花咲あさひ の 心神とともに。古神道と和の仕組の復活への道

感謝・反省・謙虚・奉仕・素直・勇気・結び・歓び・怒りあと1つの心柱は?
観世音菩薩は裸足で山を飛び出して行きました。

最後の宮大工 西岡常一棟梁 3

2018年02月27日 16時45分11秒 | 奉仕の心柱

こんにちは。

最後の宮大工の西岡常一棟梁。

その西岡家に代々伝わる口伝を昨日も紹介させて頂きましたが,西岡家を含む歴代の法隆寺の棟梁のみに伝えることが許されて来た秘伝には,どんな意味が説かれて来たのかを生前,西岡棟梁が書かれた著書から引用して掲載させて頂きたいと思います。

きっと,数千年と云う気の遠くなるような永い年月を経て繰り返しその時代時代の棟梁に代々伝え続けられて来た口伝・秘伝ですから現代の私たちでも学べることがたくさんあると考えます。たとえば,大工の親方と若衆,茶道や華道の師匠と弟子,会社の社長と社員,親と子など先人たちの知恵から何を学ぶかは私たち次第であります。歴代の法隆寺棟梁にだけ許される口伝です。

引用著書:木のいのち 木のこころ 著者:西岡常一棟梁

1.神仏をあがめずして社頭伽藍(しゃとうがらん)を口にすべからず。

 口伝曰く,

これは神の道を知らんものは神社建築を口にするな,また仏の道を知らぬものは堂塔伽藍を口にするなということですな。これは何も神道や仏教の専門家にならねば手を染めてはならんということではないんですな。自分が造ろうとしているもの,かかわっている仕事がどんなものか知らなならんという宮大工の心構えですな。金のためだけに仕事をしてはならんということでしょう。

法隆寺は聖徳太子が仏法者を育てるための場所として造られたんです。その仏法によって国を治めようとしたんですな。その聖徳太子の教えがどのようなものかぐらいは知らんと,法隆寺の修理にも解体にもかかわれませんな。私がこの仕事にかかわるとき,法隆寺の管長の佐伯さんがいいましたもんな,法華経ぐらいは目を通しておけって。

この口伝に似たもので,こんなものもありますのや。

家宅は住む人の心を離れて家宅なし。

家宅を造るならそこに住む人の心組みを受けて,その意を汲んで造作しなさいということですな。まあ,大工のわがままや,自分の儲けで造るなということです。寺は仏さんの住むところやから仏さんの心組みを忘れるなということでしょうな。

以上

第1の口伝は,神仏への崇敬心を大前提とした宮大工の心構えを口伝されています。少し前にも大手建設業「ゼネコン」で,儲けを追求するあまりにセメントを実際の図面より少なくしたり,杭を減らしたりといったことが大問題となりました。このような事が建設業界では日常的なことと言えるかどうかは分かりませんが,実際の図面に沿わない形で建築して行けば耐震性も耐久性も期待できません。つまり,人の生命にかかわる重大な事柄です。そう言った反道徳的な考え方や心構えでは仏さまの住むところは造れませんし,造らせる訳にもまいりません。又,西岡棟梁の説明文において法隆寺の管長さんに法華経ぐらいは目を通して置くように言われたと書かれていますが,わたしは,法隆寺の管長さんが仰りたかったことは法華経を文字図らだけで理解するのではなく,法華経の精神を心の目で読み解くようにと言いたかったのではないかと想像しています。これが音霊なのであります。

漢字で書かれている法華経をただ読んでいるだけ,又,唱えているだけではなく,法華経に書かれている言葉の奥を観るのであります。その時に,自分自身が直感的に感じたことが音霊なのです。この音霊については,過去にも何度か書かせて頂いていますので検索ツールを使って宜しければ読んでみて下さい。音霊を観ることこそ古神道の真髄ですし,音霊をこそ内なる声でもあります。

古神道で云う審神者です。音霊と言っても実際に耳に聴こえてくる音ではありません。目には見えない音ですから波動と言った方が解かりやすいと思います。この波動を読み取ることを審神者と申します。海や山や川などの自然からも目には見えない波動を発しています。その自然が私たちに発している波動を自分自身の心に建つ心柱(みはしら)に降ろして観るのであります。そうすると言霊が生まれて,私たちは言葉をしゃべることが出来るのです。つまり,自分自身の心次第で言霊も言葉も変わると云うことなのです。


 

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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。

又,人はそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

そしてまた日本人の本当の性質を再び伝えて行きます。

そのことが日本を取り戻し,日本人としての誇りを取り戻す真の意味だと考えます。

観世音菩薩とともに。花咲 あさひ 拝


最後の宮大工 西岡常一棟梁 2

2018年02月26日 07時51分10秒 | 奉仕の心柱

こんにちは。

昨日は,日本が世界に誇る技術者集団「宮大工」の最終者でもある西岡常一棟梁その1を書かせて頂きました。

昨日の記事の冒頭で,NHKで紹介されたと書かせて頂きましたが,テレビだけではなく,どうやら,映画にもなっていたようです。上の画像は,インターネット上から借りて来たものですがドキュメンタリー映画と記載されています。私の家にはテレビがないので,この手の情報はさっぱり分かりません(笑)。テレビがないと言っても経済的に買うことが出来ないとかではなく,テレビの情報は基本的に偽りが多いように思えることとテレビを見ている時間が勿体ない気がしているからです。自分の感が鈍るのであります。ニュースはもっぱらインターネットで十分ですし,見たい番組は動画サイトを活用しておりますので不便ではありません。

今日は,その2を書かせて頂きます。それにしても,宮大工の精神性が継承されないことに私はとても残念に思います。宮大工の宮とは神職と云う意味があるのです。元々,宮大工は神社や寺院に所属していたのです。伊勢神宮の式年遷宮を見ても判るように,20年に一度の建て替えは,民間のようにどこかの建設会社へ一括して請負されることはしないのです。神宮造営部に所属します。

なぜならば,御宮を御造営することは祭事になるからであります。

一つひとつの作業に祈りを込めて丁寧に造り上げて神さまへ奉納するのです。これが,和の国「日本」のモノづくりに対する基礎基本となって現代に継承されて来ています。つまり,どんな物質も特有のエネルギーを発しています。念です。古神道では,この世のありとあらゆるものには神さまの分魂が宿っていると云う分魂思想があるのです。したがいまして,恨み辛み,悲しみ憎しみを抱いてモノづくりをしてはならないのであります。やはりモノづくりは,明るく,楽しく,感謝して。これを基本にしたいものです。

ブラック企業の社長さん。大丈夫でしょうか?(笑)

話しが逸れてしまいましたので戻します。

代々,法隆寺の棟梁だけに伝え続けられて来た口伝が,棟梁西岡家には存在します。

この口伝は,棟梁だけに伝えることを許されていたと言います。

生前,西岡棟梁が書かれた本「木のいのち 木のこころ」の中から一部を抜粋させて頂きます。

1.神仏をあがめずして社頭伽藍(しゃとうがらん)を口にすべからず。

2.伽藍の造営には四神相応(ししんそうおう)の地を選べ。

3.堂塔建立の用材は木を買わず山を買え。

4.木は生育の方位のまま使え。

5.堂塔の木組みは寸法で組まず木の癖で組め。

6.木の癖組みは工人たちの心組み。

7.工人たちの心組みは匠長(しょうちょう)が工人らへの思いやり。

8.仏の慈悲心なり,母がわが子を思う心なり。

9.百工あれば百念あり,これをひとつに統ぶる。これ匠長の器量なり。百論ひとつに止まる,これ正なり。

10.百論をひとつに止めるの器量なき者は謹み畏れて匠長の座を去れ。

11.諸々の技法は一日にして成らず。祖神たちの神徳の恵みなり。祖神忘れべからず。

以上です。

西岡棟梁が生前書かれた本の中から,一部を抜粋して書かせて頂きました。ただこれだけを読んでも一つひとつの意味が解りませんので,明日の記事で一つひとつに西岡棟梁が丁寧に説明したものを掲載させて頂きたいと思います。明日に続きます。拝


 

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観世音菩薩とともに。花咲 あさひ 拝


最後の宮大工 西岡常一棟梁 1

2018年02月25日 05時05分55秒 | 奉仕の心柱

こんにちは。

私の好きな方の中に,法隆寺を修復する棟梁の家系に生まれ,自らも棟梁となった西岡常一棟梁が居られます。NHKなどの番組で特集されたり紹介されていたようなので御存知の方も結構多いように思います。日本が誇る宮大工の最終者でもあり,薬師寺の復興にも総棟梁として若衆や技術者へ口伝されていた御方です。西岡棟梁が最も拘り続けたものが木です。木材の癖読みは今でも語り続けられるほどの眼力を備えていたようです。木と会話をしながら,木と呼吸しながら寺院を建築されていたのですから驚きです。

もし,生涯学習として人物研究をしたいとすれば,私は鎮守の森を守り続けた「南方熊楠」さんと最後の宮大工「西岡常一」さん,そして報徳思想の「二宮尊徳」さんです。私がなぜ西岡常一棟梁を知ったかと申しますと東日本大震災で被災した寺院の復興を約5年間ほど任されて居た際に,お寺の本堂建築を請け負った宮大工A棟梁からお話を伺ったからであります。そのA棟梁は,とても気性が激しく自分の腕(技術)には絶対の自信を以ていました。本当なのかな?と当初,私も思っていましたがA棟梁の地元では有名で,実際に過去建築した寺院をA棟梁と見学に何度も行きましたが,住職さんや檀家総代さんからも絶大な信頼を得ていました。

又,A棟梁は図面を見ないのです。全部,自分の頭の中に入っているのです。

図面を作製する一級建築士もA棟梁には敵わず,逆にA棟梁から教えてもらうことがほとんどでした。

頑固で気が荒く,自分の腕には絶対的な自信を以ている昔ながらの職人気質であります。私も復興事務局の責任者でしたので,このA棟梁とは何度も衝突しておりました。A棟梁もお前みたいな若い奴に何が解かる?と言わんばかりです。そんなA棟梁ですが,何故か憎めないことろがあり,こちらが謙虚になって技術のことを聞くと何でも教えてくれました。夜中に為ろうが何時間でも私の質問に正面から答えてくれていました。おかげで最後には,私も多少の知識を得ることが出来るように成長したのです。毎日の様に夜中まで激しくぶつかり,納得が行くまで協議し合った日々が今となってはとても懐かしく思えます。A棟梁は自分の技術を売りに来ていたかも知れませんが,私は700年続くお寺を護持する為に居るのですから易々と引き下がる訳には行きませんでした。

きっと,西岡棟梁も同じような性格であったのかも知れません。生前,西岡棟梁が書かれた本の中で,私が特に強く印象を受けたのが「穢れ」についてでした。西岡棟梁の穢れに対しての概念と申しますか観念と申しますか考え方は私も全く同じであったのです。西岡棟梁曰く「宮大工は一般の住宅を建築したらあかん」「一般の住宅を建築すると穢れが付いてしまうから建築したらあかん」と言っております。一見すると何を言っているのか意味が解りません。しかし,その理由はちゃんとあるのであります。

その理由を今日と明日に渡って書かせて頂きます。

先ず,穢れるとは「気が枯れる」ことを指します。汚いとか汚れとは違います。

つまり,商売の頭で計算していては,神社や寺院の建築は出来ないと云う意味であります。商売は損得勘定に基づいて商いがされて行きます。何処まで行っても損得勘定で計算しないと大損してしまいますし,そもそも経営が成り立ちません。経営が成り立たなくなるとそこで働く人々は失業してしまいます。食べて行けなくなりますから,現代においても企業は営利を目的にする営利法人と云う大前提であり当然であります。しかしながら,神社や寺院は,始めから営利を目的としていません。確かに,定款に定めれば営利行為は可能ですが,これはあくまでも理論上のことであります。その為に,神社や寺院は法律上も一般企業と比べて法人格も別ですし,税制も非営利事業に対しては不可税となっています。又,寄附金などを募集し,寄附を受けることも可能となるのです。

そう言ったことからも神社や寺院の建築は,損得勘定を以てすることは御法度で,数千年の昔から親方から弟子へ繰り返し口伝され続けて来ました。決して,損得だけで考えたならば少なくても数千年も継承して行くことは出来なかったであろうと思います。建築に使用する木材も損得勘定で考えたら安く仕入れて高く売るようになってしまいます。そうなれば,木材の寿命も低減し,地震などに耐える耐震性や免震性も期待できず,湿気の多い山間部に建立する場合を考えても木材は直ぐに腐敗して保湿性も度外視するようになります。安い木材を仕入れて神社や寺院に高く売ることは出来ないのであります。そこが一般企業とは決定的に違うのです。

それでは,損得勘定や銭勘定抜きで昔ながらの宮大工が存続できるのか?

そうなのです。結論から申し上げますと宮大工は,現在の日本には存在しません。

西岡棟梁が最後の宮大工と云われる所以がここにあります。

神社や寺院は一度,建立すると数百年は偶にある補修や修繕のみとなりますので,宮大工が食べて行けないじゃないかと思われると思います。私も同じ様に感じました。それでは,一般住宅を建築しない本物の宮大工が存続できるのか?です。そのことも西岡棟梁は本の中で書いていますが,昔から本当の宮大工は一般住宅を建築することが出来ないので「農家を兼業していたんです」「お寺の仕事が暇になると農業をしてます」「そしてお寺の仕事を頼まれると宮大工をします」このように宮大工と農業を兼業することによって一般住宅を建築しなくても食べて行けたのであります。現代にこの考え方を当て嵌めるには農業が衰退していますから無理がありますし,現在は,建設業法などの法律もありますから資金が潤沢でないと無理です。そもそも今の建築士さんでは社寺建築を理解できません。したがいまして,現在の宮大工さんは精神性は抜きにして,技術だけを継承していると考えると良いと思います。

この様にして文化や伝統は消えて行くのでしょうか?

明治時代に一部の官僚によって立案された神社合祀政策。そしてそれに真っ向から猛烈に反対し続けた南方熊楠さん。建築業法などの理屈で世界に誇れる技術者集団である宮大工を日本から消滅させ,それを推進する大学教授対しては鬼の如く徹底的に議論し続けた最後の宮大工西岡常一棟梁。わたしは,ここから何か学べるような気がしています。二人に共通するものは何なのか?やはりそれは和の心であったのだと思います。時の官僚政策が本当に正しかったのか否か歴史が判断する以前の問題であると考えます。

そのあたりのことを明日,書かせて頂きたいと思います。拝


 

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祖霊祭祀と古神道 ~ 宗教界に物申す ~

2018年02月24日 08時50分50秒 | 祭祀と和の国

こんちには。

昨日は,日蓮宗の寺院に久しぶりに伺い,製作した無縁霊さん用の祭祀壇の点検を行いました。想像していたよりも多い無縁霊さんや一時的にお預かりしている御霊さまであったので少し驚きました。久しぶりに住職さんと寺族の方ともお会いしたくさんお話をさせていただいて帰って来ました。楽しい時間はあっという間に過ぎてしまいます。やはり祖霊祭祀は清々しい気持ちにさせてくれます。日々の神祀りも然り,祖霊祭祀も誰を介在しない祭事は良いものであります。直接繋がるこれは先祖供養でも同じです。

現代では,お寺に先祖の供養はお願いしているからと考えている方も多くいらっしゃいますが,これは明らかに現代風の考え方と申しますか,日本古来の祖霊祭祀と云う世界に誇れる伝統とは違います。日本人が太古の昔より脈々と続けて来た先祖供養とは,生きている子孫が直接,自分の先祖と繋がると云うことを大切にして来たのであります。そもそも,祖霊祭祀と云うものはお寺つまり,仏教にはありませんでした。何度かブログで書かせて頂いて来ましたが,祖霊祭祀「先祖供養」は,既に縄文時代には祭事として先祖供養がされていたのです。又,現代の私たちが行う例えば〇回忌と云う追善供養も縄文時代には実に丁寧な追善供養が斎行されています。縄文時代には,現在のような神社神道は存在しませんし,又,国家神道も存在していませんから古神道の役割でした。

左にある検索で「古神道 祖霊祭祀 縄文時代」と検索し申し宜しければご覧ください。

それと,私の自論ではありますが,先祖供養は,私たちの遺伝子に影響を多大に与えていると感じています。私たちの遺伝子「DNA」には祖先が体験した膨大な記録が保存されています。その遺伝子「DNA」は,私たちが日々暮らしている生活や仕事,勉強に恋愛に結婚,そして病気に至るまでも影響していると感じているのです。わたし程度が理論的に説明することは不可能ですが真実だと根拠なく確信しています。直感です。私たちが自ら執り行う祖霊祭祀「先祖供養」には神秘に満ちた祭事です。そのことをよく知っていた縄文人は実に丁寧に祖霊祭祀を斎行していたのではないでしょうか。そこからさまざまな日本固有の思想が生まれ,現代の私たちも無意識の内に引き継いでおります。引き継いでいると云うよりも,これが遺伝子「DNA」の働きだと考えています。

つまり,祖霊祭祀は遺伝子「DNA」のお掃除だと言える面もあるのです。

このあたりの分野を研究されている御方が筑波大学の村上和雄教授です。

今ではすっかり,先祖の供養は,お寺でするものと言った固定観念が一般的になってしまっています。又,先祖供養は長男がするべきものだと云う間違った考え方が罷り通っています。普通に考えて見ても,長男次男と云う生まれた順番と先祖供養を結びつけること自体が滑稽な話でしかありません。遺伝子は長男にも次男にも存在しているからです。長男の遺伝子は長男遺伝子で次男の遺伝子は次男遺伝子なんてことはありません。長男も次男も共に同じ先祖を持つのです。子供でも解かることであります。

明治時代の家督制度や家制度が発祥なのか,私も勉強不足でハッキリとしたことは分かりませんが,いつ・だれが・何の目的で長男が先祖の供養をするものだと云うことにしたのか今後も研究して行きたいと思います。もしかすると祭祀継承者「墓守」から来ているのかも知れません。長男は本家を継ぎ,他の兄弟は分家となるから本家を継ぐ長男が先祖代々のお墓を御守りするのだと云うことから来ているかもです。自分で書いていて何だか研究するのが楽しくなって参りました。陰謀説かも知れません・・・(笑)。

しかしながら,先ほども書かせて頂いたとおり,いくらお寺で先祖の供養をしてもそれは間接供養で直接,自分の先祖と繋がっている訳ではありません。本来であれば,ちゃんとお寺の僧侶もそう言ったことを檀信徒さんへ教えて差し上げるべき大切なことなのですが話す僧侶はほとんど居りません。本当に残念なことであります。おそらく疑問にも感じていないかも知れません。現在の仏教は葬儀仏教となってしまいましたから,自宅でもちゃんと先祖の御霊を供養しないとダメだよと言えないのだと思います。

したがって,その結果,逆に神社や寺院は,資金などの運営面や氏子・檀信徒の離檀や先祖供養の稀薄さからお墓を閉じるひとが急増し減少の一途を辿っています。しかも,これからがとても厳しい時代を迎えることになって行きます。そのことで法律上,破産の申立てを余儀なくされる宗教法人も多く出てくるはずです。宗教界も社会構造の中に存在していますので避けては通れない道のようです。そんな厳しい時代の中でこそ,宗教家は道や法を説いて歩くべきと考えますが,宗教家自身に危機感がないのです。

神社界は,春日大社のように祖霊祭祀祭「先祖供養」を復活させるべきであります。拝


 

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又,人はそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

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全身全霊で臨まれる神宮祭主の勇気と覚悟

2018年02月22日 22時22分22秒 | 祭祀と和の国

 

 

上の写真「報道機関からお借りしました」は,神宮式年遷宮に臨時祭主として臨まれた黒田清子さまで御座います。

現在は,池田厚子さまから祭主の地位を継承され神宮祭主に就任しておられます。

伊勢神宮において,皇室の弥栄と国家国民の繁栄と安寧をいつも全身全霊で祈られております。

こんにちは。

明日は,私にとってのお正月です。皆さまとはだいぶ遅れてのお正月になってしまいました。

お酒を以て氏神さまに参拝に行って参ります。昨年の10月頃から年末も新年もこの何年か経験したことのないほど,私にとって様々な事柄が激変することが多かった時期で,気を休める日があまりありませんでした。この半年を通じて体験し学んだことは,私の一生の財産であります。今は時代の節目,ひとつの文明から新しい文明へ移行する時期です。これまで非常識であったことがいつの間にか常識的に変わっていたり,時代の先が読めない時代です。企業は量から質に方向を転換し,経済は成長から成熟へ。政治の世界も中央から地方へ移行して行きます。会社を経営している方であれば肌で思い知らされていることだろうと思います。予測可能な時代から予測不可能な時代ですから組織を運営して行く上でも難しい判断を迫られているのではないでしょうか。 

氏神さまへ御酒の奉納をして,新しい神札に交換し終えたら,お客さまのもとへ伺わせて頂く予定であります。日蓮宗の寺院さんですが,3年程前に,祭祀継承者「跡継ぎ」のいない檀信徒さん向けに製作した永代供養祭祀壇の定期点検をさせていただく為に伺います。また寺族の方のお誕生日が近いのでプレゼントを渡して参ります。檀信徒さんだけではなく,寺院さんも跡取りの問題で大変な思いをされている寺院も結構あるのです。ひとむかし前のような世襲制も維持出来なくなる日がやって来ているようです。これはこれで私は良い事だと感じています。これまでの世襲制がもたらして来た結果からすれば当然と云えば当然であろうと思います。

さて,其れよりも,私が最近とても気になっているのが「皇室」の事柄なのです。こんなこと以前であれば書くことも躊躇されて来た話題かも知れませんが,そうも言っていられない事態になっているのかも知れません。そう言った意味で書きたいと思います。好ましくないエネルギー「波動」が皇室に入り込んでいないか?私たち国民は十分注視する必要もあるのだと感じております。

ただ,私たちには事実を確認する術がありません。皇室の話題を取り扱う週刊誌や雑誌,又,そこから派生するインターネット上のブログなどで囁かれている情報のみですから,たとえ情報の収集を出来たとしても情報を分析するには限界があります。ただ単に皇室批判だの右派だの左派だと云った次元の話ではありません。なぜなら,祭祀を司る最高位の事柄でもあり,皇居で執り行われる宮中祭祀にも重大な影響を及ぼして行くからです。このブログでも最近,天皇陛下による祭祀について何度か記事にさせて戴きましたが,天皇陛下による祭祀に良くない影響が起こると国家存亡の危機に瀕して来ました。過去の歴史が証明してくれています。

それ程,国体である天皇陛下の祭祀とは国家と国民生活に多大な影響を与えて行くのです。女系女性天皇の問題,皇位継承の問題,宮中祭祀の問題等々,得体の知れない何かの力が好ましくない方向に向いているかのようです。一方,政治「政体」と国民の暮らしはと云うと生活の不安,外交の問題,自衛権の問題,政治と金の問題,重要政策の停滞,そして天変地異など数えあげたら切がないほど数々の問題を抱えています。しかも,どれをとって見ても未解決な問題ばかりであるのです。考えすぎ,気にし過ぎであればまだ良いのですが,囁かれている皇室の諸事情と今の世情が悪い意味で一致してしまっているようにも感じ取れます。相撲のトラブルもこれまた然り。相撲は神事であります。そんな不安で不穏な世情を照らして下さる唯一の救いとなる御方が存在します。

伊勢神宮の祭主に就任された黒田清子さまであります。

私たち国民は,この黒田清子さまの神宮祭主の就任を偶然とは見ない方が良いと感じます。そこには神さまの神意が働いているように感じられずにはいられません。全身全霊で皇室と国家国民の弥栄と安寧を一心に祈って居られると思います。お立場上,言いたいことも言えずにいると推察しますが,その想いを察すると耐え難きを耐え忍び難きを忍びであります。相当の覚悟と勇気を以て神宮の祭主に就任されたと思います。御身体をくずされないように,神宮の職員さんも配偶していただき,末永く神宮祭主を続けて戴きたいと思います。今の時代だからこそ,黒田清子さま以外に神宮祭主は務めることが出来なかったのではないでしょうか。

正に,なるべくしてなった御方であります。

全身を以て全霊で祭祀に臨まれる御姿をご覧ください。拝

狙われる私たちの郷土 ~美しきかな水の国~ 21


 

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スサノオブルーのチルドレンたちへ。 ~YELL~ 

2018年02月21日 21時11分37秒 | 歓びの心柱

こんにちは。

これまでも現代の若者について,このブログでも書かせて頂いて来ました。世間では,最近の若者はと言われることがありますが大丈夫です。エジプト文明の頃から言われ続けて来たのですから気にする必要もありません。私は,最近の若者を見ると本当に立派な若者が多くて凄いなと感じています。礼儀正しく,優しくて,そして,あまり欲もないような感じもします。その若者の中でも,特に今の10代の若者が20歳を過ぎる頃,世界を牽引して行くのではないかと期待もしているのです。冗談ではなく本当に。

この世代は,あまり贅沢を知らず,ステイタスにも興味がないようです。又,貧富の差を経験している子供も多く存在します。たとえ自分では経験していなくても,周囲の友達が給食費も払えない事や塾に行きたくても行けない事や夏休みに何処にもいけない事を肌感覚で知っているようです。そう言った小さな子供のときから自分ではどうすることも出来ない事に対する思いは,やがて,実体験を通して経験した慈悲の心を自然と身に付けて行きます。慈悲の心はまるで自分で体感して来た感覚として残りますので,自分が経験していなくても直感で真実を見抜きますし,だいたい大人の嘘なども瞬時に判りますから嘘偽りが通用しません。

マスコミは直ぐに,若いスポーツ選手や芸能人など有名人ばかりに目を向けますが,むしろそう言ったスポットライトの中にいる子供よりも,そうでない子供たちに私はもの凄く期待しているのです。そして,その子供たちが成人を迎えたころ社会の役に立ちたい。困っている人の役に立ちたい。世界で挑戦したみたいと奮起して行ってくれることを心から願っています。

そう云った子供たちが和の国である日本にどんどん生まれ出ています。

きっと,魂の経験値が高いのでしょう。肉体は若くても魂の年齢,つまり,輪廻転生を多く繰り返してきた魂です。その魂が現代に続々と生れ出て来ているようであります。人は誰でも年齢「世代」に関係なく,生まれて来る前に宿命を宿して来ます。運命とは違い,決して変えることの出来ないことが宿命です。古神道では,今世に生れ出る前に,あの世で神さまと相談した上で,生まれ出る環境を自分で設定して神さまと共に誕生して来ます。これを産土神と申します。つまり,誰の心の中にも存在する神さまです。

そして,産土神と共に一生を共に歩んで行くのです。

郵便局で配達員のアルバイトをしていると,小包の配達を1日だいたい100件以上は配りに回ります。朝から夜遅くまでひたすら配達することだけ考えて時間指定の荷物は限られた時間に間に合うように注意しながら配達をしています。そう言った中で,小さな子供のいる家庭に配達に行くと本当に感心することがとても多いのです。小学生くらいの子供たちはとても礼儀正しく,ちゃんと最後には「ありがとうございました」と頭をさげて挨拶をして来ます。まだ仕事と言う概念が備わっていないので,心からの「ありがとう」なのです。見るからに賢そうな子供たちばかりです。私も将来,子供たちの御役に立てることを仕事を通じてやって行こうと考えております。特に,貧困層の子供たちの御役に立てれたら良いなと思っています。日本で生活している子供たちに国籍や生まれたところは関係ない話です。国家間の争いや紛争は政体を司る人たちで河川敷にでも行って殴り合いの喧嘩でも何でもして下さい。

今の世界の政治家は,国民の命と云うものを神さまからお預かりしていることを忘れています。

理屈にもなっていない屁理屈ばかり。

破綻した論理ほど惨めなものはないことすら判らず,不知な頭脳をさらけ出し。

自ら滅び行く哀れな姿よ。神が預けし御子の御霊を傷つけ汚すは神への冒涜。

毎日,苦しい中でも何とか一般の生活をしている国民と平穏に暮らしている子供たちを巻き添えにして欲しくないのであります。神さまは全てをご覧になっています。自分の先祖もすべてを観ています。自分の胸に手を当て考えて見れば答えは出てくるはず。もしも,何の答えも出てこないのであれば,それは単なる努力不足でしかありません。大いに省みて猛省しなければなりません。

心配,不安は穢れの根源。穢れとは「気枯れ」つまり,気が枯れること。神さまが最も嫌うエネルギーであります。穢れに触れると私たちの身体は病気になります。私は,いつも上手く出来ているなと感じていますが,これも神さまから日々の行い生活を省みろと云うひとつのサインなのでありましょう。すべての子供たちが豊かに平穏で暮らして行けますように。祈念いたします。拝

自分の事など形振り構わず,子供の為にとパートをしながら一生懸命育ててくれた母上様を大切に。合 掌


 

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私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。

又,人はそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

そしてまた日本人の本当の性質を再び伝えて行きます。

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観世音菩薩とともに。花咲 あさひ 拝


日の丸を胸に世界へ羽ばたけ。日本の子供たち。

2018年02月20日 22時06分08秒 | 勇気の心柱
こんにちは。2016年に,こんな記事を書いていました。
2018年は,やはり大きな節目の年になるのかも知れません。あまりそう言った事を書くと安っぽいスピリチュアルや霊能者ブログのようになってしまうので書きたくありませんが,天変地異には十分の備えが必要であります。人の想念が社会を生み出す。この言葉は,太古の昔から私たちの祖先が繰り返し子孫へ警告して来た言葉です。日の丸を胸に皆で乗り越えて行きましょう。
 
以下の記事は「2016.10.19」に掲載した2018年は大きな節目の年です。を再投稿しています。
 

こんにちは。時間の加速度どんどん加速して来ているように感じる今日この頃です。

本当に早いもので,今年も残り73日余りとなってしまいました。私の感覚では,一日の時間が24時間から18時間程度だと感じておりましたが,加速度はさらに勢いを増して一日13時間位に感じ始めています。意識してみるとよく判ると思います。

地球の磁場の変化や太陽の極移動など現代の科学では説明も予測も付かない世界が神様の世界ですから,これからいろいろな現象を以て表面化して来ると思います。私個人的には,2018年が様々な面で一つの大きな節目のように感じています。世界の国家や政治,経済も科学も法律も医学も大きな節目を迎えると根拠もありませんが,いつもの様に音霊を観ています。

そんな時でも慌てず冷静になって何時もの様に目の前の事に集中して行きたいと思っています。そして,これからは神様の御心に沿わないものは炙り出しが激しく働くと思っています。当分は,嫌な報道や厳しい出来事も起こるだろうとも思います。又,これまで常識だと言われていたことが常識でなくなって変化が非常に激しくなり,経済的立場の強い人が窮地に立たされたり,これまで社会的地位が高いと言われて来た職業が低下をはじめます。いろいろデングリ返しになるようにも思っています。至る所でもう既に始まっています。先ずは,小さい紛議を大きな争いに変えて来た法律家からのようです。終わり方には容赦はないようです。

ですから,本当の法律家になって頂きたいと思います。紛争で食べて行ける職業が真面な職業なんて社会は,やはり異常です。要は,困っている人や苦しんでいる人が存在しなければ食べて行けないとは情けないと云うことです。TPPで如何に日本人が争いや理屈と遠い存在であるか,自分の能力のレベルを思い知る業種の一つです。医者も同様です。自己治癒が言われて行きます。

是非,GHQのマッカーサーが言った言葉を思い出してください。日本人の能力は12歳程度の能力しかないと言った言葉を。この言葉をただ文字面や言葉だけで捉えても意味は理解できないはずです。見当違い,勘違いに終始するだけであります。

12歳程度の能力とは「理屈・理論」を操れる能力のことです。世界に眼を向けると東京大学法学部つまり,文一程度ではお話になりませんし,足元にも及びません。気の毒にもこれを見当違い,勘違いを起こしてと云うよりも起こさせてチヤホヤされた結果,自分は頭が良いと錯覚を起こして自分よりも弱い立場の人を見ても無関心,さらに自分よりも弱い者をイジメるような人間を量産して行くことになって行くのです。本来の日本民族が最も大切にして来た精神を取り戻して頂きたいと思います。

その上で,世界へ羽ばたいて行って欲しいのです。日本に生まれたことに誇りを以て,世界どこを探しても日本人のような民族は存在しません。日本で暮らしているから判らないだけです。世界の人々から観たらどんなに日本が羨ましいか,日本人の勤勉さ優しさに触れた外国人は,そのように日本人に対する感想を述べます。そう言った事などもしっかりと学び,自分自身を信じて,世界の人々と渡り合って行って下さい。堂々と胸を張って,自分は日本人だと世界で活躍して行って欲しいと思います。

今の10代の子供たちは,本当に素晴らしい子供がたくさんいます。拝

上の写真は,皆さまの高天原(心)に坐します太陽神です。写っている黒色は山だと感じますか?本当は,海なのです。実際に山はありませんでしたが,撮影すると山のようなものが写っていました。2,3年前に関東地方で,記録的な大雪が降った日の翌日,伊勢神宮へ向かっている道中にて撮影させて頂きました。毎日,太陽神への日拝をしますが,この日の日拝は格別でした。祈


 

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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。

又,人はそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

そしてまた日本人の本当の性質を再び伝えて行きます。

そのことが日本を取り戻し,日本人としての誇りを取り戻す真の意味だと考えます。

観世音菩薩とともに。花咲 あさひ 拝


公共を忘れた政治家たち。

2018年02月19日 06時50分10秒 | 怒りの心柱

こんにちは。

日本は和の国です。つまり,私たち日本人は,和の国の住人と云うことになります。

その和の国には公共と云う概念が存在しますが,太古の昔と現代とを比較するとどうなのでしょう。

わたしが思うに,日本人と云うのは,公共の福祉や公共の利益を考え,行動に移せる民族だと思っています。つまり,和の民。大和民族です。しかし,公共と云うとお役所が先導して行うものだと云う想いも少なからず抱いているのも事実です。中には,公共なんて興味がないと言う人も居るかも知れません。公共とは「自分を含む自分以外」と云う意味ですから,自分も他の人も云うことになります。他の人の福祉,利益「ここで言う利益とは経済だけではありません」と分かり易く行ってしまえばそう言える訳です。

ですが,言葉では何となく解かりますが,具体的にとても解かりにくいもの「公共」と云う概念でありますが,いま現在,私たちが課せられる待ったなしの公共の福祉が存在します。それが,超高齢化社会であります。既に,超高齢化社会に日本は突入していますが,国家の政策として具体的にどうやって乗り越えて行くかまでを国民目線で理解できているかと云うとそうとは言えない気がします。現在の税収で,これからの超高齢化社会で必要になる「社会福祉費」を賄って行けるのかどうか?当然,税収で賄って行けないとなると国家もさらに借金を繰り返して行かなければなりません。増税も新種税も避けては通れないでしょう。

宗教法人への課税もされて行くでしょう。本当はしたくても与党内にいる宗教団体の存在を気にしているのではないでしょうか?そもそも論としても与党にしがみ付く姿はみっともないです。それと,神社本庁や日本会議の存在もあるのかも知れません。宗教家は祭祀に主体性を見出すことが本分であるのに,何故,政体「統治」に口を出して行くのか?私は,宗教家が政治に口を出すことに凄く違和感があります。つまり,宗教家が権力者と結託したり,権力そのものを手に入れようとすることにです。

選挙が近くなると良い話ばかりを言い続ける政治家はもう一般人になってもらった方が国家国民の為ではないでしょうか?たとえば,国会議員一人あたりに支払われる年間のお金はいくらでしょう?大よそ1億円です。毎年1億円を私たちの税金で払っているわけです。本当にそんな価値がひとり一人の政治家にあるのか?国会議員の本当の仕事は議員立法にあるはずなのです。

しかし,議員立法をしている国会議員は全体の何パーセントくらい存在するのか?ほとんどいないでしょう。地元に国家予算を持って来ることだけが国会議員の仕事だとは思えません。前回の衆議院選挙で与党の女性議員さんが,自身のホームページで「私の実績」と題して〇〇費〇〇円などと地元の有権者にアピールしていましたが,残念なことに議員立法のことは何も書かれてはいませんでした。その与党の女性議員さんは落選してしまいました。国民を舐めていたのかも知れません。反省が必要なようです。

お金だけで有権者を引き付ける時代ではないのであります。もうそう言った悠長なことは言ってられないギリギリの時代であるのですから,国会議員としての本分を思い起こして頂きたいと願います。モリやカケの話しもよいのですが,もっとこの国家にはやるべきことが山積ています。その山積している様々な問題の中でも少子高齢化対策や食料自給率等の農業問題は凄く重要政策であります。原発問題もそうですし,経済格差も貧困問題も同様に重要な政策課題です。今の政治は本当に解かり難いと感じています。

公共とは何か?公共の福祉とは何か?公共の利益と個人の利益の違いは何か?

それを国民に説明できる政治家もいません。どこかの官僚に教えてもらった知識を無理やり詰め込んで,自分で理解もせずに国民へ説明しても国民を説得することは出来ない訳です。政治家の言葉に魂が宿っていません。仏つくって何とやらの状態です。 

公共とは自分を含む自分以外,つまり,自分が嫌いな人や会ったこともない人の福祉や利益を優先して考えて行きましょうと云うとても厳しいで考え方でもあります。人のことなどどうでも良い,自分が社会の中心なんだと云う考え方とは違うのであります。自動車を運転しているとき,自分が右折しようと停車していると直進車が車を停止させ優先させてくれる場面を想像してみて下さい。それが公共です。とても小さな公共的行為ですが,立派な公共的行為なのです。政治家の方は本当に公共を理解していますか?


 

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貧すれば鈍すると云う言葉と他力本願の真意 4

2018年02月18日 05時23分23秒 | 歓びの心柱

こんにちは。

一昨日,ある真言宗系の寺院の住職さんから,ちょっとお願いしたいことがあるので来ない?と連絡をいただきました。その住職さんとは8年くらいのお付き合いで,頭脳明晰な60代前半の御方です。ある事を悩んでいて,朝目覚めたら私のことを想い出して電話をくれたようです。普段,私は営業が苦手なので,営業をしているときもあまり仕事の話を長々としません。少しだけ仕事の話をさせていただき,あとはほとんど仕事とは関係のない話をしています。そちらの営業スタイルの方が私にはあっているようです。

ですが,そんな私でも営業の最後に一言だけ添える言葉があります。それは,何かあった時にだけで良いので想い出して下さいと云います。するとこれが本当に想い出して頂けるようです。そもそも新規のお客さまで,ましてや飛び込み営業となると営業の話を真剣に聞いてくれる人は,あまり居ませんし,早く帰ってくれないかな?と思われるのが通常のお決まりです。しかも,商品や会社の説明も長くくどくど話すと次の訪問では居留守を使われることもあり得ます。やはり,最初の営業は,短く要所だけを伝え,爽やかにしたいものです。営業職は,歩く広告塔ですから身だしなみや言葉使いに,態度や姿勢にも気を使うので大変な職種です。

そんないろいろな事が要求される営業職ですが,なかでも最も大切なことは知って頂くと云うことだと私は考えます。どんなに,良いものを作っても,どんなに良い会社でもその存在をお客さまに知って頂かなくては経済行為は生まれません。それどころか,会社の経営も出来なくなってしまいます。私の拙い経験で恐縮ですが,自分をお客さまに知って頂くとは営業の基礎基本ではないかと思います。その為にどうするか?これを考えるのが重要なのであります。私の場合,最初の1年は,少なくても1件のお客さまのところに最低5回は訪問させて頂きます。そうしてやっと自分の名前を憶えて頂ける程度です。営業職の皆さん,頑張ってください。

冒頭で紹介した,住職さんとの仕事の話しは30分くらいで終わり,その後は4時間も今の社会の問題や仏教界の問題,世界情勢や政治の問題など様々な話題について意見交換をしていると既に夜8時頃になっていました。楽しい時間はあっという間に過ぎてしまいます。その意見交換の中で,住職さんから人が背負う苦労についての話しがありました。ちょうど,このブログでも取り上げていた事柄なので興味津々にお話を伺っていると,住職さん曰く,苦労は人の魂が浄化する為には有効で,且つ,人が乗り越えた苦労は,人類の共通した意識に溶け込むと話されていました。つまり,私たちが人生において乗り越えた苦労が人類の進化に繋がっていると言うのです。これには正直,驚きました。私たちが生きていることで生じる苦労が実は,人類の共有意識に溶け込んでいると云う発想はどこから来るものなのか?しばし沈黙していると住職さんは,生命とは何か?生きると云うことは何か?それは魂の浄化であると続けます。さらに,私たち3次元で暮らす人間には,2つのプログラミングが設定されていると云います。その内,1つのプログラミングとは「破壊と再生」というプログラミング設定でした。この話は,とても興味深かった話しでした。

小さな子供が積み木を積み上げたあとにする行為を観察すると判ると云うのです。

またいつか,2つのプログラミングについて書かせて頂きたいと思います。

自分自身で体験しているさまざまな苦労が,まさか,人類進化の為になっているとは大変勉強になりました。そう考えるとどの様な苦労も決して無駄ではないようであります。私も自分の力だけではどうしようもない時,何で自分だけ苦労しないといけないんだ。こんな苦労に何の意味があるんだと思ってしまう時があります。苦労する為に生まれて来たんじゃないとも考えてもいます。

しかしながら,ほんの少しだけ考え方が変わるだけで,同じ事柄でも全く違うように解釈できるのであります。住職さんから急な呼び出しと,ちょうど人の苦労をテーマにした記事を書いている最中にドンピシャの話しが出来たことは不思議であります。しかも仕事まで頂いて帰って来ました。出会った頃は,住職さんもまだ若く,私が住職さんに気安く住職さんと話し掛けると怒られたり,仕事で頭から怒鳴られた時もありました。今思うととても懐かしい思い出です。きっと,これが縁と云うものなのでしょう。

感謝。拝


 

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貧すれば鈍すると云う言葉と他力本願の真意 3

2018年02月17日 07時39分11秒 | 歓びの心柱

昨日は,平安時代に貧しいお百姓さんの為に,自ら立ち上がった平将門公を少しだけ書かせて頂きました。

その将門公は,現在の茨城県常総市に本拠地を構えますが,今の時代でも茨城県の常総・坂東一帯では絶大の人気があるのです。悲しいかな,将門公は悲運の猛将,朝廷への反逆者として後世に伝え続けられてしまっていますが,その実情は全く違います。そのことは昨日も記事にて書かせて頂いた通りですが,平安時代の当時,将門公に助けられた貧しいお百姓さんたちの感謝の想いは現代でも語り続けられており,その感謝の想いは,将門公をお祀りする祭祀場所を御守りしているのではないでしょうか。

巷で言われている,祟りに怨霊云々は,私には?です。

確かに,日本にはその様な怨霊思想と云うものが存在することは知っていますし,あるのかも知れません。しかしながら,普通に考えて見れば一般に普通に生活している人には関係のない話だと思うとともに,そもそも人のお墓や祭祀場所に興味半分,遊び気分で来たら誰だって怒ると思います。スピリチュアル気分で何とかツアーとは危険極まりない行為としか私には理解できないのです。本当にその御霊を供養したいと考えるのであれば,その行為はとても尊いことであろうと思います。祭祀にはお遊び厳禁であります。

それでは,記事の本題に戻りたいと思います。

人の心を扇動する為にもこの「苦労美化説」はされて来たのではないでしょうか?ただ苦労することは良いことだと・・・。宗教の教義や説法でも苦労を題材にしているのがありますが,言葉は人と場所をわきまえないと時には危険なものへと変貌してしまうことがあるので気を付けて行くことが大切なような感じがします。確か,前にもこのブログである宗教家が観音さまについての講演をしている音声をインターネットで拝聴したことがありました。しかし,話していた内容に対してとても疑問でした。

いいのかな・・・? そこで話を終えてしまって・・・? それ無責任じゃない・・・?

宗教家曰く,信者の皆さんへ一般の人たちは神社やお寺に厄を落としに行くんだ。しかし,わたし達は神社やお寺に役を貰いに行くんだと云う話の趣旨でした。どうでしょうか?皆さま。とても短い言葉ですが,皆さまは神社やお寺に厄を落としに行かれますか?それとも役を貰いに行きますか?私的にはもちろん真っ向から両方違うと想っていますが,私が何故その宗教家の言っている話に疑問を抱いたかと云うと観音行と云うものは自分自ら地獄の淵をさ迷っている人のもとへ行くと云うことなのであります。

生半可なことではありませんし,中途半端な事ではありません。だって,自分も地獄へ行かなければならないのですよ。そんなこと中途半端で安易な気持ちで出来る訳ないのであります。さ迷っている相手の念を自分に落とし込める人でなければ到底無理ですし,苦労の為の苦労が付きまとってしまいます。藁にもすがる思いで相手はいるのですから,やはり,生半可な気持ちでは無理です。

そのことを講演で信者さんへ話さずに,何かヒーロー役でももらえると勘違いしてしまって居る様に感じたのです。きっと,講演会に参加していた信者さんたは,その言葉をそのまま信じてしまい,人の因縁まで背負ってしまうのではないかと思います。

自分の心を傷つける苦労は絶対にしてはなりませぬ。拝


 

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貧すれば鈍すると云う言葉と他力本願の真意 2

2018年02月16日 08時00分24秒 | 歓びの心柱

こんにちは。昨日の続きを書かせて頂きたいと思います。

現代では他力本願と聞くとあまり良い方に捉えられることはありませんが,本来の他力本願と云う言葉の意味は,他人の為に救って差し上げることであります。仏教では,阿弥陀如来の本願と言われています。他力本願を説いた親鸞さんの言葉も有名ですね。

少し話は変わりますが,歴史の勉強をしていると過去の偉人を学ぶことになります。歴代天皇や皇族に貴族など。そして,戦国武将に一般庶民の暮らしに至るまで。宗教家もそうですね。その時代を懸命に生き抜いた先人の教えや生き方は,どれも私たちが生きて行く上でとても参考になります。歴史好きな人であれば,過去の偉人の言葉を座右の銘にし頑張って居られると思います。

そう言った,歴史上の「人物」を調べているとある共通することがあるのです。

それは何かと申しますと後世の私たちへ託す思いと願いです。その思いと願いは何かと云うと「他の為の奉仕」です。

つまり,現代を生きる私たちへの遺言であります。本当に日本は凄い国だなと感じるひとつでもあります。

平安時代に平将門公と云う徹底した弱者救済保護政策の実現を目指された御方が居りました。将門公は,今でも関東地方の特に,現在の茨城県坂東一帯で絶大の人気があります。当時の貧しい暮らしを余儀なくされていたお百姓さんを救済しようと日々奮闘を重ねて行きました。歴史書と云うものは常に勝った方が自分たちに有利に書いてしまう為,私たちが学ぶ歴史書は真実とは遠いものであるようです。平将門公も同じで,私たちが学んできた人物像とは違うのです。実際の将門公は慈悲に溢れた半端でない人物です。

その平将門公が,現代の私たちに向けた遺言が御座います。

どうか人の世に暮らす人々よ。他の為に慈悲を施し,悪行を消す為,善行を積むようにせよ。

実際に,将門公が言い残した言葉ではないようですが,書き記した人物が将門公の生き方を書き残したもの「将門記」の最後に書かれている言葉であります。わたし個人的には,貴族ばかりが京都の都でのうのうと贅沢に暮らし,一般のお百姓は今日の食べ物も皆で分け合っている姿に涙していたのだと想っています。そして,将門公自ら立ち上がり苦しむお百姓を救済する為に戦ったのです。

歴史上,平安時代と鎌倉時代は飢餓に疫病,大飢饉と言った災難・苦難・困難の時代でありました。私たちの先祖は,その苦しい時代を生き抜いて来たのですが,そんな時代だからこそ将門公のような慈悲の心を持ち,自分の身を犠牲にしてまで弱者救済政策を実現させようと奮闘し戦える人物が登場して来たのかも知れません。決して,自分が偉くなりたいとか言うことではありません。

歴史は,学問として捉えるか,ロマンとして捉えるかで全く違うものになります。

貧しい御百姓さんを何とか救済しようと権力者と戦い続けた平将門公でした。

現代の世の中をご覧になったらどう思われるでしょう。

続きはまた明日。拝


 

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貧すれば鈍すると云う言葉と他力本願の真意 1

2018年02月15日 07時07分07秒 | 歓びの心柱

こんにちは。

とあるブログを興味深く読んでいたら「貧すれば鈍する」と云う言葉が書いてありました。

最初は,なるほど!と感心して読んでいたのですが,このまま「貧すれば鈍する」と云う言葉だけを意味も理解しないままを暗記するのは良くないような気がして自分なりにいろいろと考えて見ました。日本や中国にはことわざが沢山残っています。その一つひとつのことわざには,先人の体験に基づいた事や知恵を含んだ言葉として短く上手く表現されたものばかりであります。私もことわざから多くの事を学びましたが,ことわざと云うのは奥が深く,受け取る側の解釈によっては意味合いが全く違って来ます。

次の故事ことわざ辞典には,このように書いてありました。

貧すれば鈍する 

読み:ひんすればどんする。

意味:貧すれば鈍するとは,人は,貧乏になると利口な人でも愚かになるということ。

 参照ページ:http://kotowaza-allguide.com/hi/hinsurebadonsuru.html

他にもインターネットで普段みなさんが「貧すれば鈍する」と云う言葉をどのような理解でいるのか知りたくなっていろいろ調べてみましたが,だいたい皆さん同じような意味で使われているようです。今,このブログを読まれている皆さまは如何でしょうか?やはり,辞典に書かれているような意味で使われているでしょうか?しかし,貧すれば鈍すると云う言葉は,一体何を指しているのでしょうか?金銭を指すのか?それとも心の内を指すものなのか?つまり,2つの大きな区分けが必要ではないかと思います。

先ず,1つ目は「経済」の問題。そして,2つ目は「心」の問題です。

心と云うと判りにくいかもしれませんので,少し想像しやすいように「道徳」としても良いと思います。きっと,私も含め言葉だけを読んでみると経済的な金銭を見据えて書かれている様に思います。しかしながら,少し深く考えて想像して見ますと,いやいや経済的な金銭だけでは何とも理解しがたいことが判りました。私なりの結論は「心」の方を指しているのであると考えます。

実は,何故この様なことを考えていたのかと云うと,常日頃,私たち人は苦労する為に生まれて来たのではないと云うことを感じているからであります。苦労の為の苦労は,苦労でしかなく,それでは苦労する為に生まれて来たようなもので,無意味な苦労だと思うのです。過去においても苦労と云う言葉を用いて様々な引用がされて来ました。ちなみに,成長の為の苦労は努力です。

たとえば「若いうちの苦労は買ってでもしろ」「苦労している人は人の苦労が良く解る」などなど。

しかし,私は本当にそうですか?と聞きたいのです。言葉が独り歩きしている様にも感じます。

ちょっと違う気がしています。私は,苦労しなくてもよい苦労はする必要がないと考えます。それは何故かと申しますと一言で申し上げるなら「穢れ」を「畏れ」るからです。いつも書かせて頂いておりますが,穢れとは汚れや汚いと云う言葉の意味ではなく,気が枯れると云う意味での「穢れ=気枯れ」です。人は誰でも気枯れを持つと心と身体に異変が起きて行きます。精神疾患や身体の多機能不全です。疾病などもそうかも知れません。それだけではなく,日常の生活面でもだらしない生活になってしまいます。

これが一番ダメな理由です。 要はこれを「畏れ」ているのです。

成長の為の苦労は,私は努力としていますので苦労ではないのです。たとえば,仕事などで目的を達成する為に努力するのですから努力するのは当然であります。しかしながら,そこを苦労と言われてしまうと少し違和感があるのです。苦労は,自分の力だけではどうすることも出来ない事柄に直面した時に当てはまる言葉ではないかと考えます。つまり,自分以外の存在の力が必要な状況です。したがいまして,その様な自分だけの力ではどうすることも出来ない事柄に直面した時は,躊躇することなく他の存在の力を借りる勇気も必要だと思うのです。ひとりで抱えず,悩まずに他の力を頼って欲しいと思います。他力本願の意味はここにあります。

なにも恥ずかしいことではありません。自分の心を傷つけることを罪と申します。

互いに支え,助け合い,足りないところを補い続け,ともに手を取り,手を握り,

互いの違いを認め合い,互いの違いを尊重し合う。如何なることにも先ずは感謝を。

謙虚さ忘れず頭を垂れて,自ら手をあげ名乗り出る真の勇気と素直さと。

時には省み反省し,人への奉仕を忘れずに,歓びもちて結びとすれば,怒りの心も鎮められる。

こころのみはしら(心柱)祝詞の一部より。

きっと,私たち和の民であれば出来るのではないでしょうか。

花咲 あさひ 拝


 

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神と人が和すること。神人合一惟神

2018年02月14日 06時35分31秒 | 祭祀と和の国

こんにちは。

先日も若干,書かせて戴いた「心の鬼が太鼓を叩く 心の鬼が舞を舞う。」今月2月1日から始まった和の仕組みつくり業務改革は,今現在のところ順調に進んでおります。その任された業務の中で感じましたのは,以外に経営者の想いと考え方次第で企業も社員も大いに変わると云うことを実感しております。やはり,始める前から諦めると云うのは,過去の経験や先入観,固定観念で意識や気持ちを縛り付けているのも自分自身であるようです。物事に結果が伴わない場合,省みるのは大切なことだと思います。

神社や寺院で培ったこれまでの経験を企業社会で活かせるかの挑戦でもあるのですが,これが実は不思議と活かせるのです。私も正直,ここまで神社や寺院の護持が活かせるとは思ってもいませんでした。しかし,実際に行動して見ると様々なところ,場面で応用が利くのであります。良く考えて見れば,それもそのはずなのかも知れません。なぜならば,経済活動も元々は信仰の対象であったのですからそれもそのはずです。私たちが脳で忘れていても遺伝子「DNA」にはちゃんと記録(インプット)されています。

気の遠くなる祖先が経験し,体験した膨大な記録は,私たちがフッとした瞬間に蘇る機能を有しているのかのようです。上手く表現できませんが,たとえば,何故か理由は判らずとも肚に落ちるといった感覚を経験されたことがあろうと思います。途方もない歴史の中で,無数の先祖が体験してきた記録がその瞬間に瞬時に私たち子孫へ伝達されていると考えると何だか不思議な感じもします。その途方もない記録「遺伝子・DNA」の根本は,やはり「和」が基盤になっています。和に反すると,和に戻す力が働きます。

私たちが過去に生きていてくれた無数の先祖のお蔭で,私たちは様々なことを体験でき,危難に遭遇した場合にも瞬時に危難を回避する行動に移せるのだと感じています。しかし,ただ一点だけ機能不全に陥ってしまっている記録「遺伝子・DNA」もあるようです。それは,大自然「神さま」自然「精霊」と距離を取り過ぎてしまったことです。たとえば,神社や寺院で手を合わせる人は普通に居りますが,太陽や山や海,畑や田んぼに手を合わせる人はほとんど見ません。逆に,現代では奇妙に見えるかも知れません。

神社や寺院にゴミを捨てる人はあまり居ませんが,山や川,海にゴミを投棄する人が後を絶ちません。それは何故なのかであります。本来,私たちは大自然や自然と一対一の関係なのであります。つまり,自然と自分との間には何も遮る存在がいないはずなのであります。今一度,私たちは大自然や自然と合致・合一することが大切な気がしてなりません。古神道では,これを神と人が合一すると言って「神人合一」「惟神:カムナガラ」と言われて来ました。現代の宗教家でこう言った話が出来ないのは真に残念です。

神社で神主さんにお金を払って祈祷してもらった。祝詞を奏上してもらった。

お寺で住職さんにお金を払って御経を読んでもらった。供養してもらった。

だから良いことがある。先祖が成仏する。願い事が叶う・・・などなど。

これは全く違います。大切なことは直接,何も介在させずに繋がると云うことです。

つまり,自分自身が自然を崇拝し,祖霊を供養すると云う祭祀者になることなのです。

お金は,あくまでもこの世の3次元で有効的に機能する物であります。拝


 

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私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。

又,人はそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

そしてまた日本人の本当の性質を再び伝えて行きます。

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狙われる私たちの郷土 ~美しきかな水の国~ 21

2018年02月13日 07時58分55秒 | 美しき水の国

 

こんにちは。上の写真は,伊勢神宮 祭主の黒田清子さまで御座います。

本当に凄いオーラと申しますか,全身全霊で臨まれる神宮での神事で御座います。国家国民の為,私情を挟まずひたすら神事を斎行される御姿に,私は感極まって涙目になってしまう時があります。民間人になられたとは言え,御立場的にも御両親の天皇陛下,皇后陛下の事柄も含め,又,皇室の行方についても色々と御心配のところはあると思います。第62回式年遷宮の臨時祭主を立派に務められ,池田厚子さまの後任,この度の神宮祭主を就任された勇気と覚悟は並大抵なことではなかったのではないかと想像します。

第11代天皇である垂仁天皇の皇女であった倭姫命の再来「蘇り」ではないでしょうか。

今日の狙われる私たちの郷土~美しきかな水の国~20は「水の神への感謝参詣 伊雑宮 編」です。

以下の記事は「2016.10.4」に掲載(一部加筆あり)したものです。

こんにちは。内宮の参拝を終えて一旦,神宮会館に戻り手続きを済ませて,知る人ぞ知る志摩市磯部の伊雑宮へ向かいます。伊雑宮は,本宮とも云われ本当の伊勢神宮とは伊雑宮だと主張される方々も多いことでも超有名です。左の写真は,内宮神域内に御鎮座される風日祈宮(かざひのみのみや)に設けられた風日祈宮橋です。別称:五十鈴川御橋とも呼ばれることもあるそうです。

風日祈宮は,鎌倉時代の蒙古襲来の際に神風を吹かせ日本へ来襲して来た10万の敵兵を全滅させた上,日本の国難をお救いになられた神様をお祀りされております。本当に清々しさを実感出来る御宮です。橋の途中で暫し風を感じると罪穢れが祓われている感じがします。これも自然(神さま)からの御恵みであります。気枯れた身体にそっと無言で癒やしを齎して下さいます。

泥んこ遊びに夢中になっている小さな子供に,親が子供の身体につく泥んこを祓っているかのようです。

内宮さんから志摩市磯部の伊雑宮までは自動車で30分から40分前後で到着します。

内宮の後方,朝熊山,島路山を越えて行きます。こちらの伊雑宮には別宮唯一の神田が存在し「伊雑宮御田植祭」とし毎年6月24日には氏子崇敬者が集い盛大に神事が斎行されています。日本三大御田植祭としても有名であります。

右に掲載させて頂いた写真が,その神田である御料田です。

私はこの場所がとても好きで,毎回参拝させて頂くと必ず最後にお参りをさせて頂いています。とても気持ち良く,異空間のような感じがします。時より,どこからともなく風の神さまが到来し,稲穂を揺さぶる光景が観ることが出来るのです。その瞬間の音は鈴の音のようです。ほとんど参拝される人はおりませんので,ゆっくりと腰を下ろし,ただ座っているだけで幸せを実感できる祭祀場です。今では少ない古神道の祭祀場です。真に残念ですが,古神道を伝える人もほとんどいなくなってしまいました。

現代では田んぼに向かって拝礼している姿の方が奇妙に思えるのかも知れません。

こう言った,古神道の祭祀場所に来ると無言ですが,本当にいろいろなことを感じることが出来ます。何か呪文のような言葉が聞こえたり,豪華な衣装に包まれた霊体を目視したり,御経が聞こえて来たりと言ったことではなく,風が吹いて稲穂を揺らし,揺らされた稲穂は鈴の音のような音を発します。その様子はまるで,自分の身を自然にゆだね,素直な心であることの大切さを教えてくれているように感じたり,自分を見つめることが出来るのであります。これが古神道といっても良いかも知れません。

近くには伊勢神宮の御師をされていた方のご自宅もあり,伊勢志摩の歴史や伊雑宮の歴史を資料として展示されていたり,自家製の窯で焼きあげた御塩や稲穂を参拝に来られる方々へ奉仕されています。又,前回も伊雑宮さんのことを記事で書かせて頂いたとおり,御酒屋さんでは伊勢神宮の御料酒である白鷹を販売しております。私の住む地域では白鷹さんの御酒を販売しているところがないので,いつもここの酒屋さんで買わせて頂いています。まだまだたくさん伊勢志摩の魅力はありますが,是非とも伊勢神宮へ参詣される予定のある方は,ここ伊雑宮に参拝されてみて下さい。大変素晴らしい御宮ですし,伊雑宮こそが本当の伊勢神宮だと云われる所以が少しでも感じ取って頂けると感じています。これにて水の神への感謝参詣を終わりにさせて頂きたいと思います。今回の京都・奈良・伊勢の参詣は此れまでの参詣とは全く違ったものになりました。有難う御座いました。拝


 

2つクリック応援宜しくお願いします。

太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。

又,人はそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

そしてまた日本人の本当の性質を再び伝えて行きます。

そのことが日本を取り戻し,日本人としての誇りを取り戻す真の意味だと考えます。

観世音菩薩とともに。花咲 あさひ 拝


日本人の弱点は理屈と情報にあります。

2018年02月12日 07時00分07秒 | 祭祀と和の国

こんにちは。

私たち日本人が世界の人々よりも不得意なものは何ですか?と訊かれたとすると真っ先に想い浮かぶのが,私の中では「理屈」です。日本の子供たちは,幼少のころから理屈を理論を学んでいませんし,家庭教育でも同じです。そのような影響もあって理論構築が苦手なのは頷けます。今の義務教育の現場では,道徳の時間があまりないようですが,日本人は道徳的な生き方を学校でも家庭でも社会でも良しとしてきた面があります。古より日本人は「和」を生活の基盤として来た民族ですからそれもそのはずです。

理屈は,相手を説得する学問ですから,心と心で通じ合う。目と目でお互いの意思を読み取る日本独特の性質は,西洋にはないのかも知れません。理屈を以てしては,欧米には敵わないでしょう。連合国GHQのマッカーサーの視た日本人像はある意味正しかったのかも知れません。日本人の能力は小学校6年生(12歳)程度だと話していたようです。つまり,理屈を使いこなせるか否かの能力と言うことだと私は思っています。今でも国家間においての交渉事でも同じであります。何年か前に,TPPに関する交渉をアメリカと日本で行っていました。その際,日本側の人たちは主に東大法学部出の官僚が交渉のテーブルに座りますが,アメリカ側の交渉人たちは,ほとんど弁護士の資格を取得し,さらに国家戦略(TPPならTPP)の専門家の人たちであります。

既に,テーブルに座った時点で勝敗は決まってしまっているのです。

それともうひとつ「情報」だと思います。

つまり,情報の収集と分析,そして発信が他国の人と比べると不得意の分野であります。とにかく日本人は情報分野にとても弱いです。先程の話ではありませんが,個人でも企業でも官僚でも同じであります。情報は収集し,分析し,発信すると云う3つを繰り返すものですが,やはり,この弱点も幼少の頃からの幼児教育や義務教育の教育手法に課題があるのだと思います。正解探しの教育,試験制度の過去問主義では,収集力と分析力,発信力を育てることには弱いのであります。正解探し,間違え探しでは世界で勝負できません。故に,司法試験が最難関試験だと言われ続ける所以なのです。司法試験は正解探しや間違い探しは通用しません。

今日は何だか,悲観的な記事のように思えますが,私は,無理に不得意な分野で他国との交渉や折衝などに臨まなくても日本人の得意分野で挑んだ方が良いのではないかと考えるひとりであります。特に,国家間などの外交問題を上手く切り抜けて行くには下手な理屈で臨むよりも,相手に与える印象は良いと考えるからであります。それは,グローバルに展開する世界的な企業でも同じことが言えるのではないかと思います。日本人の得意分野とは,勤勉で誠実なところ。素直で優しいところ。清潔感があって潔いところ。数え上げたら切がないほど本来,日本人の良いところがあります。このような精神的文化・伝統は諸外国には見られません。

それを諸外国の人々も了知しています。

そして,何よりも私たちが世界に誇れるものとは「和の心」ではないでしょうか。和の心(精神)で諸外国と交渉し,折衝することで新たな絆が結べていけるように思えるのです。不得意な事で無理に相手に合わせる様な姿勢では,逆に不誠実だと云う印象を持たれかねません。それは,日本にとっても日本人にとっても本来あるべき姿でもありませんし,国益にも何らなりません。太陽を国旗にすることが出来る国は日本だけです。その太陽を国旗にしている国が,理屈に支配されてはなりません。情けないことです。

つまり,闇の世と云うことです。理屈で支配され続ける間は,闇の世が続きます。

理屈を越えることが出来たときが,本当の岩戸開きで御座います。

菊の紋章をいただくのも日本人だけであります。菊の紋章は,世界の祭祀を司る民族の象徴でもあり,祭祀を継承する証と云う意味であります。つまり,私たち日本人全員が世界の祭祀者なのであります。このような民族は日本人以外には存在しないのです。今ではそう言ったことは日本人自身が忘れてしまい,逆に諸外国に対し劣等感さえ抱いているようです。しかし,いつの日か,私たち日本人の役割と役目に気が付く日が必ずや訪れると私は信じています。心優しき日本人です。世界で最も発達した文明を持つのも日本です。世界から最も信頼され続けているのも日本であります。日本人は日本人で良いのではないでしょうか?駄目でしょうか?

日の丸を胸に,菊の紋章を背負い世界で堂々と私は日本人だと活躍して頂きたいと思っています。拝


 

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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。

又,人はそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

そしてまた日本人の本当の性質を再び伝えて行きます。

そのことが日本を取り戻し,日本人としての誇りを取り戻す真の意味だと考えます。

観世音菩薩とともに。花咲 あさひ 拝