古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

事代主神の応諾について(2020年9月改稿)

2014年02月09日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 記紀の物語に、天つ神側が建御雷神(武甕槌神)(たけみかずちのかみ)等を送って大国主神に国譲りを迫ったとき、大国主神は自分の子である事代主神(言代主神)(ことしろぬしのかみ)に答えを求めるように言って、使者を出張させて問答が行われる場面がある。

 爾に答へて白ししく、「僕(あ)は白(まを)すこと得ず。我が子八重言代主神(やへことしろぬしのかみ)、是白すべし。然れども、鳥遊(とりのあそび)・取魚(すなどり)為(し)て、御大之前(みほのさき)に往きて、未だ還り来ず」とまをしき。故爾に、天鳥船神(あめのとりふねのかみ)を遣して、八重事代主神を徴(め)し来て、問ひ賜ひし時に、其の父の大神に語りて言はく、「恐(かしこ)し。此の国は、天つ神の御子に立て奉らむ」といひて、即ち其の船を蹈(ふ)み傾(かたぶ)けて、天の逆手を青柴垣(あをふしかき)に打ち成して隠りき。柴を訓みて布斯(ふし)と云ふ。(記上)
 是の時に、其の子事代主神、遊行(ある)きて出雲国の三穂(みほ)三穂、此には美保(みほ)と云ふ。の碕に在す。釣魚(つり)するを以て楽(わざ)とす。或いは曰く、遊鳥(とりのあそび)するを楽とすといふ。故、熊野の諸手船(もろたふね)亦の名は天鴿船(あまのはとふね)。を以て、使者(つかひ)稲背脛(いなせはぎ)を載せて遣(や)りつ。而して高皇産霊(たかみむすひ)の勅(みことのり)を事代主神に致し、且は報(かへりまを)さむ辞(ことば)を問ふ。時に事代主神、使者に謂(かた)りて曰はく、「今天神(あまつかみ)、此の借問(と)ひたまふ勅有り。我が父(かぞ)、避(さ)り奉るべし。吾亦、違(たが)ひまつらじ」といふ。因りて海中(わたのなか)に、八重蒼柴(やへのあをふし)柴、此には府璽(ふし)と云ふ。籬(かき)を造りて、船枻(ふなのへ)船枻、此には浮那能倍(ふなのへ)と云ふ。を蹈みて避りぬ。使者、既に還り報命(かへりことまを)す。(神代紀第九段本文)

 紀本文に載る使者の名、「稲背脛(いなせはぎ、ギは甲類)」という名については、否(いな)か諾(せ)かを問う使者(ハギは足)の役目を表しているとされる。確かにその通りではあろうが、この名は、他の語を懸けているとも考えられる。江戸時代に、粋で勇み肌で男気のあることを鯔背(いなせ)といった。その由来は、日本橋の魚河岸の若者が、鯔背髷(いなせまげ)を結ったことによるといわれている。ボラ(鯔)の小さい時の名であるイナの背のように、平たくつぶした髪型を指す。イナセハギはまた、イナス(去・往)という語、去らせる、行かせるの意をも懸けたものでもあろう。脛は足のすねのことで、脛巾(はばき)(脛衣、行纏)はハギ(脛)+ハキ(穿)の転で、旅装束の脛当てで後の脚絆に相当する。紀本文では、武甕槌神が稲背脛に旅装束を整えさせて行かせている。この武甕槌神(建御雷神)と大国主神とのやりとりは、本説話の伏線となるものである。稿を改めて論ずる。
 国を譲るかどうか問われた時、大国主神は、自分の代りに事代主神が答えましょうとはぐらかした。御大之前(三穂の碕)で事代主神は、yes と答えている。yes という答えとしては、古語に、セ(「諾」)(仁賢紀六年是秋)(注1)のほか、ヨ、ヲ、ウがある。古今著聞集・三三一に、「又人のめす御いらへには、男は「よ」と申(まうし)、女は「を」と申(まうす)也。」とある(注2)。応諾、承認、納得、肯定を表す応答語の感嘆詞で、ウベ、ムベの語幹である。そして、ウは、ウウ、ウンとともに、うめき声でもある。長い剣を示して父親を脅迫してきた。有無を言わさない問いに対しての否とは言えない承諾である。苦しいうめき声と同じになって、ウと答えたに相違ない。
 問答無用の状況設定に、事代主神はウと答えた。大系本日本書紀の補注には、コトシロの名が、これ以外に、神功摂政前紀条、天武紀元年七月条、顕宗紀三年二月条、同四月条に見られることを通じて、次のようにまとめている。「コトシロは、神がかりして、託宣をつたえるものであることが推測される。コトは、事であるとともに言である。シリは、領すること、物のすみずみまで自分のものとすること。転じて、知ることの意を表わす語であるから、コトシリは、神の言を伝えて、現世の事(行為)を左右することを意味しよう。シロはシルという動詞の古い名詞形[で]、……事代主神とは神の託宣を伝える役の主である神の意。事代主命に国譲りの返事をさせたことは、事代主命に、神意をうかがわせ、その託宣によって、国譲りのことを決したものと見ることができる。」((一)366~367頁)
 音韻において、母音交替があるものとして、シロ(代)をシル(領・知)と関連づけている。新編全集本日本書紀の頭注には、「「事代」は事柄の代りをなすもので、言葉のこと。古代では「言」は「事」と同じ重みをもつから、事代主神とは、事柄や事件を、その代りとしての言葉を行使して宣言する神であり、託宣の神といわれる。国譲りの時、この神に返事をさせるのは、託宣の神であったため」(①105頁)とある。
 しかし、言と事とが同じであるとする言霊信仰は、上代において当たり前のことであった。それは、事代主神(言代主神)に限ることではない。出来事が起これば忠実に言葉にするし、言葉に発すれば正確に出来事として起こると思われていた。そうなるように願い、そうなるように努めていた。そうすることで世界の秩序は保たれてカオスに陥らずにすんでいた。したがって、概念としては、事(言)代主神が他にはない託宣の神であるという前提は正しくない。シロ(代)という語については、白川1995.に、「他のものに代って、その機能を果すものをいう。「禮代(ゐやしろ)」「苗代(なはしろ)」のように、名詞の下にそえて複合語を作る。「禮に代わるものとして」「苗を作るための地として」のように、ある目的のために、その条件を整え、機能を果すものをいう。代理的な意味では代、その材料や条件にあたるものには、のち料の字を用いる。ロは乙類。……漢字としては交代・世代・代理などの意があり、わが国では「それに代わるものとして」の意で代(しろ)とよむ。この代を助詞の「て」にあてるのは、「……として」の語義から転用したものであろう。」(408頁)とある。事(言)代主神の事(言)代とは、事件=言葉に代わるものとして、事件=言葉を作るための条件を整えているところのものという意味である。言葉にならない片言、事件というほどではない事象を指している。すなわち、この場面で事(言)代主神は、ウという言葉を発した。たったそれだけである。そして、国譲りという出来事は、年表に載せるべき政治上の歴史的な事件ではないのである。王朝の交替や騎馬民族による征服などとは無関係である(注3)
 記の「鳥遊」、紀本文の「遊鳥」については、神代紀第九段一書第一条に、「射鳥遨遊(とりのあそび)」と記されている漢語「射鳥」から、鳥を捕獲することと思われている。しかし、紀本文にも、「以釣魚楽。或曰、遊鳥為楽。」とある。ワザ(楽)(注4)という語で説明されており、深い意味が込められていることを示していると考えられる。記、紀本文、紀一書第一のいずれにも、トリノアソビという訓が見られる。白川1995.に、アソブ(遊)は、「本来は足を動かすこと」(67頁)とある。アシ(足)と関連する語と見ているのであろう。狩猟や収穫を楽しんで歌舞することだけでなく、乗馬中に馬の足をあちこちに向けて踊るようだから、狩り自体も遊ぶというようになったようである。ところが、獲物が鹿や猪、兎などとは異なり、馬に乗って鳥を弓で射ることは少ない。気づかれて飛び立たれ、空中に三次元的に動くものを馬で追いかけて行って射ることなど間に合わないし、どんなに動体視力が良くても困難である。隠れたところから狙うか、鷹に任せることも多い。すると、ここでアソビとあって足を動かしているのは、人間ではなくて鳥のほうではないかと気づかされる。場所は海沿いで、記には「鳥遊」は「取魚」、すなわち、漁撈と並び立てている。その条件をかなえる鳥のアソビに鵜飼がある。蹼のある足を動かして魚を取っていながら、手縄を手繰り寄せられて鳥ごと捕まえられてしまっている。ワザ(楽)という古訓どおりの巧みな技術である。「射鳥遨遊」とあるのも、鵜飼漁に使う鵜は、捕まえてくるのだから「射鳥」と表現して差し支えない。論語・述而に、「子は釣りして綱せず。弋(よく)して宿を射ず。(子釣而不綱、弋不射宿。)」とある。「射鳥」と「遨遊」とは形容矛盾する点を示しながら、鵜飼のウが手縄でつながれている点を、弋(いぐるみ)で捕らえられた鳥として譬えたものではないか。この弋という字は、事代主神の代という字のなかにあらわれており、棒ぐいの形を描いた象形文字である。
 この推測を支持する証拠として、第一に、場所が御大(三穂)(みほ、ミは甲類)とされている点があげられる。ニホドリ(鳰鳥)の子音交替形に、ミホドリ(ミは甲類)という語がある。

 …… 美本杼理能(みほどりの) 潜(かづ)き息づき ……(記42)

ニホドリとはカイツブリのことである。ウに比べると小さいが、ほとんど水上で生活し、足の蹼(弁足)を櫂のように使って泳ぎ、水中に上手に潜って獲物を捕っている。つまり、ミホノサキという地名は、うまく潜って魚を捕る鳥がいることを暗示している。
 第二に、紀本文に、使者の名が稲背脛とあった点である。彼は、「熊野諸手船、亦名天鴿船」に載せられている。諸手船については、二梃櫓の早船のこととされている。鵜飼のウの蹼が両足にあって、水をうまく掻いてよく進むことを表すと取れる。また、諸手船は双幇船のことを指しているとも考えられる。双幇船は、舫と呼ばれていたもので、小舟二艘を少し離して並べ、その間に横木と板をわたしたミニ双胴船である。中国で鵜飼に用いられていた。爾雅・釈言に、「舫は舟也」とあり、注に、「舫は両船を竝ぶなり」、また、説文に、「方は船を併す也。両の舟の省頭を総ぶる形に象る。或は水に从ひ汸に作る。」とある。可児1966.に、下駄のように使う鵜飼船の図(Worcester氏の著作による)が引用され、周1990.には、河南省の実際の様子が写真で紹介されている。双幇船の様は、ちょうど鵜飼のウが両足の蹼を使って水を巧みに掻くことを喩えたものであろう。鵜飼の源流については諸説あるなか、文献資料には隋書・倭国伝を嚆矢とする。「小環を以て鸕鷀の項に挂け、水に入りて魚を捕らへ令め、日に百余頭を得。(以小環挂鸕鷀項、令入水捕魚、日得百余頭。)」とある。頸に輪を巻いている様子が記されている。画像石からは、中国でも古くから行われていたことがわかり、鵜飼船としての舫についての知識は本邦に伝えられていたものと考えられる。
筏漁図画像石塼(中国四川省広漢県農場出土、後漢時代、四川省博物館蔵、淑徳大学中国石刻拓本デジタルアーカイブズhttps://www.shukutoku.ac.jp/shisetsu/takuhon/cat2225/g001-1-20.htmlをトリミング)
 また、天鴿船については、鳥のハトのように速い船を表すとされている。あるいは、伝書鳩のことを暗示しているかもしれないものの、それ以上に、舫の字の表すところを指し示していると考えられる。モヤフ(舫)の義である。舫いの状態で波止場(はとば)に緩やかに繋がれている様子は、枝や電線にハトがとまると、体重が重いために大きく上下に揺れながらも掴まっていることによく似ている。ちょうど、鵜飼のウが、手縄でゆるやかにつながれているようにである。すなわち、これらの船の形容は、鵜飼のウ自身、または、ウを乗せている鵜飼船を表すものとして、いろいろに描写されているところといえる。記に、「天鳥船」とあったのも、水面に浮かぶ水鳥は鳥自体が船と見立てられ、さらに鵜飼のウの場合、鵜飼船にも乗っている。それをうまく言い回したものであろう。以上の考察から、記紀に記載の、天鳥船神、熊野の諸手船、天鴿船については、鵜飼のウならびに、鵜飼船のことを象徴的に表したものであるといえる。なお、なぜ諸手船に熊野の地名が冠してあるかについては、神奠、糈米(くましね)との関係が考えられる。わざわざ面倒な漁法を駆使しているのは、神さまへの捧げものにするためという意識が働いていたものと思われる。
桂川の鵜飼図(一遍聖絵写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591579?tocOpened=1(34/37)をトリミング)
 この舫という船については、名残りを留める事例が見られる。ひとつは、鵜飼船を使って何日か遠征して漁をする場合、二艘仕立てで行くことが多かった点である。また、美保神社で行われる諸手船神事では、二艘が競うように湾内を漕ぎ進むことになっている。今日では、それぞれの船のことをモロタブネと呼び、二艘のモロタブネとするが、もともとは、二艘あるからこそのモロタフネなのであろう。二艘使って行う漁撈方法は一般的である。
「諸手船神事」(日本財団 海と日本PROJECT in しまね 2018 #27」https://www.youtube.com/watch?v=5zYZ7h53yPsをトリミング)
 事代主神は、国を譲る旨を表明して、「其の船を蹈み傾けて、天の逆手を青柴垣に打ち成して隠りき」(記)、「海中に八重蒼柴籬を造り、船枻を蹈みて避りぬ」(紀本文)という展開になっている。柴は、小さな雑木をたくさん使い、囲い塞ぐための垣や網にしたものである。ここに、青柴垣(蒼柴籬)とは、青葉のついたままの柴の垣、それは一種の神籬(ひもろき、ヒ・キは甲類、ロは乙類、またヒボロキとも)ではないかとされている。神代紀第九段一書第二の該当部分の続きに、「天津神籬(あまつひもろき)及び天津磐境(あまついはさか)を起し樹てて、当に吾孫(すめみま)の為に斎ひ奉らむ」などとあることからそう考えられている。新編全集本古事記に、「「天の逆手」を打って、船を「青柴垣」に変えること。」(109頁)、大系本日本書紀に、「今までは顕身であったが、神となって、神籬の中に隠れ去った意。」(①119頁)、新編全集本日本書紀頭注に、「海中に神籬(ひもろき)を作り、神となってその中に隠れ去った。これで事代主神は完全に退去服従したことになる。」(①118頁)などと説明されている。
 ヒモロキという語は、ヒ(霊)+モリ(杜)+カキ(垣・籬)の意ではないかとされている。神を祭るとき、神を迎える座として周囲に常緑樹を立てめぐらしたところをいう。また、中国では神饌として供えた獣肉を胙(ソ)といい、この祭肉を頒布して同族の誼とした。本邦では、供え物の「胙」や「膰」字もヒモロキと訓じている。崇神紀六年条にも、「磯堅城(しかたき)の神籬〈神籬、此には比莽呂岐(ひもろき)と云ふ。〉を立つ。」とあり、本来的には移動可能な祭壇、斎場のこと、そして、それは、立てることを特徴とするものであった。神社が勧請されて分祀されていく原理である。「青葉の山を餝(かざ)りて、其[仮宮]の河下に立て、大御食(おほみけ)を献らむ。」(垂仁記)とした例があり、祭壇である神籬には神饌をお供えしたと解釈されている。この垂仁記の記事は、本牟智和気御子(ほむちわけのみこ)という言語に障害のある御子の話である。「八拳鬚(やつかひげ)の心前(こころさき)に至るまで、真事(まこと)とはず。」とあって、声を出すことはあっても、きちんと物を言うことはない状態、すなわち、片言は言うが文章にならない程度を示している。本稿のウとしか言わない事(言)代主神と同じモチーフの説話である。
 ただし、ここで問題としている青柴垣、八重蒼柴籬は、そっくりそのまま神籬のことを表すとは限らない。記紀のいずれにも、「柴」字に訓注が付き、わざわざフシと訓むようにと指示がある。名義抄では、𣐩・罘・栫にフシという訓が見える。シバではなくフシと訓ませたいのは、水中にあるものと強調したいがためであろう。魚寄せの用にしたものに、柴漬(ふしづけ)があり、新撰字鏡に、「槮槑 所今反、樹長皃、不志豆介乃木(ふしづけのき)。」、和名抄に、「内林 爾雅に云はく、内林〈蘇蔭反、字は亦、槮に作る〉は之れを涔〈字廉反、又、音は岑、布之都介(ふしづけ)〉と謂ふといふ。郭璞曰く、水中に柴を積み、魚寒くして其の裏に入り、簿を以て囲ひ捕取する也といふ。」とある。
 平田篤胤・古史伝に、「今ノ世にも漁獵(スナドリ)をするに、海にまれ河にまれ、樴(クヒ)を樹周(タテメグラ)して垣となし、一方(ヒトカタ)に口を開(ア)け、其ノ水底(ミナソコ)に青柴(アヲフシ)を漬(ツケ)て、彼ノ垣の開(アキ)たる処より、魚等の入リて、柴ノ中に潛(ヒソ)まるを伺(ウカヾ)ひて、其ノ開たる処を塞(フサ)ぎ、柴を引揚(ヒキアゲ)て魚を捕(ト)るわざあり。此(コ)を布斯都気(フシヅケ)と云、多くは冬の獵(カリ)にする事なり。……此(コヽ)の青柴垣は即チ其(ソレ)にて、八重とは魚(ウヲ)の逃(ニグ)まじく、幾重(イクヘ)も樴(クヒ)を立周(タテメグラ)したる由なるべし。然れば言代主ノ神、此ノ埼に柴漬(フシヅケ)を搆(カマ)へ、漁獵(スナドリ)して居(ヰ)給へるなり。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1051874(69/268))とある。西郷2005.も平田篤胤説をとり、「神がヒモロキに隠れるといういいかたが果して成りたつかどうか。」(272頁)と疑問を呈している。
 天野1996.に、土佐の国における鯔釣りとして、「ボラはうろこに皮膚病ができ、また虫などが寄生するのを取り除くために、あるいは目に白い膜ができるのを治そうとして、竹の根本にある柴に集まってきて、体をこすりつける。これを引っ掛けて釣るが、大きなものはたやすくは上がらないので玉網を使う。竹に植え付けたはりにも掛かるので、竹も引き上げて、魚を捕る。」(205~206頁)、東京湾内における鯔釣りとして、「漁船一隻に三人乗り組み、品川沖のノリひび(篊)の中にはいって釣る。ひびの中にボラが多く潜んでいるからである。この釣りを「シビ釣り」ともいうが、シビはひびのなまったものである。」(206頁)とある。フシと相性のいい魚にボラがある点を押さえておきたい。
 すなわち、青柴垣(蒼柴籬)とは、漁のための梁(やな)、篊(ひび)に類似の、大掛かりな魞(えり)のことを指していると思われる。簀立てにして逃げられないようにしたところへ魚を追い込み、捕獲する漁法である。鵜飼から定置式の漁への展開である。鵜飼のウの代わりなので、洒落にコトシロヌシならぬウシロヌシが現れたともいえる。後(うしろ、ロは乙類)という語は、上代には背後、後方という義が確かめられるが、中古は、空間的に見えにくいところ、物の蔭、裏側の意味でも用いられている。透明人間同様、現れないのがウシロヌシノカミで、記に「隠りき。」とあって正解である。語用論的にパラドキシカルな表現になっており、上代の言霊信仰にかなうなぞなぞ仕立てとなっている。
 コトシロ(事(言)代)なる片言であったウという言葉(諾)とウという事柄(鵜)が、エリ(魞)という技術へと進んだ。選(え)りすぐりの技といえる。ただし、それが歴史的、時間的なイノベーションであるかといえば、必ずしも当たらない。ボラの成長に従って、それぞれに巧みな魚漁方法があることを伝えているものと考えられる。
左:しがらみ、右:しがらみの想定復元図(河原口坊中遺跡、神奈川県海老名市、弥生中期~後期、約2100~1750年前、「発掘された日本列島2016」展展示パネル、構造体の名を「しがらみ」、漁法の名を「えり」と呼ぶ。)
 現在、漁業法第6条第5項で、「網漁具(えりやな類を含む)を移動しないように敷設して営む漁業」は第2種共同漁業の対象になっており、河川、湖沼等においては知事の許可漁業とされている(注5)。その魞の構造は、竹や木を用いた簀、垣によって、魚の進路を巧みに導き、一度入ったら出られなくなる囲いへと魚を誘うようになっている。湖沼や河川、内湾など、風や波の少ないところに設置される。簀立て、簀巻き、羽瀬(はぜ)などとも呼ばれ、潮の干満差を利用して追い込んで捕らえる使い方も多い。誘導するために簀を輪になるように巻いているところは、鵜飼のウの首輪を類推させるものである。すなわち、魞という字を当てるエリとは、束帯において身に着ける袍の首の部分のエリ(衿、襟)に相当する。新撰字鏡に、「裓 古北反、入、衿也、戒也、古来反、衣襟、己呂毛乃久比(ころものくび)」、「衿 呂躬反、去、領衣上縁也、𢁨也、己呂毛乃久比乃毛止保之(ころものくびのもとほし)」とある。袍は神事の儀式において身に着けた正式の装束である。そのエリは詰襟形式で立っており、首を包み巻いてモトホシ(廻)て留められる。片言半句で託宣を求めるのに代わり、きちんと祝詞をあげて神さまの意向を伺う際に必要とされた。魞の簀立てには、間隔を置いて杙を立てて倒れたり壊れたりしないようにしてある。杙(くひ、ヒは甲類)が首(くび、ビは甲類)に対照する。杙は神霊を招き寄せる依代とされることがあり、鵜飼のウが漁のために魚を食・咋(くひ、ヒは甲類)するところは首である。
狩衣の衿(下村観山(1873~1930)「小倉山」、明治42年(1909)、横浜美術館リーフレット)

 こもりくの 泊瀬(はつせ)の河の 上つ瀬に 斎杙(いくひ)を打ち 下つ瀬に 真杙を打ち 斎杙には 鏡を懸け 真杙には 真玉を懸け ……(記89・万3263)
 こもりくの 長谷(はつせ)の川の 上つ瀬に 鵜を八頭(やつ)潜(かづ)け 下つ瀬に 鵜を八頭潜け 上つ瀬の 年魚(あゆ)を咋(く)はしめ 下つ瀬の 鮎(あゆ)を咋はしめ ……(万3330)

 干拓前の八郎潟でも、張切網と呼ばれる魞が用いられていた。「寄り魚」の「追込み漁」であるが、主にボラを捕えた。八重蒼柴籬と形容されたに違いないものであろう。
左:八郎潟の張切網(文化庁「八郎潟漁撈習俗」https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/312/210)、右:琵琶湖の魞(今村紫紅(1880~1916)「近江八景」、大正元年(1912)、東博展示品)
 記に、「天の逆手を青柴垣に打ち成して」とある。神籬を前にして「拍手(柏手)(かしはで)」を打つことを捩っている。「蹈-傾其船」(記)、「蹈船枻」(紀本文)とは、船棚、舷側板を踏むことである。鵜飼のウが鵜飼船に上がってきてパタパタと蹼のついた足で叩いたら、まるで拍手を打つような音がする。「逆手」と表現したのは、ウの手に思える足の平を、それも合わせるのではなく片方ずつ叩いているからであろう。ウの足は水を掻くのには適するが、歩くにはカモやアヒル以上に都合が悪いようである。拍手と異なり、手首が直角に曲がっており、逆さにして坂のように傾いている。そして、ウッと魚を吐く。自分は食べずに鵜匠に捧げる。神饌を社、神籬に捧げるのと同じである。その後、再び水のなかへ隠れ去って行く。ウの潜りは巧みで、どこへ行ったかわからないほどであり、隠れ去るが如きといえる。その隠れ去り方は、鵜飼に代わり定置式の漁になることにも譬えられる。「天逆手矣於青柴垣打成」という表現は、鵜飼のウが拍手を打って青柴垣に成り代わったということを示している。事代主神とは、つなぎ鵜飼の鵜匠ならびに、それに使われるウとを表していた。
 御大之前(三穂の崎)は今の三保関である。鵜飼をしたと想定されるのは、境水道や中海であろう。捕まえていたのは、稲背脛の名にあったボラの幼魚イナに違いあるまい。ボラは出世魚として知られる。各地で呼び名は多少異なるが、おおよそ、稚魚をハク・キララゴ(全長2~3cm)、幼魚をオボコ・スバシリ・イナッコ(~18cm)、淡水・汽水域に入ってイナ(~30cm)、海に戻ってボラ(~60cm)、極めて大きくなったものをトド(60cm~1m)と呼んでいる。浸透圧調節機能に優れ、川と海、汽水湖を自由に行き来する。雑食性で、水底の藻類、デトリタスなどを泥ごと飲み込んで栄養分を摂っている。冬が旬の魚で、泥臭さも消えて実に美味とされる。しかし、現代では、湾岸のヘドロを食べてしまうから臭くてまずい魚となっている。以前は高級魚でさえあった。神代紀第十段一書第四条に、「赤女(あかめ)・口女(くちめ)を召して問ふ時に、口女、口より鉤(ち)を出して奉る。赤女は即ち赤鯛(たひ)なり。口女は即ち鯔魚(なよし)なり。」とある。ナヨシとは名吉、出世魚で名がめでたいことを表す。伊勢地方では、ミョウキチと言っている。鯛同様、めでたい魚とされる。石村2006.に、三重県の美杉村の仲山神社や、浜島町の宇氣比神社、八柱神社の包丁式において、ボラが用いられていることが紹介されている。
ボラを使った包丁式(三杉村下之川、水谷・久保・松本1997.https://www.jstage.jst.go.jp/article/jisdh1994/8/3/8_3_34/_article/-char/ja/(3/6)をトリミング)
 イナセハギという使者の健脚ぶりとは、浅瀬を走るように泳ぐスバシリのような速さを示すものである。それが、鵜飼のウそのものである事代主神のところへ行き、捕っては吐いていたことからウ(諾)と答えてもらっている。ボラ自身の食餌方法も鵜飼のウに近似している。ボラは胃の幽門部の筋肉が発達しており、呑み込んだ餌をすり潰しては栄養分だけを採り、泥を吐き出す。その部分は算盤玉のような形になっており、へそと呼ばれ珍味である。つまり、食べ物を呑み込んでは吐き出す話のなかで、イナセハギはウと同化してしまっている。それがこの話のおもしろさ、語用論的パラドックスを支えている。
 また、イナセハギという名は、このイナという魚の背を剥いだ刺身料理をも暗示させる。包丁式にゆかりが偲ばれる事柄である。今でも摂津に雀鮨という郷土料理がある。背開きにしたなれ鮨で、その姿は羽を広げた雀に似ている。魚が鳥に譬えられる点からは、天鳥船や天鴿船のことを思い出させるものがある。
 刺身のことは、古語に、「膾(なます)」という。膾を作るのは「膳夫(かしはで)」である。雄略紀に、猟をした時の話が載る。

 [雄略天皇、]群臣(まへつきみたち)に問ひて曰はく、「猟場(には)の楽(たのしび)は、膳夫(かしはで)をして鮮(なます)を割(つく)らしむ。自ら割らむに何与(いか)に」とのたまふ。群臣、忽に対へまをすこと能はず。是に、天皇、大きに怒りたまひて、刀(たち)を抜きて御者(おほうまそひのひと)大津馬養(おほつのうまかひ)を斬りたまふ。……皇太后(おほきさき)に語りて曰く、「今日の遊猟(かり)に、大きに禽獣(とりしし)を獲(え)たり。群臣と鮮割りて野饗(のあへ)せむとして、群臣に歴(とな)め問ふに、能く対へまをすひと有ること莫し。故、朕(おのれ)、嗔(いか)りつ」とのたまふ。皇太后、斯の詔の情(こころ)を知りて、天皇を慰(やす)め奉らむとして曰(まを)したまはく、「群臣、陛下(きみ)の遊猟場(かりにはのあそび)に因りて、宍人部(ししひとべ)を置きたまはむとして、群臣に降問(と)ひたまふことを悟(し)らじ。群臣嘿然(もだ)はべりたることは、理(ことわり)なり。且(また)対へまをすこと難(かた)みなり。今貢(たてまつ)るとも晩(おそ)からじ。我(おのれ)を以て初とせよ。膳臣長野(かしはでのおみながの)、能く宍膾(なます)を作る。願はくは此を以て貢らむ」とまをしたまふ。(雄略紀二年十月)

 新編全集本日本書紀に、「カシハは槲の葉。葉が大きく酒食を盛る……。テはその食器を扱う人。天皇の食膳に奉仕する伴(とも)。『周礼』天官に「膳夫、王ノ食飲膳羞ヲ掌リ、以テ王及ビ后・世子ヲ養フ」。」(①363頁)とある。養老令・職員令に、大膳職、内膳司の規定があり、二十巻本和名抄に、「大膳職 於保加之波天乃豆加佐(おほかしはでのつかさ)。」、「内膳司 宇知乃加之波天乃官(うちのかしはでのつかさ)。」とある。天武紀、持統紀に、天武天皇の殯の際に膳職の記事が載る。

 是の日に、肇めて進奠(ものたてまつ)り、即ち誄(しのひこと)たてまつる。……次に直広肆紀朝臣真人(ぢきくわうし)紀朝臣真人(きのあそみまひと)、膳職(かしはでのつかさ)の事を誄たてまつる。(天武紀朱鳥元年九月)
 是に奉膳(うちのかしはでのつかさのかみ)紀朝臣真人等、奉奠(みけたてまつ)る。(持統紀元年三月)

 ここに、膳夫は、鵜飼に同等の役割を果たしている。鵜飼の場合、ウは鵜匠に捕った魚を差し出し、代わりに鵜匠はウに小魚を与えて養っている。膳夫は、天皇に包丁を使って料理した肴を差し出し、代わりにまかない飯を貰っている。どちらがどちらを養っているか、実はわからない相互依存の状態でありながら、建前としては食物を捧げているのはウや膳夫ということになっている。
 雄略天皇と群臣たちとのコミュニケーションがうまくいかなかったのは、猟場を表すニハは、第一義的に祭祀場のことだから、天皇が、膳夫と言った音のカシハデのことを、群臣はみな拍手のことと勘違いしたことによるものであろう。二礼二拍手一礼してどうして刺身ができるのか、ピンと来なかったわけである。それを皇太后は理解して、天皇に指摘してあげたというお話である。
 神籬を前にして人は拍手を打つ。膾(なます)の原義は、「生ます」であり、生身であること、未熟であることを意味する。事代主神という名は片言半句を喋る神さまを表し、言語能力で未熟な段階にある。アヲフシカキのアヲも、青二才などというように未熟さを表す。イナという魚名も、成魚のボラの幼魚にあたり未熟さを示している。イナという語が成熟していないことを表すのは、他に、イナヅマ(稲妻)という語からも感じられる。民俗に、稲妻によって稲は結実する、すなわち、稲はイナヅマ(稲夫)と結婚して、稲穂に米粒という子が誕生すると信仰されている(注6)。事代主神の話の舞台はミホノサキであった。奠(くま)にふさわしいものがホ(穂)のサキ(先)に稔る。つまり、イナヅマはウカ(稲魂)を育てる。そのウカを育てる人はウカヒ(鵜飼)ではないかと洒落ると、イナを捕る鵜飼とは神饌となる奠米を捧げる人に違いないと悟るところとなる。それが古代の言霊信仰というものである。事代主神が神託を語るとされるのは、上手に育てるために神さまに御ウカガヒ(伺)を立てるからでもあろう。その様子を偵察しに稲背脛が遣わされたとは、ウカガヒ(窺)をするウカミ(斥候)であったということである。この場面では、鵜飼も斥候も混じり合い、ウカたる神饌を青柴垣(青柴籬)という神籬に捧げるように同体化した。最終的に、事代主神、稲背脛、青柴垣はひとつのものに化けているといえる(注7)
 最後に、神代紀第九段本文に、「使者(つかひ)、既に還り報命(かへりことまを)す。(使者既還報命)」とある点に触れておく。新編全集本日本書紀は、「使者はそういう次第で、戻ってこの事を報告した。」(①119頁)と現代語訳している。これは誤訳であろう。古典基礎語辞典に、スデニ(既)という語は、「上代から例があり、事が全体にわたって終了し、落ち着いている様子についていい、空間的にはまったくの意、時間的にはとっくに・もはやの意を表す。」(654頁。この項、我妻多賀子。)とある。同じ新編全集本日本書紀では、神代紀第五段一書第六の、「伊奘諾尊(いざなきのみこと)既(すで)に還(かへ)りたまひ、(伊奘諾尊既還)」を、「伊奘諾尊(いざなきのみこと)は辛うじて逃げ帰り、」(①48頁)と訳し、神代紀第九段本文の、「我(あ)が怙(たの)めりし子(こ)、既(すで)に避去(さ)りまつりぬ。(我怙之子既避去矣)」を、「私の頼みにしていた子もすでに国をお譲り申しあげました。」(①118頁)と訳している。「そういう次第で」という現代語訳は、神代紀第九段正文の、「既(すで)にして皇孫の遊行(いでま)す状(かたち)は、(既而皇孫遊行之状也者)」を、「こういう次第で、そこから皇孫が出歩かれる様子はといえば、」(①120~121頁)と訳している際の「既而」、傍訓のスデニシテに当たるものである。而の字はシカウシテの義の接続詞である。しかるに、「使者既還報命」の部分に、「使者既還報命」とする伝本はない。
 事代主神が海中に青柴垣(蒼柴籬)を造り、船枻を踏み傾けて退去したことが、すなわち、使者の帰還の完了を表している。事代主神の行為がそのまま使者である稲背脛の帰還に結びついている。そして、ウを使った鵜飼を終わりにして、八重の蒼柴籬、すなわち、魞と呼ばれるような魚を迷い込ませる簀立てを使った漁へと変更した。海に出たイナは、ウの口ではもはや捉え切れないほど大きくなってしまったからである。ボラの巨大化したものは、トドと呼ばれる。とどのつまり、結局、の意である。使者であるイナセハギは、トドノツマリ、究極へ至ったのである。その時点で最終段階であり、「既に」還ったも同然ということになる。相即こそが無文字文化下での話(咄・噺・譚)の特性である。徹底的に誤謬を排除する方策がとられている。「因於海中八重蒼柴籬、蹈船枻而避之。使者既還報命。」という表記は完璧に正しい。無文字文化の洗礼を受けている日本書紀の表現には、簡潔さが求められていたのであった。

(注)
(注1)拙稿「仁賢紀『母にも兄、吾にも兄』について」参照。
(注2)拙稿「神武記東征伝の槁根津日子について」参照。
(注3)王朝の交替や騎馬民族による征服を示すとする説を呈することはいけないことではないが、なぜそれを国譲りという話に仕立てたのかについては論じられていない。
(注4)新編全集本日本書紀では「楽」をタノシビと訓んでいる。
(注5)金田2005.参照。
(注6)イナヅマという語は、古今集や和名抄に見られる語であるが、万葉集には例がない。上代語として確かとは言えないが、イナは成長してボラになる。とんだほら話ではないかとも思われる。
(注7)伊藤2011.に記載の出雲石見魚漁図解に、フシカキにかなう「秋柴手網」、「張待網」がボラ漁に用いられたことが示されている。

(引用・参考文献)
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石村2006. 石村眞一『まな板』法政大学出版局、2006年。
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可児1966. 可児弘明『鵜飼』中央公論社(中公新書)、1966年、1999年復刻。
金田2005. 金田禎之『日本漁具・漁法図説 増補二訂版』成山堂書店、2005年。
『華麗なる漁と美味なる食』 滋賀県立安土城考古博物館編『華麗なる漁と美味なる食―魚・人・琵琶湖の過去・現在・未来―』同発行、2013年。
川島2011. 川島秀一『魚を狩る民俗―海と生きる技―』三弥生書店、2011年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
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新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『古事記』小学館、1997年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『日本書紀①』小学館、1994年。
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第三巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
三重県水産図解 ㈶東海水産科学協会・海の博物館編『合冊三重県水産図解』同発行、1984年。
水谷・久保・松本1997. 水谷令子・久保さつき・松本亜希子「三重県下の祭りにみられる包丁式について」『日本食生活史学会誌』第8巻第3号、1997年。

※本稿は、2014年2月稿をまとめた2017年7月稿をさらに2020年9月に整理したものである。