唯物論者

唯物論の再構築

ヴィトゲンシュタイン(2)

2013-08-16 21:10:36 | 思想断片

 カントは、直観の形式として空間と時間の二つだけを提示した。そして空間を物体の存在形式として理解し、時間を意識の存在形式として理解した。それは、デカルトにおける延長と思惟の二元存在、およびスピノザにおける延長と叡智の存在の二形式を、彼なりに改変した結論である。ここで空間が物体の存在形式であるのは、すんなりと理解できる。しかし時間が意識の存在形式であるのは、それほどすんなりと理解できない。もちろん意識は、現実空間に現象しない。しかしそれは、時間的に静止した理念として現象することもあれば、意識空間としてあたかも空間的に現象することさえできる。デカルトとスピノザにおいて、延長に対峙して現れる思惟という存在形式は、ただ単に眼球を通じた視覚映像として、思惟的対象を捉えられないという事実に支えられている。つまり彼らにおいて思惟とは、単なる対象の属性にすぎない。この区別では、視覚映像ではない対象属性、例えば音や熱、または重さでさえ、物体ではなく、思惟としてみなされてもおかしくない。カントにおける直観形式が持つ困難は、目に見えないというそれだけの理由で、意識を時間世界の住人にしたことにある。このようなカントとの比較で言えば、ヴィトゲンシュタインがカント式の時空二元論を、時空色の三次元に拡張したのは、全く正当な試みである。カントの形式概念が持つ困難の元を探ると、アリストテレス以来の形相と質料の区別への無批判な安住、および認識論の先行構築を要求したカント自らの哲学的方法論へと辿り着く。この二点がカントをして、意識を格納する箱として時間を選択することを必然にしている。彼の哲学的方法論は、質料を格納すべき箱をあらかじめ必要としており、質料から形相が産まれ出るのを拒否している。だからこそ彼は意識を格納すべき箱に、時間をあてがうしかなかった。このようなカントに対してヘーゲル弁証法とフッサール現象学は、量から質への転化、ないしは汎化を通じた派生をもって形式の持つ先験性を瓦解させた。しかし「論考」のヴィトゲンシュタインは、カントの哲学的方法論をほぼ完全な形で継承している。そのことは、彼の時空色三元論をカント式時空二元論の単なる改変に留めることになった。

 時間的広がりをもって意識を形作ろうとするカントの試みは、最初から頓挫している。結局カントにおいて実質的な存在の形式設定の全てを請け負ったのは、物自体すなわち理念である。ヴィトゲンシュタインにおける色は、物自体の形式宣言にほかならない。しかし彼は、色のほかにも音や触感の形式を予期しながら、それら全ての存在可能性を、色という形式の中に流し込んでいる。それは、カントが空間的延長を除く全ての存在可能性を、時間という形式の中に流し込んだことの単なる再現である。ただしヴィトゲンシュタインは、実際に形式としての色を単なる物体の色彩として理解しているようにも見える。彼の形式概念の理解は、視覚映像の構築に最低限必要な形式だけを生かして、それ以外の形式を切り捨てているからである。もちろんそのような妥協が作る世界像は、時間的実在・空間的実在・色合い的実在を表現する各要素命題の論理積が、時間軸と空間軸と色彩軸の3次元の座標を作り出すだけに終わる。したがって彼の形式概念は、3Dの立体液晶画面を実現するだけであり、現象学が構築したような多次元座標の水準に到達していない。もともと現象学の問題意識は、意識を表現する命題から始まっている。ヴィトゲンシュタインと現象学の両者が構築した命題次元の差異は、その出発点の問題意識の差異をそのまま表現している。
 上述要領での要素命題の理解は、要素命題が表す事態の成立/不成立の在り様からも確認できる。全ての時間的実在・空間的実在・色合い的実在の各要素命題は、事態として成立する事実命題の場合、常に無意味なまでに真である。当然ながらその論理積も、常に真とならなければいけない。ところが「1億年前が実在する」という真命題と「東京が実在する」という真命題の論理積、すなわち「1億年前に東京が実在する」という複合命題は偽である。ここには真偽操作の普遍性に反する真偽結果が起きている。これは「三角の四角がある」という偽命題とは異なる。「三角の四角」は、空間という同一形式内の排他的な論理矛盾だからである。この不合理に対してヴィトゲンシュタインは、「東京が実在する」という命題が、分解可能な複合命題であることを指摘するかもしれない。ただしそれは、フレーゲに媚びて、命題中の自明とされた仮定の内在を指摘しているわけではない。ヴィトゲンシュタインにとって東京は、空間的な場所ではなく、色だからである。仮にフレーゲ流の一般命題の分解要望に応えるなら、今度は「1億年前が実在する」と「東京にあたる場所が実在する」という真命題の論理積、すなわち「1億年前に東京にあたる場所が実在する」という複合命題の真が問題になる。もちろんこの複合命題を真と見るのは、可能である。しかし1億年前の「東京にあたる場所」は、海底であるかもしれないし、見方によれば太陽を中心にした地球の周回起動上に位置する宇宙空間のどこかになるかもしれない。そのことは、「1億年前に東京にあたる場所が実在する」という複合命題の真、すなわち「東京にあたる場所が実在する」の要素命題の真が、単なる空間座標の実在の真にすぎないことを示している。しかしヴィトゲンシュタインの理解は、フレーゲ以上に奇怪な説明に至る。今度は「1億年前が実在する」と「東京という理念が実在する」という真命題の論理積、すなわち「1億年前に東京という理念が実在する」という複合命題の真が問題になるからである。この複合命題を真と見るためには、太古の時代に現代日本人の人間的意識が存在しなければならない。このことは、ヴィトゲンシュタインにおいても「1億年前に東京という理念が実在する」という複合命題の真、すなわち「東京という理念が実在する」の要素命題の真が、単なる理念座標の実在の真にすぎないことを示している。もちろんそれは、理屈としての精度を言えば、フレーゲを上回る。東京という概念は、東京の空間座標ではないからである。ただしこのように現れるヴィトゲンシュタインの理屈は、プラトンのイデア論の単なる焼き直しでしかない。この不合理に対処するために、少なくとも東京という理念は、時間的、空間的、および様々に現れ得る各種の閾値を、自らのうちに包括している必要がある。そうすれば真偽操作による真は、理念の閾値による偽において無視される。ただしそれにより、理念が普遍的に実在するという奇怪さが補修されることは無い。

 上記要領で要素命題を理解した場合、ヴィトゲンシュタインの依拠する世界観は、デモクリトスの原子論ではなく、ライプニッツの単子論に近い。この理解では、全ての複合命題は、時間的実在・空間的実在・色合い的実在を表現する要素命題を結合したものであり、名辞も時間軸と空間軸と色彩軸の3次元の点の塊として現れる。全ての対象は、時間座標と空間座標と色彩座標という属性において、一つとして同じ性質を持たない座標点へと分解される。同時にそこでは、その哲学的傾向が現象学へと向かうことも見て取れる。時間・空間・色彩の各要素が範囲不定な複合命題の場合、その複合命題は抽象化しており、一般命題として現れる。すなわち「我あり」は、特定の時期および場所の、特定の原因に従い、特定の目的に向かう、特定の現状に置かれた具体的な「我」ではなく、一般的で抽象的な「我」の実在を語る。このような命題の一般化は、要素命題が抱えていた具体的な真に蓋然性を持ち込む。しかし現象学では、本来の真は要素命題の中にこそあり、一般命題の真はその単なる派生態である。実存主義においても、この抽象的な真としての一般命題は、具体的な真としての個別命題の単なる派生態である。だからこそ実存主義は、本質として現れる一般命題が、自らを主人とみなし、現実存在に隷属を強いることに憤慨する。実存は本質に先立っている。隷属すべきなのは、本質の側である。実際に1億年前に、東京は実在しない。東京の実在は、明治以後に限られており、時間的閾値の範囲内にある要素命題を結合した複合命題だけが真である。このような形の具体による抽象への反逆は、現象による本質への反逆として現れ、全ての命題の一般化に敵対する。ただしこの場合に真理は、因果帰結において現れるべきではなく、論理帰結において現れなければならない。対象が現れたときに、同時にその真理も全て現象しているからである。言い方を変えるなら、真理は露呈することしかできない。一方でそのように理念からの論理帰結だけに依存する理屈は、ユークリッド水準の幾何学定理を先験的真理と信じ、物理法則を蓋然的真理として排除するのが常である。当然ながらこの理屈は、原因と結果の因果を拒否する。またこの理屈は、エネルギー保存則や慣性法則を、具体的事実の単なる可能性に対して常に劣後させ、そのことを喜々として自慢するのが癖である。言うなれば、この理屈の座右の銘は、見ていないときに月は存在しないことである。それは、エネルギー保存則のような蓋然的自然法則を、全て不可知なものとして扱う。ところが現象学にしても、「論考」におけるヴィトゲンシュタインにしても、カント流不可知論を否定している。その否定の理屈に従えば、現象を通じて対象を知ることは可能でなければならない。もちろんその対象は、エネルギー保存則のような自然法則であっても変わらない。果たしてこの理屈は、整合しているのだろうか?

 現在から過去と未来を切り離したフッサールに対し、ハイデガーは過去をひきずり未来へと投企する現存在を打ち出し、現象学を根底から改変した。ハイデガーは、カント式時空二元論はもちろん、ヴィトゲンシュタイン式時空色三元論も、さらにはフッサール式ヒュレー構造をも超越して、存在論の真っ只中に没入した。もともと上述の5W1Hの各要素は、フッサール現象学の段階で全て網羅されている。それどころか現象学は、一般的な命題表現に現れる全ての要素命題から、時間や空間や色と言ったケチ臭い形式をとっぱらっており、オブジェクトそれぞれが所属する複数のクラスとして、無限な方向で形式を用意している。なぜなら現象学において形式とは、事象内容を持たない本質にすぎないからである。つまり形式は、理念の数ほど乱立している。そこでは時間も空間も、ともに関係概念の派生態にすぎない。しかし過去に対する現在、未来に対する現在のそれぞれの志向に関して、フッサールは現在から見えた過去、および現在から見える未来の感想だけを語る。なぜならフッサールにおいて志向対象は、実在性の欠けた心的直観にすぎないからである。それは、意識を苦しめる過去ではないし、希望にあふれる未来でもない。フッサールにおいて、過去も未来も単なる現在である。この切迫感の欠けた時間論は、ハイデガーやサルトルに実存主義的憤慨を与えるものである。当然ながら、フッサール現象学の水準での過去と未来、すなわち原因と目的語は、結果としての現在に対して感性的にしか現れない。それは知的水準の低い動物感覚の命題だけを構成する。ただしヴィトゲンシュタインが構成する命題が、物理命題だけに限定されていたのに比べれば、それはまだ立派なものである。彼らに対してハイデガーの存在論は、カント流の平均的空間と主語目的語の志向関係、および平均的時間と過去・現在・未来といった時空形式のダブルスタンダードについて、その統合までを目論んだ。そしてその発想は、至極もっともなものである。そもそも目的の中に未来を見出し、そこに人間の人間たる由縁を読み取ろうとしたハイデガーの感性自体がずば抜けている。ヴィトゲンシュタインの存在論の水準は、ハイデガーの足元にも及んでいない。彼の語る命題には、時間と空間はあるが、過去も現在も未来も無く、単なる色としての主語だけがある。これは人間の語る言語ではない。

 ちなみに現象学は、自らを観念論として自覚している。そこでの存在者は、カントやヴィトゲンシュタインの場合と同じく、理念の論理的帰結としてのみ現実存在する。まるでそれは、現実存在を理念の外化したものに扱ったヘーゲル弁証法のようである。当然ながら肝心の理念の出自は、現象学において常に了解事項に含まれる。それは、ヴィトゲンシュタインと全く変わらずの、プラトンのイデア論の再来である。結果的に現象学において、実際には形式の先験性は瓦解していない。むしろ現象学では、形式以上に理念の先験性が復活している。そこでの理念は情念の姿をして現れており、その出自は、ヘーゲル弁証法での理念の出自を凌ぐ形で、一層の謎に包まれている。
(2013/08/16)


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