唯物論者

唯物論の再構築

善的実存

2012-09-15 10:31:09 | 思想断片

 美とは、刹那的な善の現在への到来である。この刹那的な善は、実際には虚偽への反発にすぎず、真理を希求するものではない。端的に言えば、それは善ではない。このために美は、自らを瞬間のうちにしか維持できない。当然ながら美が次に目指すのは、自らを永遠のうちに実現させることとなる。このために美は、刹那的な善としての自らを廃棄し、普遍的な善を目指す。すなわち、美としての現在は、未来の善を目指す。キェルケゴールにおいて人間精神の弁証法が示す各段階は、それぞれ美と善と真の実現に対応する。すなわち人間の精神的深化は、美に始まり、倫理をめざし、宗教に到達する。彼は人間の精神が、自ら悟る形で、最終的に同じ行程を歩むと考えている。言わばそれは、人間精神の進化論である。それが対抗しようとする思想は、絶対理念の進化論としてのヘーゲル哲学である。

 一般に倫理的要請は、慣習として、または宗教的教義として、個別者に先立って世界に存在する。したがって人間が倫理の実現を目指すのは、取り立てて深遠な真理を必要としていない。つまり倫理的要請は、常に自明なものとして個人の前に現われている。ただしその自明さは、社会秩序を個人より優位に立てた自明さであり、一般を個別より優位に立てた自明さとなっている。このためにその倫理は、個人の内面から要請されるのではなく、個人の外部から強制されている。キェルケゴールの眼にこのような理屈は、普遍的理念だけを現実とみなし、個人を非現実に扱う欺瞞として映る。そして彼は、このような個別存在に対立する一般論の究極の姿を、ヘーゲル哲学に見ている。彼にとってヘーゲルの客観的合理主義は、個人の魂を生贄にして国家的理念を構築しただけの逆転した弁証法である。キェルケゴールの関心は常に、ヘーゲルが相手にしている抽象的本質ではなく、ヘーゲルが打ち捨てた現実存在の側に向いている。キェルケゴールは、最初から最後まで、個人の魂の救済だけを問題にしている。
 実際には、キェルケゴールが批判の俎上に上げたのは、ヘーゲルではなく世俗化した教会である。とはいえ別に彼は唯物論者ではないので、彼の批判は宗教それ自体には向いていない。しかも彼は自らの思想に対して、ヘーゲルへの依存を含めて、教会への精神的帰属を自覚している。明らかにこのような世俗への依存と反発は、彼にとって矛盾である。しかしこのことを彼は、自らの精神的深化の必然的な行程として理解する。つまり刹那的な美が目指す普遍的な善とは、さしあたり世俗的な宗教なのである。少なくとも彼にとって、それ以外の道は有り得なかった。世俗的な宗教に対する熱情は、美の刹那を補填し、意識の存在を充実させる。しかしこの世俗的な宗教は、魂の救済を目指すものではなく、単なる綺麗事を唱えるだけの空虚な善である。この空虚な善は、世俗化した教会としてのみ現われるわけではない。同じ観点で言えば、民族主義や国家主義、または社会主義や共産主義は、世俗化した教会の変種にすぎない。さらに言えば、自らの死をも厭わない民族主義や共産主義、またはカルト化した宗教は、この空虚な善の極致である。イスラム原理主義の自爆テロ実行犯は、もっぱら自らの人生に絶望した貧者である。排外主義に血道をあげる民族主義も、もっぱら失業や格差社会を背景にして生まれる。それらの善行は、その生まれ出た背景から見れば、自らの生の苦悩に対する方向違いの対処である。それにも関わらず、その対処は彼らに存在の充実を与えている。この存在充実は、善の放つ誘惑的な美がもたらしている。
 美は、自らの瞬間的な充実を永遠のものに転ずるために、善を目指す。ところが善は、未来の住人であり、美に代わって現在を充実することができない。未来は、逃げ水のごとく、いつまで立っても未来である。この事実は、善を終わりの無い挑戦として表現する。したがって善は、美と違い、もともと空虚なものでしかあり得ず、存在の充実をもたらすことは無い。善による存在の充実は、自らを美として粉飾することでのみ発現する。つまり善のもたらす充実とは、実は刹那的な美がもたらす存在の充実である。巷にあふれる善がもたらす存在の充実は、実際には美の錯覚なのである。しかし美が現在の具体として現われるのに対し、善は未来の抽象として現われる。このことは、善が放つ美に永遠性を与える。その美は、もともと美がもっていた瞬間性を克服している。善の美は、虚偽にまみれた現実世界の対極で精錬した光を放っているように見える。それだからこそ、人間は善にのめり込む。とくに現実の自分に絶望した人間は、善と引換えに自らを滅ぼそうとさえする。

 倫理は美に対して優位に立つ。しかし倫理を神として承認すれば、ヘーゲル哲学における現実存在と同様に、個人は理念を実現するために現われる単なる鉄砲玉に成り下がる。キェルケゴールの考えでは、神は個人とともにいる。個人に対立して現われる倫理は、世俗化した神にほかならない。世俗化した倫理では、個別に対する一般の優位が、あたかも自明のごとく現われる。しかしキェルケゴールにとって倫理は、個人の内面から立ち昇るべきものである。彼の問題意識は、個人に対立して現われる倫理の再構築を要求する。言い換えれば、個別に対する一般の優位は、逆転されなければならない。だからこそキェルケゴールは、倫理の実現の前に美を連繋し、倫理の先に信仰の実現を連繋する。倫理の実現は、それ自体が目的ではない。倫理は美の延長上にあり、さらにその先に魂の救済がある。それこそが、倫理を意味づける真理のはずである。なぜなら美と善は、それぞれに必然をもって現われたからである。同じ必然は人間に対し、美に留まることはもちろん、善に安住することも許さない。倫理は神より優位に立てないのである。その必然は人間に対し、真理への到達を要求している。もちろんキェルケゴールは、その必然を神とみなし、到達すべき真理を真の宗教と理解した。そして真の宗教において魂の救済が実現すると信じた。ただしその真の宗教は、内実をもっていない。それは、世界に神と名付けられた必然が存在し、それによって個人が生かされていることを示すだけである。その必然は、現実世界の苦悩に対して、美を追求し、善を目指し、なおかつ自らを克服できないことの自覚を要求する。しかし個人の内部で起きた深化の行程を必然として認めるならば、今度はその深化の行程の全ての出来事も必然として現われる。全ての苦悩は、最初から救いの道に続いていたのである。個人がそのことに気付くなら、魂の救済は半ば完了する。さらにそのことに心底納得するなら、魂の救済も同時に完了する。つまり魂の救済とは、一種の諦めであり、悟りである。それは個人に対し、人間の再始動を諭している。

 真理の裏づけをもたない善は、善を目指さない美とそれほど大差は無い。それらはいずれも、実際には悪であり、汚物である。綺麗事としての空虚な善は、自らの出発点を見失った単なる抽象にすぎない。キェルケゴールにとって、美文を並べ立てるそれらの全てが、等しく偽善である。彼の前には、それらの全てが、天を見て地を見ていないものとして現われている。それらは全て、真理を持たない善である。
(2012/09/15)


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