札幌で菜食  別館

菜食食品をひっそり紹介する・・・予定だったけれど、雑記に変更。今のところ主に子育て

好き嫌いのなおし方

2008-08-19 | Weblog
肉も魚も牛乳も卵も蜂蜜も食べない僕が言うと、おまえが言うな、とつっこみを入れたくなる方もいるかもしれないが、僕が動物の死体やその死体から絞った汁を食べないのは好き嫌いではなく、主義からのもの。

主義もなく味や食感などが嫌いだから食べられない、というのが好き嫌い。
もちろん、味に好きやあまり好きでないのがあるのはあまり問題ではない。僕が問題にしたいのは、嫌いだから食べられないという子供。

たとえば人参や玉葱、トマトなど、それが入っている食べ物は食べられず、残したり、食べなさいと言われても鳴いたり吐いたりする子供がいる。

子供の好き嫌いは、コツさえ知っていれば簡単になおせるものだということを、多くの親が知らないらしいことを、お泊り会で我が家に泊まりに来た子供たちを見て知った。


嫌いなものも食べられるようにする方法は簡単。

・味もわからないくらい小さなかけらを、ひとつだけ食べさせて誉めること。

例えば納豆が嫌いな子供には、納豆を4分の一粒ほどを食べさせる。それも無理ならさらにその半分でも可。
小さな子供であれば、高いところからスプーンをトントンと降ろしていってアンパクとか、お父さんのお口かな、お母さんのお口かな、人形の熊さんのお口かな、と他の人が食べる真似をしつつ最後に子供の口にパクっと、競争心を利用して、とにかく口に入れる。
小さなカケラだからこどもはあまり味を感じない。感じないから食べられる。
食べたらとにかく誉める。偉い、嫌いな食べ物を食べられるなんて偉い、素晴しい、感動した、と、とにかく誉める。
明日は2分の1粒を食べて誉める。その次の日は2分の1粒を2回食べて誉める。、、、、を繰り返して少しずつ多くしていく。

きっと食べられるようになる。

ホイホイと手伝ってはいけない

2008-08-14 | Weblog
数年前、子供の園の登山についていったときに、上着を脱ぐのに苦労していた子がいたので、無言で後ろから手を貸してあげた。
その時に保育士と目が合って、彼女は何か言いたげな目で見つめたまま顔を横に振った。ここは日本だから、首を横に振る動作はYesではなくNoの意思表示だ。
その保育士は僕よりも先にその子の側に移動し見守っていたのだった。
子供が自分で出来ないときには「テツダッテ」という言葉を子供自身が発するのを、我慢強く待っていたのだった。


また別のとき、園の玄関で、子が自分で靴を履くのを待っていると、園長が出てきて僕を誉めた。時間をかけてまどろっこしい履き方をしている子を待ちきれずに、手伝ってしまう親が多いのだという。子供は、なかなか履けない試行錯誤のなかで、着実に学び成長するのに。


子供の行動の露払いをしてはいけない、とその園では親に教えている。その通りだ、と納得した。子供が自分で育つ機会を、親が奪ってはいけない。

例えばぼこぼこ道で「転ぶから手をつなぎなさい」と言ってみたり、誰かに何かをもらってすぐに「お礼を言いなさい」と促したり、常にある「気づく」、「学ぶ」機会を親が子供から奪っているのはよく目にする。


口や手を出す前にまず見守る。見守る間に親も少し考える。そういう習慣を持つことの大切さを教えてもらった。


「コレデキナイカラヤッテ」と子供が持ってきても、すぐにやってあげないように気をつけている。
「見ててあげるから自分でやってごらん」と答えるようにしたい。親の前で落ち着いてやればできることもあるし、できなければコツを教える。そして自分でできたら誉める。
自分で出来たことと誉められたことで、子供は自信を持ち、自分を誇りに思う。目は輝き体から力がほとばしっているように見える。

子供の持つ力を伸ばす子育ては、本当に楽しい。




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怒らずに叱る

2008-08-13 | Weblog

叱ることと怒ることの違いについて書こうとしてタイトルを書いてみたが、既に誰か書いているのでは?、と検索してみた。

・・・・・、あった。

ブログ「!? びっくり&はてな」の「叱ると怒る」  http://ameblo.jp/wowm/entry-10006718153.html

 ○ 叱る:「しつけ」や「教育」「指導」といった一環で、「愛情」をもって、「相手のため」に苦言を呈すこと。

○ 怒る:なんらかに対し、「自分の気持ち」が激情し、押さえつけることができなくなる感情。 

つまり、「叱る」には、「相手への愛情」があるのですが、「怒る」のは、「自分の中の憤り」があるということです。子供や部下に対しては、「過ち」に対し「叱る」ことが「大切」です。「叱咤激励」といったほうがわかりやすいかもしれません。

 

 

名称不明のサイト内にある「「叱る」と「怒る」」は教育者によって書かれたものらしい。 http://www1.ocn.ne.jp/~hhisashi/job/arekore/sikaru.html

誤った叱り方に対して子供がどのように受け止めるのかが表になっている。叱ると怒るの違いとその実践についてこれまであまり考えなかった方にぜひ見ていただきたい。

 

 

僕の両親は、叱るではなく怒ることが多かったと記憶している。本人たちは親の権威を重要視して、子供からは尊敬されたがっていた。しかし、理屈でなく感情で怒る親を見る僕は、心の表面では泣きつつも心は冷めていた。

怒(いか)っている親を見る子供が抱くのは尊敬ではなく軽蔑であることを、忘れずに子供と接するように注意している。難しいこともあるけれど、今後も忘れずにいきたい。

 

 

 

 


濡れるからやめなさい

2008-08-12 | Weblog
とても暑い日に、湖で泳いだ。1時間以上ずっと泳ぎっぱなし。
岸に戻ったときに4歳前後の子供が水に入ろうとしているところに鉢合わせたが、その子の母親は、「濡れるからやめなさい」、と言って子供を制止した。

「濡れるからやめなさい」
これでは、濡れることが悪いことのように聞こえる。

かわいそうな子供。濡れたっていいじゃないか。絞ればすぐに乾くし、濡らすのが嫌ならパンツ1枚で泳がせればいい。(濡れて困るその後の用事もあったかもしれないが)

小さな子供が水に触れることは大切だ。プールや水道の塩素臭い水ではなく、命のある湖の生きた水に全身の肌で触れることは、その子の情緒の形成に計り知れない恩恵を与えるに違いない。
地上ではなく水面の視点から見渡す湖面と周囲の山々の美しさ、知る機会を、一時服が濡れるというただそれだけの理由で奪っている。

かわいそうな子供、と書いたのは、水遊びできないからだけではない。濡れることを通して学ぶいろいろなことを奪われたのがかわいそうなのだ。


子供を育てる親の一つの言葉、ひとつの行動は大きな選択であると思う。

こどもの服が濡れても、汚れても、それを叱ったり止めたりする親にならないようにしたい。
時には妻に叱られても、時には周りからアホだと思われても、子供と一緒になって濡れて、一緒になって汚れる親になりたい。






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