たとえば、いま、東南アジアのどこかの水田で、
一人の農婦が黙々と農作業をしている。彼女の村は皆殺しにあい、
父も母も、夫も、子どもたちも、そして隣人たちも殺された。
なにかの偶然で彼女一人が生き残った。
要するに、親しい人、愛する人が、みんな死んだ挙げ句の生き残り。
ふだんから控えめな人だったが、最近はますます寡黙。
毎日、炎天下で働いて、食べて、寝るだけである。
娯楽はない。心を浮き浮きさせるようなこともない。
夢もない。
時間と空間を少し広げれば、私達も実はこの農婦と変わらない。
なにしろ、罪もない人、心優しい人、非戦闘的な人、正当防衛だった人が、
大量に殺されきた挙げ句の生き残り。なにも、イキがったセリフなど
吐けないし、かっこつけることもできない。
破壊された家の跡地に、ぼうぜんと立っているようなものだ。
家はまた建てることができる。
彼女は再婚してまた子供をもうけることもあり得る。
しかし、以前と同じ、言うなれば呑気は、生活感覚には二度と戻れない。
大失敗の記憶が歴史的感覚として万人に深く根付かないかぎり、
言い換えれば、おめでたく元気であるかぎり、
愚行と悲劇は繰り返される。
油断しているからヤられるし、ある人はヤる側に回る。
私達は大地にしっかりささった、錆びた五寸クギになって、
冷たい心と冷たい目を持ち、地球上に残っている微熱、ひ弱な浮き足立を
冷ますのだ。
歴史の成果を肯定的にだけ見ることはできない。
科学文明がよく引き合いに出されるが、そんなものは、ない時代、
ない土地でも、それなりに生活は十分に成り立っていたのである。
だから、定理●科学文明的には、どの時代も同一である。
小学校でも、中学でも高校でも、歴史を習う。
でも、そこには、歴史と人間(=まず自分自身)との関係が把握されない。
で、文字通り、関係ナイね、になってしまう。
千×百×十×年には、ナントカ革命があっったんだってよォ。
いまの自分というものは、比較的ついこないだ生まれて、
生まれたての人間だから、歴史なんて関係ない。
だれもがそう思いつつ、実際は、
だれもが歴史的条件の中でしか生きられない。
でも、生き方や心がけは、ある程度選べる。
私は、私もまた、さきにあげた東南アジアの農婦だと思って生きていたい。
ロックがかつて、歴史に対して全否定を投げつけたのも、
彼女の立場からだったに違いない。
でないと、すべてはウソだったことになる。
一人の農婦が黙々と農作業をしている。彼女の村は皆殺しにあい、
父も母も、夫も、子どもたちも、そして隣人たちも殺された。
なにかの偶然で彼女一人が生き残った。
要するに、親しい人、愛する人が、みんな死んだ挙げ句の生き残り。
ふだんから控えめな人だったが、最近はますます寡黙。
毎日、炎天下で働いて、食べて、寝るだけである。
娯楽はない。心を浮き浮きさせるようなこともない。
夢もない。
時間と空間を少し広げれば、私達も実はこの農婦と変わらない。
なにしろ、罪もない人、心優しい人、非戦闘的な人、正当防衛だった人が、
大量に殺されきた挙げ句の生き残り。なにも、イキがったセリフなど
吐けないし、かっこつけることもできない。
破壊された家の跡地に、ぼうぜんと立っているようなものだ。
家はまた建てることができる。
彼女は再婚してまた子供をもうけることもあり得る。
しかし、以前と同じ、言うなれば呑気は、生活感覚には二度と戻れない。
大失敗の記憶が歴史的感覚として万人に深く根付かないかぎり、
言い換えれば、おめでたく元気であるかぎり、
愚行と悲劇は繰り返される。
油断しているからヤられるし、ある人はヤる側に回る。
私達は大地にしっかりささった、錆びた五寸クギになって、
冷たい心と冷たい目を持ち、地球上に残っている微熱、ひ弱な浮き足立を
冷ますのだ。
歴史の成果を肯定的にだけ見ることはできない。
科学文明がよく引き合いに出されるが、そんなものは、ない時代、
ない土地でも、それなりに生活は十分に成り立っていたのである。
だから、定理●科学文明的には、どの時代も同一である。
小学校でも、中学でも高校でも、歴史を習う。
でも、そこには、歴史と人間(=まず自分自身)との関係が把握されない。
で、文字通り、関係ナイね、になってしまう。
千×百×十×年には、ナントカ革命があっったんだってよォ。
いまの自分というものは、比較的ついこないだ生まれて、
生まれたての人間だから、歴史なんて関係ない。
だれもがそう思いつつ、実際は、
だれもが歴史的条件の中でしか生きられない。
でも、生き方や心がけは、ある程度選べる。
私は、私もまた、さきにあげた東南アジアの農婦だと思って生きていたい。
ロックがかつて、歴史に対して全否定を投げつけたのも、
彼女の立場からだったに違いない。
でないと、すべてはウソだったことになる。
これも私がお送りしたテキストだと思いますが、「農婦」とすべきところを「農夫」と間違えてしまっていたみたいです。お詫びして、訂正させていただきます。
http://www.cdjournal.com/main/calendar/today.php?tno=1411
「解らないけど分かる」、岩谷宏の言葉は当時の小学生の見聞きしてきたその どの言葉ともまるで違っていました。
あれから30年、大切にしていたのですが、引越しの時に紛失してしまいました。
どうか、もう一度、あの「ゴミ」「時の砂漠」「タイトルは失念してしまいましたが、ガラスの円い橋が架かった…炎の花弁が育った。深く球球に打ち込まれた杭であることが出来なかった人々は…」のあの詩、どうしても読みたいのです。
カスラさんがお書きになっているのは、正確には「ごみ」「すりガラスの砂漠」「カイエ」だと思います。
けい子さんの許可が得れれば、私は3作ともテキスト文書化します。お待ち下さい。