今日の話題はあまり気分の良い話ではない。
ので、心にのりしろがない方にはお勧めしない。
他でもない、子猫の件。
どこぞの女性作家が「社会の公器」上で自らの性癖を告白した、あれですよ。
彼女の論旨やそれに対する世間の猛烈な反抗については割愛。敢えてリンクさえ張りません。
そもそもひさは無類の猫好きなので、今回の件は冷静に考えることができない。
これまで何度か批判的なことを書こうとしたが、どうしても感情的になってしまって文章がまとまらなかった。
これが例えばひさが大嫌いな犬だったらどう思っただろうか、と考えてみたが、これはこれで逆もまた真なりだということに気付き断念。
ということで、彼女の所業、性癖、言い訳もといへ理屈、そして世の中の動きについては直接的には言及しません。ざまあみろ。(誰にだ)
それでも尚且つ少しだけ。
親戚に鳥肉が一切食べられない人間が居る。
食べられないどころか料理するのもだめ、人が唐揚げを食べているのを見るのもだめ、さらに人が鶏肉を食べた後であることを微かに漂う口臭から言い当てるほどの徹底ぶりである。
一時期は卵もダメだったそうだ。
原因ははっきりしている。
戦後間もない頃、食糧難が漸く解消したかしないか程度の時期、タンパク源といえば給食で出るまずいクジラの肝油ドロップくらいだった頃の話。
ご近所のおじさんが「ごちそう」だと言って、そこら辺を飛んでいるスズメをパチンコ玉で打ち落としてくれたそうだ。
おじさんだけでなく、当時それはまあまあ一般的にされていたらしい(とその親戚は言っていた)が、
それ以降その親戚は一切鳥に顔向けできなくなった。らしい。
あの鳥は食べてこの鳥をかわいがる、という芸当ができなくなった、ということなのだろう。
だがこういう人はあまり一般的ではない。
大抵の人間は、動植物を愛でる心を持ちながら、同時に生存の一環として殺生に関わっていることを受け入れているか、もしくは気付かない振りをしている。
生は、殺生を疎んじる理性よりも先に生まれたのだから、相容れなくてもおかしくはない。
むしろ自分に直接かかわりのないモノに対しての尊厳、という理性が生まれたからこその話で、相容れないことそのものに苦しむ必要はないのではないか、とひさは思っている。
自らの生存のあり方に感情を込め始めると絶食しなくてはならなくなるからね。
実際、そのあたりを止揚すべく、これまでにいくつもの宗教が一定の解を導き出している。
だが、さらにやっかいなことにこの理性、人間は動植物を自分の同種に見立てて愛でる習性まで持ち合わせてしまっている。
丁度ひさが良い例でしょう。猫ならライオンでも豹でもかわいいが、犬ならチワワもにっくき敵だ。
でもこれは例外的なことではないらしい。
住民票までとっていた那賀川のアザラシが不慮の死を遂げたことに涙する人から、2足歩行するアライグマの子供誕生に涙する人まで。
一方では勝手に人格を与えてかわいがりながら、もう一方では食したり疎んだりすることができる。
そもそも、人を愛しながら一方で殺し合いができるものであるのだし。
こちらもいくつもの宗教が克服しようとしてきた点ではあるのだが、どうやらぱっとしない。
だから、例の彼女も、子猫を棄てながらそれを産んだ親猫を愛でることができるわけだ。
彼女を非難する人々も、見たことも会ったこともない子猫をかわいそうだと嘆きながら、見たことも会ったこともない彼女のことを正視に堪えない罵詈雑言を注ぎ込んでこき下ろすんだ。
この件、本当は底の見えない人間の業というものが真の姿なのじゃないだろうか。
という恐ろしく暗いネタが当ブログ記念すべき100記事目と相成りました。
日頃からのご愛読つとに感謝いたします。