普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

硬貨の発行枚数

2018-02-26 00:44:31 | こんなことを考えた
今年の1月から、妙にピカピカの100円玉と500円玉に遭遇している。

当然今年に発行された硬貨なのだが、これまで生きてきて、その年の発行硬貨に1月からお目にかかった経験はない。

硬貨は、予定枚数に従って発行されるのだそうだが、調べてみると今年(平成29年)は100円玉がおよそ5億4400万枚、500円玉は4億2000万枚だそうで、かなり多いかと言えばそうでもなくて、例年よりいくらか多目という程度のようだ。

金額に直せば100円玉は544億円分、500円玉は2100億円分ということになる。

それにしても、ピカピカの硬貨と言うのはなにやら胸のあたりが騒めく。新しく発行された硬貨は、取り立てて価値があるというものではないのだが、どこか銀行強盗でもして手に入れた感がある。あるいは海賊行為でも働いたか……。

なにか意味ありげで、1枚ずつ手元に残している。ちなみにボクの手元を素通りしていった今年発行の500円玉は2月25日現在で7枚(内1枚はまだ手元に)、100円玉は13枚(内1枚はまだ手元に)。

やっぱりどう考えても多い気がする。

そういう前例があるわけではないのだが……、ひょっとするとなにかの起こる前触れかもしれないなどと思ったりもする。

ま、何が来てもいいように準備だけはしておこう。……と思ったが、現金が600円じゃ如何ともしがたい。

ゆるむ

2018-02-12 23:53:37 | こんなことを考えた
寒さが、ゆるみ始めましたね。

それにしても北陸地方の降雪は、聞きしに勝るもので、わずか20㎝ほどでにっちもさっちもいかない東京の様子と比べれば、それは想像をはるかに上回る天災とでも呼べるもの。北陸の皆さんの気を引き締めて生活する様は、ニュースなどからひしひしと伝わってきました。

まだこれから先も、油断のならない寒気がやってくる可能性もありますが、東京はこの2,3日はなんとなく寒さも緩んで、それと同時にこちらの気も緩みがち。

この3連休は、文字通り緩んでました。

なにがどうということではないのですが、どことなく気が緩んでいるような、そんな感じです。

その一つの証明と言いますか、気が付けば本も読んでいないし、スマホでニュースを検索することもありませんでした。

なにか、世間とぷっつりと途切れた感が否めない。

これははっきりと緩みですね。

そう気づいたわけですから、またたった今から気を引き締めて生きることにします。

そんなこんなで、おやすみなさいませ。








東京「昭和な」百物語<その34>銀座

2018-02-06 01:18:29 | 東京「昔むかしの」百物語
ボクらの青春時代に、銀座周辺は欠かせないものだった。数寄屋橋や日比谷、京橋、日本橋、新橋までは、徒歩圏内で歩いて移動したものだ。

銀座の柳、もまだ残っていた。

銀座4丁目の三愛と服部時計店、三越といったランドマークだけでなく、日比谷近辺の映画館(ほとんどなくなってしまった)、文具の伊東屋などなど、別段なにをするわけでもなく歩きまわった。

昭和40年前後には「みゆき族」が出現し、みゆき通りには当時のメンズ・ファッションブランド「VAN」や「JUN」の薄茶色の紙袋を持ったアイビー共が溢れていた。ボクもその中に、少しだけいた。ニキビだらけの中・高生の頃だ。

あれやこれやあったのだが、一番記憶に残っているのは、日劇だ。映画館から劇場からストリップ劇場までそろっていた。

殊にストリップ劇場だった日劇ミュージックホールに出演する女性たちは、本気で尊敬できるダンサーだった。一番覚えているのは、アンジェラ浅丘、岬マコ、小浜ななこなどというスターたちだった。彼女たちは、踊り子と言う言葉がぴったりとはまるスターだった。田中小実昌などが、週刊誌にあれこれと書いていたのを思い出す。

ボクはまだ劇場に足を運べるほど大人ではなかったが、憧れの空間だった、憧れの踊り子たちだった。

大人になって唯一足を向けたストリップ劇場は、日劇ミュージックホールだった。日劇が取り壊される1981年までに、念願かなって2度だけ足を運んだ。

日劇ミュージックホールは、女性の裸が芸術にまで昇華した空間だった。

いまでは銀座もただの東京の一地域に過ぎないが、昭和の頃の銀座は、なにか「銀座」と聞いただけで身が引き締まるような、わくわくするような、ある種「聖地」のような、特別な地域だったのだった。