古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

三輪で杉の木を「斎(いは)ふ」のは、甑(こしき)による

2014年04月15日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉歌に、杉が登場するのは以下のとおりで、神木とみて確かなのは(a)~(i)である。

 (a)味酒(うまさけ)を 三輪の祝(はふり)が 忌(いは)ふ杉(ギは乙類) 手触れし罪か 君に逢ひ難き(712)
 (b)御幣帛(みぬさ)取り 神(みわ)の祝が 鎮斎(いは)ふ杉原 燎木(たきぎ)伐(こ)り 殆(ほとほと)しくに 手斧取らえぬ(1403)
 (c)三諸(ミは甲類、モ・ロは乙類)の 神の神杉(ギは乙類) …… 寝(い)ねぬ夜ぞ多き(156)
 (d)神南備(かむなび)の 神依板(かむよりいた)に する杉の 念(おも)ひも過ぎず 恋の茂きに(1773)
 (e)神名備の 三諸の山に 隠蔵(いは)ふ杉 思ひ過ぎめや 蘿(こけ)生すまでに(3228)
 (f)何時の間も 神さびけるか 香山(かぐやま)の 鉾椙(ほこすぎ)が本 薜(こけ)生すまでに(259)
 (g)石上(いそのかみ、ソ・ミは甲類、ノは乙類) 布留(ふる)の山なる 杉群の 思ひ過ぐべき 君にあらなくに(422)
 (h)石上 布留の神杉 神びにし 吾やさらさら 恋にあひにける(1927)
 (i)石上 布留の神杉 神さびて 恋をも我は 更にするかも(2417)
 (j)椙(すぎ)の野に さ躍る雉(きぎし) いちしろく 音にしも啼かむ 隠妻(こもりづま)かも(4148)
 (k)古の 人の植ゑけむ 杉が枝に 霞たなびく 春は来ぬらし(1814)
 (l)わが背子を 大和へ遣りて まつしだす 足柄山の 杉の木の間か(3363)

 「味酒(ケは乙類)」は「三輪(ミは甲類)」にかかる枕詞である。廣岡義隆『上代言語動態論』(塙書房、2005年)に、枕詞は言語遊戯とされる。地名の三輪との関連で、瓶(かめ、以下、ことわりのない場合、瓶=カメとする)の一種の甕(みわ、ミは甲類、以下、ことわりのない場合、甕=ミワとする)で酒を醸し、そのまま神に供えたために、「神酒(みわ)」(万3229)と呼ぶようになったからとされる。和名抄では「祭祀具」に、「神酒 日本紀私記に云はく、神酒〈美和(みわ)〉といふ」とある。崇神紀七年二月条から八年十二月条に、大神(おおみわ)神社の縁起が載る。大物主大神を父とし、活玉依媛(いくたまよりびめ)を母とし、陶津耳(すえつみみ)の娘である大田田根子(おおたたねこ)をもって祭らせている。大田田根子は、茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すゑむら)に見出されている。五世紀に突如出現した泉北丘陵の陶邑古窯跡群に、須恵器の生産は始まっている。渡来人が新技術を伝えた。地名に見える「茅渟県」のチヌとはクロダイのことである。幅広で黒灰色をした須恵器の様子によく似ている。赤い鯛を土師器に譬えての対比ではなかろうか。三輪(みわ)に神酒(みわ)を捧げるのに、須恵器の甕(みわ)を用いた。
 地名の三輪については、「隠所(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の川ゆ 流れ来る …… 御諸(みもろ)が上に …… 帯(お)ばせる ささらの御帯の ……」(紀97)とあるように、山のまわりを川の水がたわんで、帯、今のベルトで腰のところに輪を作るようにまわっていることと関係があると思われていたとわかる。「味酒を 神名火山の 帯にせる 明日香の川の ……」(万3266)とあって、万3228番歌とともに香具山が三諸の神名備山とされている。都が遷ったからであろう。御諸とは、ミ(接頭語)+モロ(杜、森、盛と同根)、神名備とは、神+ナ(助詞)+傍(び)、ないし、神+隠(なば)るの意で、いずれも神の依りつく場所の意である。
 川が回っているのである。字形が縦に三本のラインのところ、三諸にふさわしく横になりかかり、斜めになって彡となる。お参りする参、その対象にする木の杉、信仰の対象とする森は、同系のことばである。山頂からぐるりと回る川へと水が浸み出してくる。ミモロが音の似るミ(水、甲類)+モレ(漏、モ・レの甲乙不明)を連想させるとすると、そんな瓶は甑(こしき、コは乙類、キは甲類)である。甑は米などを蒸すための土器で、蒸籠の焼物版である。円筒形から鉢形になっていて、左右に角状の把手が付き、あたかも瓶のようであるが、底にいくつか穴が開いており、簀子状のものを敷いて蒸した。中国では河姆渡遺跡からも発掘例があるほど古くからある。3~4世紀にかけて朝鮮半島を伝って伝来したと見られ、5世紀、須恵器や土師器の甑が見られる。あるいは、須恵器技術の伝来と時を同じくして伝えられたのかもしれない。崇神紀にある「陶津耳」とは、耳のような把手の付いた須恵器、甑の謂いかと推測されるからである。
 甑は本邦では、橧とも書く。播磨風土記・宍禾郡条に、「阜(をか)の形も橧・箕(み)・竃(かまど)等に似たり」とある。橧の字は、白川静『字訓 普及版』(平凡社、1995年)に、甑の異文とするが、中国では、「橧巣」と使うように、木の枝を積み上げてその上に住むようにした古代の住居のことである。夏暑いから橧に住む。新撰字鏡には、「橧 辞陵反、豕の寝る所也、草也、己志支(こしき)也」とある。甑が湯気に熱いのに同じである。様子は鳥の巣さながらである。つまり、橧とは、巣+木(キは乙類)、スギである。特に酒造業では、甑を使って酒米を蒸し、内部を杉板で覆った麹室のなかで作業する。酒屋の看板の杉玉、いわゆる酒林(さかばやし)は、杉の葉を束ねたもので、箒状のものもあった。
杉玉(武蔵小山にて)
副葬用の竈形土器(古墳時代、6世紀、葛城市笛吹出土、東博展示品)
釜(ふ)・甑(そう)(中国、青銅、後漢、1~2世紀、東博展示品。古代中国の青銅製蒸し器は、脚のついた一体型の甗(げん)から、竈仕様で円底の釜と、その上に載せる甑が作られるようになったという。)
 甑(橧)は、竈の上に水を入れた釜を置き、その上に据えられる。釜は、竈の穴に落ちないよう、縁が広がった形に作られ、特にハガマ(羽釜)という。甑(橧)の字にある曾の字は、上は蒸籠、下は焜炉の象形である。それは、古墳から出土するミニチュア竈型土器と同じ構成になっている。酒を造るためには、通常の煮て炊きあげる方法ではなく、甑(橧)による蒸しが必要となる。柾目の杉材と竹輪等で作られた蒸籠でも可能であるから、橧という字が好んで用いられたのかもしれない。和名抄には、「木器」に、「甑〈甑帯附〉 蒋魴切韻に云はく、甑〈音勝、古之岐(こしき)〉は炊飯器也といふ。本草に云はく、甑帯灰〈古之幾和良乃波飛(こしきわらのはひ)〉といふ。弁色立成に云はく、炊単也といふ」とある。また、新撰字鏡には、「◇(木偏に甑) 己志支(こしき)」とある。  
 甑(橧)には、米粒、すなわち、銀舎利が入っている。なかに舎利が入った筒状に高いものは、仏舎利塔である。仏塔はツクシの形に似ており、槻の木ともども比喩として用いられていたことは、本ブログの「斉明天皇の両槻宮は、スサノヲの須賀宮を仏教的に復刻したものである」に記したとおりである。スギナの胞子茎のツクシには、茎を包む羽状の皮があり、ハカマ(袴・鞘)と呼び習わしている。葉が退化したもので硬いから、食するときには下拵えとして取り除かなければならない。五重塔のそれぞれに屋根のある階は層(こし、コは乙類)、裳層(もこし)という。コシ(層)+キ(着、甲類)ではないか。スギナは車のスポークを連ねたような形をしている。別名を接松(つぎまつ)といい、(こしき、コは乙類、キは甲類)のようである。甑と轂は姿が似ているから同じくコシキというとされている。和名抄に、「轂 説文に云はく、轂〈古禄反、楊氏漢語抄に云はく、車乃古之岐(こしき)といふ、俗に筒と云ふ〉は、輻(や)の湊する所なりといふ」とある。
杉(台杉)
スギナ
法隆寺五重塔、六重に見えるのは裳層があるため
 甑(橧)や層にある曾の字は、また、カツテ、イムサキと訓み、時間的に遡ってのことをいう。「過ぎ(ギは乙類)」にし時からスギと関係する。また、スギは常緑の針葉樹でヒノキに似ており、橧の字も檜(ひのき)によく似ている。よって、ウマサケ、ミワ、ミモロは、甑(橧)を介しつつ、杉と関連することばである。
 (a)(b)例に、神職の祝が「いはふ」とある。斎、忌などと書くイハフとは、二礼二拍手一礼のようなおまじないをして、良いことがあるようにと祈ることである。神官はイハっているが、歌の作者はイハっておらず、恋に夢中であったりする。祝(はふり)は、「放(はふ)る」、「屠(はふ)る」ことと関係する。死にまつわる役割を担っている。恋とは、生真っ只中の行為である。その相反する点を際立たせんがための素材であろう。つまり、底意には、三諸も神南備も、神妙な面持ちの神官によってもっともらしく託けられ、ご大層に有り難がられているに過ぎないとの認識がある。
 以上から、三輪においては、杉が斎うべき樹木にふさわしいと認められていたとわかる。やがて、酒の神を祀るとされる大神神社には、杉製の酒樽が多数奉納されるようになった。スサノヲによるヤマタノヲロチ退治と因縁づけられたことにもよるのであろう。なお、三輪山には、須恵器の到来した五世紀をはるかに遡る祭祀遺跡が確認されている。石上神宮と大神神社は、山そのものを御神体として崇めてきた。太古の人は、鉾(鋒)のような山の形を尊いと考えていたようである。最初は、その流れから、杉形(すぎなり)が好まれて、杉の木に注目が向かっていったかとも思われる。ただ、飛鳥時代の人々の機智はその程度ではなく、三輪山山頂から円周に取り巻く川へと均等に沢ができているさまは、上空から見れば、きっと轂のように見えるであろうと想像したからに相違あるまい。山鉾が巡行可能なのは、山車(だし)に輪の車がついてあるからで、そのからくりの要こそ轂である。したがって、ミ(御)+ワ(輪)と崇め奉られてしかるべきなのであった。(2012-4-21稿に加筆・訂正を施した)

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