唯物論者

唯物論の再構築

俗物2

2013-05-03 20:50:09 | 思想断片

 過去に俗物論として記載した記事(俗物)において筆者は、会話関係における了解事項についての状況認識力および判断力の欠如を、俗物の素養として指摘した。そもそも会話は、会話関係にある双方の考えが異なるのを前提にする。少なくとも会話の出発点において、誰でも会話相手の考えを掌握できていない。そして人間は誰でも、自分の考えが正しいと思い込んでいる。そのことは、互いの歩んできた人生が異なる以上、仕方の無い話である。しかも会話の終了時点においてさえ、相手の考えを互いに全て掌握できるとは限らない。最終的に互いの意思疎通に失敗した場合、もしかしたら両者は互いに、正しい思考を理解しない馬鹿者とみなし合うかもしれない。しかしその場合でも、相手の考えを理解しようと努めるなら、それはまだ誠意のある人間の所業である。このときの相手の考えを理解するための努力とは、自らの了解事項を除外して、推定される相手の了解事項に付け替え、自らの中で論理の再構築を試行する努力にほかならない。ところが俗物は、自らの了解事項を除外して、相手の了解事項に付け替える能力を持たない。そのことは同時に、俗物における相手の了解事項を推定する能力の欠落、すなわち相手を理解する能力の欠如も表現している。当然ながら俗物は、相手の考えを理解できない以上に、自らの考えの正当性を疑うことができない。
 同じ理由により俗物は、相手がなぜ自らの考えを理解できないのかを推定できない。俗物は、自らの考えを相手に理解させるために、相手の中にいかなる了解事項が不足しているかを推定できないからである。そのことは俗物において、相手に自らの考えを説明できないという無能力として現れる。すなわち俗物は、相手に自らの了解事項を除外させ、自らの了解事項に付け替えさせる能力を持たない。そのことは、俗物における自らの了解事項を説明する能力の欠落、つまり相手に自らの考えを理解させる能力の欠如を表現している。
 そもそも会話の目的は、互いの異なる考えの意思疎通である。ところが俗物は、相手の論理を自らの中に再現することをせず、その単なる聞き流しを超えることができない。そして逆に、自らの考えを相手に向かって真に伝えることをせず、その単なる音標的な表出を超えることができない。したがって俗物における会話は、そもそも会話になることができない。ただし俗物は、そのように意思疎通が失敗しても、そのことに不満を持つことも無く、逆に満足さえする。それどころか俗物の中には、なぜか相手の考えを理解しないように努め、さらには逆に相手に対し自らの考えを理解させないように努め、それをもって自らの考えが勝利したと勘違いする衒学的なクズまでがいる。

 俗物は、会話の前提および目的が何かという基本事項からして理解を持たないので、自らの意思疎通の失敗を理解できないし、その失敗において会話が不成立に終った事実も理解できない。しかしそれでも俗物は、相手が俗物に対して反論したり、俗物の考えに納得しなかったり、もしくは俗物に対して興味を無くしたりする姿を見ると、自らの傲慢をわきまえずに、相手に対して憤激する。俗物には、相手がなぜ自らの考えを理解できないのかについて推定する能力が無い。当然ながら俗物は、相手に自らの考えを理解させるための情報提示や相手の考えの論理的欠損を提示することもできない。したがって俗物にできるのは、相手に対して表明済みの、それにも関わらず相手に理解をもたらさなかった自らの表現を繰り返すことだけである。そしてもっぱら俗物は、この意思疎通に失敗した無意味な音標を、表現を変えずに強調して繰り返すだけしかできない。すなわち俗物は、音声を拡大したCDレコーダーの如く、同一表現を声を荒げてただ単に繰り返すだけである。もちろん音声が拡大したところで意思疎通の条件に変化は起きないので、俗物が試みるその意思疎通の単純反復は必ず失敗する。そして相手の冷めた視線に対して俗物は、自らの傲慢ぶりを増長し、ついには憤激の余りに暴れたりする。

 俗物においてその意思疎通の失敗に対する憤激が、自らの考えを相手に伝える欲求に転化し、俗物における意思疎通能力の実現に連繋するなら、その憤激も悪くない兆候である。ところが俗物の俗物たる由縁は、意思疎通の失敗の原因を自らの情報理解能力および情報伝達能力の欠如に求めず、相手の側における同じ能力に求めることにある。すなわち俗物は、失敗の全ての原因を相手に押し被せ、自らの側に責任は無いとみなす。これを別の表現で言い換えれば、失敗の全ての原因を客観的情勢の側に押し被せ、主体的条件の側に問題は無いとみなすことになる。すぐ判ることだが、明らかに俗物には表現者の資格が無ければ、教育者の資格も無いし、当然ながら変革者の資格も無い。総じて俗物には環境に働きかける主体の資格が無い。極端に言うと俗物は、環境要因に左右されるだけであり、人間的自由を持たない。環境要因とは、幸運の有無と類義である。運が良ければ事がうまく進むのは、当たり前の話である。事の成否にあたり、その失敗の原因を運の悪さに押し被せるのは、行動主体に一切の権利が存在せず、環境要因が全てを決定するという考えである。しかしそれは、人間的自由の可能性に対する断念であり、悪しき機械的唯物論にほかならない。表現者は、または教育者は、そして変革者は、相手に失敗の原因を押し被せてはならない。すなわち環境要因に失敗の原因を押し被せてはならない。全ての失敗の原因は、環境変化に対応できなかった行動主体の行動方針の側に収束すべきである。
 そもそも表現者にとって会話とは、知らない情報や論理を相手に伝えることである。もし表現者が、今まさに自ら伝えようとしている情報や論理が、相手の中に見当たらないのを憤慨するならば、それは奇怪な話である。同様に教育者にとって教育とは、教えようとしている情報や論理が受講者の側に無いのを前提にする。したがって教育者は、受講者への情報や論理の伝達の成否について全責任を負っている。とくに教育者は、伝えようとした情報や論理の習得の失敗の責任を、子供に対して推し被せることを絶対してはならない。そのような教育者は、教壇を去る必要がある。ただしこの伝達能力は、自らの論理改変を要するだけの理解能力と違い、相手の論理改変を必要とする。すなわちこの伝達能力は、表現主体がもつ伝達相手を改変する技術に応じ、その精度が劇的に向上する。この改変技術とは、簡単に言えば芸術のことである。当然ながら表現者、教育者、および変革者は、同時に芸術家であるべきである。逆に芸術家は、単に感性の表現者であるに留まらず、教育者、さらに変革者となる資格を有している。

 以前の俗物論にも記載したが、誰しもが俗物になる可能性を持っており、当然ながらその点では筆者も全く変わらない。それどころか、上記内容は筆者の反省と自戒に過ぎず、他人との比較で言えば、困ったことによほど筆者自身が俗物である。俗物はその存在自体が迷惑なものであり、人類進歩や社会発展の阻害要因の一つである。逆に俗物の減少は、それ自体が人類進歩や社会発展であり、もし俗物が世界から消えたなら、著しく世界は快適となるであろうし、一気に人類は理想社会を実現するかもしれない。逆に世界が俗物に満たされたなら、世界は民主主義を失った暴力支配の地獄と化し、一気に人類の社会生活は動物的次元へと堕落するかもしれない。
(2013/05/03)


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