軽井沢文化遺産保存

軽井沢文化遺産の保全活用と次世代継承

三井高修と大牟田、そして軽井沢

2016年08月26日 | 歴史文化遺産
 戦中、国策軍需会社・日本人造石油(株)の社長を勤めていた三井高修は、敗戦後も、東京に戻らず、しばらく大牟田暮しを続けることになる。
 東京小石川の広壮な本邸は戦災で焼けてしまい、千代田区九段富士見町の別邸に米国から帰国した長男・高進が住んでいた。
高修の指示は、達筆の廣子夫人が手紙で代筆し、高進あてに郵送され、また電報が利用されていた。幸い、廣子夫人の手紙と電報が一部残されており、当時の様子をある程度推測できる。
 廣子夫人の手紙には、軽井沢別邸を日本女子大学に売ることになるというようなことも書かれており、日本女子大学の校長を退いた井上秀が大牟田を訪ねてきたこともわかる。高修の伯母は広岡浅子であり、浅子の薫陶を受けた井上秀は、高修といわゆるうまがあったようである。
 大牟田といえば、オリンピックで日本人としてはじめて銀メダルを獲得したテニスの熊谷一弥は、大牟田の出身である。
高修は米国仕込みのテニスをし、小石川本邸に当時はまだそう多くなかった硬式テニスコートをもっており、当時新婚まもない熊谷一弥に自宅のテニスコートを提供、支援した。
 
 
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三井高修と国策軍需会社の人造石油

2016年08月24日 | 歴史文化遺産
太平洋戦争は石油で負けたといわれる。戦争後67年、今も石油の確保に苦慮している状態は変わらない。
米国MITでも学んだ三井高修は、理工系の人である。石炭を液化して石油を取り出すことに取り組み、昭和15年5月、日本で初めて人造石油の出油に成功した。
三井鉱山から独立して設立された三井化学工業の会長であった高修は、昭和18年、高度技術力を結集して設立された三池石油合成の社長となり、さらに昭和19年、「軍需会社法」が制定、10月、海軍の要請により三井石油合成、北海道人造石油、尼崎人造石油が統合され、あらたに国策軍需会社・日本人造石油(株)が設立、社長に就任した。
高修は最初、大牟田に単身で赴任していたが、郊外の平野山、柳川藩家老の小野家の屋敷を取得・改修し、家族も呼び寄せ、住んだ。
大牟田を愛し、理想的な都市にしたいという夢をもち、総合病院の設立を計画、医学図書を集めるなど(のちに久留米大学医学部に寄贈)、準備を進めていた。このような経過もあり、軽井沢の三郎助別荘からますます遠ざかることになった。
また伊豆下田に三井海洋生物学研究所と三井地球物理研究所を開設し、理工系、生物学系学問の発展に貢献し、本来国がやるべきことを代行した側面があることなどは高く評価されるべきである。
廣子夫人は鹿児島の島津家の出身で、鹿児島第二高女を卒業しているので、九州の大牟田に住むことに違和感はなかったのではないだろうか。
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終戦後の「三井三郎助別荘」(昭和21年)

2016年08月23日 | 歴史文化遺産

 軽井沢のホテルや別荘が米軍により接収されたが、三郎助別荘は日本女子大学(三泉寮)の学校施設という方便により接収を免れたらしい。
米国占領軍は、『軽井沢町誌』によると、昭和20年9月からグリーンホテル、10月、ニューグランドロッジ、三笠ホテル、晴山ホテル、
11月、万平ホテルを接収したという。個人別荘については、水洗トイレなどの設備などがある別荘が候補となり、36軒が接収されたという。第百銀行頭取川崎肇別荘(ドーミーハウス)は第八軍司令長官宿舎、古沢条作別荘(オーストラリア大使館別荘、S52年焼失)は第八騎兵師団隊長宿舎、前田侯別荘はマッカーサー元帥別荘(元帥の来軽は一度もなし)として使われたという(391頁-)。
 三井三郎助別荘は、水洗トイレ設備のある洋館のほか、和館、厨房棟などがあり、愛宕山麓という立地もよかったが、学校施設であるという便法により接収をまぬがれたらしい。明治39年、三郎助が敷地の一角に寮舎(三泉寮)を建て、女子大学校に寄贈したことが、ここで貢献したことになる。
 終戦の翌年、小石川三井家の昭和21年度の決算簿によると、同家の使用人20人に給与が支払われている。京都別邸には岡松伊之助ら3名、伊豆別邸には丸山喜作ら3名、軽井沢別邸には坂田義介が別邸を管理していた。
 決算簿には、「別邸費」という大項目があり、さらに京都別邸と伊豆別邸については「別邸費、京都別邸」「別邸費、伊豆別邸」というそれぞれ独立の小項目があり、収支が記載されている。
 これに対して軽井沢別邸については大項目の「別邸費」の中で処理されており、電気料と電話料の支出などが記載されているのみで、ほとんど使用されていないことがわかる。このあまり利用されなかったことが却って同別荘の延命につながったともいうことができよう。
 ちなみに、京都別邸も伊豆別邸も売却され、現在、残っているのは軽井沢別邸のみである。


『軽井沢町誌』391頁より
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吉村順三設計「ハーモニーハウス」で紅茶とフレンチトーストを楽しむ会

2016年08月21日 | 歴史文化遺産
今日、まずは、三井三郎助別荘へ自転車で行く。アプローチの坂道の両サイドや洋館・和館の周りには、雑草が生い茂ってしまっている。見学ツアーの参加者が歩くところだけが踏みしめられて小道になっている。
また夜間、イノシシが出没し、ミミズを探して地面を掘り荒らしており、困ったものだ。
そのあと、久しぶりにハーモニーハウスへお茶をしに行く。
実は、先週、行こうとした日にあいにく雨が降り、自転車族の筆者としては、行くに行けなかった。
いつものデッキに面したテーブルで、karuizawa cofee company の「南ヶ丘ブレンド(中煎)」をフレンチプレスで頂く。酸味が程よく、美味しい。涼風が心地よい。
ところで今月末の8月31日(水曜)15:30-17:00、紅茶の講習会が行われるという。講師の安本由佳さんによる「旧軽ブレンドティー」のレッスンが行われ、そのあと旧軽ブレンドティーと宣教師が好んだというフレンチトーストを頂く会が行われるそうである。会費2500円(税別)
紅茶好きの筆者としては参加したいのだが、あいにく前後の30日と9月1日に東京で予定があり、参加できないのが残念である。
8月も半ばを過ぎ、ハーモニーハウス内の敷地は、緑が濃く爽やかである。東京の連日の猛暑から逃れて、軽井沢で涼風に吹かれてお茶を楽しむのは格別である。閉店間際の時間であったが、結構、女性の独り客がお茶をしに訪ねてくる。それだけここの空間、環境、建物などがよいのであろう。
「メロディハウス」ではちょうど見学会が行われていた。1階の大戸が全開され、吹き抜け空間の素晴らしさが庭から見てもよくわかる。


中煎り珈琲「南ヶ丘ブレンド」をフレンチプレスで頂く




吉村順三事務所設計「メロディハウス」 


同上、大戸が全開された状態


同上、玄関部分、緑が濃い


東屋、メロデイハウスとハーモニーハウスの間の小高い場所にある、ここも緑が濃い


ハーモニーハウス、演奏会が行われる状態
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『三井高達殿追悼録』(昭和10年)と三井栄子『三井弁蔵作品集』(昭和16年)

2016年08月18日 | 歴史文化遺産
 三井弁蔵が三井物産の社員としてニューヨークに勤務していたとき、米国で留学中の三井高修や弟の高達らが弁蔵の家や高木舜三(三郎助の長女・多都雄の夫)の家に遊びに来ていたようである.
「明治の末から大正にか5けて米国に留学中の事どもを一寸書いて見ませう。其の頃三井一族の子弟は高修君を始め高達、高長(伊皿子家)、高光(一本松町家)、高貞君等数人遊学して居りました。當時三井物産の紐育支店長は現に三井生命の会長をして居る瀬古孝之助君で同支店に勤務中の高木舜三君の夫人は高修、高達両君の姉君(多都雄)であった関係上、学校が休みになると両君とも高木君の家に遊びに見えて居ましたが高木君没後は皆私の家に遊びに来る様になりました」、()内は筆者の加筆
これは、三井弁蔵が三井高達を追悼した「思ひ出つる儘に」の一節であり(『三井高達殿追悼録』)、三郎助・高明兄弟の子どもたちが米国で親しく行き来していたことが窺える。
この『追悼録』は高達が監査役をしていた三井鉱山(株)が編集発行したが、なぜか高達夫人の清子をはじめ、高達の母親の壽天(三郎助夫人)、兄の高修、姉の多都雄ら、実の母親や兄弟姉妹が寄稿していない。
一方、『三井弁蔵作品集』は、栄子夫人が弁蔵を追悼して、弁蔵が描いた絵画作品などを収めた図録であるが、栄子夫人をはじめ、長男、長女や画家の堀 市郎、萩野康児らが寄稿している。しかし寄稿者は絵画関係に限定され、財界人などは寄稿していない。
 

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