ペキニーズとDIY-GG日記

ビッキーとDIY大好きGG家族ブログ

第7部:2年目のシーズン・・・その2(筑波でクラッシュ)

2008年01月31日 22時23分05秒 | 日々反省の日記
中山サーキットでの優勝で弾みをつけたいという思いを抱き、全日本初戦の筑波に
臨む。
筑波サーキットに入ると、いつもの馴染みの仲間達と顔をあわす。
選手権のときしか、ほとんど顔をあわすこともないのに気の合う奴がいる。
互いに同じ目的を持った仲間だからだろう。
選手権参加の手続きを済ませたら早速、練習走行にはいる。
ここ、筑波サーキットで転倒したくないコーナーが2箇所ある。
一つ目はダンロップ下の右から左への中速コーナーだ。
二つ目は裏のストレートから最終コーナー向かう高速コーナーだ。
2箇所とも転倒すると、ただでは済まないという恐れがあった。

練習走行は、一周目を軽く流し2週目からは少しづつペースをあげていく。
3週目にはいり第一ヘアピンを抜けダンロップ下コーナーを右左へと切り返し
アクセルを開けた瞬間、リアがすべった。あわててアクセルを戻すと一旦グリップを
失ったスリックタイヤが急にグリップを取り戻しリアがすべった反対方向に吹っ飛び
暫くマシンと体が激しく転がっていく。
気が付くと救急車が駆けつけてきた。救急車に乗り込むとそのまま病院に直行し
そのまま手術、入院となった。
右手薬指の腱が断裂と薬指と小指が骨折していた。
破損したマシンは仲間が回収してくれていた。

1988年、筑波での初戦はクラッシュで終わった。

次回に続く

第7部:2年目のシーズン・・・その1(ポールtoフィニッシュ)

2008年01月30日 22時52分30秒 | 日々反省の日記
1987年のシーズンは結局、鈴鹿でのポイントだけだった。
筑波サーキットの選抜レースも雨の中、18位どまりだったし鈴鹿での2戦目も
予選は通過したものの雨の中、マシントラブルも重なりほとんど最後尾だった。
1988年、2年目のシーズンに入り全日本のレース前に岡山県の中山サーキットで
開催される地方選に参加した。
出場台数は少なかったものの参加選手にはチーム片山の二人もいた。
おまけにレースクイーンまでいるではないか!俄然やる気がでてきた。
天気も快晴でコースコンディションも良く、私自身も調子がよかった事もあり
予選ではポールポジションもとれた。
決勝は、スタートで一瞬出遅れたものの一コーナーの進入ではトップで入った。
その後は、一度もトップをあけわたす事なく最終コーナーに入り立ち上がりで
後方を確認しホームストレートへ・・・そこで少し不安を感じていた。
「今のが、最終ラップだった・・・はず・・・」そしてゴールラインを越えたときに
チェッカーフラッグを見落とした。
ウィニングランの筈が、結構全開で走ってしまった。
本来、ウィニングランなら観客に手でも振りながら余裕で走りたかったのに残念!
でもゴール後、3位までの選手はオープンカーでパレードランをしてもらったので
少しは初優勝の感激を味わう事ができた。
ただ、表彰台でシャンペンシャワーが上手くできなかった。
本来、シャンペンシャワーをするときは先に栓を抜いて指でビンの口を押さえてから
ビンを振り勢いよくシャンペンを飛ばすのだ。でも初めてのことで知らなかったのだ。
とにかく初めてのポールtoウィンだ。2位と3位にはチーム片山の二人が入っていた。
このときの優勝トロフィーは20年経った今でも家に置いてある。

この地方選の優勝で勢いをつけて全日本選手権最初の筑波に臨むのだが・・・

次回に続く

第6部:全日本選手権参戦・・・その7(初めてのポイント2)

2008年01月29日 21時34分18秒 | 日々反省の日記
「ぶつかる」と思った瞬間、アウト側にいた選手も車体を起こしたのだが、2台とも
みるみるアウトに膨らんでいく。私はかろうじてコース内に留まったもののアウト側の
選手はコースアウトしてしまった。
「悪い事をしたな・・・」という思いも一瞬あったが、すぐに前走者を追いかける。
シケインを抜け最終コーナーを抜けるとホームストレートにはいる。
前走者に追いついた。おそらく9位の選手だ。「見た事あるマシンだな・・・」
知り合いのマシンだった。そのまま一コーナーへ進入していくその時だった。
奴のマシンがふらつく。リアタイヤの挙動がおかしい、トラブルを抱えている様子だ。
マシンの抑えが効かないせいか、コーナーの攻めが甘い。
難なく抜き去る事ができた。「しかし、あの状態でここまで走るとは・・・」
しかし私の追い上げもここまでだった。
8位との差が大きくて追いつくことが出来ず、9位のままでフィニッシュ。
とりあえず初めての決勝でポイントまで取れた。うれしい初ポイントだ。

このレースでポイントを所得したことでシーズン後半の筑波サーキットでの
選抜レースに出場する権利も得た。

次回は1988年に舞台をうつして書きます。

次回に続く

第6部:全日本選手権参戦・・・その6(初めてのポイント1)

2008年01月28日 21時24分05秒 | 日々反省の日記
その年の鈴鹿での最初のレースでエントリーも120名を超えていた。
決勝を走れるのは42名だけなので予選通過するだけでも厳しい状況だったが
予選は、なんとか20位前後で通過できた。
そして初めての全日本選手権での決勝レース。ピットロードからコースへでると先ず
一周回ってスターティンググリッドにつく。そこで選手紹介がある。
選手紹介が終わるとエンジンを押しがけでかけてウォーミングアップランで一周する。
再びスターティンググリッドにつくとエンジンをかけたままで全車がグリッドに着くのを待つ。
次々とグリッドに戻ってくるマシンと選手の間をタイムボードを掲げたハイレグの女性が
歩いてくる。(独身男には刺激の強い姿だ)
全車がそろった頃を見計らってタイムボード下げて走り去る女性。
何気なく目で追いかける・・・とその時だ、周りからエンジン音が高まる。
慌てて自分もアクセルを開ける・・・が、一瞬の気の緩みでスタートランプの点灯を
見逃してしまった。
ほんの一瞬であったがスタートで大きく順位を落とす。30位前後まで落ちたようだ。
そこからは、気を取り直して追い上げる。
とりあえず目の前を走る選手を片っ端から追い抜いていく。
6週目くらいに入ると12~3番手にあがってきた。
そのくらいの順位になると簡単には抜けなくなる。気を抜くとすぐに抜き返される。
ちょうど裏のストレートを抜けると130Rに入る。そのとき後方アウトから抜きにきた
選手がいた。
「抜かれる!」と思った瞬間、チェンジをミスした。「しまった!」一瞬車体を起こす。
と、そこにアウトからかぶせてきた選手の車体が・・・「ぶつかる!」と

次回に続く

第6部:全日本選手権参戦・・・その5(ヤマハからホンダへ)

2008年01月26日 21時19分21秒 | 日々反省の日記
全日本に参戦し始めた翌年の1987年、マシンをヤマハTZ250からホンダの
RS250に買い換えた。
(RS250はホンダワークスNSR250の市販用レーサー)
ショップがホンダの2輪販売店だったこともありホンダに乗り換えることにしたのだ。
乗り換えてみてわかった事がある。それはヤマハがリア荷重で走るのに対して
ホンダはフロント荷重で走る車体特性があるようだ。
私はリアに荷重をかけるのが苦手だったのでTZのときはタンク後方にパッドを
貼り付けて走っていたが、RSに乗り換えてからはその必要がなくなった。
簡単に説明するとTZがオシリを後方にさげて乗るのに大してRSはフロントフォークに
ぶら下がるようにして走る感じです。
(もっとも人によってはセッティングで色々と変更したり個人差はあると思います)
マシンの作り自体もTZはフレームが柔らかくてサスペンションだけでなくフレームでも
ショックを吸収できるのに対してRSはフレームは硬めでサスペンションだけでショックを
吸収する感じです。

ちょっと専門的になってしまいましたが、私にはホンダの方が向いていたようです。
それを証明するように全日本選手権で最初の鈴鹿でのレースで結果を残せた。

その初めてポイントを取れた鈴鹿でのレースについては次回、詳しく書いてみる。

次回に続く

第6部:全日本選手権参戦・・・その4(鈴鹿サーキット)

2008年01月25日 20時54分15秒 | 日々反省の日記
全日本選手権で最後の鈴鹿のレース、といっても年間2戦しかないので
2度目のレースとうことになるのだが・・・

その年のTZ250にはシフトチェンジアームの支点軸が抜けて2速以上が
使えなくなるトラブルが続発していた。
事前に支点軸に対策をする必要があると聞き早速、自分で分解して
支点軸を強引に引き抜き接着剤を塗布して再度、押し込む。
といった作業なのだが、素人作業がとんでもない結果になろうとは・・・

鈴鹿選手権の当日は、あいにくの空模様で予選の時には雨がかなり降っていた。
「嫌なコンデションだな・・・」と思いながら自分の予選の順番を待っていた。
そして予選スタート、一週目は少し余裕をもって走る。シケインから最終コーナー
そしてホームストレートを抜けて1コーナーめがけて飛び込んでいく。
2コーナーの立ち上がりで3速にシフトアップ・・・と・・・入らない!
3速にシフトアップができなくなっている。
シフトアームの支点軸が抜けたのだ。

素人作業がかえって裏目にでてしまった。
当然予選は通過ならず、その年の選手権は一度も決勝を走ることなく終わった。

ジュニアクラス最初のシーズンは何も結果を残せず終わってしまった。

次回は1987年度に舞台を移して書いていきます。

次回に続く

第6部:全日本選手権参戦・・・その3(第一戦、筑波)

2008年01月24日 21時55分19秒 | 日々反省の日記
ジュニアクラスに昇格して最初の全日本選手権は筑波サーキットからだった。
1986年の3月末、トランポのホーミーにTZ250と工具やレーシングスーツと
日常品一式を積み込み、夜中か筑波を目指し出発した。
今回はショップの常連の人に同行してもらうことになった。
ただ、この人は車の免許を持っていなかったので運転は実質自分ひとりだ。
大阪から筑波までは、順調に走れば7~8時間で着く。

筑波サーキットに着くと先ず選手権参加の手続きを済ませ練習走行の
準備にかかる。
ただ、この日は非常に風が強かったのを今でも憶えている。
初めてのサーキットでコースにも慣れていないのに強風で走り難くて
まともに練習にならない。
それでも翌日は、すぐに予選が始まるので、とりあえずコースを頭に入れる為、
無理せず練習時間終了まで走りきった。
走行が終わるとマシンの点検と整備をさっさと終わらせる。

その日の夜は、サーキットで顔馴染みの仲間達と一緒に銭湯に行き食事を
とった後、ビールを買ってからサーキットに戻る。
車中でビールを開けひとしきり仲間達と2輪談議に花が咲き夜も更ける頃、
それぞれの車に戻り眠りに就いた。

翌日は朝から雲行きが怪しい、雪でも降りそうな空だった。
そんな中、出場車両の車検も終わり予選が開始される。
自分の番が回ってくると緊張とも興奮ともわからない感覚が湧いてくる。
予選スタート、大一コーナーを抜けてS字コーナーからバンクのついた左コーナー
次はダンロップ下を右左と切り返し右ヘアピンの後は裏ストレート、
ストレートを走り終えると最終の右コーナーへと突っ込んでいく。
ホームストレートに戻ってくると再び第一コーナーを目指してストレートを
全開で駆け抜ける。

だが、結果は予選落ち。自分の腕の悪さは棚にあげて初めてのサーキットと
コンディションの悪さのせいにして、さっさと帰路についた。

翌日は、記録にも残る大雪となるのだ。
決勝もジュニアクラスのレースが終了する頃には雪のためレース続行不能と
判断されて中止になったそうだ。

次回は、その年の記憶に残っている、もう一つの全日本選手権鈴鹿編を
書きます。

次回に続く

第6部:全日本選手権参戦・・・その2(TZ250)

2008年01月22日 22時53分57秒 | 日々反省の日記
1986年の初め注文してあったヤマハTZ250の入荷を待っていた。
補修部品は付いているものの車両本体が¥140万円以上するマシンだ。
最高速度もストレートの長さにもよるが、鈴鹿で220キロ以上でるという
レース専用マシンである。
早く走らせてみたい気持ちを抑えて一日千秋の思いで入荷を心待ちにしていた。

そして待ちに待った納車の日、ショップを訪れると既にマシンは届いていた。
早速、エンジンを掛ける為、ガソリンとオイルを用意する。
水冷2サイクルエンジンでガソリンにオイルを混合して使用するのだが、今回は
試し掛けをするだけなので少量のガソリンを計量しオイルをガソリンの5%ほど
計量して混合燃料をつくる。
燃料タンクに混合燃料を給油して早速、マシンの押し掛け・・・のはずが
エンジンが掛からない。
いくら押し掛けを繰り返してもエンジンがかからない。
ここで、ハタと気が付いた。ガソリンとオイルの混合比を間違えていた事に。
ガソリンの量があまりにも少なかった為に5%入れたつもりのオイルが
実は50%になっていたのだ。
『これじゃあ、掛からんわな』と笑われながらも混合燃料を作り直し
再度挑戦。今度はすぐに掛かった。

次回は初戦の筑波サーキットを書いてみるつもり

次回に続く

第6部:全日本選手権参戦・・・その1(クラス変更)

2008年01月21日 20時57分02秒 | 日々反省の日記
ノービス4時間耐久レースの予選で惨敗したその年のシーズンオフにクラス変更が
MFJ(日本モーターサイクルスポーツ協会)より通達された。
それまでのクラス分けでは一番上のクラスが国際Aクラス、次が国際Bクラスそして
入門クラスがノービスクラスとなっていた。
上のクラスに上がるには決勝でポイントを稼ぎ一年で一定ポイント以上
所得する必要があった。
ただ、その年の異常なレース人気でノービスクラスが増えすぎた為、国際Bを
Aクラスに自動昇格させて、その年のレースで決勝に参戦したノービスクラスの
選手を新たに設けたジュニアクラスに昇格させたのだ。
入門クラスはノービスのまま残された。

私もMFJからの通達によりジュニアクラスに昇格した。
翌年に向けてマシンを整備するのに補修用の部品を発注する為、チームの
バイクショップを訪れていた。
オーナーと発注する部品の事を色々話しているうちに
『こんなに部品を発注するんだったらマシンを買換えたらどうや?』という
オーナーの意見に『ほんまですね』と応えていた。
結局、レース専用のヤマハTZ250を新車で発注することになってしまった。
それまで使用していたTT3用のVF400は、知り合いに買い取ってもらって
少しでも新車の購入費用に充てた。

翌年からは、ジュニアクラスで全日本GP250クラスに参戦する事に決まった。

次回に続く

第5部:出直し・・・その9(予選走行で・・・)

2008年01月19日 20時04分04秒 | 日々反省の日記
初めての4時間耐久レースの予選当日、私の予選が前半でおっさんが後半。
何組かが先に走り、いよいよ私の順番が回ってきた。
順番を待っている間にチームヘルパーの女性と軽口を叩いたりしながら緊張を
ほぐしていたが、直前になると緊張してきた。
そして予選走行スタート、1週目は少し慎重に走りホームストレートに戻ってきた。
2週目に入るとペースアップし1コーナーへ全力で突っ込んで行く。
2コーナー、S字コーナーから逆バンクコーナーを抜けてダンロップコーナーに
さしかかったところでマシンの異常に気がついた。
ハンドルが小刻みに震え始めてマシンが思うように倒し込めない。
ダンロップ下辺りでマシンがどんどんアウトに膨らんでいくのを無理やり倒し込むと
フロントタイヤがグリップを失った。
次の瞬間、コース外へマシンと一緒に飛び出して激しく転倒していた。

前半の予選終了後、転倒車の回収にレッカー車が回ってくるので破損したマシンと
自分も乗り込みピットまで戻ってくるとチームの人達が駆け寄ってきた。
チーム監督が私の無事を確認すると次にマシンの破損状況をチェックして
『これなら何とか後半のおっさんの予選までに直せそうだな』と言うとすぐに
作業に取り掛かっていた。
ハンドルのブレが、かなりでていた事を告げると私は椅子に腰掛けて休息を
とらせてもらった。
後半の予選が始まるぎりぎりまで作業は、続いていたが何とか間に合ったようだ。
おっさんが後半の予選に出走していった。
一週目が過ぎ2週目に入る、しかしタイムが伸びない。
やはりマシンのダメージが思っていたより大きかったようだ。

結果は、予選落ち。
同じチームのオヤジとハマゾウ組もタイムが伸びず予選落ち。
痛む体とともに帰路についた。

私の初めての4時間耐久レースへの挑戦は、惨敗と苦痛に終わった。

次回からは、ノービスクラスを卒業してジュニアクラスになるところから書きます。

次回に続く

第5部:出直し・・・その8(ペアで初練習走行)

2008年01月18日 21時51分21秒 | 日々反省の日記
4時間耐久レースのペアを組む事になった「おっさん」との初めての練習走行は
今でもハッキリ憶えている。
鈴鹿の東コースでショートコースだった。
タイムが良かったか悪かったかは憶えていないが、ピットロードに入る直前で速度も
落としていたにも関わらず何故か、ふらついて転倒してしまった。
マシンの破損状況は最小限に留めたものの理由の分からない転倒だった事を
今でも憶えているからだ。

それは、その年の4時間耐久レースの行く末を予測していたかの様な出来事だった。

ショップでのチームからは、2組が参戦する事になったいた。
私とおっさん、それと「オヤジとハマゾウ」の2組だ。
(まるでギャグのような呼び名の人達ばかりだが・・・ちなみに私はナベです)

それと嬉しかったのは、ヘルパーに女性が3人来るというではないか。
少しは気合が入るというものだ。
(野球で商業高校が強いのは女子が多いからだ、というのは私の持論だ)

次回は予選の内容を書いてみようと思う・・・

次回に続く

第5部:出直し・・・その7(4時間耐久レースに向けて)

2008年01月17日 23時09分37秒 | 日々反省の日記
4時間耐久レースでペアを組む相手を紹介してもらう為に向かったショップは、八尾市にあるホンダの販売店だった。
そのショップのレーシングチームに名古屋から通ってきているライダーが一人いて、その人が私とペアを組む事になる相手だった。
チームの人達は彼の事を「おっさん」と呼んでいた。
何故、名古屋からわざわざ大阪まで通って来ているのか不思議に思い尋ねたところ、
『おっさんは店が以前製作したTT3用のコンプリートマシンを雑誌で見て、購入する為にわざわざ大阪までやってきたんや』
『で、そのまま、うちのチームに入ったちゅうわけや』と、ショップの従業員が教えてくれた。
『へ~そうなんですか』と応える私に
『あれで昔、サンデーレースでポール To クラッシュしよってん』ともおっさんの事を
教えてくれた。
『え、ポール To フニッシュじゃないんですか?』と聞きなおすと
『予選でポールとって1週目のスプーンコーナーまではトップできよってんけどな・・・
   そこで、クラッシュしよってん』
『そ、そういうことですか・・・』
おっさんは結構、早かったらしいのだ。今は少しスランプらしい・・・?

おっさんの乗るマシンはCBX400をTT3用に改造したものだった。
私としては、できれば自分のマシンを使用したかったのだが、おっさん要望もあり
彼のマシンで4時間耐久レースに挑むことになった。
その日は、とりあえず簡単な打ち合わせと連絡先の交換程度で済ませ練習走行等の
予定は又、次回にすることにして帰宅した。
とりあえず、今年の4時間耐久レースに出れることに決まった事で一安心だった。

次回は、おっさんとの初練習走行から耐久レース当日までを書いてみようと思う。

次回に続く

第5部:出直し・・・その6(レース活動再開)

2008年01月15日 00時23分35秒 | 日々反省の日記
一ヶ月近い入院生活を終えて暫くはレース活動も控えていたが、退院から2ヶ月も過ぎた頃には鈴鹿サーキットでの練習走行も始めていた。
ただし実際にレースにエントリーをしたのは翌年の西日本サーキットからだったと思う。
この西日本でのレースは、予選もあまりパッとしなかったが決勝でも結果は残せなかった。
天候も雨で、おまけにマシンのクラッチにトラブルを抱えていて押しがけの際にクラッチが完全にきれない状態でマシンの押し出すのも一苦労でスタートも最悪、それにウェットコンディションは大の苦手で思い出すの嫌なレースだった。
ただ、このレース前の練習走行の際に前年度、私がクラッシュした相手から謝罪の申し入れがあった事は嬉しかった出来事でしたが・・・。

その次にエントリーしたのは鈴鹿200kmロードレースの前哨戦でノービスTT3クラスだったのですが、予選走行中に気合を入れた2週目に最終コーナー手前のシケインで痛恨のオーバーラン。
結局、予選通過はならず決勝当日は観客席にいました。

そして次は、8時間耐久レースの前哨戦でノービスの祭典、4時間耐久レースに望む事になるのだけど相棒が決まっていなかった。
このままでは「今年も耐久レースは諦めないと駄目かな・・・」と思い始めていた頃、
当時行きつけだったバイクショップのオーナーから『知人のショップのメンバーが
4時間耐久レースの相棒を探している』と聞かされ早速、話を聞きに紹介された
ショップに向かった。
そのショップのオーナーとの出会いが、その後の私のレース人生を大きく変えることに
なるとは想像もしていなかったのだが・・・。

次回に続く

第5部:出直し・・・その5(2度目の入院)

2008年01月13日 23時03分01秒 | 日々反省の日記
人生2度目の入院生活を送ることになったのが、岩国国立病院(国病)だった。
入院設備の整った整形外科は他にもあったのだけど両親の勧めもありこの病院に
行く事になったようだ。
ここの国病は以前、友人が亡くなった病院だったのであまり良い思いでがない。
おまけにその日以来、看護婦が好きになれないでいたし・・・。
別に看護婦が嫌いになったわけでなく、友人が亡くなったときに当たり前の事だが
彼女達が遺体に対して何の感情も表さないで、てきぱきと作業をこなしていく姿に
職業人としては素晴らしいと思うが女性としては、見れなくなってしまっていた。
実は、私はそれまでに看護婦と2度ほど交際していた事もあったが、職場の姿を
見る事はほとんどなかったので・・・それだけに受けた印象のギャップが大きかったのだ。

話が少し横道にそれてしまうけど、私がレースを始めた理由の一つに
その時の友人の死がある。
あれは忘れもしない1982年の10月10日の夜、10時頃だったと思う。
欽明路有料道路の自販機コーナーの前を走り去ったCBX1000と供に
あの世に飛び立った友人が私には憧れの先輩でもあった。
2輪に乗らせれば敵なしの速さと腕をもっていた友人でも公道では限界があった。
そんな事もあり私はサーキットへ走る場所を移していったのである。

また10月10日の命日は、その16年後に同じ病院で私の父の命日にもなってしまった。
二人の命日は偶然とはいえ私にとって忘れる事が出来ない日になってしまったわけだ。

で、私の入院も26日間の長期入院になったわけだが、最初の1週間ぐらいは
疲れもあってベッドで寝ていられる事が嬉しかった・・・が、1週間も過ぎた頃から
昼間に寝てしまうと夜が眠れなくなり夜、寝つけるまでの時間が苦痛になっていた。
それでも昼間にベッドで横になっているとウトウトとしてしまい気がつくと
寝てしまっていた。
半月も過ぎた頃、鎖骨の骨折だけだった私は自由に歩けるので昼間は病院の
すぐ近所にあった喫茶店に入り浸るようになっていた。
その喫茶店ではまっていたのが高橋留美子先生の「めぞん一刻」でした。
既に単行本になっていたので退院するまでの数日間で一気に読みきってしまった。
入院中、一番楽しかった事だったかもしれない。

次回からは、退院後のレース活動再開について

次回に続く

第5部:出直し・・・その4(クラッシュ)

2008年01月12日 21時22分35秒 | 日々反省の日記
鈴鹿200kmロードレースの予選落ちからしばらくして、エントリーしてあった
西日本サーキットのレースに出場する為、8月には山口県に戻っていた。
本来なら4時間耐久レースに出場する予定だったのだが、相棒が見つからず今年の
4時間耐久レースを見送って西日本のレースに出ることにしたからだ。
勿論、このときもヘルパーは弟に頼んであった。弟もちょうど会社の夏休みと合わせてくれていたので頼みやすかったこともあるのだが・・・。
この年、トランスポーターもタウンエースから日産ホーミー(キャラバンと同位車種)の
ロングに乗り換えていたので長距離移動も車内泊もかなり楽になっていた。

決勝の前日から西日本サーキットに入り練習走行もこなし決勝当日に臨むことに。
車検も無事にパスして予選が行われ決勝を走る予定だったのだが、
決勝を走る事はなかった・・・と思う。
実は、この時の記憶をあまりハッキリと憶えていない・・・クラッシュのせいだ。
第一コーナーから裏のストレートを抜けるとバンクのきついコーナーがあるのだが、
その立ち上がりで直前の前走者が転倒してしまったのだ。
当然、避けきれずクラッシュ・・・そして鎖骨骨折となった。
でも、私が憶えているのはクラッシュの直前までで再び記憶が戻ったのはサーキットに
待機していた医者の『折れてますね』の一言だった。医者の前に座っていたのだ。
あとから弟に聞いたところ、自分で救急車に乗り込んで医務室に自分で歩いて
入ったらしいのだけど全く記憶がない。
その後もその1日の記憶が所々、不鮮明である。
以前にもクラッシュで頭部を強打したときにヘルメット越しであったにも関わらず一時的な記憶障害を起こした経験があるので、それほど不安には思わなかったが・・・。

結局、約一月の入院生活を送ることになってしまった。
サーキットから岩国の実家に戻るとそのまま国立病院に行き検査の結果、単純骨折でなく複雑骨折でおまけに神経に非常に近い位置で折れていた為、即入院となったのである。

次回は入院生活についても少し書いてみようと思う。

次回につづく