古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

餓鬼について 其の一

2016年07月07日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 餓鬼がきという語は万葉集にも見える。関連個所を原文についてもあげる。

 相思はぬ 人を思ふは 大寺おほでらの 餓鬼がきしりへに ぬかづくがごと〔不相念人乎思者大寺之餓鬼之後尓額衝如〕(万608)
  池田朝臣いけだのあそみの、大神朝臣おほみわのあそみ奥守おきもりわらふ歌一首〈池田朝臣の名は忘失せり〉〔池田朝臣嗤大神朝臣奥守歌一首〈池田朝臣名忘失也〉〕
 寺寺てらでらの 女餓鬼めがきまをさく 大神おほみわの 男餓鬼をがきたばりて その子はらまむ〔寺々之女餓鬼申久大神乃男餓鬼被給而其子将播〕(万3840)
  大神朝臣奥守の報へ嗤ふ歌一首〔大神朝臣奥守報嗤歌一首〕
 ほとけつくる 真朱まそらずは 水たまる 池田の朝臣あそが 鼻のうへを掘れ〔佛造真朱不足者水渟池田乃阿曽我鼻上乎穿礼〕(万3841)

 万608番歌について、新大系文庫本万葉集(一)に、「思ってもくれない人を恋い慕うのは、大寺の餓鬼像のおしりにぬかずき拝むような馬鹿馬鹿しいことです。▽「餓鬼」は仏教語。ここは、餓鬼道に落ちた亡者の痩せこけた像を言う。「額つく」は「叩頭(こうとう)」。地に額を突き当てる拝み方。この頃の「大寺」は、大安寺・薬師寺元興寺・興福寺の四寺が当たる。」(381頁)とある。また、万3840・3841番歌について、同(五)に、「池田朝臣が大神朝臣奥守をからかった歌一首〈池田朝臣の名は失念した〉寺々の女餓鬼が願い申すには、大神の男餓鬼を賜わってその子を宿したいと。▽「寺々」とは、七大寺などの諸寺を念頭に置くのであろう。痩せている大神奥守を「男餓鬼」と戯れた。大神奥守は天平宝字八年に正六位下より従五位下になった官人。池田朝臣は未詳。「餓鬼」に男女の別があったこと、「餓鬼女」(四分律二十三)、「餓鬼男」(四分律十一)と見える。結句の「はらまむ」の諸本の原文は「将播」、訓は「はらまむ」。「播」は「懐」の誤りか。「懐 ハラム」(名義抄)」(289頁)とある。万3840番歌の結句「其子将播」については定訓を得ていない。
 餓鬼という語について、古典基礎語辞典は語釈として、「①貪欲の報いで飢渇に苦しむ亡者。……②餓鬼道。……③人を卑しめて言う語。……④特に子供を卑しめていう語。」(312~313頁)の四つをあげている。上の万葉集の例では、寺院に置かれた彫像を指して言っているとされている。契沖・万葉代匠記に、「昔ハ伽藍とある所にハ慳貪の悪報を志めさん為に餓鬼をつくりおけるなるへし」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2552058/53)などとある。今日、どこの寺院に餓鬼の像があるのか、管見のため筆者は知らない。四天王像の足の下に這いつくばっているのは邪鬼であって餓鬼ではない。後述する。
餓鬼(餓鬼草紙、鎌倉時代、13世紀、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0008479をトリミング)
 時代別国語大辞典に、「がき【餓鬼】(名) 餓鬼道に落ちた亡者。逝去者・父祖の意を持つ梵語を意訳した字音語で、それがそのまま日本語の中に取り入れられた。貪慾の報いとして飢渇に苦しむもので、寺には貪慾の戒めとして餓鬼の像が置かれていた。」、「【考】餓鬼については、楞厳経・正法念経・法華経功徳品などに記述がある。「鬼」の字は字音としてはいわゆる合拗音となる文字である。和名抄で和名をガキとしている点からみて、かなり早い時期に国語化したと考えられる。キの甲乙については、韻鏡で同じ第一〇転三等の「尾・斐」は乙類の仮名に用いられ、同転中にはこのほかに「非・肥・微・未・帰・貴」など乙類仮名として用いられる文字が多数含まれている点からみれば、これも乙類であったといえよう。」(176頁)とある。上代におけるガキのキ音について積極的な判断がなされている。仮名書きの例は見られないから、甲乙の判断は簡単にはできない。ヤマトコトバのガキを、字音そのままの訳と捉えると、なぜ「かなり早い時期に」字音により国語となった例が「双六すぐろく」、「壇越だにをち」など、とても限られているのか説明できないことにつながる。特殊な扱いを受けた語の特殊化の法則について、考慮されていない。
 二十巻本和名抄に、「餓鬼 孫愐切韻に云はく、餓鬼は鬼なり。餓は五箇反、訓みは飢と同じ。久しく飢ゆるなり。内典に云はく、餓鬼〈和名は加岐がき〉は其の喉、針の如くして水を飲み得ず、水を見れば則ち変りて火と成るといふ。」とある。和名抄は源順によって成ったもので、平安時代にはキの甲乙は失われているから手掛かりにならない。ただ、「餓鬼」の「餓」のみ反切を記し、「鬼」の方は記さない。「鬼」の字音をそのままヤマトコトバとしたわけではないことを示唆するものかもしれない。何か裏がありそうな記述である。名義抄に、「鬼 [俗]今正、居委反、オニ [和]ク井」とある。和音にクヰであるということである。キ(乙類)と一音化することに名義抄段階でもためらいがあるらしい。上代に、「餓鬼」は確かにガキであってガクヰではないが、「鬼」の音がクヰということだから、「餓鬼」の「鬼」が字音の合拗音の訛りのままとは言えないと考えた方が良さそうである。
 康煕字典は唐韻、集韻、韻会を引き、「鬼」は「居偉切に从ひ、音は詭」とする。「詭」は過委切である。ヤマトコトバに直すと、「過」は「過所」をクワソ、「悔過」をケクワと言ったようにクワの音、「委」はヰの音である。つまり、クワヰである。この音をヤマトコトバに一音でキ(乙類)としたと決めつけるのは早計であろう。なにしろ、そういうものが本邦にすでにある。「くわゐ(慈姑)」はお正月に煮含められて下の方の重箱に入っている。くわい煮である。芽が出ているから目出度いという意味や、世間で芽が出るようにという願いが込められているからという。芽の部分を損じないように料理しなければならない。丸く横に皮を剥くのではなく、縦に六角形に剥くと長寿を表す亀甲模様になり、しかも芽を損じにくい。くわいの煮物の様は、腹が膨らんでいて、芽に当たる部分は胴首と捉えることができる。餓鬼の図像イメージそのままである。
左:クワイ(神代植物公園)、右:サトイモ(世田谷区)
 和名抄に、「烏芋 蘓敬本草注に云はく、烏芋〈久和為くわゐ〉は水中に生ゆる沢舄の類なりといふ。」とある。クログワイ(黒慈姑)のことを指すとされるが、細かな種の同定は他の植物同様むずかしい。とりわけクワイの類については、江戸時代まで多くの混同が見られる。いかなる種かはともかく、奈良時代には存在が知られていたから、平安初期の字書に載っている。紀元前1000年頃の縄文時代の亀ヶ岡遺跡から、クログワイを収めた土器が見つかっている。本草和名には、「烏芋 一名に籍姑、一名に水〓(サンズイに芋)。鳧茨〈仁諝音に上、府。下、在此反。陶景注に出づ〉、一名に槎牙〈仁諝音に錫加反。〉、一名に茨菰〈沢潟の類なり。已上、蘇敬注に出づ〉。烏茈〈崔禹に出づ〉、一名に水芋〈兼名苑に出づ〉、一名に王銀〈雑要訣に出づ〉。和名は於毛多加おもだか、一名に久呂久和為くろくわゐ。」とある。大陸伝来か、本邦に自生していたかもわからない。オモダカ科の植物で、生物学的にはサトイモ(注1)の親戚ではない。多少のえぐみがある。クログワイ、クワイ(普通くわい)、スイタクワイ(吹田くわい、豆くわい、姫くわい)と品種は限られる。クログアイはカヤツリグサ科であるという。中華料理の具材とされるものは water chestnut の名で缶詰で売られている。スライスして炒め物などに用いられる。スイタグワイは、二期作でイネの後に塊茎を植えて正月前には収穫できる。田圃に雑草のように勝手に生えているものを放っておき、取って食べることもあった。春に種子を播いて育てることもできる。イネの雑草だからと安易に抜かなかったのは救荒植物にもなったためであろう(注2)
左・中:クワイ(生と素揚げ)、右:稲にクワイの混じる田
 万葉集に、「ゑぐ」とあるのはクログワイのことではないかとされている。味にえぐみを感じて言葉になっているらしい。仮にそうであるとするなら、もともとヱグと呼ばれていた植物がクワヰへと名称変更したことになる。クワヰという語は和訓の類なのかもしれない。ヤマトコトバとして不思議な発音である。ヱグの歌はともに女性の詠んだ歌で、「む」と言っている。地中の芋状のものを掘り取ることに、ツムというヤマトコトバを嵌めることに違和感を覚える。ここでは一般的な訓のとおりあげておく。

 君がため 山田のさはに ゑぐむと 雪消ゆきげの水に すそ濡れぬ〔為君山田之澤恵具採跡雪消之水尓裳裾所沾〕(万1839)
 あしひきの 山沢ゑぐを みにかむ 日だにもはせ 母は責めても〔足檜之山澤佪具乎採将去日谷毛相為母者責十万〕(万2760)

 餓鬼の「餓」の字は、飢えてひもじい意である。もとは「ひだるし」という語であった。ヒダルシは、おそらく、ヒダリ(左)に関係のある語であろう。ヒダリという語は、大工や石工が左手に鑿を持って仕事をするところから、「呑み」にかけて酒のことや酒を呑むこと、左党のことをいう。名詞「鑿」と動詞「呑む」に関連があろうことは、白川1995.600頁に指摘されている。数ある欲望のなかでも、食欲や性欲は動物であるから当然存在し、程度の差の範囲内であるうちはいいものの、異常な食欲(過食、拒食)、異常な性欲というのも起こる。また、麻薬や覚醒剤、ギャンブル、煙草とならび、飲酒したがる欲求は、他の動物にはほぼ存せず人間に特有で、しかも常習性があって中毒になりやすい。そうなると、料理が主ではなく酒が主となり、何でもいいからアテがあればいいだけの食事になる。
 落語・百川に、くわい(慈姑)の金団きんとん(注3)の話が出てくる。この、くわいの金団という慣用句は、物事を理解できないことをいう。栗の代わりにクワイで金団を作ると、見かけは似ているが呑み込むには大きすぎる。くわいの金団という言葉は、そこから、事情を呑み込めず、納得できない事柄を譬えるのに用いられている。つまり、クワイは喉にとっては通せんぼをする栓、埒に似ている。埒が開かないことをくわいの金団と言っている。喉を通りにくいのは餓鬼と同じである。二十巻本和名抄では仏典を引き、「其喉如針」とあった。くわいの金団で溜飲を下げることは難しい。人見必大・本朝食鑑に、「慈姑 ……煮熟して食するときは則ち麻渋して人ののどに戟せず」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569415/53)、寺島良安・和漢三才図会に、「慈姑 ……あく湯をもつて煮熟し皮を去りて食はば乃ち麻渋、人の咽を戟せざる也。嫩茎も亦でて食ふ可し」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898162/563)とあり、クワイと喉との関係は、そのえぐみにもよるらしい。人は餓鬼のようになったとき、食べようと焦るが、シュウ酸を抜くために十分な調理が求められる。まったくひだるい限りである。狭いところにつかえてしまって入って行かない、ないし、出ても来れないものである。それは厩におけるマセ・マセボウ・マセガキに相当する。狭いところ、マ(間)+セ(狭)だから、ちょっとしたことでつかえてしまう。ノド(喉)とは、ノミ(呑)+ト(戸・門)の訳である。さらに世俗的な考えとして、餓鬼が呑みこみたい欲求の対象、酒は、古語にキ(甲類)という。ヤマタノヲロチ退治の話では蟒蛇うわばみのような酒呑みを演じ、コ(甲類)(児)を呑もうとしてト(甲類)(戸)というにはお粗末なコ(甲類)(籠)に当たって、キ(甲類)(酒)を呑んで酔っ払って眠りこけ斬られてしまった。出入口が狭くなっているから一~数本のマセ棒という単純なカキ(キは甲類)(籬・垣)で十分であった。そして、酒を呑んだ後は、無性に水が欲しくなる。水を求めるも火となって消えていく様子は仏典に見られる。
左:クワイ、右:ヤツガシラ(岩崎常正・本草図譜(写)、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2550799/1/12、https://dl.ndl.go.jp/pid/2550790/1/55をトリミング)
 ヤマタノヲロチの話になぜくわいが関連するかと言えば、話の設定が、くわい(慈姑)v.s. やつがしら(八頭)の芋対決(注4)だからであろう。ヤマタノヲロチ的な芋はヤツガシラである。スサノヲ的な芋はクワイである。新年の賀を祝うために煮含める。ガ(賀)+クワヰ(慈姑)、つまり、餓鬼である。年が改まるから、年に冠する枕詞はアラタマノである。慈姑とは、丸っこい玉のようなものでありながら芽角が出ており、「荒魂あらたま」に当たり、ガクワヰこそ荒魂にふさわしい。まるで如意宝珠のような形をしている。「荒魂あらみたま先鋒さきとして師船みいくさのふねを導かむ。」(神功前紀仲哀九年九月)とある。出ている芽角を敵に見せつけるのである。
 他方、対になる「和魂にきたま」は里芋のうちでもヤツガシラのことをいうのであろう。茎はずいきとしてもよく食べられる。他のサトイモやクワイの茎も食べたのであろう(注5)が、最も太いものはヤツガシラであり、ずいき芋とも称される(注6)。ヤツガシラは、親イモと子イモが合体して、怪獣のようななりをしている。丸い親芋と同じぐらい大きな子芋がくっついて団塊となっている。末広がりの「八」字と、子孫繁栄を表す「頭」字を使って書き表し、親子がくっついているから家庭円満も表す。御目出度いからお正月料理とされる。かたまりのままかぶりつく風習のあるところもある。カシライモといい、人のかしらになるほど出世して欲しいとの願いが込められているとも言われている(注7)
 神功前紀仲哀九年九月条には、「和魂にきみたま王身みついでしたがひて寿命みいのちを守らむ。」ともある。芋か鳥かを船に載せて新羅親征を試みたということであろう。鳥の漢名を知っていたなら文字面の縁起はいい。「「王身」の古訓ミツイデのミは、敬称の接頭語。ツイデは、序の意であろうが、王身を、何故ミツイデと訓むのか不明。」(大系本日本書紀149頁)とされている。新編全集本日本書紀には、「「大御身おほみみ」の意。古訓ミツイテ。ミは敬語。ツイテはツキテ(継手)で、皇位の継承者の意か。ここは神功皇后。」(426頁)と誤解し、「王身」をオホミミと訓んでいる。親イモから子イモへと接(継)いでいるからミツイデなのであるし、神功皇后の新羅親征の話では、お腹の中に後に応神天皇となる赤子を宿しながら鎮懐石を当てて生まれないようにしていた。「王身」は次の天皇を身籠っている。親イモ子イモの合体物を表す言葉がミツイデで、その姿をよく具体化しているのが芋のヤツガシラである。
 上宮聖徳法王帝説に所載の法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の注に次のようにある。

 鬼前大后かむさきのおほきさきは、即ち聖王ひじりのみこの母、穴太部間人王あなほべのはしひとのひめみこそ。鬼前と云ふは此れかむそ。何が故に神前皇后かむさきのおほきさきと言ふとならば、此の皇后の同母弟いろど長谷部天皇はつせべのすめらみこと石寸いはれ神前宮かむさきのみや天下あめのした治しめしき。若し疑ふらくは、其の姉、穴太部王あなほべのひめみこ、即ち其の宮にす故に、神前皇后とひしか。(鬼前大后者即聖王母穴太部間人王也云鬼前者此神也何故言神前皇后者此皇后同母弟長谷部天皇石寸神前宮治天下若疑其姉穴太部王即其宮坐故称神前皇后也)

 東野2013.に次のように注されている。

 鬼前と云うは此れ神也 「神」の下、あるいは「前」脱か。鬼前をカムサキと読み、穴太部間人皇后は、同母弟崇峻天皇の石寸神前宮に居たので鬼前大后と言うとの解釈。証注[狩谷棭斎・上宮聖徳法王帝説証注]が詳しく述べたように、石寸の「寸」は古代しばしば用いられた「村」の省画文字で、石寸はイワレ。……ただ、石寸神前宮は史料に全く見えず、ここの解釈は疑わしい。「干食王后」と同様、文字に即さない特殊な表記の可能性が高いであろう。鬼は死者の霊魂があるから、あるいはその前に奉仕する泥部(ハシヒト、土師)を、鬼前で表記したか。(55頁)

 解釈に難渋している。「鬼前」≒「神前」でカムサキと訓むというのは、かなり正しいと筆者は考える。ヤマトコトバ的な反切を表記している。いちばん上の音と一番下の音を合体させて途中を飛ばし、カキと言っている。「石寸神前宮」とは、イハレのカキミヤである。崇峻天皇が都したのは、「倉椅柴垣宮くらはしのしばかきのみや」(崇峻記)である。倉椅は紀に「倉梯」とある奈良県桜井市倉橋で、「磐余いはれ」の地にある。つまり、「石寸」は磐余、「神前宮」は垣宮のこと、磐余に垣根を廻らせた宮を作ったということである。スサノヲがヤマタノヲロチを退治した後、須賀に八重垣を廻らせて宮を作ったことにとてもよく似ている。崇神天皇代に磯城しきの瑞籬宮みづかきのみや(師木水垣宮)、垂仁天皇代に師木しきの玉垣宮たまかきのみやがあった。上代の人は、言い伝えを準える形で生きていた。文字を持たない時代の生活の知恵の特徴である。
 垣根にはいろいろな形態がある。額田1984.に、次のようにある。

 垣のうちで、もっとも永い歴史をもっているのは柴垣であろう。しば粗朶そだ(樹木の枝など)や萩を集めて、それを立てならべたもっとも素朴な垣である。これには二つの種類がある。一つは、……柴を単に立てならべただけのものであり、いま一つは柴を二列にして、少々離れたところからお互いを斜めにして、上部で交叉させたもの……である。柴垣は比較的身分の低い人の居宅の垣に用いられたようである。これは家を防禦するのが目的ではなく、風をさえぎるとか、目かくしにする程度であった。「垣のぞき」は古い時代の一つの風習であったという。(76~77頁)

柴垣(一遍聖絵写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2591576/1/32をトリミング)
 では、「神前」と「鬼前」がまったく同じかと言うと、少し違うらしい。「鬼前」は、ガムサキと訓み、反切だからガキ、餓鬼のことであろう。さき(キは甲類)とあるからには、餓鬼のキは甲類であることが確かめられる。「云鬼前者、此神也。」部分、「神」字の下に「前」字の脱落はない。ガムサキトイフハコレカムソ。反切で読めば、ガキトイフハコレカムソ。餓鬼というのは神の一種である、ということである。その場合、カミ(神)(ミは乙類)ではなく、カム(神)と訛るところが、かき(キは甲類)が餓鬼がき(キは甲類)と濁ることを示しつつ、カム(噛・醸)ことによって醗酵醸造を促して酒を造ったことを含意している。「みし御酒みき」(応神記)、「此の御酒を 醸みけむ人は」(神功紀十三年二月・仲哀記)とある。ヤマタノヲロチに酒を呑ませるためには、準備段階にカムことが必要であった。その差配を、垣ならぬ餓鬼が行った。脚摩乳・手摩乳は、男餓鬼・女餓鬼に当たるのであろうか。真ん中に奇稲田姫がいるということは、田圃の光景として、稲が中央に、クワイやクログワイがその周りに生えていたということから連想して創作された話かもしれない。そうであると言えそうなのは、発語の失敗をカム(噛)というからである。言葉自体がエッシャーの絵のように循環して説明されている。説話という揺り籠のなかで育てられている。
 鬼と神との違いとは、食品の姿かたちの違いでもある。クワイは確かに縁起物でおせち料理にそのままの形で登場する。けれども、くわいの金団のように、その餡の部分に裏ごしされたものとしても登場する。そして、おそらくかなり早い段階から、寺院での精進料理(注8)の主材料にクワイは用いられ、「摺身」にしてもどきの料理としてもこしらえられたのであろう。噛むよりもさきに摺られており、咀嚼に手間取ることはない。「さき」とは口が空足を踏むようなこと、よって、ガキと言ったのであろう。
 ここで、クワイと擬きの料理の関係について検討しなければならないこととなる。たいへん迂遠にして想像の域を出ない部分もあるが、科学的な実証の不可能な点について、今日、学問とされないために議論どころか思考実験さえされなくなっているのであえて行うこととする。
 吹田くわい保存会2010.に、吹田くわいについての現地調査と比較栽培によって得られた結果の要約を載せている(阪本寧男「吹田くわい─半栽培植物の例─」)。

 (1)吹田くわいは、古い文献にも記載され、人々の関心が高かった。(2)くわいのような栽培植物ではなく、水田雑草のオモダカの一品種である。(3)水田を除草するときには除去しないで、残しておいた。(4)1920年頃までは水田の雑草としてたくさん生えていたが、除草剤を水田に散布するようになってから急速にその姿を消した。(5)稲刈りのすんだあとは、誰でも水田に入ってこの植物の塊茎を掘り取ることができた。(6)高湿田のため、採集には「桶沓おけぐつ」をはいて田に入り、「くわい掘り」という専用の道具を用いた。(7)掘り取った塊茎は自家用とともに、仲買人の店にも出荷された。(8)普通の人びとはそこで塊茎を入手し、年末に「かも」という藁苞わらづとに入れて知人に贈ったが、「芽を吹く」といってお正月のおせち料理の素材にされた。(9)明治時代には、約10石の収穫量があったという記録がある。(10)吹田村御料地の農家は毎年春に京都の御所に献上したが、そのための特別の献上籠があった。(11)京都の市場に出荷されたものは、雛まつりに甘煮にして供えられた。(12)オモダカ、吹田くわいならびにくわいを小さなをポットを用いて比較栽培を行なった結果、オモダカと吹田くわいは花茎を形成し開花・結実したが、くわいは花茎をつけなかった。塊茎の数は、くわいがもっとも多く、吹田くわいがそれに次ぎ、オモダカはもっとも少なかった。また塊茎の大きさおよび重さは、くわいがもっとも大きく、吹田くわいがそれに次ぎ、オモダカはもっとも小さかった。(28~29頁)

 古代に食べていたものが、和名抄に「烏芋」と記されたクログワイであるのなら、カヤツリグサ科のそれは花茎をつけたのであろう。一方、擬きの料理がどのくらい上代にあったか、定かではない。ただし、料理はすべていつも実験的であるから、何があってもおかしくはなく、何を作っても頂ければ幸いなことは確かである。現代、さまざまなレシピによりさまざまに食べられているのと根本的な事情に変わりはない。知恵と技を隠し持っているのが人間である。大きな違いは電子レンジがなかったことぐらいである。擬きの料理のうち「もどき」の呼称として最も広まっているものは、がんもどきであろう。どうして「がんもどき」と呼ぶのかについては諸説あってわからない。雁の肉が蛋白部分と脂部分とに二分されているところと、がんもどきの油で揚げてあって油が沁みているまわりと、なかの淡白部分との対照が似ているからとする説、がんもどきの円盤状の表面に現れる材料の模様が、ガンの渡りに見立てられるからとの説、同じものを指す飛龍子ひりょうす(ひろうす)には、ポルトガル語で小麦粉と卵を混ぜ合わせて油で揚げたお菓子 filhós から来たとする説も知られる。喜田川季荘・守貞漫稿に、「飛龍子 京坂にて「ひりやうす」、江戸にて「がんもどき」と云。雁戻也。豆腐を崩し水を去り、牛房笹搔、麻の実等を加へ、油揚にしたるを云也。価八文十二文ばかり也。京坂には栗△△△等を加へ精製多し。近年三都ともに細工豆腐なとゝ号け豆腐に種々の製をなす物あり。鰻蒲焼の摸製等は片豆腐に紫海苔を皮とし油を付て焼たる形容真の如く味も亦美也」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991467/234)、醒狂道人何必醇・豆腐百珍に、「ヒリヤウヅ 豆腐水をしぼりよくすりくづの粉つなぎに入れ、加料かやくに皮牛蒡の針・銀杏・木耳きくらげ麻子をのみ、又小骰さいものにハやき栗子くり慈姑くわい一品ひとしな入るへし。○加料を油ニてゐりつけ麻子ハあとに入れとうふにつヽミ大小よろし)きにしたがひ又油にてあぐる也。又麪粉うとんのこころもにかくる尤よし。○ゐり酒ニおろし山葵わさび或ハ白醋しらす山葵わさびの針をくか又ハ田楽にしてあを味曽ミそ罌粟けしをふる。○ヒレウヅ一名を豆腐ケンともいふ。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536494/17~18)とある。
 ところが、そのがんもどきというもの自体、そもそも古くどのような材料からできていたのかよくわからない。料理秘伝記(1773年頃)には、「雁もどき。豆腐をしぼり、うどん粉を加え磨り、麻の実、牛房せん加えよき程につみ入れ、油にて揚げ申す也。さて揚引いて二ノ汁或は煮物、本汁にも用る也。」とあって今日に近いものが感じられるが、遡ると、乾只勝・小倉山飲食集(元禄十四年(1701))(松下・吉川・川上・山下1983.)に、「一摺身に山芋入 麻実少入まぜ合 つみ入などにしてかやの油にてあげ 是を鴈もどきと云なり」(234頁)とある。美味しく頂ければ何でも構わないのである。豆腐の加工食品として広まったが、それ以前からあったとするのが妥当である。なにか「摺身」を主原料にして油で揚げたものががんもどき(ひりやうす)であり、その形、食感をもってそう呼んでいたということであろう。川上2006.は、「[『小倉山飲食集』の著者、江戸のいぬい乙右衛門只勝]は当時有名な料理人で……あるいはヒリョウズにヒントを得て魚の摺身に山芋を摺りまぜ油で揚げ、雁肉料理に似せたつもりで雁もどきの名を付けたものかもしれない。」(600頁)との「空想」を将来熟考の課題としている。オーソドックスな考え方であるが、豆腐でがんもどき(ひりょうす)を作るという発想は、豆腐自体が多くそうであるように、精進料理に由来するものと思われる。しかも、魚の摺身を使った揚げ物には他に、関東で言うさつま揚げがある。蒸し物には蒲鉾や竹輪、茹で物にははんぺんがある。それとは別してがんもどきがあるのだから、豆腐を使う以前、魚を殺生せずにその擬きの料理をすでに考案していたということではなかろうか。何かを主原料にしながら、山芋で粘度をあげて形を作ったものではないかと筆者は空想している。そのとき、それが精進料理として考案されたものであったなら、「摺身」に魚はあり得ない。食感もさつま揚げ風ではなく、今日のがんもどきに近いものだっただろう。
 偽物なのだから信義に悖るところがある。モトル(悖)はモドル(戻)と同根の語とされる。おそらく、それらの語からモドク(擬)の語も生じてきたと思われる。牴牾、抵牾とも記し、他と張り合って事を行ったり、他のものに似せて作ったりすること、まがえることをいう。がんもどきという食べ物は、何の擬きなのかについても、見ても食べてもよくわからない。とはいえ、雁に似て冬に列島に渡ってくる鳥は、少し小形になる鴨が名高い。雁はなかなか捕まえられず、それに似た鴨を常食として誤魔化している。万葉集の用字に助詞のカモに「鴨」と当てることがある。雁かもしれないのが鴨である。本物の雁ではないがんもどきとは、カモかもしれない。カモという助詞の意味が擬きであることを語っている。自己言及的な言葉となっている。同様に、ご飯を食べたくてお腹が空いた空いたと、ガン、ガンと訴えるとしたら、それは節操を欠いた人でなしである。欲望の奴隷と化している。そんな餓鬼には、がんもどきを食べさせて誤魔化しておくのが正解であろう。
かもしれないポスター(駅ポスター)
 すなわち、筆者は、その「摺身」の原料は、クワイではないかと疑っている。林1984.に、「鳥擬 くわいの鴨もどきは、すりくわいに片栗粉少し加え、よく摺り合わせて団子に取り、胡麻の油であげる。これに芹、三ツ葉などあしらい、吸物とする。」(295頁)とある。説文に、「芍 鳧茈なり。艸に从ひ勺声」、爾雅・釈草に、「芍 鳧茈」の注に、「下田に生え、苗、龍須に似て細く、根、指の頭の如し。黒色は食す可し」とある。黒くわいのことを指しており、龍のひげがどのようなものか定かではないが、オモダカ科の葉は、ハスのように丸くはなく、三角形に尖った形をしている。葉の付き方は里芋のように葉柄から垂れるのではなく、登るようである。(注2)の大和本草も、クワイの葉を龍の鬚のようであるとする。秋遅くから春先にかけて、渡り鳥が越冬で羽を休めている田の中に、塊根が残っていて取り出すとなれば、夏場に龍が荒れ狂って雨を降らせたときの名残りの子どもであるとこじつけたとしても不思議ではない。本草名に「鳧茈」とあるところは、がんもどきのガン(雁・鴈)に似る渡り鳥がカモ(鴨・鳧)であるということであろう。吹田くわいの史料には、贈答用の藁苞になぜか鴨形のものが使われている(注9)。がんもどきの原料としていた時代の記憶の残滓が刻まれているように感じられる。
 このように仮定を積み重ねていくと、くわいが擬きの食べ物の素材とされたらしく思われる。上述のとおり、餓鬼とくわい(塊茎)との間に形の相似を捉えた。と同時に、くわいが擬きの食べ物となるということは、くわいとは擬きなのだと納得することができる。すなわち、餓鬼とは、人間もどきなのである。パーリ語の preta とは、「人らしさを失ったもの」「ひとでなし」の状態である。その姿は鳥獣(畜生)ではなく人間の形をしているが、人の心を失った存在である。彫像やご遺体が問題なのではなく、動物として生きているホモ・サピエンスでありヒト(人)と見紛うばかりであるけれど、中身が違う、原料が違う、心を失っているということを言いたい。食べ物としては、同じ水田に育ちながら、ご飯ガンではなくてがんもどきになるのがクワイである。クワイの葉っぱは、葉柄から立ち上り三角張って「人」の字のような形をしている。その形がおもしろがられ、沢瀉紋が作られて好まれている。その地上の穀類ではなく、地中の塊茎を「摺身」にして食べ物を拵えた、それががんもどきなのではないだろうか。
沢瀉図柄鏡(「天下一服□藤重吉」銘、青銅製、江戸時代、17世紀、国学院大学博物館展示品、服部和彦氏寄贈)
(つづく)