からたちの道

仕事しながら思ったことなど綴っています

生産者インタビュー 「嫁付き みかん山付き  借金付き」

2017-07-11 11:01:16 | 日記


みかん山はちみつ園主 
吉田浩司さん 1977年長崎・諫早生まれ。結婚を機に水俣へ。パートナーの実家がみかん農家だったことがきっかけで柑橘農家になる。高校生と小学生の3人の子どもがいる。

文・大澤菜穂子

 今回紹介する柑橘生産者でもあり、みかん山ハチミツの園主吉田浩司さん。私の大学時代からの親友でもある。大学は違うのだが、大学間を超えた環境サークルで知り合い、学生時代、九州内の学生を募り、水俣でともにイベントなどを行った仲間だ。何故、彼が今、水俣で柑橘農家になったのかは、私の幼馴染と結婚をし、彼女の家が柑橘農家だったのだ。彼女と付き合い出し、長年柑橘農家をしていた彼女の父親が亡くなり、吉田さんは広大なみかん園を継ぐ流れとなった。もちろん柑橘栽培などしたこともなかった。

 ちなみに、彼のパートナーでもあり私の幼馴染は、家業は継がず、助産師となっている。彼女が仕事を辞め助産師の道を進むと決めた時、一番の応援団で後押しをしたのはもちろん彼だった。助産師を志す為、他県で住み学校に通う妻。柑橘栽培をしながら、時には一番下の娘をおんぶして、3人の子育てをしていた時期もあった。

 不知火海を望む広い園には、1000本以上の様々な柑橘が植えられている。メインは、グレープフルーツ、河内晩柑、パール柑。柑橘農家になり今年で17年目。私も彼との付き合いは、学生時代も含めると20年以上にもなるが、今でも何かあると、彼のみかん山に出向き相談する。彼の答えは、常に明快で爽快。そして前向き。それは、柑橘栽培にも出ている。「あれは若気の至りだった」と話すが、みかん園を継いだ彼が最初にやったことは8割のみかんの樹を切り、新しい柑橘の苗を植えた。そして複雑に段々畑だった園を、作業しやすいように、平坦な箇所を増やしたことだった。もちろん、パートナーのお父さんが大切に育てて樹々を切られ、義母や周りからは非難ごうごうだった。それでも、少ない種類の柑橘をたくさん作るより、多品種を栽培し、リスク・収入の分散。そして、土づくりに力を入れ、今も無農薬や可能な限り低農薬で栽培をしている。みかん農家になったと同時に、自身の奨学金やみかん園の借金は驚く額だった。とにかく必死の17年間だったと振り返る。


 近い将来は養鶏をしたい。この未来計画はパートナと一致しているらしい。「変えていくことにためらいを出し始めたらダメだね」と、自ら変化を作り、変わっていく景色を楽しむ人だ。手放す時には手放し、しがみつかない姿勢も好きだ。読書・音楽・スポーツと多趣味で、今は「土と内臓」という微生物の本を読んでいるとか。中島みゆきも大好きで、きっと今日も、好きな音楽を聴きながら広い園で作業を頑張っていることだろう。ただ、まだ柑橘の収穫が続く日々に、そろそろ終わらないかな~と先日は珍しく弱音を吐いていた。

 最後になってしまったが、今年はみかんの開花時期に晴天が続き、久しぶりのハチミツ豊作の年です。濃厚な純粋水俣産蜂蜜。
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おるが水俣仲間たちー2

2017-05-31 16:45:51 | 日記


仲間がコンサートやりたいって言ったから手伝っただけ」。
いつもこの人の答えはシンプルだ。今回紹介する人は私の大好きな水俣人の1人Tさん。
今年2月水俣で開催された石川さゆりさんのコンサートを、2年間にわたり縁の下で支えた。
仕事は水俣にあるコミュニティーセンターの館長さん。
今年で20年目に入った。

Tさんの働くコミュニティーセンターは、水俣病事件で分断された市民間の溝に、
もう一度正面から向き合い、対話し協働しようという取組の一環として、地域に建てられた。

Tさんは水俣で生まれ、生後10ヶ月でポリオにかかり、小学校に入るまで病院での入院生活。
小学校からは家を離れて養護学校の日々。
中学卒業までの9年間の我慢だ、と自分に言い聞かせていたが、
途中、高等部も併設され、結局12年間の養護学校生活を送った。
「養護学校のクラスメートの半分はポリオ。生まれて1年後にポリオのワクチンがでたんだけどね」と、
ほとんど家で過ごした記憶がない時代を振り返りながら話してくれたことがあった。
養護学校を出て就職した会社が倒産して、20代で水俣に帰郷した。

今は、館長業をしながら、様々なイベントを手伝う。
そして、車の運転が困難な仲間を乗せ、あちらこちらへ出向く。
地元である甘夏マラソン大会にも、何度か一緒に参加した。

誰にも優しいが、時には声の小さい者に代わって、権力と闘う強い人でもある。
何でこんなに頑張れるのだろう。ある時、彼の原動力は何か問うたことがある。
「(障がいがあることで)人に何か多くしてもらう人は、より多くの人に何かしてあげたいという本能なのかもしれない。
これは僕だけではなく、胎児性の患者さんとも話すんだ。彼等も同じことを言っているよ」と。
Tさんの働くに行くコミュニティーセンターに行くと、Tさんを訪ねる多くの人の姿をよく見かける。
私にとっても、彼等にとっても、いつもTさんは良き相談相手であり、冗談を言い合える大切な友人である。   
                       

石川さゆりコンサート

2017-05-23 11:05:57 | 日記



上野発の夜行列車降りた時から、青森駅は雪の中~♪」我が家では、宴会があるといつもこの歌を歌う人がいた。
この石川さゆりさんの「津軽海峡冬景色」は私が最初に覚えた演歌だ。歌っていた人とは、滝下昌文さん。

約30年前の「反農連」時代に2年半、甘夏みかんの箱詰めや寒漬大根の袋詰めなど仕事に来てくれていた。
小学生だった私は「滝下のお兄ちゃん」と呼び、学校から帰るとよく遊んでもらった。
還暦過ぎた今でも、「滝下のお兄ちゃん」と呼び名は変わらない。

水俣市の中でも患者数が一番多い漁師「茂道」で生まれ育ち、胎児性水俣病患者の滝下さん。
その滝下さんや他の胎児性水俣病患者たちは、今年の2月11日(土)水俣で石川さゆりのコンサートを実現させた。

今からさかのぼること39年、滝下さんを始め胎児性水俣病患者は、
自身が20歳の成人式を迎えた頃、自立を目指して石川さゆりさんのコンサートを水俣で行った。
「若い患者の会」を結成し、自分達の足で街角にポスターを貼り、街頭でチラシを配り、家々を周りチケットを販売した。

あれから40年近い月日が流れ、若かった滝下さんたちも年齢は重ねたが、
もう一度この水俣で石川さゆりさんのコンサートをしたい。
長年心にしまっていた熱い想い。その熱い想いに再び当時のメンバーが集まった。

名前は「若い患者の会」から「若かった患者の会」に。
2年前から準備に入り今年2月11日再び水俣でコンサートを実現させた。
900人入る文化会館の2回公演。
心配された1800枚のチケットは完売となり、満員の観客を前に、会の代表の滝下さんは挨拶した。

「私たちは年を取って体が思うように動かなくなった。支えてくれた親や家族を失った仲間もいる」と39年前と同じようにステージに並んだ仲間のメッセージを伝えた。当時は歩き自転車にも乗っていた滝下さんを含め、皆車椅子での登場となった。

熊本出身の石川さゆりさんは「再演の約束を果たしてくれた会の皆さんに感謝している。
私も皆さんが明日に向かって一生懸命生きる姿を見習って、歌っていきたい」と「津軽海峡冬景色」
などを熱唱しコンサートは大盛況に終わった。
サプライズで、アメリカメジャーリーグーで活躍するイチローから託された、バットの贈り物もあった。

コンサートの当日、忙しそうに車椅子で動き回る滝下さんに手を振ると、満面の笑みで返してくれた。
社会人になった滝下さんの息子さんも、会場整理などボランティアで参加していた。

水俣病事件から61年が経ち、水俣の中でも、水俣病の歴史を直視する若者が減ってきていると懸念の声をよく耳にする。
確かにそうだと思うが、今回の石川さゆりさんのコンサートには、地元で音楽活動する若者など、
ボランティアで参加した水俣の新しい顔ぶれも少なくなかった。
コンサートの打上げで「次は10年後にまた石川さゆりさんのコンサートを水俣でやりたい!」という新しい目標ができた。
「できるできないではなく、やるかやらないか」そんな言葉を滝下さんたちからもらった気がする。
    
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おるが水俣仲間たちー1

2017-05-17 09:52:49 | 日記
水俣で誰かしらに会っていると退屈することはない。
もともとの水俣人、豊かな漁場ということで対岸の島々などから水俣にやってきた者、
私の両親のように水俣に移り住んだ者など、水俣はいろんな人が混在する実に興味深い場所である。
そして、その1人1人が個性的でカッコイイのだ。


私の両親が43年も水俣に住み続けている理由の1つは、この人の魅力ではなかろうかと思う。
時々、筆者の独断と偏見で選んだ、私の好きな水俣人を毎回1人ずつ紹介していきたい。


1人目の登場人物は通称「ともえねえちゃん」。
私の両親が京都から水俣に移住したのが43年前。
親戚もおらず知り合いも少ない移住先の水俣だったが、
その我が家によく遊びにきていたのが、ともえねえちゃん(以下、ともえさん)。

人見知りでぶっきらぼうだけど、それは外の顔であって、
とてもお茶目で、世話好きで、人といるのが大好きな人。
常に荷物が多く、いつでも温泉に行ける着替えやら、職場で作るパンが入っていたりする。
お世話になった人には、このパンを配ったりと情が厚い一面も。

ともえさんは水俣の湯堂という目の前が海という場所に住んでいた。
ここは水俣病患者の多発地域の1つであり、特に胎児性水俣病患者が多い。
彼女自身もその母親も水俣病患者の申請はしたものの、棄却され公式には患者とは認められていない。
父親はおらず、母親は土方などしながら生活を支え、ともえさんも数多くの仕事を経験してきた。
沖縄でサトウキビの収穫のアルバイトでは、毎日りんごが出て、帰郷してからはりんご嫌いになったと笑う。

私が子どもの頃はそんな事情も知らず、週末になると増える我が家の家族の存在が嬉しかった。
私にとって祖母のような存在だったともえさんの母親は13年前に他界。
ともえさんと2人で大きな悲しみに沈んだのを、昨日のように思い出す。
私にとってはビッグシスターのようなともえさん。
それは、43年前も今も同じだ。
(写真は甘夏みかんの花)

出勤前のチリメン漁

2017-05-11 11:06:42 | 日記


スタッフの1人は出勤前にチリメン漁に乗っています。
早朝から大変だな~と、午後はちょっと眠たそうな彼を見て思います。
その彼がチリメン漁のこと書いてくれました^^



チリメン漁は3隻の船に1人ずつ乗り、1隻の船を1人で操縦して漁をするので、
1人欠けると漁ができなくなる。だからよっぽどの理由じゃないと休めない(汗)。

自分は新米漁師でついていくので精一杯だが、2人の親方は魚を誘いこむ為にさまざまな工夫を網に施し、
魚の習性、動き方、潮の流れや海底の地形など、ありとあらゆる事を考え、そして長年の勘を交え漁をする。

網を入れていく瞬間、何ともいえない緊張感につつまれる。そして上手く魚を誘い込み、
大漁の時もあるのだが、そういった時でも自分らの知識や勘で獲ったとは言わず、
サラッと「のさったばい」と笑顔で一言。

「のさった」とは水俣弁で感謝の想いを含め「授かった、頂いた」という意味。

普通なら自分達の腕前でとったかのような言動をとりそうだけど、おごる態度は一切せず、
謙虚な姿勢を貫く。恵比寿様(海の神様)はそんな2人の普段からの姿勢をみているかのように、
チリメンが全くいない時期に海に出て、親方2人だけが大漁で帰って来た時もあった。

海を汚さない為に、魚がいない時期は、無農薬の甘夏みかん栽培に精を出す。
以前の職場を辞めたと報告した時も「よかったい、身の丈できばったい(頑張れ)」と返ってきた。
言葉は短かったが、嬉しかった。口下手で多くは語らないが、そんな親方から毎日学ぶことが多い。
そんな親方(杉本実)が無農薬で栽培する甘夏みかんも、また想いが込められている。