毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

世界は 自分は どう変わる?

2016年10月01日 16時20分08秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


慣れとは恐ろしいもので、「他者や外の世界は自身の鏡」 との視点が かなり板についてきました。

目の前の人や状況を、もちろん最初は思いっきり外側の事象として見ますが、ひと呼吸後には 「これって自分のなにが映し出されてるの? どういうメッセージ?」 という意識がかぶさってきます。

さらにそこに 「選ばないものもあっていい」 という認識が加わった結果、八つ当たりができなくなりました




いや、旧思考回路は健在ですから、今でもムカッとくることはしょっちゅうだし、とたんに そのイライラを叩きつける先を探しもするのですよ。

でも次の瞬間、なんともいいようのない不快感がこみ上げてくるのです。

イラ立ちを外に投げつけたい欲求と 「外ってなに (誰) よ? ぜんぶ自分でしょ?」 と水を差す声がぶつかり合うせいです。

こういうとき、つくづく 人はダマせても 自分はダマせないことを思い知らされます。

相容れないものもあっていい、なによりしょせん 目に映るものすべて自分なのだから 怒っても始まらない、という意識に 今さらフタはできませんもの。

不快感からのがれたければ、一刻も早く降参して 当たり散らせる相手などどこにもいないことを認め、さっさと感覚フォーカスに入るほかないのです。

結果、「ほんとうにいるのは自分ひとり」 という世界観が ますますしっかり根付きつつあります。




ずいぶんと時間がかかりましたが、この視点を持てたことに 大きく救われています。

五感の世界の視点しかなかったら、この世は ときに不条理で恐ろしいところです。

そもそも、脳の配線が未完で 言葉もうまく使えないころに 一方的に刷り込まれた他者の観念で 自分の一生が大きく左右 ・ 制限されてしまうなんてこと自体、ものすごく不当なことではありませんか。

しかもこれ、「三つ子の魂百まで」 の言い伝えどおり ちょっとやそっとでは解けないときている。

最近 怒りを溜め込んで 不特定多数にぶつけて回るような事件が よく目につきますが、みな まず先に自分が不当な目に合わされたんだ、だから奪われたものを奪い返そうとしただけだ、というような苦い思いを どこかに抱えているのではないでしょうか。

この視点しか持たない人ばかりだったら、これからますます剣呑な世の中になっていく氣がします。




が、「自分しかいない」 という視点を併せ持っていると、話が大きく違ってきます。

もともと非の打ち所なく完璧であったひとつの自分を 無数に分け、それぞれ異なる性質を持たせて放ったのが、今の私たちと この世界。

私たちは あらゆることを体験し 楽しむために この世にやってきたのだ、そんな見地に立てば、不当な刷り込みも ゲームを盛り上げるための要件に早変わりです。

私たちは、被害者ではなく挑戦者、犠牲者ではなく冒険者なのだ、と

そして そんなチャレンジャーの視点こそが あらゆる窮地を切り抜けさせ、新しい道を開きます。




被害者犠牲者として自分を見ていると、いつもイライラして心が落ち着かず、さらに 「不当な仕打ちもがまんするしかないんだ、そういう自分なんだ」 という (無意識の) 低い自己評価が そのとおりの現実を生み出し、ますます怒りやネガティブイメージが大きくなっていく悪循環にはまります。

このときの重苦しい感覚や無氣力さが、チャレンジャーのイメージを持ち込むだけで ぐんと軽く明るく 風通しよく変わります。

最初は無理やりでもぎごちなくてもウソっぽくてもかまわない、ちょっとでもこの新しい視点に心動くものがあるなら とにかく取り入れて、根付くまで 粘り強く刷り込み続けて吉です (^^)v

ウソですら繰り返せば真になるほど 言葉の力は強いもの、忘れていたほんとうの自分を思い出すのに遠慮はいりません。




「自分しかいない」 感が強まると共に、言葉で構築した世界の作り物 (幻) 感も じわじわと確かなものになりつつあり、自分の世界観ってこの先どうなるのかと興味津々の貴秋です



















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする