花咲あさひ の 観世音菩薩とともに。五つの心柱 山を下りた観世音菩薩は裸足で飛び出して行きました。

高天原(心)に宮柱(心柱)太如き立て 一隅を照らす人であれ。その命ある限り。

我を捨てなければはじまらない。

2017年03月21日 10時10分10秒 | 反省の心柱

こんにちは。

本日も葉室頼昭先生の著書「神道 感謝のこころの中から,一部をご紹介させて頂きたいと思います。

以下,神道 感謝のこころ 「我」を捨てなければはじまらない。より

神さまからのお恵みをいただきたい,神さまを知りたい,神さまを見たいと願ったとします。

それでは,いったいどうすれば神さまを知ることができるのでしょうか。

神さまの世界は理屈の世界ではありませんので,どれほど説明しても,言葉では神さまを表現したり説明することはできません。

つまり,神さまを知るには自分で体験するほかないのです。

その第一は,神社でよく行われる祓(はら)いです。罪(つみ)や穢(けが)れを祓うことです。

罪とは悪いことをした罪ではなく,神さまからいただいた素晴らしい人間の姿を,包み隠してしまうことを指します。

穢れとは,汚いということではなく,人間を生かしてくださる神さまの気を枯らしてしまうもののことです。

まずこれを祓うことです。

昔から人間は,自分たちが知らない間にいろんな罪穢れを身につけてしまい,それによって病気になったり,いろいろな不幸事が起こることをよく知っていました。

それを祓うために6月と12月の晦日(みそか)に大祓をして,半年の間に身についた罪穢れを祓って清い体になり,健康で幸せな人生を送ろうとして,ずっと昔から神社でお祓いの行事が行われているのです。

この罪穢れのなかでいちばん大きなものが「我」(が)だと私は思っております。

神さまのお恵みをいただきたい,神さまを知りたいという人はよくいらっしゃいますが,

こうした場合,まず自分の「我」をなくしなさいと申しあげております。

神道的生活の基本は「神さまの恵みと祖先の恩とに感謝」ということです。

自分の力で生きているんだと思うと,そこに必ず「我」が出てきます。

この「我」をなくすためには,なにごとも神さまのお恵み,祖先の恩によって生かされているということを実感することが非常に大切なのです。また,こういう生活をしないことには,本当に神さまを知ることはできないのです。

祓いの力と自身の精進によって「我」がなくなったとき,実感としてすべてに感謝の気持ちを抱くことができます。

ただただありがたくて,生かされていること自体がありがたいと思うようになります。

何々なんだからありがたいということではありません。理屈ではないのです。

子供の入試合格を神さまにお願いして希望の学校に入学できた,健康をお願いしたら病気が治った,お金が儲かった・・・。

だからありがとうございますというのではないのです。

こういうときに「ありがたい」というのは,本当の感謝ではありません。

入学祈願して希望の学校に入れなかったとしてごらんなさい。「なんだ,お願いしたけどさっぱりだ,聞いてくれなかった」となって感謝しないでしょう。

これは,感謝ではなくて取引です。

お願いしてご利益(りやく)があったらありがとうと言うけれど,そうでなかったら感謝しないというのではないのです。

感謝というのは理屈のない感謝です。

ありがたい,ただありがたいという気持ちが,本当の感謝なのです。

以 上 


宮柱太如き立て 高天原に千木高しりて 祈り行じて省みる。                                                             感謝反省謙虚奉仕素直の五つの心柱を伝えています。                                            一隅を照らす人であれ。その命ある限り。花咲 あさひ 拝                   ブログ開設282日目 記事数第217記 反省の心柱 

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