PARK

新しくお話を作りました
実在するある女性の物語です。

イベントと文句

2012-12-29 10:36:07 | 幸せはどこへ?
私は幼い頃からたくさんの親戚が自宅に出入りしていたこともあって、
大勢で出かけたりするのがとても好きだった。

まだ、さくらが小さい頃にうちと涼介家族、私家族を誘って夏休みに旅行に
出かけたことが何度かあった。

やっぱりたくさんいた方が楽しいね。

など思いながら旅行から帰ってくると、母から「向こうの家族は何なのかしら?」と言い出す。

「どういうこと?」と聞き返すと、「のんびりしすぎてテンポが合わないわ。」とか、

「あの旅館、設備が悪い。」とか「バイキングで食べたいものがすぐなくなっちゃう。」とか愚痴ばかり。

ほとんど、私が幹事となって宿を探して旅行会社に手配をしたりお金を払いに行ったりしていた。

旅行会社に何度も足を運んだりしたのに労いの言葉など一つもなく、逆に義父母は色々な宿に行ったけど
何一つ文句も言わず喜んでくれていた。

私が「苦労して宿をとったりしたんだから、文句を言わないで。」というと母は反撃。

「別にあんたが悪いって言っているわけじゃないのよ。愚痴を言っただけ。娘なんだから何を言ってもいいでしょ。」

何を言ってもって・・・。

宿の手配をしに旅行会社に何度も足を運んだのは、私だけではなく涼介やさくらも一緒。

私だけではなく、涼介やさくらにも言われている感じがして気分がよくなかった。

いつもさくらのアドバイスを受けようと電話した時に言われたので、私と母でしかわからない状況。

そのたびに私は不快な思いをしていた。

今思うと、その時から少しずつ母に対するストレスがあったのかもしれない。

たとえ涼介に話したとしても、立場的に話を聞くのが精いっぱいだったと思う。

だから、私は涼介に話をしても無駄だと思い自分の心の奥底に秘めてしまっていた。

その後もさくらの七五三やイベントなど何かにつけて母は文句をつけていた。

後から聞いた話しだけど、父はそんなことを母が言っているとは全然知らなかったそうです。

文句はそれだけに留まらなかった。

お中元やお歳暮、母の日や父の日などを普段お世話になっているので両家へ贈るようにしていた。

義父母は何を贈ってもいつも喜んでくれ、贈った側としても嬉しかったし贈ってよかったなと思う。



ところが、実家の母は贈ったものに対して必ず文句を言っていた。

ある日母から電話がかかってくると「お中元届いたけど、これいくらしたの?」と値段を聞いてくる。

「いくらだっていいでしょ?」

「いいから教えてよ。」

しぶしぶ私が値段を知らせると「そうなの?これ、値段の割に合わないね。」とのこと。

ちょうどその頃、母は腎臓を患い始め食べ物に注意している時だったので何を贈ったらいいのかわからなかったので、
カタログで選ぶものにしていました。

おそらく、気に入ったものがなかったのでしょう。

涼介と相談して、自分で選んでもらった方がいいよね。と決めたものだった。

涼介は「贈ったもの、喜んでくれた?」と聞かれたとき、私は恥ずかしくて母との
やり取りを言うことができなかった。

そして、この件について後で父に確認して聞いたところ父も気になっていたとのこと。

私が贈ったものだけではなく、他の人から贈られたものについても同じように文句を言っていたそうで、
父も見かねて何度か注意をしたそうです。

どうして母はそんな文句を言うのか、いまだに謎のまま。




私の人生ダメ?ばかり

2012-12-28 09:41:56 | 幸せはどこへ?
私は本当に生まれてきてよかったのだろうか・・・・と思うほど落ち込んだ。

自分がやりたかったことのほとんどを否定され、夢というものの素晴らしさを知らずに大人になった。

例えば、中学時代音楽に興味があって吹奏楽部に入ったら帰宅時間が遅いという理由で辞めさせられ、
次に入った美術部はすでに輪ができていてなかなか溶け込めなかっただけど、大好きな絵が描けてうれしかった。

でも、母が作ってくれたキャンパスを入れた巾着袋をいじめっ子にボロボロにされるし、
中に入っていたキャンパスも折られていた。

すごく悲しかった。

私はいつの間にか、いじめの標的にされている。

何がいけないのだろうと、自問自答してみた。

今までよりも明るく、自分から声を掛け自分が嫌だと思うことはしない。

それをモットーに新しく入った高校では何人かの友達ができた。

ところが、高校に入ってから本に興味を持ち出版関係の仕事がしたいと思うようになり大学に行きたいから
塾に行かせて欲しいと頼んだのに「ダメ」の一言。

理由を聞いてもはっきりをと教えてもらえず、やっと出てきた答えは「女だから」。

古い考えの持ち主の父は「女性が大学へ行ってどうする。」という考え。

納得ができない。

でもせっかく抱いた夢だったので、自分で本を買ってきて勉強をしようと思ったけどわからないところや
勉強の仕方がわからない。

夜遅くまでがんばった。

でも一生懸命自分なりにがんばった。

ずっと悩んでいたけど、高校時代は友達に恵まれていたせいか嫌なことは忘れることができていた。

なんとか頼み込んで1校だけ受験させてくれることになったけど、やっぱり独学では限界があって見事に落ちた。

次に絵を描くのが好きだったので、イラストレーターとして本の制作に携わりたいと思い
デザインの専門学校へ来たいと申し出たら、これも「ダメ」。

才能がないし、デザインの就職口なんてない。と言われた。

そんなことはないと主張してもダメ。

夢を語ると「夢見る夢子さん」とバカにされた。

子供の夢を叩き壊された感じだった。

仕方なく私が一番苦手な経理学校へ進学。

すごく嫌だった。

苦痛だった。

逃げたかった。

一人暮らしでもすればよかったのかもしれないけど、貯金もなかったしまたなにを言われるかわからない。

それから、私はやっぱり気が弱かったのかもしれない。

仕方がなかった。

行くからには卒業をしたいと思い一生懸命がんばった。

就職先の専門学校の事務、印刷会社の事務。

どれも景気が悪くてボーナスもほとんどなし。

パートのおばさんでもできるような仕事しかしてなかったから仕方がないか・・・

最後の就職したヤマト電機では本格的な経理の仕事。資格はあるけど、
かなりブランクがあったし苦手なことだったので失敗ばかり。

両親は私がヤマト電機に入って喜んでいたことでしょう。

でもその裏では同僚たちのイジメに耐えました。

それは涼介がいてくれたから・・・

最後の最後まで、意地悪されヤマト電機を辞めました。

すごく辛い最後だったけど、涼介との幸せが待っていると思うと嫌なことを忘れることができました。

今にも咲きそうな花のつぼみを摘んでしまっていたんですよ。

咲きかけた花を足で踏みつぶしていたんですよ。

これがあなた方の思う幸せですか?って思った。

私は両親から一度も褒められたことも思いやりの言葉をかけてもらったことがありません。

罵るだけが励ましではありません。

大丈夫だよ。安心して。どうしたの?

こんな一言でいいのです。

私のためを思うなら、罵るのはもう辞めてください。

「もっと○○しろ。」とか、「どうして○○なの・・。」とか。

罵って伸びる子なんていませんよ。

兄は男だからと一浪までしてお金をかけて、親の心配をする立派な人間になりましたか?

私は女だからという理由で夢が叶えられませんでした。

チャンスさえ与えてくれませんでした。

過去のこと・・・では済まされません。私の一生だから。

私は死ぬまで覚えていますよ。

恨んでますよ。

女であることも。

これが私の気持ち。

何度かのいじめがあっても、私は普通にふるまってきたつもりだった。

だけど、心ない人たちがいる。

そんなことをして何が楽しいのだろうか?

当時、私は高校時代の友達や車の仲間がいてくれたらこそくじけずにできた。

私はそんな学生時代を送ってきました。

だから、私は涼介と幸せになりたい。

いじめのない平和な日々を過ごしたい・・・と思うようになった。

感動の時・・・

2012-12-27 09:43:09 | やっと掴んだ幸せ
それから何度か私は切迫流産しかかり、入退院を繰り返した。

入院先の病院は実家のすぐ近く。

何かあったら実家に戻れるし、母がそこの病院の先生が評判が良いと
聞いたからその病院にした。

入院先の病院から車で1時間ほど離れた涼介の実家から、
義母さんが電車で何度かお見舞いに来てくれた。

でも、実家の母は病院から近いのに、「父がいないから足がないから行かれない。」とか、飼っている犬がいるからなどと色々理由をつけては入院先に来なかった。

たまに来てくれたかと思ったら、父は絶対に病室に来なかった。

駐車場で待っていると。

母と兄だけだった。

そんなこんなで、桜の花がきれいに咲くころ「さくら」は小柄ながらも無事に生まれた。

私は帝王切開だったので、麻酔を掛けられていたせいかほとんど覚えていない。

でも、耳元で「よくがんばったね。」と泣きながら声を掛けてくれたのだけは覚えている。

それは、義母さんの声だった。

2週間ほどの入院生活を終え、しばらく実家へ世話になることになった。

4月の初めにさくらが生まれたので、GWには自宅に帰るつもりでリハビリもがんばった。

どちらも初孫ということもあって、お宮参りなどの行事についてどこでやるか・・など私が間に入って話した。

でも、母は「嫁に出た身だから。」と言いながらも、あれこれ注文を付けてくる。

母心として気になるのはわかる。

だったら義父母と私とで任せてくれればいいのに、
色々注文してくるので少しウザったいと思うようになっていた。

でも、さくらも私も落ち着いてきた頃に色々子育ての悩みやアドバイスを受けようと、
何度か実家に帰って話を聞いたり、電話で話をしたりと母は子育ての先輩としてとても頼りになった。






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2012-12-26 09:00:05 | やっと掴んだ幸せ
挙式や1.5次会が無事に終わり夏休みに入った。

夫の祖父母が九州に住んでおり、義父母家族と祖父母のところへ挨拶に行った。

初めての九州。飛行機とバス、電車を乗り継ぎやっとたどり着いた涼介の祖父母の家。

私には田舎らしい田舎がなくて、九州の土地はとても目新しいものだった。

のどかで自然がたくさんあり、とても空気がおいしいところ。

ゴミゴミとした都会で育った私にとって、この場所は異空間に感じた。

目は見えないけど陽気で明るく、楽器を器用に演奏するおじいちゃんと、
優しくて穏やかなおばあちゃんにご対面。

初めて会った私に楽器を演奏してくれたり、色々と話をしてくれて心が温まりました。

一緒に観光船に乗ったり楽しい日を過ごすことができました。

そして・・・

結婚後も私は仕事を続けていましたが、夏になってなんとなく調子が悪い。

たまたま会社の健康診断があったので、問診で症状を先生に伝えてみた。

もしかしたら「おめでたじゃない?」と言われた。

まさか。

会社の帰りにドラッグストアにより、妊娠検査薬を買って帰り早速検査。

すると陽性反応が・・・。

私のお腹に新しい命が・・・・

その時、涼介もいたのですぐに伝えることができた。

涼介もとても喜んでくれた。私は嬉しい半分、不安で一杯だった。

私は末っ子の甘えん坊。

そんな私が子供を育てることができるのだろうか?

すぐに実家の母へ連絡。

とりあえず、病院へ行こうということになり、最初は不安だろうから一緒に行ってあげると一緒に来てくれた。

病院で診察してもらったら、やはりおめでただった。

私が母親になる。信じられない。

丁度勤めていた会社が、10月で契約が終わる。

手続きをすれば更新できるけど、私は契約をしないことにした。

それまで、電車に乗って会社に行くのが本当に辛かったけど、なんとか契約終了まで行き
同僚たちにお菓子を配って挨拶をした。

ところが、心ない同僚が「お菓子いらないから。」とか「お世話になりました。」と言ったら
「お世話してません。ハハハ。」って笑われました。

どうしてこんなことを言うのか疑問に思いました。



憧れの挙式

2012-12-25 10:27:15 | やっと掴んだ幸せ
そして、6月に憧れていたGUAMでの挙式をすることにした。

さすがに海外なのでそれぞれの家族のみしか呼ぶことができなかったけど、

どちらの家族も海外は初めて。

私たちが一日早くGUAMに到着。

私も涼介も海外は初めて。すごく不安で一杯だったけど、
涼介がいてくれるから不安はなかった。

一日早く到着した私たちは衣装の確認や挙式本番の打ち合わせなど。

そのあとは、ショッピングタイム。

それぞれお世話になった家族、これからお世話になる家族でプレゼントを買いに行くことにした。

きっと喜んでくれるだろうな・・・。そう思いながらプレゼントを選んだ。

そして翌日、それぞれの家族が到着。

同じ便の飛行機のはずなのに、私の家族がこない。

どうしたのかと思いきや、空港からホテルまでのバスを行き先の違うバスに乗ってしまったらしい。

なんてそそっかしいのだろうか・・・

そんなこんなで、遅れて私の家族が到着。

その日の夕飯は、ホテルのレストランで揃って食事会をした。

和気あいあいと会食をした。とても平和な会食だった。


翌日、私たちはみんなよりも早くウエディング会社へ向かった。

私は憧れのウエディングドレスを着てヘアメイクをしてもらっている間、
涼介も白いタキシードに着替え今までとは違う涼介を見ることができた。

本当の幸せ。

無事に支度が終わりウエディング会社を出ると、大きなリムジンが止まっていた。

アメリカの映画でよく見かける黒人の強面の人がドライバーだった。

車の窓からは真っ青のきれいな海が見え、前方にはこれから式を挙げようとしているホテルの敷地内に
あるこぢんまりとした小さな教会。

映画のワンシーンみたい。

教会に着くと、それぞれの家族が待っていてくれた。

その中でも私の父が黒いタキシードを着て私を待っていてくれた。

私が生まれた時、照れ屋な父は「私の結婚式には絶対にでないぞ!」と言っていたそうですが、
今回はかなり頑張ったと思う。


私と父以外の人たちは、教会の中へ。

私もすごく恥ずかしかった。父と腕を組むこと。

パイプオルガンの音が遠くの方で聞こえた。

たいした距離ではないヴァージンロード。

でもすごく長く感じた。父も同じように感じたと思う。



父の腕から離れ涼介の元へ。
英語で神父さんが話をして、合図があったら指輪交換やyesなどの言葉を言うことになっていたけど、
緊張をしまくって何がなんだかわからない。

涼介の方がしっかりしていて、小声で次の段取りを教えてくれた。

30分ほどの式だったけど、短く感じたし訳がわからないうちに終わってしまった感じ。

教会を出るとき、家族からの温かいフラワーシャワーで祝福してくれた。

その後、写真撮影。

涼介から姫様抱っこ。重たくなかったかな???

その後は全員集合で写真撮影をして終了。

再び私と涼介はリムジンでウエディング会社へ行き、着替えをした。


ちょうどお昼頃だったので、それぞれショッピングを兼ねてランチタイム。

なにもかもが楽しかった。お土産を買ったり、翌日は射撃をしたり。

3泊4日のGUAMの旅は、こうして楽しく終わることができました。

それからしばらくして、今度は友達や会社の人たちへのお披露目会。

幹事を車仲間の人に頼んでいたので、お披露目会の場所だけ自分たちで決めていた。

ちょっとしたきっかけの忘年会で知り合った一部メンバーと、それぞれの会社の同期や車仲間、
高校時代の友達やサッカーのメンバー等々を呼んでお披露目パーティ。

1次会ではなく2次会でもない。ということで1.5次会という名前でのパーティ。

会費制で演出は幹事さんにお任せ。ただし、ホテルやレストランではなく、
貸し会場のようなところだったのでただのビルの地下。

私は以前涼介と神戸に旅行した時に買ったインドのサリーを着る予定だったけど、着替える場所がない?!

仕方がないのでトイレでこそこそと着替えて何事もなかったかのように登場。

登場した時はシャボン玉がたくさん飛んでいて、お気に入りの曲もBGMとして流してくれた。

友達たちの余興やコメントなど、本当にうれしかった。

友達っていいなって。





ドキドキな日々

2012-12-24 15:58:03 | やっと掴んだ幸せ
告白、プロポーズと私の人生にとって重大なイベントが一気にやってきた。

今までにない人生の絶頂だった。

何をするのも楽しかった。

新生活に使う家具や雑貨を見て歩くだけでも幸せ。

母が風邪気味で体調がイマイチの中、横浜までウエディングドレスの試着をしに来てくれた。

嬉しかった。でも、もうすぐこんなことをするのも終わりなんだなって思うと、少し寂しかった。

たまたま新聞広告に入っていたマンションのモデルルームを見に行き、それぞれの実家の中間地点ということもあったし設備や中の様子も好みに合っていたのでマンションを購入。

本当にこの時は幸せのなにものでもなかった。

この時は、仕事で嫌なことがあっても嫌だと思うこともなく毎日が楽しかった。

車で知り合ったメンバーにはびっくりさせようとずっと結婚のことは黙っていた。

たまに車のメンバーと会うことはあったけど、内緒にしているというだけでドキドキで楽しい。

そして、翌年の3月の終わりころに引っ越し。

長年育てれくれた家族を離れ、新しい生活をする。

慌ただしくしている中、家族へ挨拶。

涙が止まらなかった。

あまり口をきかなかったけど見守ってくれた父、いつも相談に乗ってくれた母、
私をかわいがってくれた兄に「お世話になりました・・・」と。

あまりにも緊張していたので、父や母、兄がどうだったのか残念ながら覚えていない。

そして、引っ越しも落ち着いた4月に涼介と無事に入籍。

その日は大安だったけど、役所が休日でお休み。時間外の窓口へ書類を提出。

ものすごくドキドキした。

窓口のおじさんが「おめでとう」と言ってくれたけど、照れくさくて小さな声で
「ありがとうございます。」としか言えなかった。

これを機に車のメンバーやその他の友達や会社に報告ができた。

初デート

2012-12-22 07:56:37 | やっと掴んだ幸せ
そして2月に入り、涼介と初めて二人で会うことになった。

いわゆるデートというものだった。

涼介は最初に会った時の茶髪ではなくなり、少し長かった髪も短く切ってあった。

最初に会った時のイメージとは全然違っていて、チャらい感じはなく真面目な青年になっていた。

でも、なぜか洗車をした。二人で初めて会って洗車っていうのも・・今思うと車が好きなんだなって。

その後、なりゆきで私の家に行くことになった。

まず両親には友達として紹介するつもりだった。

前の印刷会社の同僚と同じようにならなければいいのだけど・・・

でも、いざ実際に会ってみたら涼介のことを友達としてではなく、彼氏としてみていたと後から聞かされた。

あれから私は涼介についていろいろ考えてみた。
話をしていても、価値観が私ととても似ていたし見かけとは違って真面目な考えを持っている。

当時、高校時代の友達が付き合っている彼がパチンコや競馬などギャンブル好きで困っているという話を聞いたことがあった。

人を比べるのはよくないことだけど、ギャンブル好きでもほどほどに嗜む程度なら許せる。

でも、これから結婚を考えるとなるとやっぱり堅実なタイプが一番かと思う。

そういう面で涼介とはもうしばらく付き合ってみようという気持ちになった。


3月に入ってからも週末は涼介と会う日が多くなった。

何をするわけでもなかったけど、仕事で嫌なことがあっても週末になるのが楽しみで嫌な事なんて忘れることができた。

そして・・

記念に残る3月28日。

その日はやはり週末で、涼介と一日過ごしていた。

すでに夜になっていたので、涼介は車で私を家の近くまで送ってくれた。

ちょっとした沈黙の中、涼介が私にプロポーズしてくれた。

正直、まだ二人だけで会うのはまだ2ヶ月くらい。もう少し気持ちの余裕が欲しいと思った。

でも、すごくうれしかった。

こんな私でもこれ程までに私を大切にしてくれる人がいるなんて。

今までに色々なことがあった。両親からの虐待、中学時代のいじめなど自分なんて
この世からいなくなればいいと思ったこともある。

そんな過去をまだ知らない涼介だからこそ、プロポーズできたのではないかな。

だから、昔のことは言えなかった。

そんなことを言ったら嫌われる。絶対に言えない・・・。

きっといつかわかることだとわかっていたけど、この人とだったら私の辛い過去も
受け入れてくれるだろうと確信を持った。

私は涼介とこれからうれしいこと、楽しいこと、辛いことを乗り越えていこうと決心した。





星に願いを・・・・

2012-12-21 14:37:58 | そして・・出会い
そんな私が告白を受けるなんて。

それに、私はどのように返事をしていいかわからなかった。

私は末っ子で甘えん坊。

年下の相手とはうまくいくだろうか。

不安症でいつも誰かに頼りたいと思っている私にとってどう考えても難しいことだった。

ただ私は過去にいじめられた経験があっただけに、たとえ本心ではなくても告白をされたというだけでうれしくて涙が溢れる。

その後、複雑な気持ちのまま部屋を出た。涼介はどうしたかわからない。

気持ちの整理がついていないまま、みんながいる部屋へ戻った。

みんなとワイワイ騒ぐことで複雑な気持ちを発散させていたのかもしれない。

かなり夜も更け、夜中の1~2時だったと思う。誰かが屋上で空を見に行こうと言い出したので、私も行ってみるこ
とにした。

12月の寒い中、天然のプラネタリウムを見ることができた。気が付くと隣には涼介が。そして反対側には初対面の小野田久美がいた。

なんだか不思議な体験をした感じ。隣には告白を受けた人。その隣には、今日初めて友達になって意気投合をした人。

人生には色々な人生があるものなんだなって思う。

もう一つ不思議なことは、寒さを感じなかったこと。

今までの私の冷め切った心を涼介と小野田久美がポカポカと温かくしてくれたんだと思う。

そして、流れ星が見えた。

いつまでもこの仲間たちと仲良くできますように・・・・

告白のことはしばらく誰にも言わないでおこうと思った。

酔った勢いだったし、気持ちの整理がつくまで心の中にしまっておきたかったから。

でも、川田はなんとなく気づいていたようだった。

翌日、寝不足なのに宿の近くにある動物園へ行くことになった。あくびの連発をしながら動物を見学。

涼介はどう思っていたかわからないけど、私はなぜか涼介をものすごく意識するようになっていた。

なるべく隣にこないように、わざと別の人と一緒にいた。

涼介から見たら、かなり不自然な行動に思えたことと思う。意識するあまり、他の人と話をしていても上の空で、
会話がかみ合っていなかったかもしれない。

帰りに記念に集合写真を撮った。

そして、涼介は友達の結婚式の2次会がるので先に帰ってしまった。

私はある意味ホッとした。嫌だとかではなく、どう接していいのかわからなかったからだった。

忘年会も無事に終わり、私はしばらく冷静に涼介の気持ちをもう一度考えてみることにした。

まだ数回しか会っていないし、その数回というのは他のメンバーも一緒。

だから、涼介という個人がどんな人なのかよくわからない。

自分の固定観念で、年下ということがどうしても頭から離れない。

誰かに話したいけど母には前のこともあって相談できないし・・一体誰に話そう。


たまたま高校時代の友人たちと食事に行く約束をしていた。

気が付くと、私は涼介の話をしてしまっていた。

友達から、これと言ってアドバイスらしいアドバイスはなかったけど、話を聞いてくれるだけでも気持ちが落ち着
いた。

ただ一つ。

みんなが口を揃えて言ったのは「二人だけで一度会ってみたら?」と私に勇気を与えてくれた。

私はこの言葉を待っていたのかもしれない。

確かにそうだよね。

年齢で人を判断するのはよくない。

年下でもしっかりした人はいるだろうし。

もし自分と合わなければ、断ればいい話だし。

とりあえず、私は今の気持ちをうまく伝える自信がなかったので手紙に書いてみることにした。

どんな返事が返ってくるか、ドキドキした。

しばらくして涼介から返事が届いた。

緊張の一瞬だった。

封を開け、じっくりと手紙を読んだ。

内容は私に対する気持ちが冗談とかではなく、本心からである旨が綴られていた。

この返事をもらって更に私の気持ちを変えさせた。

とにかく一度会ってみよう。涼介と二人だけで会ってみよう。

年齢だけで人を判断していけないと・・・。




続く・・・

いじめ

2012-12-21 07:10:43 | そして・・出会い
今まで私は中学時代にいじめられたことがあった。

小学校の時から仲の良い女の子が、理由はわからないけどいつしか私から離れていき挙句の果てには
その女の子を気に入っている男の子が私をいじめた。

当時美術部に所属していた私は、母の手作りの巾着袋にキャンパスを入れて学校に持ってきていた。

ある日、ロッカーに置いてあったキャンパスが入った巾着袋が破け、キャンパスも真っ二つに割られていた。

ショックを通り過ぎて、呆然とした。

クラスの連中は私のその姿を見て笑ってる。

どうしてそんなことをするんだろう。

すぐに犯人はわかった。

やったことをみんなに話していたからだった。

それから、仲が良かった女の子も私を無視するようになり、気が付くと私は孤独を味わっていた。

唯一近所に住む女の子の友達が仲良くしてくれた。

そんな中学時代を私は過ごした。

高校に入り自分を変えたい。

たくさん友達を作りたいと思い、自分で何がいけなかったのか色々考えた。

そんな努力の甲斐もあって、女の子の友達はたくさんできた。

でも、中学時代のいじめがトラウマになっているせいか、
クラスメートの男の子と話をすることができなかった。

高校時代にできた女友達は、今でも交友関係がつながっている。

友達っていいなって初めて思った。

その後、専門学校に入学してからも友達に恵まれ、男性恐怖症だった私に
社交性のある女友達がきっかけで話ができるようになった。



続く・・


告白

2012-12-20 17:18:50 | そして・・出会い
いつものようにサーキットでの走行が終わり、それぞれ宿の方へ。

あまりよく覚えていないけど、ざっと20人は集まったと思う。小さな会社の慰安旅行みたいな感じ。

遠くから来る人がいて、食事の時間になっても間に合わない人がいた。

涼介は幹事ということもあって、てんてこまい。すでに集まったみんなは料理を
目の前に待ちくたびれている。

川田がぼそっと一言。

「先に乾杯したらええのに。気がきかんなぁ。」

確かに。

でも、涼介はまだ若く慣れていないのか、後から来る人の連絡を受けたり忙しそうだった。

私も一言「手伝おうか?」でも言えばよかったのだけど、忙しそうにしている涼介になかなか声を
掛けることができなかった。

ようやく落ち着いたらしく、やっと乾杯。

宴会は大盛況に終わり、続いて部屋で2次会をやりワイワイ。

女性陣は初対面の小野田久美という人と意気投合。

誰かが持ってきたと思われるかなり強いお酒を、涼介は薄めずに原液のまま涼介は飲まされたらしい。

私はあまりお酒が飲めないけど、少しばかり飲んでいたせいかあまり詳しいことは覚えていない。

だけど、これだけは鮮明に覚えている。

涼介がかなり酔って宿の廊下に出ていた。

私は様子を見に行ったのだけど、なぜか涼介に別の部屋に連れ込まれた。

部屋には涼介と私の二人だけ。

涼介は顔を赤くして言葉もはっきりしていなかったけど、私にはよく聞こえた。

「好きだ。付き合ってくれ。」

私はあまりにも急な事だったのでびっくりした。でも酔っぱらっているし本心ではないだろう、
ふざけているのだろうと思ったけど、はっきりいってどうしていいのかわからなかった。


続く・・・