満州ブログ

記紀解読  大和朝廷成立の謎

4-8 大乱の証拠

2013-07-23 | 記紀解読
青谷上寺地遺跡以外にも、日本統一前の戦争=倭国大乱があった事を示す証拠・根拠は多い。今回は、それらをまとめてみよう。


日本では、稲作に大量の水を必要とするので、水田は川沿いなどの低地にあり、住居も水田の近くに作られる事が多い。
ところが、弥生時代には、通常の生活には不便な高い所に集落が作られる事があり、これらは「高地性集落」と呼ばれている。

高地性集落からは眼下の平野・海・付近の高地性集落を見渡せる場合が多い。また、のろしの跡や石つぶてが見つかる事も多い。
こうした事から、高地性集落は軍事施設であり、その主な役割は、見張りと情報伝達だったと想像されている。

弥生時代を通じ、高地性集落のピークは2回ある。1回目が紀元前後(中期末~後期初頭)であり、2回目が後期後半である。
高地性集落だけでは、実際に戦闘があったとまでは言い切れないが、地域間の緊張が極度に高まっていたのは確かである。


次の2例は、戦闘があった事を、より強く裏付けるものである。
淡路島の五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡では、工業団地のような鉄の鏃(やじり)の製造工房が見つかっている。
また、纏向やその周辺では、銅鐸を細かく砕いて、銅の鏃を作っていたと思われる遺跡がいくつか見つかっている。

鏃は消耗品である。それを大量に作っているのだから、地域間の対立があっただけでなく、実際に戦闘があった可能性が高い。
特に、纏向周辺では、当時の宝である銅鐸を壊して作っている。そこまで追い込まれるほど、鏃の消費量は多かったのである。


そもそも、こうした考古学的証拠が無かったとしても、戦争はあったか無かったと聞かれれば、あったと答えるのが自然である。

弥生末まで、土器や墓制は地域ごとに異なっていたが、箸墓古墳の時代に、布留式土器・前方後円墳が日本各地に広まった。
特に、前方後円墳は微妙に形を変えながらも、その後約300年間、全国的に築かれ続けた。

また、平安初期の新撰姓氏録からも分かるように、渡来系以外のほぼ全ての貴族が、崇神以前の人物に遡れる系図を持っていた。
武士が登場するまで、中央でも地方でも、崇神の時の支配者層の子孫達が権力を握り続けて来たのである。

あまり知られてはいないが、崇神天皇の時に完成した大和朝廷は、江戸の幕藩体制に匹敵するような強固なものだったのである。
このような権力が、戦争なしに出来たと考える方が無理がある。戦国時代のような大戦争があったと考えるのが自然なのである。


そして何より、中国の歴史書に、倭国の乱が書かれている意味は大きい。

魏志倭人伝の伊都国の説明には「郡使往来常所駐」とある。また、伊都国とされる地域からは、大量の楽浪土器が出土している。
後漢から魏の時代、楽浪郡の役人が日本列島に頻繁に来ていた、あるいは、駐在していたのは、ほぼ間違いない。
彼らの任務の1つは列島の情報の報告であり、当時の中国人は、倭国について、かなり詳しい情報を持っていたはずである。

特に注目すべきは、「倭国大乱・相攻伐・歴年無主」という言葉である。これらは、倭国の、数年~数十年の状態を表している。
列島に滞在する中国人の役人が、その時の倭国の状況を報告するのに、このような言葉は使わないだろう。
これらの言葉は、倭国からの複数の報告をまとめて生まれたと考えられ、中国の歴史書の他の部分より信頼度が高いと言える。


以上のように、記紀以外の多くのものが、日本統一前に大きな戦争があった事を示している。
そして、記紀に戦争の記述がない事は、実際に戦争が無かった事の証拠には全くならない。
もし、他の歴史が書かれているのに戦争の記録だけがないのなら、記紀は戦争が無かった事の証拠となるだろう。
しかし4章で何度も書いてきた通り、国譲りの後から崇神までは、戦争だけでなく、ほぼ全ての歴史が消されているのである。