先週の土曜日22日、『軽井沢ヴィネット』誌の「秋のヴィネットサロン(第6回)」が軽井沢タリアセン内の「睡鳩荘」で開催された。
筆者はサロントークを依頼され、「広岡浅子ゆかりの三井三郎助別荘物語」や「広岡浅子、洋装と和装」について画像を写しながら話をさせて頂いた。
今秋は東京での仕事が超忙しく、ほぼ1か月ぶりに軽井沢に滞在、紅葉が進んでおり、「三郎助別荘」では、樹々が鮮やかに黄葉している。
NHKの朝ドラ「あさが来た」では、未だ和装が圧倒的に多い明治の時代において、あさ(浅子)の洋装が印象的に映し出されていた。またこの「朝ドラ」人気に合わせて広岡浅子本が多数出版されたが、ほとんどの書籍において、あさの写真(肖像写真など)としては、「洋装のあさ」「白い洋装のあさ」にウェイトが置かれていたといってよいであろう。
では、浅子の白い洋装は、いつ頃から始まったのだろうか? またそれはなぜなのだろうか?
浅子の写真には、明治の写真師(写真館)が浅子だけを撮った「肖像写真」や「家族写真」、そして女子学生らと一緒に撮影された「集合写真」などがある。
浅子が贔屓にしていた神戸の写真師・市田左右太や三越写真部の柴田常吉が撮影した「肖像写真」では、ポーズをとった浅子には、いわゆる見栄えがよいように修正が施されていたといえよう。
これに対して女子学生らと一緒に撮られた「集合写真」では、浅子にだけ修正が施されたいたとは考えにくく、「肖像写真」とはかなり異なった浅子の風貌が写し出されている。
最初に、「集合写真」における「和装の浅子」についてみてみよう。次に、和装から洋装へいつ頃、転換したのかについてみてみよう。
前列左端の和服の女性が広岡浅子である。明治37年、東京九段の写真師・長谷川武により撮影された集合写真(部分)
前列左から2番目の和服の女性が広岡浅子である。明治37年、東京九段の写真師・長谷川武により撮影された集合写真(部分)
広岡浅子の「肖像写真」、撮影年代不詳だが、「集合写真」における浅子とはかなり見た目が異なる
筆者はサロントークを依頼され、「広岡浅子ゆかりの三井三郎助別荘物語」や「広岡浅子、洋装と和装」について画像を写しながら話をさせて頂いた。
今秋は東京での仕事が超忙しく、ほぼ1か月ぶりに軽井沢に滞在、紅葉が進んでおり、「三郎助別荘」では、樹々が鮮やかに黄葉している。
NHKの朝ドラ「あさが来た」では、未だ和装が圧倒的に多い明治の時代において、あさ(浅子)の洋装が印象的に映し出されていた。またこの「朝ドラ」人気に合わせて広岡浅子本が多数出版されたが、ほとんどの書籍において、あさの写真(肖像写真など)としては、「洋装のあさ」「白い洋装のあさ」にウェイトが置かれていたといってよいであろう。
では、浅子の白い洋装は、いつ頃から始まったのだろうか? またそれはなぜなのだろうか?
浅子の写真には、明治の写真師(写真館)が浅子だけを撮った「肖像写真」や「家族写真」、そして女子学生らと一緒に撮影された「集合写真」などがある。
浅子が贔屓にしていた神戸の写真師・市田左右太や三越写真部の柴田常吉が撮影した「肖像写真」では、ポーズをとった浅子には、いわゆる見栄えがよいように修正が施されていたといえよう。
これに対して女子学生らと一緒に撮られた「集合写真」では、浅子にだけ修正が施されたいたとは考えにくく、「肖像写真」とはかなり異なった浅子の風貌が写し出されている。
最初に、「集合写真」における「和装の浅子」についてみてみよう。次に、和装から洋装へいつ頃、転換したのかについてみてみよう。
前列左端の和服の女性が広岡浅子である。明治37年、東京九段の写真師・長谷川武により撮影された集合写真(部分)
前列左から2番目の和服の女性が広岡浅子である。明治37年、東京九段の写真師・長谷川武により撮影された集合写真(部分)
広岡浅子の「肖像写真」、撮影年代不詳だが、「集合写真」における浅子とはかなり見た目が異なる