某大手経済新聞の最終面に連載されている朝刊小説。
名前を「愛の流刑地」という。略して「愛ルケ」。
もっとも冬ソナになぞらえて最初にこう略したのはあるブログ上でのことだそうですが。
簡単なあらすじ。
売れない小説家kikujiは自分のファンだという控えめでおとなしくて手がきれいな人妻と恋に落ちる。
当初不倫に抵抗があったと思われる女もいつの間にかどろどろの性愛の世界に目覚めていく。
連載開始後1ヶ月もたたないうちから「うふん」「あはん」言語が沢山登場する話なんて朝っぱらから読みたくないんですがね。
仕事上この新聞は読まなければならないので3日に1回くらい見るはめに陥っていますが。
ともかく。
男の愚かさ、妄想の激しさに比べて女のしたたかさがいかにすごいか、という話に展開されない限りこの話はただの自慰小説でしかないのでは。
私の周りの若い男も若い女も、皆辟易してますよ。
皆kikujiよりもhuyuりんよりももう少し瑞々しい恋愛をしているはずですから、ああいう言葉とか陳腐な表現で行為を表現されることにうそ臭さや加齢臭を感じる、と。何が「快楽のベル」かと。「蕾」かと。
kikujiのように「今夜はヒメハジメだよ」とかくさい言葉がなくとも、肉体でもって相手を組み伏せることができる連中ですから。
でも、何と負け犬世代から結構支持を得ているらしいんですね。聞くところによると。
負け犬女の恋愛は50代男が対象なのですと。
50代男も、若すぎる女よりは不倫を他人に黙っていられる分別ある30代女のほうが扱いやすいそうです。
しかし、そんなばかくさい言葉の応酬でしか「恋愛している」実感が得られないとすると、それは大層不幸なことではないでしょうか。
というよりも、それは恋愛ではないのではないでしょうか。恋愛ごっこ遊びでしかないでしょう?
むしろ同作家が書いた「失楽園」のように、体の関係でもって愛を実感して情死がハッピー、みたいなほうがよっぽどましな展開に思えます。
もしも今回の「愛ルケ」で本気で共感しているとすると、それは負け犬さん、本当人生に負けちゃいますから。お気をつけあそばせ……。
名前を「愛の流刑地」という。略して「愛ルケ」。
もっとも冬ソナになぞらえて最初にこう略したのはあるブログ上でのことだそうですが。
簡単なあらすじ。
売れない小説家kikujiは自分のファンだという控えめでおとなしくて手がきれいな人妻と恋に落ちる。
当初不倫に抵抗があったと思われる女もいつの間にかどろどろの性愛の世界に目覚めていく。
連載開始後1ヶ月もたたないうちから「うふん」「あはん」言語が沢山登場する話なんて朝っぱらから読みたくないんですがね。
仕事上この新聞は読まなければならないので3日に1回くらい見るはめに陥っていますが。
ともかく。
男の愚かさ、妄想の激しさに比べて女のしたたかさがいかにすごいか、という話に展開されない限りこの話はただの自慰小説でしかないのでは。
私の周りの若い男も若い女も、皆辟易してますよ。
皆kikujiよりもhuyuりんよりももう少し瑞々しい恋愛をしているはずですから、ああいう言葉とか陳腐な表現で行為を表現されることにうそ臭さや加齢臭を感じる、と。何が「快楽のベル」かと。「蕾」かと。
kikujiのように「今夜はヒメハジメだよ」とかくさい言葉がなくとも、肉体でもって相手を組み伏せることができる連中ですから。
でも、何と負け犬世代から結構支持を得ているらしいんですね。聞くところによると。
負け犬女の恋愛は50代男が対象なのですと。
50代男も、若すぎる女よりは不倫を他人に黙っていられる分別ある30代女のほうが扱いやすいそうです。
しかし、そんなばかくさい言葉の応酬でしか「恋愛している」実感が得られないとすると、それは大層不幸なことではないでしょうか。
というよりも、それは恋愛ではないのではないでしょうか。恋愛ごっこ遊びでしかないでしょう?
むしろ同作家が書いた「失楽園」のように、体の関係でもって愛を実感して情死がハッピー、みたいなほうがよっぽどましな展開に思えます。
もしも今回の「愛ルケ」で本気で共感しているとすると、それは負け犬さん、本当人生に負けちゃいますから。お気をつけあそばせ……。