王子のきつね on Line

ΛΛ
( ^^ ) < 探したい項目は「カテゴリ」でさがしてね。☆彡
≡V≡

お台場ポタリング~オイナオが初日の出を見たのはここだ!~

2005年01月30日 23時07分25秒 | 自転車
 1週間ぶりにロードで荒川を下り、お台場まで行ってきました。風がめちゃめちゃ強くて、♪行きはよいよい 帰りは怖い♪状態でした。

 前回は荒川右岸の河口まで行って戻ってきただけですが、今回は葛西臨海公園まで行って水族館でマグロの回遊を見ようと思ったのですが。。。なんと、ロードのカギを忘れてしまい、自転車を停められないことに気がつきました。とりに戻るのも面倒なので、ひざびさにお台場まで行ってみました。
 例によって江北橋近くの宮城ゆうゆう公園から荒川河川敷道路に入ります。ものすごい追い風。ちょっとこぐだけで30km/h以上すぐ出てしまいます。
 東武伊勢崎線の鉄橋から墨田水門までは、いわゆる金八ゾーン。「3年B組 金八先生」の撮影をしているのですが、日曜日なんで撮影はありません。そこで、、、

金八の木

金八先生の生徒はなぜかこの木の下に出現する習性があるのです。w

 墨田水門の南側には、ホームレスの方々が住むブルーシートハウスが点在し、うさぎが飼われています。

墨田水門南のうさぎ

うさぎちゃんハケ~ン


まだまだいるぞ!


近づいても逃げない!

 さて、荒川を下り、清砂大橋を渡って江戸川健康の道へ。さらに、荒川河口橋を渡って湾岸道路を西へ。つい走りすぎて、フジテレビを通り過ぎてしまいました。(泣) お台場海浜公園に出て、第三台場に行きます。そして、、、

きっかけは~

フジテレビ!

 このあと、お台場海浜公園を西へ向かいます。

レインボーブリッジ

封鎖できません!w

 テレビ大阪で放送されている「フットボール汗」という番組で去年の6~7月に及川奈央がフットボール・アワーの後藤輝基とデートした潮風公園に来ました。でも、何にも撮るものないよ。
 しょうがないので、船の科学館で、、、

南極観測船・宗谷

南極観測船といったら、オイラはフジなんだが。。。

羊蹄丸

でかすぎて写真に入りません!

 今年の初日の出を及川奈央がこのあたりで見たという情報から、暁ふ頭公園に行きました。途中、テレコムセンターの近くでドラマの撮影をしてました。
 で、暁ふ頭公園についたのですが、、、

暁ふ頭公園

キリンさんだ!

 オイナオが初日の出を見たのはここじゃない!と確信しました。orz もしかしたら、ということで、さっき見かけた公園に。。。途中、さっきのドラマ撮影のところをちょと見てみました。パトカーが停めてあり、茶髪の小柄な女性が警察官に扮して、撮影してました(誰だがわかんなかった!)。で、青海南ふ頭公園に、、、

青海南ふ頭公園

ここにもキリンさんが…

 おお、オイナオが初日の出を見たのはここだ!結局、オマエには及川奈央しかないのか?!って突っ込まれそうですね。w

大井コンテナふ頭

こっちのキリンさんは元気がない…orz

 さて、帰りですが、同じ道で帰るのがイヤなので、お台場に戻って、都橋通りで帰ることに。都橋通りで晴海通りに出て、右折してちょっと行って、辰巳桜橋を渡ります。辰巳の森緑道公園の北側を走って、曙橋から湾岸道に入り、荒川河口橋を渡って、江戸川健康の道に出ます。
 ここから北に行くのがつらい。なにしろものすごい風です。エアロバーにつかまって、なるべく低い姿勢でこいでいきます。清砂大橋を渡ったところで日没、ライトをつけます。で、ものすごい向かい風の中を北上しました。金八ゾーンで通りがかりの女子中学生(?)4人が、「今日は金八日和だ!」「金八先生いないのかな~」なんて言ってました。w 宮城ゆうゆう公園で荒川を離れ、6時10分過ぎに家に着きました。

●2005年1月30日(日) 荒川河川敷道路・お台場

 自宅[13:35]―宮城ゆうゆう公園▼荒川河川敷道路(右岸)━清砂大橋▼江戸川健康の道━荒川河口橋▽湾岸道路―お台場―潮風公園―暁ふ頭公園―潮風公園―お台場―都橋通り―辰巳桜橋―荒川河口橋━清砂大橋━宮城ゆうゆう公園―自宅[18:11]

 ☆サイクロコンピュータ
  走行時間 4:36:42
  最高速度 43.0km/h
  平均速度 16.5km/h←途中で一度も止めなかった!
  走行距離 76.3km
GPSトラック・ログなし

いまの世界史の教科書~世界史Aは夜回り先生じゃなくても教えるのはたいへん~

2005年01月29日 17時37分08秒 | Weblog
「夜回り先生」こと水谷修さんが、「朝まで生テレビ」に出てました。

・「水谷修先生の夜回り日記」はここをクリックしてください。
・「夜回り先生」のサイトはここをクリックしてください。

 水谷さんが「世界史A」を教えるのがたいへんだ、と言っていたのはちょとおかしかったです。ふつうの高校教師みたいだったので。。。水谷さんの活動については知っていましたが、水谷さんが地歴・公民科(=社会科)の先生だった(過去形!)ことは知りませんでした。
 現在、地歴科では世界史・日本史・地理にAとBがあり、Aは2単位(週2時間)、Bは4単位(週4時間)になっています。世界史と、日本史か地理を選択します。また、公民科は、現代社会・政治経済・倫理がいずれも2単位(週2時間)で、どれか1つを選択します。
 週2時間で世界史を教えるのは、「夜回り」しなくたって、たいへんです。「あらすじ」すら教えられないから。。。これもすべて「ゆとり教育」のおかげです。(泣)

 いまの世界史の教科書(A・B)は、ひとむかし前の教科書とはちがって、つぎのような構成になっています。

 教科書は世界史を「前近代」、「近代」、「現代」に分けています。

1.前近代
 前近代は、原始社会が文明化して、「○○世界」と呼ばれる、いくつかの地域文明圏を形成する時代です。だいたいつぎの6つ(7つ)の「世界」を形成しています。
  ●オリエント世界→●イスラーム世界
  ●地中海世界→●ヨーロッパ世界
  ●南アジア世界→
  ●東(内陸)アジア世界→
 それぞれの「世界」は、孤立しているわけではなく、相互に影響しあっているのですが、まあ独自の発展をしているわけです。

2.近代
 つぎの近代は、このうちの「ヨーロッパ世界」が拡大して、やがてすべての「世界」を統一してしまいます。これでいわゆる世界が形成されるので、「世界の一体化」などというのです。
 ただ、簡単に統一できないので、2つの段階に分かれます。
●16~18世紀
 いわゆる大航海時代からヨーロッパがアメリカ大陸とアフリカの沿岸部などを支配してゆく時代。ただしイスラーム世界や南、東アジア世界などは強大な帝国(オスマン帝国、ムガル帝国、明・清帝国)があって支配できない。
●18世紀の後半~第一次世界大戦
 ヨーロッパ世界+アメリカは、アメリカ独立革命、フランス革命などの市民革命によって近代国家を形成し、イギリスの産業革命で資本主義経済が成立します。この力を背景にヨーロッパはむりやりイスラーム世界、南、東アジア世界を支配してしまいます。20世紀初めには世界を支配してしまうので、「世界の一体化」が完成します。もちろん、その支配に対する抵抗運動が起きますが、この段階では弾圧されてしまいます。最近はこの時代(1770年代?~1914年)を「長い19世紀」と呼ぶ人もいます。

3.現代
 つぎの現代は世界の一体化が完了した時代です。この時代も大きく分けると3つくらいになります。
●1914~1945年
 20世紀は、戦争と革命の時代です。世界をほぼ支配したヨーロッパはその再分割をめぐって対立し、第一次世界大戦を起こします。この戦争は、ヨーロッパが中心でしたが、世界の人々を巻き込みます。そして、その結果、ロシアで社会主義革命が起こることになります。勝ち組み(イギリス、フランス、アメリカ) と負け組み(ドイツ、日本、イタリア←日本もイタリアも勝ったのに、いいことがなかった!)の対立は、一時緩和されますが、世界恐慌の発生で激化し、第二次世界大戦をひきおこします。
●1945~90年
 大戦の結果、戦後は米ソの対立する冷戦の時代に入ります。同時に、植民地諸国が独立して第三勢力を形成しますが、政治的な独立は経済的な独立を意味せず、南北問題をひきおこします。冷戦は1950年代後半になると、緊張緩和になるのですが、そうすると米ソ両陣営で独自の動きが現れ、多極化の時代になります。1970年代に起きた石油危機は、先進資本主義国の高度成長を終わらせますが、社会主義国にはもっと深刻な影響を与え、社会主義の崩壊の遠因になります。1980年代に冷戦が再燃しますが、ゴルバチョフの登場で一気に米ソ冷戦は緩和し、1989年の東欧革命と1991年のソ連崩壊で、米ソ冷戦は終結します。
 ちなみにここまで(1914~90年)を「短い20世紀」といいます。20世紀は社会主義の時代とした区分です。
●1990年~
 今をなんていったらいいのか?アメリカ一国支配の時代?テロとの戦いの時代?それともEUに代表されるように国境を超えた人々の交流の時代なんでしょうか?わかりませんね。未来の歴史家がきっと名前をつけるんでしょうね。。。

 前近代を「○○世界」という文明圏の並立と交流の時代ととらえるのは故・上原専六さんの影響です。また、近・現代を「ヨーロッパ世界」による「世界の一体化」ととらえるのはウォーラーステインの「世界システム論」の影響です。

ここはアウシュヴィッツですか?

2005年01月28日 11時22分59秒 | Weblog
今日、新聞を見て驚いたのがこのニュース。
ハンセン病療養所、6施設に胎児標本114体 検証会議
 「ハンセン病問題に関する検証会議」(座長・金平輝子元東京都副知事)は27日、国立ハンセン病療養所など6カ所に人工流産や人工早産などによるとみられる胎児・新生児が標本として114体保管されている、とする調査結果を厚生労働省に提出した。90年にわたる隔離政策で不法な中絶が常態化し、多くは目的もはっきりしないまま保管されてきたことが改めて裏付けられた。
 療養所は患者の隔離・絶滅を基本にし、事実上出産を認めていなかった。国家賠償訴訟で入所者が中絶の体験を証言、判決で人工中絶が3千件以上に上る、と指摘されたことなどを受けて調査していた。
 調査結果によると、保管されていたのは13ある国立療養所のうち、松丘保養園(青森県)1▽多磨全生園(東京都)35▽駿河療養所(静岡県)10▽邑久光明園(岡山県)49▽星塚敬愛園(鹿児島県)17の5カ所と、国立感染症研究所ハンセン病研究センター(東京都)2の計114体(男児52、女児51、不明11)。星塚敬愛園の1体は遺族に返されたという。このほか、死亡後に解剖された入所者の標本も2千体以上見つかった。
 標本が作られたのは、57体が1924(大正13)年から56(昭和31)年の間で、残りは不明。体長から胎齢を推測すると、29体は妊娠8カ月(32週)以降で、このうち16体は9カ月以降とみられる。旧優生保護法は76年1月まで中絶の基準を8カ月未満としている。
 同会議は「承諾のない強制的な中絶で、実質上は違法。少なく見積もっても25%以上は人工早産させられたか、正常に生まれた可能性がある」と指摘する。
 約8割は研究・実験の跡や記録がなく、標本にされた理由がはっきりしない。調査結果は「標本のビンが並ぶことが研究している証しであると考えていた医療従事者も多かった」と指摘。ほとんど放置された状態で、「胎児の尊厳を冒涜(ぼうとく)するもの」としている。
 同会議は、生まれた後に職員によって殺されたなどの証言もあることから、入所者らの意見を踏まえたうえで死産か新生児殺であったかどうかを調べるため、厚労省が司法に検視を申し出るべきだ、としている。
 邑久光明園の自治会などは「一日も早く供養したい」とし、検視などで胎児に傷を付けることに否定的な声もある。このため、今後、厚労省と全国ハンセン病療養所入所者協議会などが協議することになるとみられる。
 また、同会議は入所の強制や断種手術の体験など被害実態の聞き取り調査の報告書も提出した。対象は国立療養所の入所者758人、二つの私立療養所の入所者9人、退所者69人、家族5人。
 国立療養所に入所中に子どもを「産まなかった」「産めなかった」と答えた626人に理由を聞いたところ、49%の人が「断種された」「不妊手術を受けた」「堕胎手術を受けた」と答えた。
(asahi.com 01/27 13:34)

女系だっていいじゃなぁい♪~天皇の女系継承~

2005年01月27日 17時53分31秒 | Weblog
 1月25日に、女性天皇の是非などを検討するため、皇室典範有識者会議が初会合を開いたとのニュースがあった。これは、皇位継承を男系男子にしか認めていない現在の皇室典範では、いずれ継承者が不在になるとの危機感を背景に設けられた。会議では今後、皇位継承権を女性に広げ、女性天皇の子どもが皇位を継ぐ「女系」を認めるかどうかや、皇位継承の順位、結婚した女性皇族の宮家創設の範囲などを検討する見通しだそうだ。
 私は、どうせ人間がつくったきまりなんだから、それが不都合になったら、変えれば(゜∀゜)イイ!と思っている。実際に、推古、皇極(=斉明)、持統、元明、元正、孝謙(=称徳)、明正、後桜町と8人の女性天皇が過去に即位している。しかし、「女系」での皇位継承はなかったから問題だということを主張する香具師がいる。だけど、ほんとうなのだろうか?

 下の表は、初代の神武天皇から43代の元正天皇までの歴代天皇である。ふつう我々がつかっている天皇の名前は、漢風諡号で、天皇が死んだ後に徳を讃えて贈る称号で、漢字2字からなる。8世紀半ばにつくられたもので、それ以前は存在しなかった。これ以外に、和風諡号というのもあり、こっちは6世紀前半の安閑天皇のころ成立した。

漢風
諡号
和 風 諡 号
1神武カムヤマトイワレヒコ
2綏靖カムヌナカハミミ
3安寧シキツヒコタマテミ
4懿徳オホヤマトヒコスキトモ
5孝昭ミマツヒコカヱシネ
6孝安オホヤマトタラシヒコクニオシヒト
7孝霊オホヤマトネコヒコフトニ
8孝元オホヤマトネコヒコクニクル
9開化ワカヤマトネコヒコオホヒヒ
10崇神ミマキイリヒコイニヱ
11垂仁イクメイリヒコイサチ
12景行オホタラシヒコオシロワケ
13成務ワカタラシヒコ
14仲哀タラシナカツヒコ
(神功)オキナガタラシヒメ
15応神ホムタワケ
16仁徳オホサザキ
17履中イザホワケ
18反正タヂヒノミズハワケ
19允恭ヲアサヅマワクゴノスクネ
20安康アナホ
21雄略オホハツセノワカタケ
22清寧シラカノタケヒロクニオシワカヤマトネコヒコ
23顕宗ヲケ
24仁賢オケ
25武烈ヲハツセノワカサザキ
26継体ヲホト
27安閑ヒロクニオシタケカナヒ
28宣化クケヲヒロクニオシタテ
29欽明アメクニオシハルキヒロニハ
30敏達ヌナクラフトクマシキ
31用明タチバナノトヨヒ
32崇峻ハツンセベノワカサザキ
33推古トヨミケカシキヤヒメ
34舒明オキナガタラシヒヒロヌカ
35皇極アメトヨクカライカシヒタラシヒメ
37(斉明)
36孝徳アメヨロズトヨヒ
38天智アメミコトヒラカスワケ
39天武アマノヌナハラオキノマヒト
40持統オホヤマトネコアメノヒロノヒメ
41文武ヤマトネコトヨオホヂ
42元明ヤマトネコアマツミシロトヨクニナリヒメ
43元正ヤマトネコタカミズキヨタラシヒメ


 初代の神武天皇は神話上の人物だし、2~9代の天皇は「闕史八代」の天皇といわれ、実在がとてもあやしい。和風諡号も、「ヤマトヒコ」とか「タラシヒコ」とか「ヤマトネコ」といった後世につくられたものである(江戸時代の人別帳に「○○衛門」とか「△兵衛」に混じって「アキラ」とか「タカシ」といった現代風の名前があるようなもの!)。
 では、誰が初代の天皇なのか?というと、第10代の崇神天皇ではないかといわれている。この天皇、「記紀(=古事記・日本書紀)」によると、大物主神・倭大国魂神を祀り、北陸・東海・西道・丹波に四道将軍を派遣して領域を拡大し、政権の基礎を固めて御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト=初代天皇)とよばれたという。和風諡号は、御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイニヱ)と記され、名前に「イリ」を含む一族が多く、その宮の磯城(しき)瑞籬宮が大神神社や大和盆地で最古の大規模前方後円墳が集中する三輪地方にあったことから、三輪王朝(イリ王朝)の創始者とされている(実在しなかったという説もある)。
 このあと、垂仁(イクメイリヒコイサチ)、景行(オホタラシヒコオシロワケ)、成務(ワカタラシヒコ)、仲哀(タラシナカツヒコ)となると、またあやしくなる。垂仁は崇神と同じく「イリ」があるが、景行、成務、仲哀はそれがなくなる。仲哀は、実在があやしいヤマトタケルの子であり、妃はこれまた実在があやしい神功皇后である。
 どうも皇位は、崇神→ヤサカノイリヒコ(垂仁の兄弟)→ヤサカノイリヒメ(夫が景行)→イホキノイリヒコ→ホンダマワカ→ナカツヒメ(夫が応神)→仁徳と、女系での継承があったようなのである。
 ところで応神天皇(ホムタワケ)は、父の仲哀、母の神功皇后がともに実在があやしいので、皇位を簒奪したのではないかといわれている。実際に、拠点を河内にし、和風諡号も「ワケ」が使われており、河内王朝(ワケ王朝)の創始者なのかもしれない。
 この河内王朝も5世紀末ごろの武烈天皇で断絶していまい、継体(ヲホト)が皇位を継承した。継体天皇は、近江の生まれ、越前の育ちで、応神5代の子孫となっているが、それもあやしい。これも、仁賢天皇の娘タシラカノヒメミコを妃にしているので、皇位の簒奪があったかどうかはともかく、女系での継承の可能性がある。継体は、即位後20年してようやく大和の地に入っているので、大和の豪族と対立していたのではないかといわれている。
 継体天皇の死後もじつはもめている。継体には、尾張連草香の娘との間に安閑と宣化がおり、タシラカノヒメミコとの間には欽明がいた。欽明が即位したが、それを認めない安閑と宣化が対立し、のち欽明によって統一されたと推定されている。

 こうして見てみると、すでに女系で継承されていたわけなんだから、べつに女系だっていいじゃなぁい♪と思うんだが、どーだろう?

赤水門(岩淵水門)

2005年01月25日 20時34分21秒 | 心霊スポット
 昨日、フジTVの「ほんとうにあった怖い話」を見てたら、「やるせなす」の中村豪さんが出てました。
 彼が歩いていると、白い着物を着た女の人(=霊)が地面を掘ろうとしながら「く…」とつぶやいていたそうです。見ると、裸足だったので、「ああ、くつね」と言ったら、女と目があったそうです。逃げるように立ち去ったら、むこうからキレイな女の人が歩いてきました。中村さんが見ていると、その女が突然「くしだよ!」って言って消えたそうです。(怖)

 彼は、霊が見えるタレントとして、むかし日テレで日曜日の午後に放送していた「とりあえずイイ感じ。」で、大泉の母といっしょに心霊スポットを旅する企画に出てました。じつは、岩淵水門を心霊スポットとして有名にしたのはこの中村さんなのです。
 岩淵水門は、1924(大正13)年に完成し、1982(昭和57)年につくり直されました。その際、古い水門は歴史的建造物として残されました。古いほうを「赤水門」、新しいほうを「青水門」と呼んでいます(写真は2001年6月に撮りました)。

赤水門(前)と青水門(後)

手前が荒川河川敷道路。

位置図

左が赤水門で、右が青水門。

青水門(上流から見た)


赤水門(上流から見た)


赤水門(下流から見た)

島になっているところに「ものすごく強い女の霊がいる」と大泉の母が言ってました。

 で、島に行くと、こんなものがあります。

青野 正「月を射る」

1996(平成8)年度 荒川リバーアートコンテスト特賞受賞作品。
背後の高層ビルは、エルザタワー55(右)とライオンズスクエア(左)。

「草刈の碑」

「農は国の大本、草刈堆肥は土を作る農業の根本」とあります。

 幽霊が見える妹も「ここにいるとは思えないんだけど…」って言ってました。ただ、「こういう場所って、昼と夜とじゃぜんぜんちがうからね」とも言ってました。
 じつは、赤水門の下流側って水が淀んでるんです。雨が降って荒川が増水したりすると、ここに魚の死骸が多数浮いているんです。そういうところって。。。

「東海道四谷怪談」の概要(はじめに)

2005年01月23日 17時32分01秒 | 心霊
 以前、「東海道四谷怪談」(以後、「四谷怪談」)のもととなった「四谷雑談(よつやぞうたん)」を紹介しました。しかし、「四谷怪談」については、説明しませんでした。「四谷怪談」は四世・鶴屋南北によって書かれ、1824年に上演された歌舞伎の演目です。ここでは、『お岩と伊右衛門~「四谷怪談」の深層』(高田衛・著)を用いて、その概要を紹介します。長いので2つに分けて掲載します。
 「四谷怪談」の初演は、1702(元禄15)年の赤穂事件*1を題材とした「仮名手本忠臣蔵」(以後、「忠臣蔵」)*2とともに、2日がかりで演じられました。ストーリーがわかりにくかったので、再演からは1日上演になりました。ストーリーがわかりにくいにもかかわらず、そのようにしたのは、「忠臣蔵」が義士の話であるのに対して、「四谷怪談」は不義士の話として、裏表の関係にあるからです。
*1 赤穂事件【あこうじけん】
 播磨赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(「忠臣蔵」では"塩冶判官[えんやほうがん]")切腹の原因をつくったとして、旧藩士のうち47人が1702(元禄15)年12月14日、江戸幕府高家・吉良上野介義央(同じく"高野師直[こうのもろなお]")邸を襲撃した事件。元家老・大石内蔵助良雄(同じく"大星由良之介")ら襲撃浪士は、翌年2月4日、幕府から切腹を命ぜられた。

*2 仮名手本忠臣蔵【かなでほんちゅうしんぐら】
 浄瑠璃。11段。時代物。2世竹田出雲・三好松洛・並木千柳(宗輔)合作。1748(寛延1)年8月14日より11月中旬まで大坂竹本座初演。赤穂義士の仇討事件を太平記の世界に移して脚色、先行の義士物を集大成した。全段を四季に配し、時代と世話が調和し趣向に富み、人物の配置と造型が秀逸で、忠義と恋と金銭の葛藤、人情・世態風俗の描写に優れ、浅野家臣に対する世間の共感を得て、上演回数は極めて多い。興行中、人形遣い吉田文三郎と竹本此太夫が対立して、此太夫が豊竹座へ移り、竹本・豊竹両座の芸風が混淆した。同年12月歌舞伎でも初演。以後小説・実録類の一系譜となった。

「東海道四谷怪談」の概要(前半)

2005年01月23日 17時30分57秒 | 心霊
●序幕(初日序幕)
(一)浅草境内の場
 江戸町人の信仰を集める浅草観音の境内は今日も賑わっている。とある茶見世では、参詣客の通人やら商人やら、風態のわるい地廻りまでが、茶を飲みながら、あれだこれだと勝手な事を言っている。ここで目立つのは、上手(右手)の楊子店で楊子を売っているお袖(お岩の妹、塩冶浪人・四谷左門の娘)の美貌であった。しぜんにその娘の話題になるが、茶見世の「かか」の話では、その娘も人に隠れて売春をしているという。騒然となるところヘ、参詣帰りらしき、供を連れた身分の高い老武士の一行がやってくる。供の医師・尾扇(びせん)との会話で、彼が当時権勢筆頭の、高野師直の家老で、伊藤喜兵衛といい、声高に塩冶の家の失脚をそしり、おのれの栄華を誇っているが、孫娘のお梅がある待にぞっこん惚れて、何が何でも、たとえ妻子ある人であっても、その人が忘れられずに、気鬱の病となっていること、伊藤喜兵衛がその孫娘のためなら、「たとえ金に飽かしても(その男を)聟に取る」という気でいることがわかる。
 折しも、そこへ藤八五文(とうはちごもん)の二人の薬売りが来かかる。一人は帰ったが、残る直助は、実は元塩冶藩の奥田家に仕える中間であったが、四谷家娘のお袖に片思いして、今は楊子店で売子をしているお袖に盛んに言い寄る。しかしお袖には、まったくその気はなく、にべもない応答。
 伊藤喜兵衛が、お袖の店から楊子を買おうとすると、先程の塩冶家への侮蔑のことばを聞いたお袖は、はねつける。伊藤はさては塩冶のゆかりかと悟り、言いがかりになり、直助が止める。
 その時、反対側で騒ぎが起きる。見ると四、五人の乞食が、彼らの縄張のなかで、ことわりなしに物乞いをした老武士を捕えて、その老武士こそ、塩冶浪人・四谷左門だが、貧に迫られて乞食をしたのだった。詫びを入れてもきかず、踏んだり蹴ったりの乱暴。その騒ぎのなかヘ、人だかりを押し分けて、一人の浪人姿ながら、りりしい男が仲に入る。金を乞食らに渡して、四谷左門を救い出し、その上で、丁寧に妻と復縁させてくれと頼む。この水ぎわだったいい男こそが民谷伊右衛門で、四谷の娘お岩と好き合って結婚したのだが、親の左門によって仲をさかれ、お岩を取り返された男であった。
 伊藤の孫娘は、その伊右衛門をただうっとりと見惚れており、「これは」と悟った喜兵衛は伊右衛門の挙動をじっと見ている。
 さて、四谷左門は伊右衛門の頼みをすげなく拒絶する。その理由は、伊右衛門が、塩冶家の資金を横領した不義士だからである。伊右衛門は否認するが、左門は証拠まであげる。ここまでくると、伊右衛門は開き直って、左門の無礼を怒り罵倒する。
「もう頼まねえよ。とにかく舅だと思うからことばを尽し手を下げて、丁寧に話してあやまりもしたんだぜ。それにつけ上って何だ。手前は往来の人に物乞いをして、食うこともならねえ癖に、心が違うとか気に入らぬとか、やせ我慢の貧乏を助けてやろうと思うたのに、身のほど知らぬ老いぼれめが」
 左門は無視して去って行くが、自己の旧悪まで知られた以上は(生かしておけぬと)伊右衛門は見えかくれにその跡を追う。
 ここまで伊右衛門のしぐさを見ていた伊藤喜兵衛は、「これは」と思う。どうやら孫のお梅が恋うている、あの男(伊右衛門)は、塩冶に敵対する強力な味方になりそうだ。「それならあの男を、身うちにしてもいいのではないか」と思うとき、乞食に扮した塩冶浪人奥田庄三郎が、物乞いとして近づき、屋敷の移転を聞き出す。「さては、此奴は塩冶か」と喜兵衛は気づく。庄三郎の持つ廻文状が手に入って、「しめた」と思うが、そこを通りかかった小間物屋、実は佐藤与茂七が、廻文状をとり返す。その与茂七は、お袖の許婚者だが、この浅草境内で評判の楊子屋のお袖(おもんと称している)が、夜は地獄(売春宿)に出ると聞いて興味を持つ。先の直助も茶見世の「かか」から、お袖は隠れ売春をしていると聞いて、それはと喜び、出かけてゆく。

(二)薮の内地獄宿の場
 按摩の宅悦が経営している表向きは灸点所に見せかけた地獄宿が、お袖が、親姉にかくれて売春する家である。そこへ茶見世の「かか」に案内されて、直助がやってくる。直助の注文はもちろんお袖。やがてお袖がやって来て、客が直助と知って驚く。じつは客に呼ばれても、帯紐とかず、親の困窮、姉の病気とわけを話し、少しの志をいただくのがわたしの仕事と、お袖は打ちあける。そんならなおのこと、昔と違って商人になった自分には稼ぎがあるゆえ、世話をしたいと直助はくどくが、お袖は従わない。直助は金の入った胴巻をわたし、形だけでも共寝しようとお袖を寝所へ連れこむ。
 そこへ、今度は佐藤与茂七が女買いに来た。お袖は直助の部屋から呼び出され、喜んで与茂七の部屋へ来る。暗くしてあるので二人はお互いが分らない。お袖は、「これこれしかじかの仔細あって、恥しながら身は売らず、お客様のお気持だけの喜捨をいただきたい」と訴える。与茂七は、親のためなら吉原へ身を売るがよいと、お袖をなじる。屏風が倒れて明るくなり、「お袖ではないか」、「あれ、与茂七どの」と二人は驚き、お袖は恥ずかしがる。与茂七は許婚者(女房)の身売りを怒るが、お袖は逆に、そういう貴方はなぜこんな所で女買いをしているのかとなじる。痴話喧嘩じみた言い合いの後、それでも好いた同士、久しぶりの二人は抱きあう。
 直助は隣室で聞いていて、たまらず「泥棒め」と大声たてて騒ぐ。宅悦が出ると、「女の二重売りだ」と言う。与茂七、お袖も、見れば昔の下郎・直助ゆえ、叱りつけるが、直助はお袖に金を渡したのに、俺とは寝ずに、亭主といちゃつく。これが泥棒でなくて何か。なんならお袖を俺にちゃんと抱かせるかと、開きなおる。金の入った胴巻を、お袖から取り返した上、さんざんに二人を侮辱する直助の憎々しさ。
 そこへ藤八(薬売りで直助の相棒)が来て、直助の金を取り上げ、着物までまきあげて退場。宅悦も迷惑がり、与茂七もこのざまを嘲笑して、提灯を下げてお袖とともに退場。あとに残った直助は何かを決意して、与茂七の後をつける。

(三)浅草裏田甫の場(一)
 浅草裏田甫は乞食たちの溜り場である。乞食たちが、今日の出来事(伊右衛門からの貰い金)を喜んでいる。そこへ浪人・秋山長兵衛が登場し、酒屋の若い者にいいがかりをつけて、連行しようとしているが、中間・伴助と出会う。や若い者が消えた後、伴助は、民谷の日雇い仲間の小仏小平が、主家の名薬ソウキセイを盗んで逃げたという話をする。それはけしからぬ、探し出さねばと、二人は退場する。
 姿の奥田庄三郎が、先の佐藤与茂七と出会う。与茂七は、庄三郎が伊藤喜兵衛に突っかかり、廻文状を取られたような無用心を戒め、自分は今からすぐにこれを山科に知らせるために旅に出る、と言う。「では用心のため、自分のなり(姿)に変るとよい」と庄三郎は言い、その場で二人は、衣服を交換する。持っていた提灯も、与茂七から庄三郎に―。
 この二人が去ったところヘ、四谷左門が通りかかる。伊右衛門のごとき不義士には、娘お岩を渡せないと、ひとり言。ところが、その生垣から伊右衛門が出て、地蔵を蹴倒し、左門がつまずく所を、ばっさりと斬る。左門が立ち上るのを、蹴倒し、刀を振りあげる。

(四)浅草裏田甫の場(二)
 富士浅間神社の賽銭箱の見える浅草裏田宙の別な場所。
 直助が頬かぶりして、小間物屋・与茂七の衣裳を着た庄三郎を、出刃包丁で刺し殺している。
「与茂七め、宵の遺恨を思いしったか」と言いつつ、「そうだ人に分らぬように、面の度をはいでおこう」と、顔面の皮をくるくると包丁で巻きとる。包丁はかくす。
 そこへ左門がよろめき出る。伊右衛門が追ってきて立ちまわり、斬り殺してとどめをさす。
「老いぼれが、刀の錆となって自業自得だわえ、ざまあ見ろ」という。
 その声に直助が気がつき、二人は顔を見合わせ、お互いの人殺しを認めあう。そこへ人が来る様子で、二人はかくれる。
 お岩が登場する。手拭いを冠り、安下駄をはき、ござを持ち、その姿は夜鷹(よたか=街娼)である。父を心配する台辞がある。もう一人、今度は提灯を持ったお袖である。おたがいに気づき、姉の姿に、一言いうお袖。それに対してお岩も、お袖の「地獄」勤めの噂を言う。だが、二人はともに父のための、しがなく、わびしい勤めであることを、嘆きあわずにはいられない。
 やがて倒れている男二人の死骸に気づく二人。提灯の明りで見れば、一人は父の四谷左門、一人は衣類からどうやら佐藤与茂七。姉妹は思わず死骸にすがりついて、泣く。
「夜陰に何やら女の泣き声」と言いつつ、伊右衛門登場、左門、与茂七の死骸に大げさに驚くふり。そこへ直助も登場し、大げさに驚くふり。そして二人の女の前で、やにわに腹を切ろうとする。
「中間の身分で、お袖様を争って、先に喧嘩をした自分。きっと佐藤様殺しの疑いをかけられるであろう。死んでその疑いを晴らすしかない」と言うのである。
 伊右衛門はこれをなだめ、「二人を殺した程の相手は、さぞかし腕の立つ奴。とても女では敵討はできぬ。お前にその気持があるのなら、お袖の後ろだてとなって、敵討の助勢をするがいい」と言う。
 お岩は、目でお袖に合図しつつ(直助があやしいと知らせつつ)、お袖に直助と仮の夫婦になって、与茂七殺しの犯人を探せという。また伊右衛門は、四谷左門の敵を討つためにも、お岩と元通りの夫婦になろうと言う。それを、複雑な気持で、「嬉しうござんす」と答えるお岩なのである。伊右衛門、直助は、(にったりと)顔を見合せて幕。


●第二幕(初日中幕)
雑司ヶ谷四谷町の場
(五)伊右衛門浪宅の場
 貧しい伊右衛門の浪宅では、妻のお岩は初産が済んだばかり。伊右衛門は傘張りの内職をさておいて、仏孫兵衛(小仏小平の父)と、口入れ屋の宅悦を呼びつけ、家宝の妙薬ソウキセイを盗んで逃げた小平を探し出せと叱っている。ソウキセイは足腰の萎えに著効のある妙薬とか、とすればあの正直者の小平が、その薬を盗んだのは、前主人の塩冶浪人・小塩田又之丞が腰膝の疾病で臥っている、それを助けるためかと、孫兵衛は思案しながら帰る。しかし隣人の秋山長兵衛が、深川のあたりで小平を発見し、関口官蔵らと、小平を縛りあげて連れてくる。薬は無事に伊右衛門の手にもどる。だが盗人をただでは許せぬ、指を全部折ってしまえと、宅悦の制止をふりきって、泣きわめく小平に猿ぐつわをして、三人がかりでさんざんに小平をいたぶる。そこへ、隣家の伊藤家から乳母のお槙が沢山の見舞の品を持って、訪ねてくる。伊右衛門らは、とりあえず小平を押入に隠す。お横は、お岩の出産の祝いを丁寧に述べ、数多くの進物や酒肴を持ちこむ。その上、産婦にと、伊藤家伝来の血の道の妙薬を、伊右衛門に渡す。
 別室の戸をあけると、お岩が赤子を抱いている。お横はそのまま帰り、お岩や秋山らのすすめもあって、伊右衛門は高野師直の重臣とは知れていて、気のすすまぬ伊藤の家へ、それでも礼を申しに、秋山らと共に出向くことになり、宅悦には飯をたくように命じ、お岩には伊藤の家からの血の道の妙薬だと、薬袋を渡して出かける。
 その後、身体具合のわるいお岩は、日頃にまして冷たい伊右衛門を嘆きながら、伊藤の薬を呑む。すると突如として、猛烈な顔面の激痛におそわれる。宅悦があわてて介抱をするのだが、お岩の苦痛は止まない。そのまま、次の場面に舞台はかわる。

(六)伊藤屋敷の場
 伊藤の家、美々しい座敷で、伊右衛門、秋山、関口らが、伊藤後家・お弓や乳母お槙らに接待されて酒宴である。二人の若侍が持ってきた吸物椀の中には小粒銀がたっぷり。伊藤喜兵衛は、これ見よがしに小判を盥(たらい)で洗っていたが、折を見て、秋山、関口を別の部屋へ去らせ、民谷伊右衛門に向って、多額の小判を贈ろうとする。これは何ゆえかと驚く伊右衛門に向って、「実は」と、喜兵衛は隣室の襖をあける。
 振袖姿のお梅がいる。喜兵衛も、母のお弓も、お梅に今はすべてを話せと言う。喜兵衛、お弓、お梅のこもごもの話では、お梅は過日伊右衛門を見て恋をし、寝てもさめても忘れられず、やがて転宅して伊右衛門の隣家となって、彼が妻のいる侍と知った後も、この恋を捨てられず、せめて水仕女になっても貴方様の側において欲しいとの願い。
 喜兵衛もお弓も、妻がいるのは承知の上、孫娘のためには、伊藤の家のすべてをはたいても、伊右衛門にお梅の聟となってほしいと願う。
 聞きとった伊右衛門は、「いくら何でも妻のいる身が、その儀はお受けできない」と答えると、お梅は悲しみ、「あきらめます」と剃刀をとり出して、自害しようとする。それは短慮なと、一同で止めるものの、立ち聞きした秋山が、ここに入って、病弱な妻のお岩にこだわらず、この際伊藤の家に入ったらどうかと薦める始末。「世間の手前というものがある。今さらお岩を捨てることはできない」と、伊右衛門は拒む。
 と、何を思ったか、伊藤喜兵衛は、「そういう事なら、私を殺して下さい」という。それはなぜか。喜兵衛は続けて、実はお岩に呑ませた血の道の薬というのは、それを呑めばすぐにも面態が醜く崩れる毒薬であるという。生命に別状はないけれども、お岩が醜い姿となれば、伊右衛門の気持も変るだろうと、ただ孫娘の不憫さに、鬼となって、お岩殿に毒薬を盛ったのはこの私、「さあ殺して下さい」と迫るのである。お梅もまた「死にたい」と言う。
 あまりの話に驚きながら、考えこんでいた伊右衛門は、ついに「承知しました。お岩を去っても、娘御を貰い受けよう」と答える。「その代りに、高野へ推挙を」、喜兵衛はそれはもちろんのことと喜び、秋山は「それでは、わしが仲人に」と、ここで事態は大きく変って、場面転換。

(七)元の伊右衛門浪宅の場
 薄暗くなった室内にお岩が倒れている。宅悦が行燈に灯を入れて、その明りで見ると、お岩の顔貌は一変している。宅悦は腰を抜かすばかり驚くが、あえて口にせず、「油を買いに行く」と言って外へ出る。
 入れ替わりに伊右衛門、「喜兵衛はああ言ったが、お岩の顔はどうなったか」と独言しつつ帰る。お岩を見ると、すさまじい顔。伊右衛門もあきれるが、お岩が心細く、「わたしはいずれ死ぬでしょうが、そのあとよもや」と言いかけると、わざと非情に、「持ってみせるわ。新しい妻をの」と言う。お岩は「敵討の約束は」と言うと、「今どき古風な敵討、俺はいやだ」と突っぱねる。お岩が、「お前さんは新しい女に、わが子を見替えるのか」と言うと、「見替えないでどうするものか」。いやなら出て行け。お前が他の男と不義をしたから、俺も見替えると、とにかくお岩を追い出すための無理難題を言う。お岩は否定するが、伊右衛門はお岩の相手はあの宅悦だと言い、女の為に金が要るのだと、お岩の母の形見の櫛、着ていた衣類、それに赤子を寝かしていた蚊帳まで奪って家を出る。しかも途中で油を買ってきた宅悦に出会い、お岩と不義をしなければ斬るぞと、脅して―。
 宅悦はやむを得ず、戻ってきた後にお岩の側へ寄り、お岩の手をにぎりながら口説く。お岩はきっとなって、「慮外者め」と、あたりにあった小平の脇差を振りまわす。
 宅悦は逃げまわって、「嘘でございます。何を好んでお前のような悪女と不義をするものか」と、懐中鏡を渡して、お岩に自分の顔を見ろと促す。
 それまでお岩は自分の顔が、かくも無残にただれ崩れて妖怪めいた変貌をとげているのを知らなかった。今、鏡を突きつけられ、どうにも信じられないが、二度見て、三度見て、自分が伊右衛門と伊藤の悪計のために、ここまで醜く変貌させられたのかと、口惜しがる。
 宅悦は、伊藤喜兵衛の悪計、伊右衛門が伊藤の孫娘お梅に入聟するため、今やお岩を追い出しにかかっていることなど、全部をお岩に話してしまう。「間男せねば斬り殺すと脅されても、今のお前と不義などできるものか」と宅悦。
 だまされ、踏みにじられ、毒を呑まされた口惜しさ、怒り、お岩はここで変ってしまう。「もうこの上は気をもみ死に、息ある内に伊藤喜兵衛めを」と、よろめきながら出かけようとする。しかし、あまりにひどい自分の姿、「せめて女の身だしなみ」と、宅悦が止めるのを退けて、鉄漿(おはぐろ)道具を取り寄せ、髪を梳(す)き、口を染める。以下は台本の引用。
 お岩 髪もおどろのこの姿、せめて女の身だしなみ、鉄漿(かね)など付けて髪梳き上げ、喜兵衛親子に詞(ことば)の礼を
ト思ひ入れあり
 お岩 コレ、鉄漿(おはぐろ)道具拵(こしら)へてこゝヘ
 宅悦 産婦のおまへが鉄漿付けても
 お岩 大事ない。サ、早う
 宅悦 スリヤどうあつても
 お岩 エヽ、持たぬかいの
トじれて云ふ。宅悦、びつくりして
 宅悦 ハイ
ト思ひ入れ。これより、独吟(どくきん)になり、宅悦、鉄漿付けの道具をはこぶ事。蚊いぶし火鉢へ鉄漿をかけ、山水(さんすい)なる半挿(はんざや)、粗末なる小道具よろしく、鉄漿付けあつて、件の赤子泣くを、宅悦、かけ寄り、いぶりつける。この内、唄(うた)一ぱいに切れる。お岩、件の櫛を取つて、思ひ入れあり、
 お岩 母の形見のこの櫛も、わしが死んだらどうぞ妹へ。アヽ、さはさりながら、お形見のせめて櫛の歯を通し、もつれし髪を、オヽ、さうぢや
トまた唄になり、件の櫛にて髪を梳く事。赤子泣く、宅悦、いぶりつける。お岩は梳き上げし落ち毛、前へ山のごとくたまるを見て、櫛も一ツに持つて
 お岩 今をも知れぬこの岩が、死なば正しくその娘、祝言さするはコレ眼前、たヾ恨めしき伊右衛門殿、喜兵衛一家の者どもも、なに安穏におくべきや。思へば[思へば]、エ、恨めしい
ト持つたる落ち毛、櫛もろともに一ツにつかみ、きつとねぢ切る。髪の内より、血、たら[たら]と落ちて、前なる倒れし白地の衝立へその血かゝるを、宅悦、見て
 宅悦 ヤヽヽヽヽ。あの落ち毛からしたたる生血は
トふるへ出す、
 お岩 一念とほさでおくべきか
トよろ[よろ]と立ち上り、向ふを見つめて、立ちながら息引き取る思ひ入れ。宅悦、子を抱き、かけ寄って
 宅悦 コレお岩様[お岩様]、モシ[モシ]
ト思はずお岩の立ち身へ手をかけてゆすると、その体、よろ[よろ]として、上の屋外へばつたり倒るゝ。そのはずみに、最前投げたる白刃、程よきやうに立ちかゝりゐて、お岩の喉のあたりをつらぬきし体にて、顔へ血のはねかへりし体にて、よろ[よろ]と屏風の前をよろめき出て、よきところに倒れ、うめいて落ち入る。宅悦、うろたヘ、すかし見て
 宅悦 ヤア[ヤア]、あの小平めが白刃があつて、思はず止めもコリヤ同前。サア[サア]、大変。
トうろたへる。この内、すごき合方、捨鐘(すてがね)。この時、誂(あつらへ)の猫一疋出て、幕明きの切溜(きりだめ)の肴(さかな)へかゝる。宅悦見て、
 宅悦 この畜生め。死人に猫は禁物だハ。シイ[シイシイ]
ト追ひ廻す。猫逃げて障子の内へかけこむ。宅悦、追うて行く。この時、簿ドロ[ドロ]にて、障子べたら[たら]と血かゝる。とたんに欄間よきあたりヘ、猫の大きさなる鼠一疋、件の猫をくはへて走り出る。猫は死んで落ちる。宅悦、ふるヘ[ふるへ]見る事。この時、鼠はドロ[ドロ]にて心火となつて消える
 宅悦 コリヤ この内にはゐられぬ
ト袍子(だきご)を捨て、向ふへ逃げ行く。

 逃げ出した宅悦は伊右衛門と出会う。伊右衛門、内へ入ってお岩を探すが、見つからない。大きな鼠がぞろぞろと出て、赤子の衣類をくわえて引きずってゆく。伊右衛門は赤子を抱き、お岩の死骸を見つけ、小平の脇差が咽喉に立つのを見て、あわてて押入をあける。小平は最前のまま、猿ぐつわに手足は縛られている。
 猿ぐつわを外すと、小平は、「且那様、エエあなたという人は、ひどい人だ」と抗議する。伊藤と腹を合せ、お岩の面体を崩す薬を呑ませ、自分は伊藤の孫娘と祝言して、それが侍のすることか、と言うのである。
 伊右衛門の悪知恵は、とっさの機転で此の小平をお岩殺しの犯人に仕立て、「お岩の敵だ、くたばれ」と、ずたずたに斬り殺す。秋山、関口が出てきて、伊右衛門はお岩・小平は不義の成敗によって、斬ったと言う。
「それでは両人の死体を戸板に打ちつけ、姿見の川へ流そう」と秋山、関口が、死骸を戸板に打つと、死んだ小平の両手の指が、蛇になってうごめく。
 中間の伴助が、伊藤の一行の到着を知らせるので、秋山らは死体を奥へ運び、喜兵衛は紋服・衿、花嫁衣装のお梅の手を引いて登場する。
 喜兵衛・伊右衛門は、いまお岩が死んだ此の家で、内祝言をあげたお梅との、初夜をすませようというのである。さすがに、お梅と乳母のお槙は気にするが、大事ない、大事ないと言うのは喜兵衛、そして伊右衛門。母を失って泣く赤子の乳母代りだと称して、喜兵衛もこの家に泊りこむ。
 お槙も供の者も、皆々を返し、伊右衛門はひとりになる。屏風のかげにはお梅が待っている。外から秋山らが、「戸板の二人は川へ流して始末はついた」の声。
「ハテ、ものごとはこうもうまくゆくものか」と、伊右衛門は屏風をひらき、お梅に近づく。
「恥しがらずに、今こそ我が夫(つま)と言ってくれるか」と声をかけると、「アイ」と答えて綿帽子をぬいだお梅は、お岩の顔である。伊右衛門を恨めしげに見て、ケラケラと笑う。
「うわっ」と伊右衛門は刀を抜いて、ポンと斬ると転り落ちた首はお梅。鼠がたかる。
「ヤヽヽ、これはお梅か、早まったか」
 と伊右衛門は、喜兵衛に、「これ、舅殿、えらい事になった」と声をかける。ふり向いた喜兵衛の顔は小平の顔で、赤子を喰って口のまわりは血だらけである。
「おのれ、小平め」
 と、伊右衛門が刀を振うと、首は落ちたが、よく見ると、それは喜兵衛の首であった。
「ヤ、斬ったのはやはり舅か。こんな所にうかうかとは居れぬ」
 と、伊右衛門、出口へ行き、戸をあける。戸はぴしゃりと、ひとりで閉まる。伊右衛門びっくりし、たじたじと後にさがる。ドロドロと幽霊の音のうち、心火が燃え上がる。伊右衛門、ぎょっとして、「はて、執念の」と、どさりと坐る。「なまいだ、なまいだ」と手を合せて拝むうちに幕。

「東海道四谷怪談」の概要(後半)

2005年01月23日 17時28分29秒 | 心霊
●三幕目(初日三幕目および後日の狂言始めでもある)
(八)十万坪隠亡堀の場
 深川の奥、塵芥を集めて埋め立てた小名木川沿いの俗称十万坪という砂村新田の一隅に、隠亡掘という不気味な淵があった。その土堤に今はに落ちぶれた伊藤後家・お弓と、乳母のお槙が、殺された喜兵衛と娘お梅のことを嘆き、伊右衛門への怨みを報いたいと話し合っている。そこへ仏孫兵衛が通りかかり、戸板に打ちつけた男女の死骸が流れてこなかったかと訊く。女二人は、見てないと答え、わけを聞く。孫兵衛は息子・小平のことを話す。
 その時、お弓が持っていたお梅の形見であるお守り袋を、どこからか出現した鼠がくわえて引きずる。お槙はあわてて取り押えるが、鼠はそのまま川へ飛びこみ、お槙も引きずられ、川に落ちる。お弓はあわてて、お槙の帯を捉え引き上げようとする。孫兵衛も手伝うが、お槙の帯は切れて、彼女は水中深く没し、お弓、孫兵衛は、こけてしまう。お弓は、事の始末にウンと気絶してしまい、孫兵衛は気の毒がりつつ、去る。
 直助が鰻掻きの姿で、桶、さくを持って登場。「今年は不漁だ」と、ぐちを言いながら川へ入り、鰻の代りに鼈甲(べっこう)の櫛に女の頭髪がついた物を拾う。「こいつは鼈甲だ」と、毛を捨てて磨いている(これはお岩の髪梳きの櫛である)。
 一方、花道からお熊(伊右衛門実母)が老女のなりで、卒塔婆と包みを持ち、釣竿を持った伊右衛門とともに登場、伊右衛門の殺人の噂を聞いて、「伊右衛門はもはや亡き者」との世評を作るために卒塔婆を作ったと、これを示す。また、包みを見せて、先の夫の進藤源四郎が塩冶の浪人であり、今の亭主の仏孫兵衛が塩冶の又者(武士に仕える小者)であるため、渡しにくかったが、先に高野師直公に仕えた時に頂戴した、いざという時に役に立つ、師直の御判の付いた御墨付き同然の書類、これをそなたに、と渡す。
 伊右衛門はこれを有難く受けとり、「喜兵衛・お梅殺しは、拙者が朋輩、秋山・関口らになすりつけておいたが、まあ卒塔婆はこの辺りに立てられよ」と言う。お熊は「そうしよう」と、卒塔婆を立て、去る。
 直助は煙草をのみながらこの話を、ずっと聞いている。
 釣りを始める伊右衛門が直助とは知らずに、
「火を借りましょう」
「お付けなされませ」
 そして、「もし伊右衛門様、お久しう」と悪人二人の出会いである。
「わたし直助も今は権兵衛、伊右衛門様、いわばお前は、わしにとっては姉の敵だ」
 そいつは何故だと訊く伊右衛門に、「わしが女房は(お岩の)妹のお袖。お前とは敵同士」と言いながらも、しかし、「いざお前の出世の暁には、わしも相応の身分にしてもらう。知らねえ顔はなしだぜ」と、ふてぶてしい。伊右衛門もそこは承知、そして釣糸を引くはずみに、先ほどの卒塔婆がこけて、気づいたお弓がこれを見て、
「ヤヤ、父と娘を殺した伊右衛門は、さては死んだか」と驚く。そして「もし、お訊きしますが」
 と直助に、伊右衛門の生死を訊く。
 直助は、うっかり本当を言おうとして、伊右衛門に突っつかれ、「いや死んだ、死んだとも、今日は四十九日だ」、さらに突っつかれて、「死んだにしても、喜兵衛らを殺したのは、伊右衛門じゃない。秋山、関口らだ」と言う。
 驚くお弓を、後から伊右衛門が蹴って、川に突き落す。深みにはまってお弓は死ぬ。
 これを見て、直助「なるほどお前は(強悪だねえ)」と言うと、伊右衛門は、笑って、「お主が仕草を(真似たまでよ)」と答える。
 突然、秋山長兵衛が駈けてきて、
「世間じゃ喜兵衛・お梅殺しは、俺がしたと言っている。たまったものじゃねえから、これから本当の犯人はお前だと訴人するから悪く思うな」と言う。
「まあ待て。人の噂も七十五日、これを貸すから、遠国へでも行け」と、伊右衛門は、いま手に入れた高野師直の書状を渡す。秋山は去る。
 伊右衛門が、まずい奴と会ってしまった、「ひとまず帰るか」と、釣竿をあげようとした時、戸板が流れつく。死骸らしきものがある。伊右衛門が、思わず引き寄せて、菰(こも)をめくると…。お岩の死骸であった。しかも死骸は両眼をあけて、口には鼠が取ったお梅の守袋をくわえて、伊右衛門をじっと見る。伊右衛門も震えあがって、「お岩、お岩、許してくれる、あやまった」と言うが、お岩は、「民谷の血筋、伊藤喜兵衛の血筋ともきっと根だやしに」と、呪うがごとき声音。
 思わず、伊右衛門が、「なむあみだぶつ、まだ浮かまぬのか」と言いつつ、戸板を引っくりかえすと、裏には藻をかぶった別の死骸がある。
「ヤ」と見ると、藻が落ちて、今度は小平の腐りかけた死骸(お岩役者の二役早替り)、これも両眼を開いて、伊右衛門を見上げ、「お主の難病、薬を下され」と、手をのばす。
 伊右衛門、「またも死霊の(仕わざか)」と、死骸を斬りつけると、死骸は骨となってばらばらと水中に落ちる。
 伊右衛門がホッとすると、正面の地蔵のかげから直助が出てくる。一方、下の樋の口から、佐藤与茂七(お岩役者の三役、早替り)がしのび出る。暗中につき、三人ともまわりが見えぬなかで、お互いを探りあうしぐさ(いわゆる「だんまり」)、きまった所で、幕。


●四幕目(後日序幕)
(九)深川三角屋敷の場
 深川法乗除門前にある直助の貧家。女房・お袖は、洗濯の手間賃や樒(しきみ)の花、線香を売って暮している。古着屋・庄七が、洗いに出した着物がまだ乾かぬかと催促、米屋の長蔵が米代の催促。さらに庄七がすすぎの注文にとり出した衣類は女物(実はお岩の着衣)で、お袖は姉の物に似ていると思いつつ、盥へ。一方、幼い次郎吉が蜆(しじみ)を売りに来るのを、お袖は買いとって放す。法乗除まで来た仏孫兵衛は孫の次郎吉を連れて帰る。
 今日は、お袖の父・左門、それに許婚者・与茂七が同じ場で殺された(とお袖は思っている)その百か日である。
 直助が帰ってくる。得物はないが、拾った例の櫛を見せる。お袖が見ると、それは姉が所持して、いずれは自分に呉れるといった櫛に相違ない。直助が、その櫛を質物に持ち出そうとすると、盥の中の衣類から手が出て、櫛をとる。不思議がる直助。直助はお岩の死を知っているが、お袖は何も知らないのである。結局、鼠が現れて櫛は仏壇に納まり、直助も手を出せない。
 折から通りかかった按摩が宅悦で、呼び入れたところ、世間話として、お岩が夫の伊右衛門に、それはむごく殺され、伊右衛門は他にも何人も人を殺して行方不明になったという噂をする。お袖はびっくり仰天して、いろいろ問いただす。宅悦はお袖とは顔見知りだったが、お岩の妹とは知らなかったのである。動転して悲しむお袖を前に、宅悦はほうほうの態で逃げ帰る。
 直助は、これもお岩や小平の死をはじめから知っていたのだが、いま宅悦の話で、はじめて知ったようなふりをして、「父を殺され、許婚者を殺され、そして姉のお岩を、その夫の伊右衛門に殺され、お前はこれから三人の敵を討たねばならぬ身、かよわい女ひとりで出来るものかねえ」と、意味ありげなことを言う。お袖は直助と、形の上では夫婦のふりをしていても、夫(許婚者)・与茂七の敵を討つまではと、肌身は許していないのである。
 しかし、今となっては姉まで殺され、頼りとする者は、あれほど嫌であった目の前の直助権兵衛、ただひとりである。お袖は、酒をあおり、直助に身を許す決心をする。
 その気持を見とって直助は、「助太刀するが、女房になるか」と言う。「必ず見すてて下さるなえ」とお袖。ついに、直助の思ったとおりに事ははこんだのだった。
 かくしてお袖が直助に肌を許した、その直後、意外にも佐藤与茂七が、この家へ直助を訪ねてくる。先の夜、隠亡堀のだんまりの立ち廻りで、廻文状を失った折、手に入った鰻掻きの棒に「権兵衛」と名が彫っであったのを手がかりに、探しあてて来たのである。
 直助は、戸を開けて与茂七を見て、あっと驚く。与茂七は彼が浅草裏田甫で殺したはずではなかったか。とすれば、幽霊!
「幽霊だ、幽霊だ」
 と直助は、むしょうに騒ぐ。お袖が出てみると、なんと死んだはずの与茂七。
 お袖は、喜ぶ反面、なぜもっと早く逢えなかったか、たった今だが(直助に身を許して)面目ないと動転する。
 直助の方は、あの時殺したのは別人謀殺と知って開き直る。「ヤイヤイ、言い訳する程罪が深いやい。この女はわしに下さい、貰いましたぜ」。与茂七には与茂七の覚悟があって、廻文状が手に入るならばと思うが、直助がそれを簡単に渡すはずがなく、ここに「一人の女房に二人の男」たがいに譲らぬ睨みあいになる。
 何を思ってか、お袖は与茂七、直助に、それぞれ何事かを話しかけて、「行燈を消すのを合図に、な…」と言って、一旦は二人を遠ざける。

(十)小塩田隠れ家の場
 仏孫兵衛の家である。右手障子の部屋に、病気の小塩田又之丞(義士)が病臥している。孫兵衛女房・お熊が、今日も孫の次郎吉を蜆の売上げが少ないといじめている。孫兵衛はこれをかばっている。お花(小平女房)が帰ってくる。まめまめしく主の又之丞に仕えるお花。孫兵衛は、塩冶の騒動以来の義士たちの話をする。
 奇妙なことに、又之丞の夜着や衣類等が入質したはずなのに、増えている。聞けば小平が次郎吉にこれを渡して持たせたとか。孫兵衛は小平の幽霊の仕わざと見当がつくが、お花はなぜ小平どのは、家には姿を見せられぬのかと不審顔。
 赤垣伝蔵が、大星由良之介以下、塩冶浪人の討入り前の、最後の打合せに訪ねてきた。腰膝の病はどうか。はたして討入りできる身体なのか。又之丞はせい一杯元気に見せかけるのだが、赤垣は、その気力を買って、配分金を渡す。
 ところが、其処へ質屋の庄七、米屋の長蔵が掛けとりにくる。又之丞の夜具等は、質屋から盗まれた(幽霊の小平が盗んだ)ものとわかり、これを取りあげようとする庄七。これを見ていた赤垣、金は払うが、又之丞の討入り参加は、大星は認めないであろうと言いすてて帰る。
 又之丞、自殺を志すが、小平の幽霊これを止める。そして妙薬ソウキセイを渡そうとするが、又之丞は小平のために盗みの汚名を受けたと、斬りつける。斬ったのは卒塔婆であった。そしてお花も、小平の位牌を持って泣きながら、駈けこんでくる。
 いろいろ事情がわかって、又之丞も小平の忠義に感動する。しかし、「いったい誰が小平を殺したのか」。
 その時、子供の次郎吉、走りこんで、霊が憑いて、口ばしる。
「わしを殺したは民谷伊右衛門」
 そんなら敵は民谷伊右衛門かと、又之丞、お花がきっとなるが、小平の声は、「いやいったんは主人だった人。それより薬を」という。又之丞、感謝しつつ薬を呑む。たちまちに回復し、かかってくる庄七を、ポンと斬りすてる。幕。

(十一)元の深川三角屋敷の場
「水の流れと人の身は、移り替ると世の譬(たとえ)、思えば因果なわしが身の上、…」と、真ん中に折屏風を置き、みずからの死を覚悟してのくりごとを述べるお袖。お袖の実父は塩冶藩の元宮三太夫といった。また一人の兄が居るとも聞いている。いま、義理の父、姉(四谷左門、お岩)を非業に死なせて、その敵が討ちたいばかりに、夫(許婚者・与茂七)を裏切って、直助に肌を許した上は、生きてはいられないというのがお袖の気持である。それ故に、与茂七、直助の二人に言いふくめ、二人の手にかかって死ぬ手筈をとりまとめたのであった。
 遺書と臍の緒状を残して、行燈の灯を吹き消すお袖。屏風の蔭にかくれる。
 灯を消したを合図として、与茂七と直助が右と左から、暗中を手さぐりで、忍び忍んで入ってくる。屏風を見つけて、二人はそれぞれ屏風越しに、中の人を刺す。わっという悲鳴に、仕すましたりと、与茂七、直助。
 その時、さしこむ月の光に見ると、刃に貫かれて苦しんでいるのは、お袖ではないか。
「これは」と驚く、与茂七と直助に、お袖はみずからが死なねばならぬ事情を語る。
 与茂七はなぜ自分を死んだと考えたかを聞くと、浅草裏田甫で見た死体の衣類が…との答え、それは同じ義士仲間の奥田庄三郎と交換した衣類であった。つまり、直助が殺したのは与茂七と思いこんで、じつは奥田庄三郎であったのだ。
 それを聞いて、直助は驚き、また愕然となる。与茂七が、それを察して、「さては」とにじり寄るのを、お袖は止め、直助に、この書き置きを、兄なる人にどうぞと言う。それを見ると「元宮三太夫の娘袖」。
「ヤヤヤヤ、すればお袖は元宮の…!」。直助は叫び、与茂七が捨てた刀で、お袖の首をぽんと斬り、自分はどかりと尻もちをついて、呆然となる。
 与茂七は驚き、直助をなじる前に、直助は出刃包丁を腹へ突っ込む。
 腹を切って、血を流しながらの、直助の告白が始まる。
 お袖の実の兄、「元宮三太夫の枠」とは直助であった。直助は知らずに、実の妹とちぎったのである。さらに、直助は奥田将監の家来であり、直助が殺したのは、その将監の嫡男である庄三郎であった。妹とはつゆ知らず、藩に居た時から、お袖をつけまわしていたのが因果のはじまり、
「だまし討ちに殺したは、古主の御子息庄三郎殿と、聞いて知ったはたった今、親姉夫の仇敵、討ってやろうと偽つて、抱き寝をしたは情けない、この直助が血を分けた、妹と知ったはこの書物(かきもの)。槍一筋の親は侍、その子は畜生主殺し、末世に残る直助権兵衛」と、血を吐くような最期の言葉。そして与茂七に、廻文状を返して、死んでゆくのであった。


●五幕目(後日中幕)
(十二)夢の場
(幕の前に、大きな「心」という字が吊されていて、それが上へ吊りあげられて開幕)。
 唐茄子の蔓が這い、夏の花の咲き乱れる美しい田舎の家が舞台。お岩が美しい田舎娘の姿で、糸車にかかっており、そこへ鷹狩りのついでに鷹を探しにきた、羽織、袴、美々しい衣裳の待となった伊右衛門が登場する。秋山長兵衛は中間姿で随行している。これはすべて、伊右衛門の見た夢という仕立てである。
 七夕祭りの日、牡丹燈籠の趣向。
「女中、許しやれ」と、伊右衛門、田舎家を訪ねて、「風雅な住居じゃ、身どもはこの近辺に住む者」と、美女お岩に近づきを求める。中間の長兵衛と元同僚であったのに今は折助とは何だといさかいになる。お岩が割って入り、酒などすすめる。
 伊右衛門、お岩に気のあるそぶり。
「そなたは、この辺りの百姓の娘か」
「アイ、わたしやこの辺りの民家に育ちし、賤(しず)の女子(おなご)でござります」
「アヽ、そなたは民家(みんか)の娘か。民家は民谷(たみや)、わが家名じゃ」
 それから色模様になり、
「岩によう似た賎の女の、振り袖姿は、以前に変らぬ妻のお岩に」
「岩に堰(せ)かるるその岩が、恋人かえ」
「色にするのじゃ、人の見ぬ間に」
「また移り気な」
 これを外から見た長兵衛が、
「アリヤなんだ、人間じゃあるまい」と言う。軒の燈籠に仕掛けで、お岩の顔が現れる。また家に這いまとった南瓜が、一ぺんに残らず人の顔になる。「南無阿弥陀仏、こんな所に居られぬ」と長兵衛逃げる。
 その時、ゴーンと「時の鐘」、不気味な伴奏者とともに民家の簾があがる。
「なんのそなたを嬲ろうぞ。お岩と申した妻もあつたが、いたって悪女。心もかたましければ離別」
「すりや先妻のお岩さん、それほど愛想がつきて、未来永劫見すてる心か、伊右衛門さん」
「そういうそなたの面ざしが、どうやらお岩に」
「恨しいぞエ、伊右衛門殿」
 美しいお岩が飛びのくと、鼠が伊右衛門に飛びかかる。お岩は、一気に幽霊お岩に変貌し、
「さてこそ、お岩が執念の…」
「ともに奈落へ誘引せん、来れや、民谷」
「おろかや、立ちされ」
 伊右衛門はあたりを斬りまわる。お岩はこれを連理引きに苦しめる。糸車に火がついて火の車となり、廻る。この姿のまま、次の舞台に移るが、その前に「心」の文字が幕の前に下りる。

(十三)蛇山庵室の場
 貧しい下町の民家風な庵室。庵主浄念が中心になって、近所の者等で、百万通念仏。外は雪景色で、流れ灌頂の具、そろっている。雪降っている中で、進藤源四郎(お熊の前夫、伊右衛門の義父である)、六部として此の庵に到着した状態。
 右手、紙帳の内で病臥していた伊右衛門がやつれた病人の姿で、転がり出て、「おのれ、お岩め、立ち去らぬか」と刀を抜こうとするのを、皆々で止め、「また起りましたか。気を鎮めなされ」と取りすがる。伊右衛門、胸をなでおろし、「アア、夢か。はてさて恐しい。いまだ死なぬ先から、この世からあの火の車へ。南無阿弥陀仏[南無阿弥陀仏]」と、疲れきった様子。
 源四郎が声をかける。辛うじて答える伊右衛門。やがてまた百万通がはじまる。伊右衛門は、
「お頼み申します」と言う。
 お熊が出て、先日渡した高野のお墨付きによって、高野方へ召しかかえられることを言う。小林平内が、その使者で来たが、その証拠のお墨付きを、伊右衛門は(秋山に渡して)いま持っていない。小林は呆れて帰ってしまう。ところが、その秋山が乞食のなりで庵室の門口に寝ている。伊右衛門は外へ出て、流れ灌頂の白布に水をかけて、お岩の成仏を祈る。しかし、伊右衛門のかける氷は、白布にかかる前に火となって燃える。
 その布の上から、お岩の幽霊が赤子を抱いて現れる。腰から下は血、歩くと雪の上に、点々と赤い足跡。
 伊右衛門、恐しくて後ずさりに家の内へ。お岩幽霊ついて来る。紙幅の上にも赤い血の足跡がつく。
 伊右衛門は、「はて執念の深い女め。これよく聞け」と、義士の手引きをするために不義士に見せかけたのだ、と嘘を言う。その上、赤子まで殺したのは、血筋を絶やすとの狙いか、恐しい女めと罵る。
 お岩、抱子を見せ、渡す。鼠が多数出現。伊右衛門が赤子を落とすと、一転石地蔵になる。お岩は見事に消える。
 伊右衛門、秋山を見つけて、お墨付きを返せと言う。秋山、鼠の怪異が続くから返すと言う。しかし、お前のせいで人殺しが続くと話す。
 その間、舞台の上から逆さまのお岩の幽霊が、秋山の首をくびり殺し、しかも秋山を吊し上げて欄間の内へ引きこむ。血汐落ちる。
 伊右衛門、「これもお岩が」と呆れる。
 源四郎が、伊右衛門を「道わきまえぬ、不忠者めが」と責める。「勘当じゃ」。源四郎去る。
 障子があくと、お熊が鼠に責められて、のた打っている。伊右衛門、撞木杖で鼠を追い、皆々に百万遍を乞う。皆々、南無阿弥陀仏と百万通の念仏を唱えるが、その間に、お岩の幽霊があらわれて、お熊をさいなむ。伊右衛門にだけ、それが見える。
「またも死霊じゃ。眼前じゃ。さあ念仏を、念仏を」と伊右衛門。
 お岩、伊右衛門を見つめながら、お熊を喰い殺す。
 百万遍の皆々にも、お熊の喉が喰いやぶられて血だらけになっているのが見えて、「わっ」と数珠を捨てて逃げる。
 伊右衛門、「おのれ死霊め」と斬りまわる。障子が倒れると、進藤源四郎の首くくりの死体がぶら下っている。お岩幽霊は、この時にはっと消える。
 伊右衛門、無念のこなし。
 この時、捕手大勢あらわれ、伊右衛門にかかる。
「死霊のたゝりと人殺し、どうで逃れぬ天の網、しかしいつたん逃れるだけは(逃れてみせよう)と、伊右衛門、捕手たちをさんざんに斬る。そこへ、あらわれたのが佐藤与茂七。
「女房お袖が義理ある姉、お岩が敵のその方をば、この与茂七が助太刀して、討ちとるまでだ」と斬り結ぶ。立ちまわりの内、佐藤与茂七、伊右衛門を斬る。
「これにて成仏得脱の」と与茂七、しかし伊右衛門はなおも、「おのれ与茂七」と立ちかかる。
 心火燃えて、鼠がたかるなかで、幕。

(十四)大切
 『四谷怪談』に「大切」はないが、この後は、雪しきりに降るなかで、『忠臣蔵』十一段目、討入り、大星由良之介ら、高野師直を討ちとる。

荒川右岸をサイクリング

2005年01月22日 23時25分11秒 | 自転車
 1か月ぶりに自転車に乗りました。今日は、MTBじゃなくて、ロードです。なんでロードなのか?というと、この時期の荒川はものすごい北風が吹いているので、エアロバーのついているロードが逆風のとき「楽」という、ヘタレな理由からです。
 私のロードは、去年の5月にパンクしてしまい、それ以来、チューブは買ってあったんですが、乗ってませんでした。そこで、ロードのホイールにタイヤとチューブを取りつけます。私のロードは、リムセメントで貼りつけるチューブラータイヤじゃないの(WOタイヤ)ですが、それでもけっこうコツが必要です。8か月も放置していると、そのコツを忘れてしまいます。だから、少し苦戦して、取りつけました。
 これだけ放置しておくと、どっかがおかしくなっているもので、前輪のブレーキが真中になっていませんでした。これだとタイヤと擦れる音がするんで、調整して真中にもっていきます。
 さてそれで出撃。自宅から江北橋近くの宮城ゆうゆう公園までは一般道、そこから先は荒川河川敷道路を走ります。おお、思ったとおりのすごい風。それでも、行きは追い風なので、むしろ楽です。
 私のロードは、チェーンリングが3枚ある「フロント・トリプル」という(究極のヘタレ)仕様です。今までは追い風のときは調子こいて、アウター/トップで40km/hくらい出すんですが、今回はセンター/4段くらいで、まったり走ります。1か月も乗ってないんで。。。w それでも、ケイデンス(クランクの1分間の回転数)が70~80くらいだと、30km/hくらい簡単に出てしまう。
 2chの自転車板・荒川スレでは、去年の末あたりから墨田水門のあたりでホームレスのオジさんがウサギをイパ~イ飼っているというのが話題になってました。20羽くらいいました(←日本語って変ね!)。
 さらにさらに行って、いつもは清砂大橋渡って、葛西臨海公園に行くんですけど、まあ今日はイイヤってことで、右岸の河口にある新砂リバーステーションに行きました。ここで、ロード乗りの兄さんたちが、風に向かって走るのと風邪を背にして走るのでは、体感温度がどれだけちがうのかっていう話をしてました。
 いままで楽してきたんで、ここからはたいへんです。風に向かってスタート! センター/6~7段というケイデンス重視(爆)の走りで、エアロバーにつかまって風の抵抗力を軽減して走ります。ケイデンス80くらいで22~3kmくらいです。w それでも、さっきの兄さんたちを抜いちゃったよ。
 帰路の半分くらいまで来て、新砂ステーションでサイクロコンピュータのスタートボタンを押すのを忘れていたことに気づきました。orz さらに、向かい風がめちゃくちゃ強くて、堀切橋北の日ノ出町緑地で走るのを放棄しようかとマジで思いました。でも、その先から風を横に受けるようになるんで、いくぶん楽になりました。宮城ゆうゆう公園で一般道に。そして家に帰り着きました。

●2005年1月22日(土) 荒川河川敷道路

 自宅[14:10]―宮城ゆうゆう公園▼荒川河川敷道路(右岸)━荒川河口(新砂リバーステーション)━宮城ゆうゆう公園―自宅[16:20]

 ☆サイクロコンピュータ
  走行時間 1:32:53[2:00:00]
  最高速度 34.2km/h
  平均速度 20.1[20.4]km/h
  走行距離 31.2[40.7]km

GPSトラック・ログなし

父親が網膜剥離の手術をしました。

2005年01月21日 18時06分35秒 | Weblog
父親が網膜剥離の手術を受けたんで、ブログをサボってました。
 網膜剥離は眼球内の網膜がはがれる病気です。去年の6月に1回目の手術をして、今日は2回目の手術でした。1回目の手術は、眼球内にシリコンオイルを入れて、はがれた網膜を眼球にくっつけるんですが、50歳以上の人はかなり高い確率で白内障になってしまいます。そこで、白内障の手術も同時に行いました。2回目の手術は、そのシリコンオイルを抜いて、かわりにガスを入れるのです。
 手術を受けたのは御茶ノ水にある日大駿河台病院で、ここの眼科はかなり腕がいいそうです。目の手術をする場合、眼球が動いてしまうので、むずかしいのですが、ここの眼科は眼球を完全に止めることができるんだそうです。
 網膜剥離の手術で眼球に網膜を固定するのに、軽い順に空気、ガス(軽い場合と重い場合の2種類)、シリコンオイルを入れます。父親の場合、網膜剥離が急に進行したので、1回目の手術は緊急手術でした(眼科病棟に空きがなかったので、内科病棟に入院しました)。そのため、網膜を完全に固定できませんでした。そのため、今回、シリコンオイルを抜いて、代わりにガスで固定しました。退院は来週の水曜日です。

 さて、前回の手術では母親が立ち会ったのですが、今回は私が立ち会いました。といっても、待ってるだけなんですが。。。
 午前11時からはじまり、はやくて1時間くらいの手術だと聞いていました。30分前の10時半に病院に行ったのですが、前の患者さんの手術が遅れているので、30分遅れになりました(患者が暴れて!手術に手間どったという話)。
 父親は歯槽膿漏で総入れ歯なんですが、入れ歯をはずすと完全にジイさんになってしまいました。看護士さんが車椅子に乗せて手術室に連れて行き、手術中の患者の家族の控室で待ちましたが、なんか人でいっぱいでした。人身事故で緊急手術中の患者がいて、家族と保険屋がなにやら話してました。この関係者がいなくなったら、なんかがらんとしてしまいました。
 手術自体は1時間もかからず終わってしまいました。2時ごろに伯母&叔母が来ると言っていたのですが、手術終わっちゃったなと思って、父親と病棟に戻ってきたら、2人がいました。でも、入れ歯はずした父親の顔を見たことがなかったんで、「どこのジイさんかと思った」なんて言ってました。w

 手術後、1日はうつ伏せで過ごさなければならないので、うつ伏せ寝のセットを看護士さんが持ってきて、食事を食べたあと、そこに寝かせました。
 前回の手術のときは、ベッドのカーテンの調子が悪いのを自分で直そうとして、看護士さんに怒られたそうですが、今回はさすがにおとなしくしていました。

 見舞いに来てくれた叔母の息子=イトコも、ケガで入院しているのですが、今日退院するそうです。交通事故で脊髄から髄液が漏れているんで、そこに血管をつなげて治す手術を受けたのですが、デブ過ぎて失敗したそうです。体重122kg、わたしの倍!、わたしの母親の3倍! 3月にもう一度手術を受けるのですが、「それまでにやせてね」って医者に言われました。
 身内の悪口をいうのはなんなんですが、このイトコ、、、初めての外孫だったんで、ちやほやされて、とんでもない香具師になってしまいました。自分の母親(叔母)のことを呼び捨てにします(クレヨン新ちゃんかよ!)。6歳年下なのに、私のことも呼び捨てにします。(怒) その場の雰囲気をいっさい考えずにものを言うので、とても嫌がられています。2年前に父親(義叔父)を亡くしたのですが、自分の親の葬式でくだらない話をしてヒンシュクをかっていました(わたしは仕事の都合で葬儀に行けなかったのですが、母親と妹が目撃)。
 今回のケガの件でも、入院した病院の医者や看護士にもひどく嫌われているらしく、前回入院した病院の医者からカルテに「痛みは気のせい」って書かれたそうです。あと、今回入院した病院の看護士にイジワルされて夜尿瓶を持っていかれたそうです。ふつうだったら、トンデモない医者と看護士だ!と怒るところですが、きっとアイツのことだから、これを上まわるトンデモないことをしたにちがいない!と思ってしまいます。_| ̄|○

八甲田山死の彷徨

2005年01月18日 02時26分29秒 | 登山
 前回の『空と山のあいだ~岩木山遭難・大館鳳鳴高生の五日間』に続いて、新田次郎・著『八甲田山死の彷徨』(新潮文庫、1978年[単行本は新潮社より1971年に刊行])を読みました。この小説は、1902(明治35)年1月、陸軍の青森第5連隊の雪中行軍隊210人が、雪中行軍中に遭難し、199人が死亡、11人が生存した事件をあつかった小説です。題名が「八甲田山…」なので、山で遭難したようなイメージがありますが、山ではなく雪原での遭難です。それから、小説なので、すべて事実というわけでもありません。

映画の「八甲田山」
 映画「八甲田山」(製作:橋本プロ・東宝映像・シナノ企画、配給:東宝、1977年)にもなりました。私は、小説よりも先に、こっちを見ました。あと、TVドラマもあったんですね。「風雪『雪の進軍』八甲田山の悲劇」(NHK総合テレビ、1965年放送)と、「八甲田山」(TBSテレビ、1978年6回連続ドラマとして放送)です。NHKのドラマは新田次郎の小説よりも古いです。ただし、どっちも見てません。。。
 新田次郎の『八甲田山死の彷徨』は、歩兵第5連隊・編『歩兵第5連隊 遭難始末』(1902年)と、陸上自衛隊第5普通科連隊『陸奥の吹雪』(1965年)をもとに書かれました(あと、小笠原孤酒・著『吹雪の惨劇』(1970年)という本もあります)。小説なんで、実在の人物とは名前もちがっています(実名[小説での名]…映画での配役)。
  弘前第31連隊・第1大隊・第2中隊長:福島泰蔵[徳島]大尉…高倉健
  青森第5連隊・第2大隊・第5中隊長:神成文吉[神田]大尉…北大路欣也
  同・第2大隊長:山口[山田]少佐…三国連太郎
  同・第2大隊本部:倉石一[倉田]大尉…加山雄三
 映画の印象をひとことでいうと、高倉健(・∀・)カコイイ!(加山雄三も) 北大路欣也(ToT)カワイソ! 三国連太郎(`Д´)氏ね!です。小説でも山口[山田]大佐が悪人にされてますが、実際はぜんぜんちがうみたいです。三国連太郎さんっていうと、最近は「釣りバカ日誌」のスーさんですが、むかしは小沢栄太郎さんとならぶ悪役でした。逆ギレしたように「神田! 神田はどこだ! 神田大尉!」ってわめき散らしているのを見ると、思わず殺したくなります。w

雪中行軍の背景と計画
 日露戦争(1904~05年)をひかえ、弘前の第8師団は、ロシア艦隊の津軽海峡封鎖と艦砲射撃による鉄道爆破を想定し、冬季の八甲田山系の縦断が可能か否かを考えていました。そして、青森の歩兵第5連隊と弘前の歩兵第31連隊が別々に雪中行軍を計画しました(小説と映画では競争させる形になっています)。
 31連隊では、第1大隊第2中隊長・福島泰蔵大尉が指揮官となり、ほかに将校2名、見習士官7名、見習医官2名、下士官19名、看護手2名、兵卒4名の計37人に、地元新聞社の東奥日報の従軍記者1名を加え、合計38人でした。経路は、弘前~小国~切明~銀山~(十和田湖南岸)~宇樽部~中里~三本木(十和田市)~増沢~田代~田茂木野~青森~浪岡~弘前で、約210kmです。先導は案内人にまかせ、荷を少なくするため、民泊を予定していました。
 5連隊は、第2大隊第5中隊長・神成文吉大尉を指揮官としましたが、はじめは第7中隊長・原田清治大尉が指揮官でした。しかし、夫人出産のため、急遽交替したのです(小説にも映画にも出てこない話)。編成は、将校9名、軍医1名、見習士官2名、特務曹長4名、下士卒194名に、臨時移動大隊本部16名を加え、合計210名でした。経路は青森~田茂木野~田代~増沢~三本木でした。

弘前第31連隊の雪中行軍(地図はここをクリック)
 31連隊は、1902(明治35)年1月20日に弘前を出発、唐竹を経て小国に泊まりました。翌21日は切明、22日は銀山、23日は宇樽部まで行軍しました。第5連隊が遭難したのはこの夜でした。
 翌24日は、吹雪の中、犬哭峠を越えて中里まで行軍するのですが、山本ハル[滝口さわ](…秋吉久美子)が案内人でした。中里に無事到着したとき、映画だと「案内人殿に頭…右!」っていう感動的なシーンがあるんですが、小説だとこうなります。
 雪道を下って行くと、下から、戸来付の在郷軍人五名が軍服姿で出迎えに来た。そこからは歩くだけだった。下にが見えると、徳島大尉は、さわ女に案内料科として五十銭玉一個を与えて、
「案内人は最後尾につけ」
 と大きな声で怒鳴った。
「もう用はねえってわけかね」
 さわ女が言った一言は、それを聞いていた隊員たちの心を打った。隊員たちは心の中で彼女にすまないと思った。

 31連隊が中里に泊まった25日未明、旭川で氷点下41.0℃が観測されました。日本の最低気温の記録です。その日は三本木まで行軍しました。26日に増沢着、27日、熊ノ沢の案内人7名を連れて田代に出発しました。
 28日、田代を出発した31連隊は、鳴沢付近で雪中に立ててある小銃2挺と2名の遺体を発見しました。青森市の灯りが見えると、福島大尉は、案内人に汽車賃として2円(小説では50銭!)ずつ渡し、過去2日間のことは口外してはならないと言って、案内人を置き去りにして田茂木野に向かって行きました。
 映画の福島[徳島]大尉は、案内人が軍の取調べにあわないように配慮した、というニュアンスで描かれていますが、小説では、上記のさわ女の件といい、冷徹な人物として描かれています。そして、この冷徹さがこの雪中行軍を成功させたというわけです。
 尾崎秀樹は、新田の『孤高の人』(新潮文庫、1973年)の「解説」で、新潮社刊の〈新田次郎山岳小説シリーズ〉の帯にある新田の言葉を紹介しています。
「なぜ山が好きになったのか私には分らない。山がそこにあるから、などという簡単なものではない。私が信濃の山深いところに育って、そして今は故郷を離れているという郷愁が私を山に牽(ひ)きつけたのかもしれない。しかし、これは私なりのこじつけで、私のように山国の生れでない人で、私より以上に山を愛する人がいるのだから、山が好きだということは、もっと人間の本質的なものなのかもしれない。私は山が好きだから山の小説を書く。山好きな男女には本能的な共感を持ち、彼等との交際の中に、他の社会で見られない新鮮なものを見つけ出そうとする。のびのびとしたように見えていて、実は非情なほどきびしい山仲間の世界の中の真実が私には魅力なのである」

新田は「非情なほどきびしい山仲間の世界の中の真実」が好きなのです。

青森第5連隊の雪中行軍
 1月23日、5連隊雪中行軍隊は営舎を出発しました。2列縦隊のカンジキ隊を先頭に、中隊を5小隊に分け、後に食料・燃料・炊事道具をソリ5台に分けた行李輸送隊、最後尾に臨時移動大隊本部がつきました。
 田茂木野を通過すると、老人が近寄って、行軍をやめるように言いました。昔からこの日は荒れるというのです。しかし、大隊本部の将校たちは老人に罵声をあびせました。老人はどうしても行くのなら案内人を出そうと言いますが、案内人などいらんと追い返してしまいました。小説と映画では山口[山田]少佐がひとりで怒鳴ってました。

 田茂木野を過ぎると、急勾配となり、積雪も増えてきました。後の行李隊が遅れはじめました。正午前、小峠で行李隊を待っても着かないので、昼食をとりました。天候が悪化し、寒気が激しくなり、空も荒れてきました。携行してきた握り飯が凍結していました。1時間半遅れで行李隊が到着しましたが、汗で濡れた身体が冷え、外套の裾は凍っていました。気温は-11℃でした。
 私は、-5℃の七ツ石山山頂で、コンビニのオニギリを食べたことがあります。さすがに凍結はしていませんでしたが、手袋したままじゃ食べられない(というか食べるのがイヤな)ので、はずしたら、寒いというより、痛かったです。(泣)
 軍医が神成大尉に、悪天候での行軍はムリで、凍傷患者が続出する、と帰営を進言しました。大尉も賛同しましたが、軍の威信を気にして、山口少佐に指示を仰ぎました。全将校が集まって会議を開きましたが、将校は軍医に賛同したものの、見習士官が進軍を唱えました。これに下士官が加わったので、行軍となってしまいました。小説では、ここでも悪役は山口[山田]少佐です。下士官に押されて、進軍を命じてしまいます。

 正午、行軍が再開しましたが、吹雪で真っ白な雪の原っぱとなってしまいました。大峠では猛吹雪で目印が何も見えなくなり、行李隊はますます遅れていきました。大滝平、賽の河原では積雪は腰を越えていました。
 本格的な雪山は体験していませんが、丹沢の塔ノ岳から丹沢山まで、膝くらいの雪を往復したことがあります。ラッセルしてくれる人なんていませんから、ひじょうにくたびれました。腰までなんて、どんなにたいへんなのでしょうか。
 午後4時ごろ、馬立場に到着しました。田代までは約3Kmですが、行李隊が2Kmも遅れていました。神成大尉は、第2・第3小隊を行李隊の応援に向かわせ、15名の先行隊を田代に行かせました。ここでの積雪は胸~肩くらいの深さだったそうです。
 鳴沢でソリを放棄し、燃料と食料は行李隊員が背負うことになりました。先行隊は、猛吹雪と豪雪のため、行軍隊の最後尾に戻って来てしまいました。山口少佐は、中尉と見習士官3名に斥候を命じましたが、進路は発見できませんでした。
 夜8時、田代まで1.5kmの地点で雪濠を掘って露営することになりました。このとき、まず各小隊の雪濠を掘り、大隊本部の雪濠は最後になりました。しかも、将校が8割がたつくったそうです。下士卒の中から凍傷患者を出さないようにとの山口少佐の配慮だったのですが、小説や映画にはぜんぜん出てきませんね。

彷徨(地図はここをクリック)
 1月24日の深夜1時、ようやく食事が配られたが、底が土までとどかない雪濠だったため、熱で雪が解けてしまい満足に米が炊けません。半煮えの粥を口にしただけでした。山口少佐は、凍傷患者が出ることを恐れ、予定を繰り上げて帰営することにしました。午前2時半、雪壕を出たときの気温は-24℃でした。
 雪中行軍隊は、馬立場を目指しましたが、悪天候で進路を誤り、鳴沢の渓谷に入ってしまいました。がけをよじ登りましたが、転落する兵が続出しました。しかし、暴風と豪雪のため、このことに気づかない者が多かったようです。
 大隊本部付きの佐藤[進藤]特務曹長が、山口少佐に田代への道を知っていると言い出し、少佐は特務曹長に案内を命じました。行軍隊は、再び田代に向かいましたが、周囲を絶壁に挟まれた駒込川の本流の深い谷に迷い込んでしまいました。転落者を出しながら、ようやく高地に着いたとき、第4小隊長・水野中尉が凍死しました。
 午後5時すぎ、小規模なくぼ地で露営したが、疲労と凍傷で兵がつぎつぎと倒れていきました。犠牲者は40名にのぼりました。

 1月25日、吹雪はつづき、隊員は過労と空腹でつぎつぎと倒れていきます。山口少佐は自分では歩けなくなり、先頭で指揮をとったのは神成大尉と大隊本部の倉石大尉でした。磁石が凍って使えなくなったため、地図だけで馬立場を目指しました。しかし、隊はブナ林に行き当たってしまいました。ここで神成大尉が「天は我々を見放した!」と叫び、絶望した兵たちが、またバタバタと倒れていきました。
 倉石大尉が田茂木野に2隊に分けて斥候を出しました。兵士たちは幻覚を見るようになりました。斥候が戻り、隊は田茂木野に向けて出発しましたが、馬立場の北にある中ノ森で露営しました。燃料がないため、死んだ兵士の背嚢を焼いて暖をとりました。このときには半数が犠牲になっていました。

 1月26日、隊員は70名に激減し、猛吹雪の中、山口少佐は人事不省となり、神成・倉石両大尉が先頭となり、下士卒がそのあとに続きました。隊を2手に分け、倉石大尉・山口少佐・伊藤中尉ら数十名は駒込川沿いに下っていきましたが、渓谷に入り込んでしまいました。神成大尉は、田茂木野に向けて前進し、後藤[江藤]伍長に住民を雇って連隊へ連絡するよう依頼せよ!命じました。
 雪中行軍隊の遭難を知った5連隊は、三神少尉が率いる捜索隊を編成していた。

 1月27日、午前10時ごろ、捜索隊が大滝平で氷の塊と化した後藤伍長を発見しました。彼は、仮死状態のまま立っており、目は見開いたままでした。三神少尉と軍医が伍長の蘇生をはかり、彼から神成大尉が近くにいることを知り、周囲を探しました。
 11時ごろ、神成大尉が発見されました。しかし、全身が凍っていたため注射器の針が折れてしまい、死亡してしまいます。小説では舌を噛み切って自殺したことになっています。映画では、死体収容後にもかかわらず、福島[徳島]大尉が死体を見たことになっています。
 捜索隊から後藤伍長発見と雪中行軍隊全滅の知らせが5連隊にもたらされました。31連隊にも知らせがとどき、第8師団をあげての捜索がはじまりました。

生と死
 山口少佐・倉石大尉らは9人になっていましたが、1月31日に捜索隊に発見されました。同日、鳴沢付近の炭焼き小屋で2人が、2月2日に大崩沢で4人、田代元湯で1人が発見されました。
 17人が救助されましたが、6人が死亡し、生存者は11人になりました。山口少佐も死亡したのですが、その死については自殺説があります。小説も映画も拳銃で自決したことになっていますが、凍傷の指で拳銃の引き金が引けるのか疑問視されています。
 生存者は、准士官以上が3人(16人中)、下士官が3人(38人中)、兵卒が5人(156人中)と、位階が高いほうが生存率は高いです。これは下士卒が上官を守ったという面が大きいのですが、同時に装備が異なっていました。下士卒は綿製品しか持っていませんでしたが、将校はウール製品を着用していました。とくに、倉石大尉は、ウールの手袋とゴム長靴を持っており、これが彼を最後まで支えていました。下士卒の中で生存できたのは、山間部出身の者たちで、炭焼きなどで冬山を経験していた者たちでした。しかし、ほとんどが凍傷を負っていて、手足を切断しなければなりませんでした。
 死亡者には祭祀料が支給されましたが、山口少佐の75円に対して兵卒は5円で、上に厚く、下に低いものでした。一時金は、少佐1500円に対して兵卒150円と、その差はすこし縮まりました。雪中行軍での死亡者は、戦没者と同じく、靖国神社に祀られることになりました。
 生き残って軍務に復帰できた雪中行軍隊員(准士官以上)も、2年後の日露戦争で死傷しました。黒溝台の戦いで、倉石大尉は戦死、伊藤格明中尉と長谷川貞三曹長は戦傷を負いました。雪中行軍を成功させた31連隊も同じで、福島大尉が戦死、隊員の半数が死傷しました。


 こういう話って書いているとだんだん暗くなってしまいます。前回の『空と山のあいだ』もそうです。しかし、山に登る人は、こういうことを忘れてはいけないのです。アウシュヴィッツの墓碑銘につぎのような言葉が刻まれているそうです。
「過去を忘れたものが、再びそれを繰り返す」

岩木山遭難・大館鳳鳴高生の五日間

2005年01月15日 17時24分44秒 | 登山
 田澤拓也・著『空と山のあいだ~岩木山遭難・大館鳳鳴高生の五日間』(角川文庫、2003年)を読みました(単行本は、TBSブリタニカから1999年に刊行)。2001年にNHKがドラマ化したので、それを見た方もいるかと思います。わたしは再放送をビデオにとって見ました。
 東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年1月、津軽富士と呼ばれる青森県の岩木山(標高1625m)で大館鳳鳴高校山岳部員5人の遭難事故が発生しました。うち1人が4日ぶりに奇跡的に生還したものの、4人は死亡しました。この本は、その5日間を追ったノンフィクションで、第8回開高健賞を受賞した作品です。
 ここでは、この作品で描かれた岩木山での遭難の概要をまとめ、彼らの行動をカシミール3Dで図像化してみました。ただし、彼らの正確なルートは不明のため(とくに遭難後は)、推測によるものです。


遭難
 5人の山岳部員は、リーダーの石田隆司以下、金沢吉郎、畠山勉、乳井孝司、村井秀芳で、他に5人の遭難を知らせることになる三ッ倉省一郎がいました。6人は大館駅で1月4日午前6時に集まる予定でしたが、乳井が遅れたため、登山口の百沢の岩木山神社前に着いたのは正午でした。3時間遅れの出発で、その日は姥石の営林署の避難小屋に泊まりました。翌5日、午前9時から登りはじめ、昼前に焼止りヒュッテに到着しました。この日まで天気は晴天でした。
 翌6日、三ッ倉を残し、午前8時40分に5人が岩木山頂を目指し出発しました。このとき、小雪が舞い、頂上は黒雲に覆われていました。午前10時に種蒔苗代に到着、単独で登っていた社会人の今努に追いつきました。今は、このあと吹雪で5人を見失い、登頂をあきらめて下山しました。その際、百沢に降りるはずが、風に流され、東に3km離れた葛原に下山していました。
 5人は午後2時を過ぎても、焼止りに戻って来ませんでした。ヒュッテで人の声がしたので、三ッ倉が行ってみると、弘前高校の生徒4人が来ていました。その夜、三ッ倉は一睡もできず、翌7日朝、弘高生4人と三ッ倉は頂上を目指しましたが、三ッ倉の疲労が激しいので、百沢に降りて警察に連絡することにしました。
 午前11時ごろ、食堂を経営する藤田忠志は下山してきた三ッ倉から事情を聞き、弘前署大浦派出所に連絡しました。弘前署は、派出所から連絡を受け、救助隊の編成をはじめましたが、冬山捜索の装備などありませんでした。岩木山は、端麗な容姿から「女性的な山」とされ、遭難とは無縁だと思われていたのです。

百沢から岩木山頂までのルート


上記ルートの距離と標高


山頂のメモ
 弘前署は、岩木山神社近くの消防屯所に遭難対策本部を設置しましたが、二重遭難を恐れて捜索は翌日と決定しました。藤田と東奥日報・弘前支社の記者・花田忠一は、営林署員をリーダーとする捜索隊第1班とともに、焼止りまで登りました。藤田は半纏とゴム長靴という軽装備でした。花田は、遭難した高校生のベースキャンプの写真を撮り、そのまま下山しました。
 弘前大学山岳部の桂修二をリーダーとする4人が百沢から焼止りに登ってきました。彼らは、遭難した高校生がどこまで到達してどこで消息を断ったのかを調べるため、山頂を目指し、藤田がこれに同行しました。彼らは、8日午前0時に出発し、種蒔苗代を目指しましたが、風に流され、主峰直下の耳成岩の下で午前3時にビバークしました。午前6時に一行は再び山頂を目指し、山頂の石室でノートに「1月6日、大館鳳鳴高校山岳部員(11時10分着、天気ふぶき)石田、村井、乳井、畠山、金沢(三ッ倉)」と書かれているメモを見つけました。
 弘前大学一行は、このページを破り、同じ文面をノートに写すと、破ったページを持って下山しました。途中、登ってきた大館山岳会員で中学教師の畠山陽一ら4人に会いました。畠山は、この季節、岩木山では、例年なら北西の風が吹いており、それに押されるように降りれば百沢に下山できるが、今年は山を巻くように風が吹いているので、それに押されて高校生たちは沢に入ってしまったのではないか、と考えていました。彼は、石田と金沢の教師でもあり、2人の体力と登山技術ではおそらく絶望であろう、とも考えていました。
 地元山岳関係者たちは、山頂に人をあげ、食料と燃料の補給を受けながら、捜索したいと思っていました。悪天候のため高校生たちはそう遠くへは行けないはずでした。しかし、対策本部は、そうした意見に耳を貸さず、ただただ百沢方面でのみ、3日間でのべ500人を超える大捜索を行いました。しかし、何の手がかりもつかめませんでした。

足跡を追え
 岩木山をはさんで百沢の反対側、鰺ヶ沢の岩木山岳会の米谷茂夫と神昭二は、応援のため、8日朝、百沢に着きました。しかし、捜索隊が大勢いたので、午後3時に百沢を出発し、焼止りで一泊、9日未明、種蒔苗代を経て、鰺ヶ沢側に下山しました。
 この夜、鰺ヶ沢警察署の次長・成田勝俊は不思議な夢を見ました。岩木山から長平に流れる大鳴沢のてっぺんに3人の男の影が見えました。3人は、「寒くて寒くて…」「私たちはここにいる。早く町の人たちに知らせて欲しい」と言うのです。成田は翌日も同じ夢を見ました。成田が「君たちは3人だろ?他の2人はどこにいるんだ?」と尋ねると、「いや、3でも5になるんだ」と答えました。
 米谷と神は、西法寺森から大鳴沢沿いの長平ルートを左手にそれ、追子森を経て第二松代に下山する予定でした。2人は、西法寺森と追子森の中間で、第二松代から登ってきた捜索隊と合流しました。この捜索隊にいた長平の消防団員13人は、直接長平に下りるため、鍋森山付近の石神神社を通過するとき、奇妙な足跡を見つけました。しかし、暗くなっていたので、捜索を断念し、長平に下山しました。
 消防団員たちは、足跡が気になり、鰺ヶ沢警察署に連絡しました。鰺ヶ沢警察署の三上善丈係長と消防団員ら10人は、翌10日午前9時、足跡の捜索に向かいました。彼らが大鳴沢沿いに足跡を追跡し、長平まで1.5kmの地点に来ると、不意に「おーい」という声を聞きました。遭難した5人の1人村井を発見したのです。村井は病院に運ばれ、治療を受けました。そして、村井の口から遭難の詳細がわかったのです。

生還
 村井たち5人は、岩木山頂に到達したものの、下山ルートを見失い、迷ってしまいました。村井と乳井は頂上に戻ることを主張しましたが、畠山と金沢が下山を主張し、リーダーの石田は下山を選びました。6日午後5時ごろ暗くなってしまい、吹雪の中でビバークしました。彼らは、ツェルトを1枚しか持っておらず、磁石を風に吹き飛ばされてしまい、冬山で焚火をする方法も知りませんでした。
 翌7日朝も吹雪でした。11時ごろ石田がおかしくなり、村井が肩を貸して降りていきました。7日の夜、吹雪を避けるため、岩陰でビバークしました。このとき、石田と金沢はかなり衰弱していました。夜中、乳井は、もう里近くまで来ているはずだから、自分が助けを呼びに行く、と村井に言いました。村井がうとうとしているあいだに、乳井は装備をすべて置いて出発していました。
 8日朝6時、村井が気づくと、石田と金沢は意識を失っていました。両目を開けたまま、ピクリとも動きませんでした。村井と畠山は、2人を並べて寝かせ、スキーのストックに赤い布をつけて目印として立て、下山しました。昼になると、こんどは畠山が動けなくなりました。村井は、自分のヤッケと食料を畠山に渡し、トランジスタ・ラジオのイヤホンを耳につけてやって、乳井を追いました。
 村井は、乳井の足跡を追っていきましたが、暗くなったのでビバークしました。9日朝、村井はまた乳井の足跡を追いました。乳井はまったく休むこともなく歩き続けているようでした。村井は途中神社を見つけましたが、神社に放火して助けを求めることなどまったく考えられなくなっていました。
 10日の午後になって、村井は、ビバークする場所を探しているとき、人の声がしたので、「おーい」と声を出したのでした。

遺体発見
 村井が発見された10日の午後1時ごろ、捜索に加わっていた藤田は、主峰と巌鬼山の鞍部でビバーク跡を見つけました。そこは、7日夜、藤井たちがビバークした耳成岩から200mしか離れていませんでした。
 11日午前7時半、長平から150人の捜索隊が大鳴沢を登っていきました。鰺ヶ沢営林署の白戸新一は、長平から3km離れた標高780m地点で、雪に埋もれた畠山の遺体を見つけました。畠山の遺体から5m離れたところに村井のヤッケが落ちていました。村井は畠山と別れたところから自力で5m移動していたのです。
 青森県庁職員で青森山岳会員の中野轍自郎は、岩木山岳会、青森山岳会など18人で捜索隊を結成し、12日朝5時、長平を出発しました。午前9時半、畠山発見地点から1km登った標高1050m地点で、赤い布のついたストックの先を発見、掘ると石田と金沢の遺体が出てきました。石田は、下級生の金沢をかばうように、抱きかかえた姿で埋まっており、その手にはマッチと小枝が握られていました。石田は、村井と畠山が去った後、最後の力をふりしぼって火をつけようとしたのでしょうか?
 12日に石田と金沢が見つかった後も、乳井は見つかりませんでした。13日は大雨になり、翌14日の正午で捜索は打ち切りと決定しました。この日は乳井の出身地比内町の消防団も捜索に加わりました。11時半、鳴沢川の左岸で足跡が見つかり、打ち切りの2分前、乳井の遺体が発見されました。

高校生たちの遭難後の行動(推測)

黄色の×は頂上から、6日夜のビバーク地点、標高1050m地点(石田・金沢の遺体)、標高780m地点(畠山の遺体)。

上記の距離と標高



 遭難者の1人乳井の母・一子はつぎのように語っています。
「これくらいの山で遭難して、などとは思いません。私はあの岩木山という山が大好きで、一時は毎朝起きたら岩木山が見えるところに家を建てて暮らしたい一と思ったこともあるほどですよ。息子を奪られた山だとか、迷って死んだ山だなどとは、ちっとも思いません。やっぱり津軽の人たちが毎日"今日はいい天気だな"などと言って見上げている山なんだもの。本当にいい山ですよね」

 ただ1人の生存者・村井は、岩木山での遭難の原因を、夏と冬では山は全く様相を一変させるのを知らなかったことだ、と語りました。
「岩木山は本当に私たちにとってはホームグラウンドだったのに…。考えを甘く持ってはいけません。毎年山で亡くなる人がたくさんいるのに、また次から次へと人々は山にいく。もちろん山の魅力もあるが、誰もが自分だけはそういうことにはならないと思っているからなんですね。でも、何かひとつ歯車が狂うと遭難は起こってしまうものなんですよ」

 この話はつぎのような言葉で締めくくられています。
 村井もまた三ッ倉同様、もう遭難当時の夢を見ることもない。けれども毎年一月になって四人の仲間の命日がちかづいてくると、あの若木山での数日間を思いだす。
「目を閉じると彼らは一六、七歳で止まったまま。それから全然動かないのです」
 あの世にいって彼らと会ったら、きっと昔のままだと思う。唯一の生還者は、そう言った。そして自らの体験した山の物語を静かに語り終えた。

見てしまいました。木曜洋画劇場。。。

2005年01月14日 03時17分27秒 | Weblog
深作欣二監督三回忌追悼特別企画「忠臣蔵外伝四谷怪談」(1994年松竹)ですが、、、
キャストは、
 伊右衛門:佐藤浩市
 お岩:高岡早紀
 お梅:荻野目慶子
 大石内蔵助:津川雅彦
 堀部安兵衛:渡瀬恒彦

>豪快・華麗・まさに究極、深作ロマン絵巻
てあったけど、、、コントでつか?

はっきり言って、高岡早紀のオパ~イ以外見る価値なしですた。w

オイラの記録保存法

2005年01月09日 23時56分17秒 | Weblog
登山再現ログ、、、
2000~2001年分は完成したはず。。。
と思っていたんですが、どうもモレているのがある。
そこで、古い資料をいろいろ調べてたら、
ないと思っていた2000年8~12月の記録が出てきました。
さっそく追加しました。。。

ところで、みなさん、過去の記録ってどう保存してます。
オイラは野口悠紀雄せんせの『「超」整理法』(中公新書、1933年)です。
ご存じない方は、野口悠紀雄Onlineを見てください。
ズボラなオイラでもできるやり方です。w

オイラ日記はつけてませんが、
1990年代の初めからExcelで出納帳をつくって使っています。
交通費は「どこからどこまで何に乗った」くらいは書いておきます。
あと、レシートを月ごとに封筒に入れて、5年間くらい保存しておきます。
パスネットやイオカードも使い切ったらいっしょに入れておきます。
この2つがあると、だいたい過去の自分の行動がわかります。

オイラは自分をズボラだと思ってたんですが、、、
大学のせんせの退官記念パーティーをやるんで、昔の学生に呼びかけるとき、
オイラの持ってる記録をみんながあてにするんです。
記録を残す点では意外とマメなんじゃないかと、最近思ってます。w