冨士大石寺顕正会向上委員会

     「会長無謬神話」の崩壊を直視しよう

冨士 第十七号 (6412)

2006年11月08日 | ◆ 冨士
      ( 昭和三十九年十二一月二十三日発行、発行兼編集人:白石秀一 )

       大石寺三門前より望む富士山 




               年頭の辞 



                  ◇     ◇     ◇
 「茲に昭和四十年の新春を迎え講中一同、外に邪教撲滅の法戦に、内には三障四魔に打ち勝ち信心の情熱の中に自ずと本年の瑞気黎明を感ず」


 この講頭先生の言葉の背景が、妙信講員に理解できたのは後のことでした。昭和三十九年の四月、池田会長は法華講総講頭に就任しました。五月には平沢法華講連合会委員長が妙縁寺に出向き、能化の松本住職に「妙信講と縁を切れ」と迫りました。さらに妙信講に対し、「教学部を廃止せよ、顕正新聞を廃刊せよ」と、命じたのでした。
 浅井先生は当時の心境を、「妙信講の前途は真っ暗だった」、「いつ潰されるかわからない」、「毎日毎日が薄氷を踏むような思い」(顕正会の歴史と使命)と述べられています。そうした状況の中で、「本年の瑞気黎明を感ず」、「春は草木も又、寒気を突き破り若き芽を出す」、「希望の中に生きぬかねばならない」と、講頭先生はおっしゃっていたのでした。

 妙信講の「命」は、教学です。“たとえ登山は出来なくとも、教学部の名は捨てようとも、断じて教学研鑽の灯だけは絶やさない”、それが先生のご覚悟でした。
 一念信解と称して教学研鑽を捨閉閣抛、以て「群狐に笑わるる」(閻浮提中御書)今日の事態の出来、果たしていかなることでしょうか。



               黎明 





                  ◇     ◇     ◇
 「日本人は従来「日本」に対して二重の誤りをおかして来た。一つには敗戦で崩れ去るまでの帝国主義日本である。富国強兵の優越のみを誇った「日本」は大聖人の仰せられ給う「小日本国」に過ぎない。勿ちに修羅道を感ずる運命とはなった。これに懲りて本有の日本をも忘れ去った戦后の浮薄は第二の誤りであった。外来の皮相の民主々義に正念を抜かれ、いたづらに卑屈になって自国を下げて喜んでいる。もういい加減にこの二重の悪酔より覚めねばならない。黎明の時は来ているのである」


 浅井先生のこの主張は、一貫して変わりません。隣国の核の脅威に直面して、世間の思潮は今ようやく「いたづらに卑屈になって自国を下げて喜」ぶことから脱しつつあることは、憲法改正論者が首相に就任したことからも知られます。
 そして憂うべきは、宗門にあって未だ現憲法と皮相の民主々義を基として、「本有の日本」における御遺命の「本門戒壇」の重大な意義が、失われていることでした。この悪酔から疾く、覚めなければなりません。



                聖訓解説

           「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」
 
 愚人と云うのは世間法には明かるくとも仏法に暗いのと、何れも暗いのとが愚人と云はることとなる。本題の愚人たる天台真言の大僧は、再往は仏法愚であるが、一住は中々仏法にも賢であるから、厳密に図をつくれば、仏法中に入りて本迹種脱の区別を立てねばならぬ。ここには面倒じやから略する。
 要するに世間にも仏法にも、何れの階段の智徳に於いても、一重超越したる高尚の義理は平凡の者の賛同する所とならぬ。平凡の附和電同するのは、平凡の事柄のみである。群衆心理は常に常識以下にありて以上に出でぬ。大声俚耳に入らずとは、此等のことであらう、長春白雪唱高くして和する者少しと。
 嗚呼、愚人はいやだ、グーダラベーはいやだ、国に多くなれば国を危うくし、宗門にはびこれば宗門を亡ぼすかも知れぬ。

                  ◇     ◇     ◇
 「嗚呼、愚人はいやだ、グーダラベーはいやだ」
、当時この文章を読んで落語のような語り口に、まずびっくりしたことでした。そして仮にも正系門家の猊座にあられた方が、「宗門にはびこれば宗門を亡ぼすかも知れぬ」などとおっしゃるとは、何たることかと幼稚なわたしは思いました。
 冨士の編集部がこの時、あえてこの日亨上人の聖訓解説を掲載した意図は、今になって判ります。

 時に宗門に賢人在さず、妙信講の道理の諫訴なくしては正本堂をして、「七百年来の念願であり、久遠元初以来の壮挙」、「日蓮大聖人の御遺命たる本門戒壇建立の具体化であり、宗門七百年来待望の壮挙」と、池田会長に決定されていたことでしょう。
 しかるに法義に昏き愚人は、今や顕正会にこそ充満しています。



        -- 目と耳 --
               研修部の試験迫る




                  ◇     ◇     ◇
 「学ばずに使命が果せるか」、「正宗信徒の伝統を秘めた妙信講では、佐渡の大聖人の御姿をしのび「行学たへなば仏法あるべからず」の御金誡を拝して教学研鑽である」


 何故にして大事の教学研鑽から、顕正会員を遠ざけるのでしょう。顕正会員が教学を身につけると、不都合なことが本部中枢にあるのでしょうか。
 学ばず学ばせずして、広宣流布の使命は果せません。「学ばずに使命が果せるか」と。使命を棚上げしてまで、何を護りたいのでしょうか。