今日のサッカーで足を怪我しました。
痛みが金曜日までひきませんでした。やっぱりサッカー怖い。
代数は今日はプリント演習でした。
簡単な問題が多かったのですが…。時間切れのミスが(汗)。
今度はそんなことがないようにしたいです。
それでは今日も朝日新聞の社説を。
日本経済新聞の社説はとりやめます。申し訳ありません。
アフガン支援―仕切り直しを考える時だ(朝日新聞・社説)
このままではイラクの二の舞いになるのではないか。そんな不安を抱かせるのが、アフガニスタンの現状だ。
何より治安が悪化している。先月だけでも、ノルウェー外相が宿泊していた首都カブールの高級ホテルが襲撃され、銃撃戦になった。南部では州副知事が自爆テロの犠牲になった。いずれもタリバーン勢力の復活ぶりを印象づける。
カルザイ政権は発足して3年あまりになるが、国軍は自立できていない。米軍主体の「不朽の自由作戦」でタリバーン掃討を続ける一方で、国内治安は北大西洋条約機構(NATO)を中心に38カ国が参加する国際治安支援部隊(ISAF)が支えてきた。
だが、治安面での効果は乏しく、逆にタリバーンとの戦闘は南部などで激しくなる一方だ。派遣国の部隊にも犠牲者が相次いでいる。米国はNATO諸国に増派を求めたものの、応じる国はない。結局、ブッシュ大統領は米兵3200人の増派に踏み切らざるを得なかった。
アフガニスタンでの「テロとの戦い」や国家再建、復興が順調に運んでいるとはとてもいいがたい。そんな時期に、スパンタ外相らアフガンの閣僚13人を迎えて、支援国が一堂に集まる国際会議が東京で始まった。国づくりや国際支援の進み具合を検討する機会だ。
洞爺湖サミットの議長国として、今年は日本がこうした国際社会の取り組みを仕切る役回りを担っている。
ここは、治安面を含めてアフガン支援の大きな枠組みを見直す議論を始めるべきではないか。従来のやり方が明らかに行き詰まっている以上、軍事力だけで事態を打開できるとは思えないからだ。
タリバーンといっても一色ではない。国際テロを企てる過激派もいれば、穏健派もいる。そこを区別し、穏健派との対話を探るべきだという声はカルザイ政権内部や欧州諸国にもある。
本当の敵はだれなのか、軍事作戦と民生支援をどう組み合わせ、どの国がどんな役割を担うのか。国際社会として改めて調整する必要がある。新たな枠組みは国連を中心に組み立てるべきだ。
今回の会議を皮切りに、そうした本質的な議論を深めるよう日本は指導力を発揮しなければならない。洞爺湖に集う主要国首脳との討議に結びつけ、アフガンの平和構築を仕切り直す出発点にしてもらいたい。
残念なのは、インド洋での海上自衛隊の給油再開が決まって以来、この問題に対する政府や国会の関心がめっきり薄れてしまったことだ。
高村外相は会議で、インド洋での給油再開を報告し、1億1000万ドルの追加支援を表明した。日本も戦列にとどまったことを強調したかったようだが、事態の打開に向けて論議をリードしていこうとの意欲は感じられなかった。
福田首相の掲げる「平和貢献国家」の発信としては、なんとも物足りない。
MSとヤフー―ネットの活力を弱めぬか(朝日新聞・社説)
発展がめざましいインターネットの世界でも、とくに覇権争いが激しい検索エンジンの分野。ここを舞台に、米国で派手な買収騒動が持ち上がった。
パソコンの基本ソフトで圧倒的シェアをもつマイクロソフト(MS)が、検索で米国2位のヤフーに買収を提案した。当のヤフーは買収への態度を保留しているが、これを見ていた業界1位のグーグルが、ヤフーに支援を申し出たのだ。買収を阻止するためである。
米国では、サブプライム問題が深刻化して景気の冷え込みが懸念されている。だが、そんなことは「どこ吹く風」と言わんばかり。5兆円近い買収劇という資本と資本のぶつかり合いである。
MSは基本ソフトのウィンドウズで世界のパソコンを制したが、その市場が成熟して大きな伸びは見込みにくくなった。かといって、ネットの主戦場である検索エンジンでは米国で10%足らずのシェアしか得ていない。経営環境が大きく変化するなかで、生き残り戦略をヤフー獲得に賭けたわけだ。
もし、この買収が成功したらどうなるか。市販のパソコンの大半にはウィンドウズが入っている。これには、ネット閲覧ソフトのインターネット・エクスプローラー(IE)が抱き合わせで付いている。IEでネットを開くとヤフーのページが自動的に現れる――といった新たな抱き合わせになるのだろうか。
こんなことを想像するのは、MSがパソコンでの独占的なシェアをてこに、このような抱き合わせ販売を力ずくで推し進めてきたからだ。この手法でライバルを撃退し、そのあとは、消費者がMSのソフトを使わざるを得ない環境をつくって売り上げを伸ばした。
そんな独占的で市場を囲い込む経営戦略が批判され、米国や欧州の独禁当局と法廷闘争に明け暮れてきた。
ヤフーの買収で、こうしたMSのやり方が復活するのだとしたら、ネットの発展にとってマイナスだ。
21世紀の基幹技術であるネットは、開放性と多様性こそ命である。
その意味では、買収阻止に動いているグーグルも要注意だ。グーグルは検索市場の6割を握り、ネットの世界で影響力をどんどん強めている。2割強をもつヤフーと提携したり傘下に入れたりしたら影響力が強くなりすぎる。
MSやグーグルを追い抜く新しい勢力が台頭してくることこそ、ネットの開放性と多様性にはふさわしい。
検索エンジンでは、漢字文に強い中国の「百度(バイドゥ)」が海外進出したり、日本でも経済産業省の音頭取りで次世代検索の研究開発に力を入れたりしている。検索の未来は動画の識別や文章の脈絡理解などそれこそ無限に広がっている。
技術革新が新興企業を生み、産業構造の転換をもたらして、暮らしも変えていく。ネットの再編も、こんな発展のダイナミズムを促すものであってほしい。
次に天声人語(朝日新聞)です。
きのうの本紙川柳欄の〈雪国にごめん都の三センチ〉に、思わずにやりとした。わずかな雪で交通機関は乱れ、転倒者が続出する。作者は埼玉の人らしい。雪深い地のたくましさを思い、いささかの自嘲(じちょう)を込めて詠んだとお見受けした▼思えば、雨や風に対する受け止め方は、日本中、そう違いはない。10ミリの雨は、どこに降っても「10ミリ」だろう。5メートルの風もしかりである。しかし雪は、暖地なら数センチでニュースになる。片や豪雪地なら、この程度はチリが舞ったほどでしかあるまい▼江戸時代の越後人、鈴木牧之(ぼくし)の『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』には、雪の激しさと暮らしの労苦のさまが詳しい。〈されば暖国の人のごとく初雪を観(み)て吟詠遊興のたのしみは夢にも知らず〉。雪を恐れ、そして畏(おそ)れる心情を、言葉を尽くして説いている▼その雪を甘く見たのだろうか、冬の山から報道が相次いだ。長野のスキー場では、大学生2人が雪崩で亡くなった。広島ではスノーボーダー7人が吹雪の中で行方不明になった。こちらは幸い、全員無事に見つかった▼吹雪と雪崩は難儀の双璧(そうへき)だと、『北越雪譜』は言う。現代の管理されたゲレンデも変わりはない。まして一歩踏み出せば、豪雪に慣れ育った人々をも葬ってきた、ごまかしのない純白の世界である▼雪氷学の草分けだった中谷宇吉郎は、状況次第で様々に姿を変える雪を「天から送られる手紙」と呼んだ。それを悲しい手紙にしてしまってはなるまい。うっすら3センチの都会でも、白銀の招くスキー場でも、甘く見るのは禁物である。
それではまた明日(この記事は2月10日に更新しました)。
痛みが金曜日までひきませんでした。やっぱりサッカー怖い。
代数は今日はプリント演習でした。
簡単な問題が多かったのですが…。時間切れのミスが(汗)。
今度はそんなことがないようにしたいです。
それでは今日も朝日新聞の社説を。
日本経済新聞の社説はとりやめます。申し訳ありません。
アフガン支援―仕切り直しを考える時だ(朝日新聞・社説)
このままではイラクの二の舞いになるのではないか。そんな不安を抱かせるのが、アフガニスタンの現状だ。
何より治安が悪化している。先月だけでも、ノルウェー外相が宿泊していた首都カブールの高級ホテルが襲撃され、銃撃戦になった。南部では州副知事が自爆テロの犠牲になった。いずれもタリバーン勢力の復活ぶりを印象づける。
カルザイ政権は発足して3年あまりになるが、国軍は自立できていない。米軍主体の「不朽の自由作戦」でタリバーン掃討を続ける一方で、国内治安は北大西洋条約機構(NATO)を中心に38カ国が参加する国際治安支援部隊(ISAF)が支えてきた。
だが、治安面での効果は乏しく、逆にタリバーンとの戦闘は南部などで激しくなる一方だ。派遣国の部隊にも犠牲者が相次いでいる。米国はNATO諸国に増派を求めたものの、応じる国はない。結局、ブッシュ大統領は米兵3200人の増派に踏み切らざるを得なかった。
アフガニスタンでの「テロとの戦い」や国家再建、復興が順調に運んでいるとはとてもいいがたい。そんな時期に、スパンタ外相らアフガンの閣僚13人を迎えて、支援国が一堂に集まる国際会議が東京で始まった。国づくりや国際支援の進み具合を検討する機会だ。
洞爺湖サミットの議長国として、今年は日本がこうした国際社会の取り組みを仕切る役回りを担っている。
ここは、治安面を含めてアフガン支援の大きな枠組みを見直す議論を始めるべきではないか。従来のやり方が明らかに行き詰まっている以上、軍事力だけで事態を打開できるとは思えないからだ。
タリバーンといっても一色ではない。国際テロを企てる過激派もいれば、穏健派もいる。そこを区別し、穏健派との対話を探るべきだという声はカルザイ政権内部や欧州諸国にもある。
本当の敵はだれなのか、軍事作戦と民生支援をどう組み合わせ、どの国がどんな役割を担うのか。国際社会として改めて調整する必要がある。新たな枠組みは国連を中心に組み立てるべきだ。
今回の会議を皮切りに、そうした本質的な議論を深めるよう日本は指導力を発揮しなければならない。洞爺湖に集う主要国首脳との討議に結びつけ、アフガンの平和構築を仕切り直す出発点にしてもらいたい。
残念なのは、インド洋での海上自衛隊の給油再開が決まって以来、この問題に対する政府や国会の関心がめっきり薄れてしまったことだ。
高村外相は会議で、インド洋での給油再開を報告し、1億1000万ドルの追加支援を表明した。日本も戦列にとどまったことを強調したかったようだが、事態の打開に向けて論議をリードしていこうとの意欲は感じられなかった。
福田首相の掲げる「平和貢献国家」の発信としては、なんとも物足りない。
MSとヤフー―ネットの活力を弱めぬか(朝日新聞・社説)
発展がめざましいインターネットの世界でも、とくに覇権争いが激しい検索エンジンの分野。ここを舞台に、米国で派手な買収騒動が持ち上がった。
パソコンの基本ソフトで圧倒的シェアをもつマイクロソフト(MS)が、検索で米国2位のヤフーに買収を提案した。当のヤフーは買収への態度を保留しているが、これを見ていた業界1位のグーグルが、ヤフーに支援を申し出たのだ。買収を阻止するためである。
米国では、サブプライム問題が深刻化して景気の冷え込みが懸念されている。だが、そんなことは「どこ吹く風」と言わんばかり。5兆円近い買収劇という資本と資本のぶつかり合いである。
MSは基本ソフトのウィンドウズで世界のパソコンを制したが、その市場が成熟して大きな伸びは見込みにくくなった。かといって、ネットの主戦場である検索エンジンでは米国で10%足らずのシェアしか得ていない。経営環境が大きく変化するなかで、生き残り戦略をヤフー獲得に賭けたわけだ。
もし、この買収が成功したらどうなるか。市販のパソコンの大半にはウィンドウズが入っている。これには、ネット閲覧ソフトのインターネット・エクスプローラー(IE)が抱き合わせで付いている。IEでネットを開くとヤフーのページが自動的に現れる――といった新たな抱き合わせになるのだろうか。
こんなことを想像するのは、MSがパソコンでの独占的なシェアをてこに、このような抱き合わせ販売を力ずくで推し進めてきたからだ。この手法でライバルを撃退し、そのあとは、消費者がMSのソフトを使わざるを得ない環境をつくって売り上げを伸ばした。
そんな独占的で市場を囲い込む経営戦略が批判され、米国や欧州の独禁当局と法廷闘争に明け暮れてきた。
ヤフーの買収で、こうしたMSのやり方が復活するのだとしたら、ネットの発展にとってマイナスだ。
21世紀の基幹技術であるネットは、開放性と多様性こそ命である。
その意味では、買収阻止に動いているグーグルも要注意だ。グーグルは検索市場の6割を握り、ネットの世界で影響力をどんどん強めている。2割強をもつヤフーと提携したり傘下に入れたりしたら影響力が強くなりすぎる。
MSやグーグルを追い抜く新しい勢力が台頭してくることこそ、ネットの開放性と多様性にはふさわしい。
検索エンジンでは、漢字文に強い中国の「百度(バイドゥ)」が海外進出したり、日本でも経済産業省の音頭取りで次世代検索の研究開発に力を入れたりしている。検索の未来は動画の識別や文章の脈絡理解などそれこそ無限に広がっている。
技術革新が新興企業を生み、産業構造の転換をもたらして、暮らしも変えていく。ネットの再編も、こんな発展のダイナミズムを促すものであってほしい。
次に天声人語(朝日新聞)です。
きのうの本紙川柳欄の〈雪国にごめん都の三センチ〉に、思わずにやりとした。わずかな雪で交通機関は乱れ、転倒者が続出する。作者は埼玉の人らしい。雪深い地のたくましさを思い、いささかの自嘲(じちょう)を込めて詠んだとお見受けした▼思えば、雨や風に対する受け止め方は、日本中、そう違いはない。10ミリの雨は、どこに降っても「10ミリ」だろう。5メートルの風もしかりである。しかし雪は、暖地なら数センチでニュースになる。片や豪雪地なら、この程度はチリが舞ったほどでしかあるまい▼江戸時代の越後人、鈴木牧之(ぼくし)の『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』には、雪の激しさと暮らしの労苦のさまが詳しい。〈されば暖国の人のごとく初雪を観(み)て吟詠遊興のたのしみは夢にも知らず〉。雪を恐れ、そして畏(おそ)れる心情を、言葉を尽くして説いている▼その雪を甘く見たのだろうか、冬の山から報道が相次いだ。長野のスキー場では、大学生2人が雪崩で亡くなった。広島ではスノーボーダー7人が吹雪の中で行方不明になった。こちらは幸い、全員無事に見つかった▼吹雪と雪崩は難儀の双璧(そうへき)だと、『北越雪譜』は言う。現代の管理されたゲレンデも変わりはない。まして一歩踏み出せば、豪雪に慣れ育った人々をも葬ってきた、ごまかしのない純白の世界である▼雪氷学の草分けだった中谷宇吉郎は、状況次第で様々に姿を変える雪を「天から送られる手紙」と呼んだ。それを悲しい手紙にしてしまってはなるまい。うっすら3センチの都会でも、白銀の招くスキー場でも、甘く見るのは禁物である。
それではまた明日(この記事は2月10日に更新しました)。