が出ているんで。。。永久保貴一さんのマンガ『生き人形』(朝日ソノラマ、1985年)でこの話を紹介します。
高速道路の女
稲川さんは、1977~78年頃の6月、オールナイトニッポンの放送を終えて、ディレクターと送迎車に乗って帰りました。中央自動車道の三鷹を過ぎたあたりで、道路を斜めに遮断するように灰色の霧が立ちこめていました。それを抜け、何気なく道路脇の標識を眺めていると、遠くに黒い着物を着た黒髪の女性が立っているのに気づきました。近づくにしたがって、顔だけが見えるようになり、さらに身体全体が透けているのに気づきました。そして、すぐ手前まで来た時に、いきなり首だけが宙を舞い、フロントガラスを突き抜けて、稲川さんとディレクターの間を通り抜けていったのです。
稲川さんは、国立の自宅へ帰りましたが、寝つけないので妻のいる2階の寝室から出て、1階のソファで横になっていました。すると、朝の5時頃、妻が起きてきて「友人はどうしたのか」と尋ねてきました。稲川さんの後ろから入ってきて、部屋をグルグルと回っていた人がいるというのです。
翌日、一緒に帰ったディレクターから電話が入り、「誰かと一緒に車から降りなかったか」と聞かれました。ディレクターによると、自分と稲川さんと運転手以外に誰かが乗っていたような気がしたというのです。そしてその日の内に、有名な人形使いである前野(マンガでは松岡)さんから連絡が入り、「呪女十夜」という人形芝居に出演することとなりました。
芝居前夜
京王線の幡ヶ谷で人形芝居の打ち合わせがありました。メインになる人形は2体、少女と少年でした。人形はできていませんでしたが、その完成図を見たとき、稲川さんは驚きました。少女の人形が、先日、中央自動車道で遭遇した女とまったく一緒だったからです。
完成直後の人形を見ると、右手と右足がなぜかねじれてつけられていました。人形作成者に連絡をしましたが、まったく音信不通状態になっていました。
台本作家の自宅が全焼し、台本が焼失してしまいました。「呪女十夜」の台本ができた直後に、その台本がおいてあった書斎から出火したのです。
練習中、前野さんが気になって父の家へ連絡を入れると、父の世話をしてくれていた従兄弟が部屋の中で変死していました。
慰労のために稲川さん宅で飲み会をやったのですが、翌日、タンスを開けると、芝居用の衣装の棚だけが水をかぶっていました。そして、泊まったメンバーの鞄の中に水が溜まっていました。また、スタッフの多くが、右手・右足に怪我をしていました。
呪女十夜
公演初日、昼の舞台直前に出演者の多くが原因不明の金縛り状態になり、動けなくなりました。そのため、夜の部に観客をひとまとめにして初日とすることになりました。夜の部までの間に神社からお札をもらいました。
出演者が、人形操演のための黒子は7人のはずなのに、8人いるというのです。稲川さんが舞台のそでに立っていると、そばに一人の黒子がいるのがわかった。舞台監督だろうと思ってやり過ごしましたが、彼は別の場所にいました。稲川さんも黒子が一人多いことに気づきました。
舞台上で突然人形が涙を流しはじめました。そして、いきなり右手が吹き飛んだのです。
人形を棺桶に入れる場面で、いきなり桶の底が抜け落ち人形がバラバラになってしまいました(人形の重さは8kg)。しかも、設定にないにもかかわらず、ドライアイスのような煙が立ちこめ、観客が大勢入っているにもかかわらず、場内が寒くなっていきました。
声優の杉山加寿子さんが老婆に扮して、白いかつらをかぶり、頭に蝋燭を立てて舞台に出てきた瞬間、かつらに火が引火して危うく大惨事になるところでした。練習でも一度もそのようなアクシデントになったことはありません。
このような怪異が立て続けに起こったため、早く終えたかったのにもかかわらず、次の公演を行う劇団の都合によって公演を2日延長して欲しいと言われました。全員が反対する中で、人形使いの前野さんだけが延長を主張しました。そして、その日の晩に前野さんの父親が亡くなりました。
3時にあいましょう
公演の怪異を聞いて、TBSの「3時にあいましょう」という番組で人形の特集をすることになりました。当日、なぜか前野さんが人形に執着して手放さないのです。よく見ると、おかっぱ頭の人形の髪が耳あたりの長さだったのが、肩あたりにまで伸びていました。
リハーサルをはじめた瞬間、そのスタジオだけ停電、セットも倒れてしまいました。そしてつり下げてあった照明が落ちるというアクシデントも起こったのです。
生本番で、司会者が話題を振ってカメラが人形にズームインした瞬間、後ろにつり下げてあった黒幕が落ちて、人形にかぶさってしまいました。幕はいくつもの紐によって吊られており、それが一度に切れるということはありえません。それからしばらくして、スタッフの一人が急死したというのです。
東京12チャンネル
TBSの話を聞いて、東京12チャンネル(現・テレビ東京)も特集を組むことになりました。そこで、行方不明だった人形の製作者を捜し出しました。彼は京都比叡山あたりの山奥で仏像を彫っていました。ところが、彼はそのような人形を作った覚えがないと断言しました。
京都ロケでは、小松方正さんとスタッフが京都で会うことになっていましたが、買った切符が全部時間がちがっていたりして、結局、小松さんと会うことができなくなりました。後日、製作者へインタビューをしましたが、同時刻にディレクターの妻が原因不明の発疹が顔にでき、切符を手配した人の子どもは交通事故、構成作家の飼っていた犬は原因不明の病気になりました。
スタジオ撮りを開始すると、立て続けにカメラが3台壊れました。最後には、撮影本番中にもかかわらずスタジオの扉が何者かによってガンガン叩かれました。しかし、扉を開けてみましたが、外には誰もいなかったのです(このフロアには人間が隠れることができるような死角はない)。このような怪異が続いたため、2週間もかけて制作された番組はボツとなりました。
霊視
稲川さんは人形を持って霊媒師・久慈(マンガでは久郷)さんのところへ相談しに行きましたが、強く拒否されました。無理にお願いして、布を巻いたまま人形を霊視してもらったところ、この人形には多くの霊が取り憑いており、中でも一番強烈な霊は、戦前に赤坂にあった「青柳」という料亭の7才になる娘で、空襲によって右手・右足を吹き飛ばされて亡くなったといいます。また、この人形には対の人形(少年)があり、こちらも何かが取り憑こうとしていると言いました。
久慈さんはこの人形の霊視をした当日に倒れ、そのまま意識を回復することなく、3日後に亡くなっています(マンガでは久慈さんの死についてふれていない)。
記念撮影
人形を寺に納めることにしたので、人形を愛する前野さんのために記念撮影をすることにしました。そして、立木義浩さんのスタジオで写真を撮って現像すると、人形は目を大きく見開き、口を開けて笑い、胸が大きくふくらんでいました。この変異にもかかわらず、前野さんは人形を所持し続け、人前に出さないぐらい偏愛するようになりました。
プラスα
一連の事件から3年後の1982年夏に、大阪朝日放送の「プラスα」という番組から人形の話をして欲しいとの依頼がありました。ゲストは稲川さんと人形を持ってきた前野さんと地元の霊媒師です。ところが、出演予定だった霊媒師は、当日放送スタジオの前まできて交通事故に巻き込まれ、急遽、代役が立てられました。
当日、スタジオに着くと、異様な音が鳴り響いていました。スタジオにいた誰もがその音を聞き、効果音のように思っていましたが、音声担当者は音を流していなかったのです。
本番前、大道具係が人形を載せた台を取り囲むついたての中を覗くと、一人の少年が中に座っていました。フロアスタッフと一緒に確かめると、少年は「この人形、どうやって操るの」と尋ねてきました。ディレクターが観客をおどかそうとして、人形を動かす子役を起用したのだと思っていました。
稲川さんの後ろの暗幕が奥へ引っ張られるように動き出しました。代わりの霊媒師が到着すると、その幕のあたりに男の子がいるといいます。さらに、観客席の主婦にどくように言うと、いきなりその頭上にあった照明器具を取り付けたバーが大きく揺れだしました。さらに、他の吊り下げ看板が揺れ、セットが倒れ出します。
生本番スタート後に、女子社員がスタジオに駆け込んできて「モニターで見たら、稲川さんの肩の上と人形の上に同じ男の子が映り込んでいる」といいます。さらに「テレビに男の子が映っている」という電話が殺到しました。その男の子は本番前に大道具係が見た男の子でした。結局、番組はパニック状態のまま終了しました。
民宿
「プラスα」終了直後、事務所スタッフの一人の親元が経営する伊豆の民宿へ行くことにしました。前野さんも人形を持って行くことにしました。新幹線で大阪から三島へは3時間程度で着くはずなのに、どこをどう行ったのかわからないのですが、三島駅に到着したのは終電時刻だったのです。
民宿から車の迎えが来て向かったところ、山道の前方を白い影が走っていくのに気がつきました。よく見ると、それらは軍服を着た兵隊の集団でした。そして、宙を飛ぶようにこちらへ向かって飛んできたのです。
民宿へ到着した途端、前野さんは人形をくるんでいた布を取り外しました。すると、人形の顔はどす黒く変色し、目を見開き、口元が大きくゆがんでいました。大騒ぎしていると、民宿のお母さんが人形の供養のために着物を作ってあげようと言ってくれました。
「呪女十夜」の再演
「プラスα」の事件があった年(1982年)の秋に「呪女十夜」の再演がありました。前野さんは、さすがに怖かったので、別の人形を使用して舞台に立ちましたが、その公演の打ち上げパーティーから失踪してしまいます。約2ヶ月後、ひょっこり稲川さん宅を訪れたときには、前野さんはやせこけて髪も真っ白に変貌していました。そして、大きな目玉のポスターを貼ったり、意味不明なことを喋ったりして、精神的にも変調をきたしていました。
永久保さんのマンガはここで終わりですが、「生き人形」の怪異はその後もつづきました。ここから先はネットなどで集めた話です。
ルックルックこんにちは
1986年、日本テレビでも人形の話をして欲しいとの依頼があり、今度はビデオで収録することになりました。撮影は8畳の間でおこなわれ、全員で6人の人間が入ったにもかかわらず、クーラーなしでも寒さを感じるほどでした。そして、照明の加減であり得ないはずなのに、マネージャーのそばに影ができていました。しかも、マネージャーが動いていないのに、その影は動いてしまったのです。
話が最高潮になったとき、稲川さんの腕時計がいきなり破裂しました。しかし、腕時計本体だけが破裂しただけで、他には何も異常がなかったのです。
この録画が放送された「ルックルックこんにちは」の生本番中に「11時の方向へ…カメラを回せ」という声が流れ出し、そのまま放映されてしまいました(ただしこれは別のコーナーでの話だそうです)。
カセットテープ
稲川さんは、1987年に『秋の夜長のこわ~い話』というテープを発売し、「あやつり人形の怪」のタイトルで、生き人形にまつわる怪異を発表しました。しかし、このテープを再生すると、白い煙が出たという噂が流れました。
人形使いの死
カセットテープ発売後のあるとき、深夜に前野さんから稲川さんへ電話がありました。翌日からヨーロッパへ人形芝居の公演へ行くというのです。しかし、翌日の新聞に前野さんの自宅が全焼し、前野さんも焼死したという記事が載りました。それによると、稲川さんが電話を受けていた同時刻には、火災は起こっていたのです。
あの人形も自宅の全焼で焼けてしまったと思っていましたが、後になって、製作者の元にあることがわかりました。前野さんが前日に、公演旅行へ行くので預かって欲しいと言って、初めて手放していたのです。
お姉ちゃん
親元が例の民宿を経営していたスタッフが結婚して子どもが生まれました。ところが、子どもが3才頃になると、夜に誰かと喋っているのです。聞いてみると“お姉ちゃん”が来ているといいます。その“お姉ちゃん”は小さくて、おかっぱ頭の着物姿で、お母さんを捜しているというのです。そのお母さんとは“着物を作ってくれた人”であるといいます。
人形を預かっている製作者のところへ人形の所在を確認すると、人形は着物ごとなくなってしまっていると報告を受けます。時期から考えて、子どものところへ“お姉ちゃん”が現れはじめた頃から見当たらなくなったようなのです。
稲川事務所
事務所の者から、おかっぱ頭の少女がときどきドアの影から事務所内を覗いていると報告を受けました。しかし、稲川さんの事務所はビルの9階にあり、偶然のぞき込んだとは考えられない状況でした。
稲川さんが仕事の関係でこの事務所に泊まったとき、自分以外の誰かが廊下をひたひたと歩いている音が聞こえてきました。そのあと、歩いていたと思われる場所へ行くと、なぜか水溜まりができていました。そして、9階なのに、窓の外から女の子がこちらを見ているような気に襲われたのです。
1枚の写真
稲川さんは“お姉ちゃん”と会っていた少女と再会しました。少女は小学生になっていました。そして、少女は1枚の写真を見せてくれました。それは、稲川さんと前野さんの弟子と人形が一緒に写っているのですが、このような写真を撮る機会はなかったはずなのです。しかも、その写真は例の民宿のお母さんのタンスから出てきたというのです。そして、そこに写っている人形をさして、少女は「これが“お姉ちゃん”」と言ったのです。
この頃までに少女は、右腕に2回も縫合手術が必要なほどの大ケガをしていました。ただし、大きなケガはそれだけです。
再びテレビ東京
あるとき、テレビ東京から「倉庫から人形の胴体が出てきたので取りに来て欲しい」との連絡がありました(この人形は、早変わりのため、胴体が二つ作られていた)。マネージャーが行ったのですが、テレビ東京にはそのような倉庫もなく、電話した人間もいなかったのです。しかも、よく考えると、胴体だけであの人形であるとわかるはずがないのです。
1999年
稲川さんは例の少女と再会しました。中学生になっていた少女は「いつかあの人形と会える。人形は待っている」と言いました。そして、このような家の中で待っている、と言って、家のスケッチを描いて見せました。その家の造りを見てスタッフは驚愕しました。それは、8月13日の舞台で使うセットと全く同じだったのです。
高速道路の女
稲川さんは、1977~78年頃の6月、オールナイトニッポンの放送を終えて、ディレクターと送迎車に乗って帰りました。中央自動車道の三鷹を過ぎたあたりで、道路を斜めに遮断するように灰色の霧が立ちこめていました。それを抜け、何気なく道路脇の標識を眺めていると、遠くに黒い着物を着た黒髪の女性が立っているのに気づきました。近づくにしたがって、顔だけが見えるようになり、さらに身体全体が透けているのに気づきました。そして、すぐ手前まで来た時に、いきなり首だけが宙を舞い、フロントガラスを突き抜けて、稲川さんとディレクターの間を通り抜けていったのです。
稲川さんは、国立の自宅へ帰りましたが、寝つけないので妻のいる2階の寝室から出て、1階のソファで横になっていました。すると、朝の5時頃、妻が起きてきて「友人はどうしたのか」と尋ねてきました。稲川さんの後ろから入ってきて、部屋をグルグルと回っていた人がいるというのです。
翌日、一緒に帰ったディレクターから電話が入り、「誰かと一緒に車から降りなかったか」と聞かれました。ディレクターによると、自分と稲川さんと運転手以外に誰かが乗っていたような気がしたというのです。そしてその日の内に、有名な人形使いである前野(マンガでは松岡)さんから連絡が入り、「呪女十夜」という人形芝居に出演することとなりました。
稲川淳二がオールナイトニッポンのパーソナリティーをつとめていたのは、1976年4月~9月(水曜2部)と1976年10月~77年9月(月曜2部)である。
芝居前夜
京王線の幡ヶ谷で人形芝居の打ち合わせがありました。メインになる人形は2体、少女と少年でした。人形はできていませんでしたが、その完成図を見たとき、稲川さんは驚きました。少女の人形が、先日、中央自動車道で遭遇した女とまったく一緒だったからです。
完成直後の人形を見ると、右手と右足がなぜかねじれてつけられていました。人形作成者に連絡をしましたが、まったく音信不通状態になっていました。
台本作家の自宅が全焼し、台本が焼失してしまいました。「呪女十夜」の台本ができた直後に、その台本がおいてあった書斎から出火したのです。
練習中、前野さんが気になって父の家へ連絡を入れると、父の世話をしてくれていた従兄弟が部屋の中で変死していました。
慰労のために稲川さん宅で飲み会をやったのですが、翌日、タンスを開けると、芝居用の衣装の棚だけが水をかぶっていました。そして、泊まったメンバーの鞄の中に水が溜まっていました。また、スタッフの多くが、右手・右足に怪我をしていました。
呪女十夜
公演初日、昼の舞台直前に出演者の多くが原因不明の金縛り状態になり、動けなくなりました。そのため、夜の部に観客をひとまとめにして初日とすることになりました。夜の部までの間に神社からお札をもらいました。
出演者が、人形操演のための黒子は7人のはずなのに、8人いるというのです。稲川さんが舞台のそでに立っていると、そばに一人の黒子がいるのがわかった。舞台監督だろうと思ってやり過ごしましたが、彼は別の場所にいました。稲川さんも黒子が一人多いことに気づきました。
舞台上で突然人形が涙を流しはじめました。そして、いきなり右手が吹き飛んだのです。
人形を棺桶に入れる場面で、いきなり桶の底が抜け落ち人形がバラバラになってしまいました(人形の重さは8kg)。しかも、設定にないにもかかわらず、ドライアイスのような煙が立ちこめ、観客が大勢入っているにもかかわらず、場内が寒くなっていきました。
声優の杉山加寿子さんが老婆に扮して、白いかつらをかぶり、頭に蝋燭を立てて舞台に出てきた瞬間、かつらに火が引火して危うく大惨事になるところでした。練習でも一度もそのようなアクシデントになったことはありません。
このような怪異が立て続けに起こったため、早く終えたかったのにもかかわらず、次の公演を行う劇団の都合によって公演を2日延長して欲しいと言われました。全員が反対する中で、人形使いの前野さんだけが延長を主張しました。そして、その日の晩に前野さんの父親が亡くなりました。
3時にあいましょう
公演の怪異を聞いて、TBSの「3時にあいましょう」という番組で人形の特集をすることになりました。当日、なぜか前野さんが人形に執着して手放さないのです。よく見ると、おかっぱ頭の人形の髪が耳あたりの長さだったのが、肩あたりにまで伸びていました。
リハーサルをはじめた瞬間、そのスタジオだけ停電、セットも倒れてしまいました。そしてつり下げてあった照明が落ちるというアクシデントも起こったのです。
生本番で、司会者が話題を振ってカメラが人形にズームインした瞬間、後ろにつり下げてあった黒幕が落ちて、人形にかぶさってしまいました。幕はいくつもの紐によって吊られており、それが一度に切れるということはありえません。それからしばらくして、スタッフの一人が急死したというのです。
東京12チャンネル
TBSの話を聞いて、東京12チャンネル(現・テレビ東京)も特集を組むことになりました。そこで、行方不明だった人形の製作者を捜し出しました。彼は京都比叡山あたりの山奥で仏像を彫っていました。ところが、彼はそのような人形を作った覚えがないと断言しました。
京都ロケでは、小松方正さんとスタッフが京都で会うことになっていましたが、買った切符が全部時間がちがっていたりして、結局、小松さんと会うことができなくなりました。後日、製作者へインタビューをしましたが、同時刻にディレクターの妻が原因不明の発疹が顔にでき、切符を手配した人の子どもは交通事故、構成作家の飼っていた犬は原因不明の病気になりました。
スタジオ撮りを開始すると、立て続けにカメラが3台壊れました。最後には、撮影本番中にもかかわらずスタジオの扉が何者かによってガンガン叩かれました。しかし、扉を開けてみましたが、外には誰もいなかったのです(このフロアには人間が隠れることができるような死角はない)。このような怪異が続いたため、2週間もかけて制作された番組はボツとなりました。
霊視
稲川さんは人形を持って霊媒師・久慈(マンガでは久郷)さんのところへ相談しに行きましたが、強く拒否されました。無理にお願いして、布を巻いたまま人形を霊視してもらったところ、この人形には多くの霊が取り憑いており、中でも一番強烈な霊は、戦前に赤坂にあった「青柳」という料亭の7才になる娘で、空襲によって右手・右足を吹き飛ばされて亡くなったといいます。また、この人形には対の人形(少年)があり、こちらも何かが取り憑こうとしていると言いました。
久慈さんはこの人形の霊視をした当日に倒れ、そのまま意識を回復することなく、3日後に亡くなっています(マンガでは久慈さんの死についてふれていない)。
記念撮影
人形を寺に納めることにしたので、人形を愛する前野さんのために記念撮影をすることにしました。そして、立木義浩さんのスタジオで写真を撮って現像すると、人形は目を大きく見開き、口を開けて笑い、胸が大きくふくらんでいました。この変異にもかかわらず、前野さんは人形を所持し続け、人前に出さないぐらい偏愛するようになりました。
プラスα
一連の事件から3年後の1982年夏に、大阪朝日放送の「プラスα」という番組から人形の話をして欲しいとの依頼がありました。ゲストは稲川さんと人形を持ってきた前野さんと地元の霊媒師です。ところが、出演予定だった霊媒師は、当日放送スタジオの前まできて交通事故に巻き込まれ、急遽、代役が立てられました。
当日、スタジオに着くと、異様な音が鳴り響いていました。スタジオにいた誰もがその音を聞き、効果音のように思っていましたが、音声担当者は音を流していなかったのです。
本番前、大道具係が人形を載せた台を取り囲むついたての中を覗くと、一人の少年が中に座っていました。フロアスタッフと一緒に確かめると、少年は「この人形、どうやって操るの」と尋ねてきました。ディレクターが観客をおどかそうとして、人形を動かす子役を起用したのだと思っていました。
稲川さんの後ろの暗幕が奥へ引っ張られるように動き出しました。代わりの霊媒師が到着すると、その幕のあたりに男の子がいるといいます。さらに、観客席の主婦にどくように言うと、いきなりその頭上にあった照明器具を取り付けたバーが大きく揺れだしました。さらに、他の吊り下げ看板が揺れ、セットが倒れ出します。
生本番スタート後に、女子社員がスタジオに駆け込んできて「モニターで見たら、稲川さんの肩の上と人形の上に同じ男の子が映り込んでいる」といいます。さらに「テレビに男の子が映っている」という電話が殺到しました。その男の子は本番前に大道具係が見た男の子でした。結局、番組はパニック状態のまま終了しました。
ある心霊サイト(すでに閉鎖)のBBSで知り合った人が、この放送を見ていたそうです。彼によると、混乱していて、何がなんだかわからないうちに終わってしまったそうです。彼はこの放送が「生き人形」がらみの放送だと知らなかったので、「しまった。ちゃんと見ておけばよかった」とカキコしていました。
民宿
「プラスα」終了直後、事務所スタッフの一人の親元が経営する伊豆の民宿へ行くことにしました。前野さんも人形を持って行くことにしました。新幹線で大阪から三島へは3時間程度で着くはずなのに、どこをどう行ったのかわからないのですが、三島駅に到着したのは終電時刻だったのです。
民宿から車の迎えが来て向かったところ、山道の前方を白い影が走っていくのに気がつきました。よく見ると、それらは軍服を着た兵隊の集団でした。そして、宙を飛ぶようにこちらへ向かって飛んできたのです。
民宿へ到着した途端、前野さんは人形をくるんでいた布を取り外しました。すると、人形の顔はどす黒く変色し、目を見開き、口元が大きくゆがんでいました。大騒ぎしていると、民宿のお母さんが人形の供養のために着物を作ってあげようと言ってくれました。
「呪女十夜」の再演
「プラスα」の事件があった年(1982年)の秋に「呪女十夜」の再演がありました。前野さんは、さすがに怖かったので、別の人形を使用して舞台に立ちましたが、その公演の打ち上げパーティーから失踪してしまいます。約2ヶ月後、ひょっこり稲川さん宅を訪れたときには、前野さんはやせこけて髪も真っ白に変貌していました。そして、大きな目玉のポスターを貼ったり、意味不明なことを喋ったりして、精神的にも変調をきたしていました。
永久保さんのマンガはここで終わりですが、「生き人形」の怪異はその後もつづきました。ここから先はネットなどで集めた話です。
ルックルックこんにちは
1986年、日本テレビでも人形の話をして欲しいとの依頼があり、今度はビデオで収録することになりました。撮影は8畳の間でおこなわれ、全員で6人の人間が入ったにもかかわらず、クーラーなしでも寒さを感じるほどでした。そして、照明の加減であり得ないはずなのに、マネージャーのそばに影ができていました。しかも、マネージャーが動いていないのに、その影は動いてしまったのです。
話が最高潮になったとき、稲川さんの腕時計がいきなり破裂しました。しかし、腕時計本体だけが破裂しただけで、他には何も異常がなかったのです。
この録画が放送された「ルックルックこんにちは」の生本番中に「11時の方向へ…カメラを回せ」という声が流れ出し、そのまま放映されてしまいました(ただしこれは別のコーナーでの話だそうです)。
カセットテープ
稲川さんは、1987年に『秋の夜長のこわ~い話』というテープを発売し、「あやつり人形の怪」のタイトルで、生き人形にまつわる怪異を発表しました。しかし、このテープを再生すると、白い煙が出たという噂が流れました。
人形使いの死
カセットテープ発売後のあるとき、深夜に前野さんから稲川さんへ電話がありました。翌日からヨーロッパへ人形芝居の公演へ行くというのです。しかし、翌日の新聞に前野さんの自宅が全焼し、前野さんも焼死したという記事が載りました。それによると、稲川さんが電話を受けていた同時刻には、火災は起こっていたのです。
あの人形も自宅の全焼で焼けてしまったと思っていましたが、後になって、製作者の元にあることがわかりました。前野さんが前日に、公演旅行へ行くので預かって欲しいと言って、初めて手放していたのです。
お姉ちゃん
親元が例の民宿を経営していたスタッフが結婚して子どもが生まれました。ところが、子どもが3才頃になると、夜に誰かと喋っているのです。聞いてみると“お姉ちゃん”が来ているといいます。その“お姉ちゃん”は小さくて、おかっぱ頭の着物姿で、お母さんを捜しているというのです。そのお母さんとは“着物を作ってくれた人”であるといいます。
人形を預かっている製作者のところへ人形の所在を確認すると、人形は着物ごとなくなってしまっていると報告を受けます。時期から考えて、子どものところへ“お姉ちゃん”が現れはじめた頃から見当たらなくなったようなのです。
稲川事務所
事務所の者から、おかっぱ頭の少女がときどきドアの影から事務所内を覗いていると報告を受けました。しかし、稲川さんの事務所はビルの9階にあり、偶然のぞき込んだとは考えられない状況でした。
稲川さんが仕事の関係でこの事務所に泊まったとき、自分以外の誰かが廊下をひたひたと歩いている音が聞こえてきました。そのあと、歩いていたと思われる場所へ行くと、なぜか水溜まりができていました。そして、9階なのに、窓の外から女の子がこちらを見ているような気に襲われたのです。
1枚の写真
稲川さんは“お姉ちゃん”と会っていた少女と再会しました。少女は小学生になっていました。そして、少女は1枚の写真を見せてくれました。それは、稲川さんと前野さんの弟子と人形が一緒に写っているのですが、このような写真を撮る機会はなかったはずなのです。しかも、その写真は例の民宿のお母さんのタンスから出てきたというのです。そして、そこに写っている人形をさして、少女は「これが“お姉ちゃん”」と言ったのです。
この頃までに少女は、右腕に2回も縫合手術が必要なほどの大ケガをしていました。ただし、大きなケガはそれだけです。
再びテレビ東京
あるとき、テレビ東京から「倉庫から人形の胴体が出てきたので取りに来て欲しい」との連絡がありました(この人形は、早変わりのため、胴体が二つ作られていた)。マネージャーが行ったのですが、テレビ東京にはそのような倉庫もなく、電話した人間もいなかったのです。しかも、よく考えると、胴体だけであの人形であるとわかるはずがないのです。
1999年
稲川さんは例の少女と再会しました。中学生になっていた少女は「いつかあの人形と会える。人形は待っている」と言いました。そして、このような家の中で待っている、と言って、家のスケッチを描いて見せました。その家の造りを見てスタッフは驚愕しました。それは、8月13日の舞台で使うセットと全く同じだったのです。
心霊スポットはいろいろな意味でコワイので、この手の話でごまかしているのですが。。。
http://kitahide.hp.infoseek.co.jp/kowaihanashi.html
下のほうにある
を見ていました。男の子が
映っているようには見えませんでした。
ごめんなさい。
この番組を見たという人、2人目です。
もう一人の人は、「幼すぎて、何が起きているのかまったくわからなかった」と言っておりました。
最後まで読む 勇気がない
なんどか稲川淳二の怖い話でこの話聞きましたが何もありません。因みに私は霊は見える方の人間です。
自分が覚えているのは人形を映したときに近辺に
子供の霊が数体映っていて演出かとそのときは
思いました。
その他だと、アナウンサーは呆然と「なんだこれ」
みたいなことをつぶやき、女子アナは泣きじゃくってました。霊能者の人が観客のおばちゃんたちをどかしたところに
天井から吊るしてあったライトが落ちたのも覚えてます。
あやふやだけど、たしか昼か午後のワイドショー的な
番組だったようなきがします。
オンタイムだったのか、再放送だったのかはおぼえてない
ですが、見た記憶はあります。