戦中、国策軍需会社・日本人造石油(株)の社長を勤めていた三井高修は、敗戦後も、東京に戻らず、しばらく大牟田暮しを続けることになる。
東京小石川の広壮な本邸は戦災で焼けてしまい、千代田区九段富士見町の別邸に米国から帰国した長男・高進が住んでいた。
高修の指示は、達筆の廣子夫人が手紙で代筆し、高進あてに郵送され、また電報が利用されていた。幸い、廣子夫人の手紙と電報が一部残されており、当時の様子をある程度推測できる。
廣子夫人の手紙には、軽井沢別邸を日本女子大学に売ることになるというようなことも書かれており、日本女子大学の校長を退いた井上秀が大牟田を訪ねてきたこともわかる。高修の伯母は広岡浅子であり、浅子の薫陶を受けた井上秀は、高修といわゆるうまがあったようである。
大牟田といえば、オリンピックで日本人としてはじめて銀メダルを獲得したテニスの熊谷一弥は、大牟田の出身である。
高修は米国仕込みのテニスをし、小石川本邸に当時はまだそう多くなかった硬式テニスコートをもっており、当時新婚まもない熊谷一弥に自宅のテニスコートを提供、支援した。
東京小石川の広壮な本邸は戦災で焼けてしまい、千代田区九段富士見町の別邸に米国から帰国した長男・高進が住んでいた。
高修の指示は、達筆の廣子夫人が手紙で代筆し、高進あてに郵送され、また電報が利用されていた。幸い、廣子夫人の手紙と電報が一部残されており、当時の様子をある程度推測できる。
廣子夫人の手紙には、軽井沢別邸を日本女子大学に売ることになるというようなことも書かれており、日本女子大学の校長を退いた井上秀が大牟田を訪ねてきたこともわかる。高修の伯母は広岡浅子であり、浅子の薫陶を受けた井上秀は、高修といわゆるうまがあったようである。
大牟田といえば、オリンピックで日本人としてはじめて銀メダルを獲得したテニスの熊谷一弥は、大牟田の出身である。
高修は米国仕込みのテニスをし、小石川本邸に当時はまだそう多くなかった硬式テニスコートをもっており、当時新婚まもない熊谷一弥に自宅のテニスコートを提供、支援した。