満州ブログ

記紀解読  大和朝廷成立の謎

4-15 大和は出雲だらけ

2013-08-12 | 記紀解読
「大和は出雲の人達が作った」「大和は出雲の亡命政権である」などと書くと、ほとんどの人は馬鹿げた仮説と思うだろう。
しかし、中には、「なるほど」とか「ひょっとしたら」と思っている人も、いるのではないだろうか。
色々な所で、「大和は出雲の影響が非常に強い」「大和は出雲だらけである」という事が指摘されている。
もし、出雲と大和との深い関係を知っていれば、上記の仮説が全くのデタラメでない事が分かるだろう。


「大和における出雲」の中で、最も重要なのは、「大神神社」である。

奈良盆地の南東に、日本統一の都・纏向遺跡がある。この遺跡からは、三輪山がよく見える。
大神神社は、古い時代の神社の形式を残し、現在でも、本殿がない。本殿の代わりに、この三輪山をご神体とする。

大神神社と書いて、「おおみわじんじゃ」と読む。「神」という字を「みわ」と読むのは、明らかにおかしい。
三輪山に祀られている神を、「大神」=「最高神」と考えて、漢字を当てたのである。

この大神神社の主祭神が「大物主」であり、通常は、大物主=大国主と考えられている。
大物主と大国主とは別の神だという説もあるが、大物主が出雲系の神だという点では、ほとんどの意見が一致している。
誤解している人も多いが、大和朝廷の最高神、つまり、建国当時の日本の最高神は、出雲系の大物主なのである。


大神神社以外にも、大和の神社には出雲系のものが多い。中でも、注目すべきなのが、奈良盆地南西の葛城地方の神社である。
欠史八代の天皇の宮や墓は、葛城にある事が多い。そのため、神武~開化天皇までの9代を葛城王朝と呼ぶ事もある。

葛城を南から北へ流れる「葛城川」という川があり、この川沿いに、高鴨神社・葛木御歳神社・鴨都波神社の3つの神社がある。
これらは、上鴨社・中鴨社・下鴨社とも呼ばれ、それぞれの主祭神は、アジスキタカヒコネ・御歳神・事代主で、出雲系である。
上鴨社・下鴨社に祀られているアジスキタカヒコネと事代主は、ともに大国主の子である。

これらの神社は、神武以降の初期天皇のそばに、出雲の神を祀る鴨氏という有力豪族がおり、天皇を支えていた事を示している。
これは、初代神武・2代綏靖・3代安寧天皇の后が、日本書紀では、事代主の「娘・娘・孫」とされている事からも確認できる。


このように、2つの地域の関係は、「大和は出雲の影響が強い」といったレベルではない。大和の中枢に出雲が食い込んでいる。
大和朝廷の最高神は出雲の大国主であり、その子の事代主の子孫が3代までの天皇の后となっている。
そして、初期の天皇の中には、宮を、出雲の神を祀る鴨氏の本拠地に置いた者もいる。

大和と出雲の関連を書いているものは多いが、何故これほど関係が深いのか、納得のいく説明をしているものは、ほとんどない。
「崇神天皇の時に大国主の祟りがあったから」などの理由では、初期天皇の周辺が出雲だらけなのを説明できない。
やはり、高天原の人々が大和を作ったという固定観念を捨てなければ、真実は見えてこないのである。


「大和は出雲だらけ」という事実は、大和だけを見ていたのでは、その事実が持つ真の重要性を理解出来ない。

勘違いしている人も多いようだが、3章でも書いた通り、出雲大社で大国主を祀っているのは、高天原の天穂日の子孫である。
これは、出雲大社という神社の神職に限った事ではない。出雲の国譲り以降、出雲を支配してきたのは高天原の子孫達である。

本家の出雲では、出雲系の人々が消え、高天原系が支配者となる。
その代わりに、遠く離れた大和では、出雲だらけの政権が誕生する。

こうした事実をすっきり説明するには、「高天原に出雲を追われた人々が、大和を作った」と考える以外にないのである。