関東電友会 関東中支部ブログ

このブログでは関東電友会関東中支部の活動状況を載せています。

11月28日 (火) 初心者の為の囲碁同好会11月例会

2023-11-28 16:18:19 | 同好会活動

 

初心者の為の囲碁同好会を11月28日13時からOB・OGサロンにおいて例会を行いました。  参加者は7名でした。
次回は、12月19日(火)に開催予定です。多数の参加をお待ちしています。

参加者

対戦模様

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11月28日 絵手紙同好会11月例会

2023-11-28 16:18:19 | 同好会活動

今日は、朝に比べ昼は暖かくなりました。
皆さん、熱心に絵手紙作成しました。
絵手紙同好会を11月28日10時からOB・OGサロンにおいて例会を行いました。
参加者は5名でした。
次回の12月は、中止して新年の1月30日(火)に開催予定です。
只今、新しい参加者を募集中です。
是非、参加をお待ちしてます。

森川前支部長が陣中見舞いで参加されました。


本日の作品です。

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電気通信の源流 東北大学 6.弱電と強電

2023-11-26 18:14:38 | 投稿
電気通信の源流 東北大学 6.弱電と強電

 ドイツに留学した八木は、ドレスデン工科大学にて高い周波数の電気振動を研究しているバルクハウゼン教授に師事、博士号取得のための研究をすることになった。ドレスデンはエルベ川の谷間に位置したザクセン州の州都で、陶器の町マイセンから近い。
 バルクハウゼンは名著「電気振動学入門」により電波工学の意義を世界に知らしめたことで名高い。電気工学を「強電工学」と「弱電工学」に分類したのもバルクハウゼンである。いかにして強い電力を発生し、それを減衰させないで遠くにまで送るかをテーマとする発電と送配電の工学が「強電工学」であり、弱い電流で仕事をする有線や無線の通信工学が「弱電工学」である、とした。
 八木は、「日本では、弱電はまったく片隅の学問にされている」とバルクハウゼンに語った。
「日本でも弱電の研究をするのは自由なのだが、産業界が強電全盛であり、弱電をやろうとする人間がいない。大学に弱電の講座はなく、電信電話学という講義が一科目あるだけで専任の講師もおらず、毎週、逓信省の技師が講義をしにくるのだ」と八木は嘆いた。
 しかし日本でも最初から強電ばかりが盛んだったわけではない。明治10年、東京帝国大学に初めて電気工学に関する学科が設けられた時は電信学科という名称であった。明治政府が成立した次の年に東京と横浜間に電信が開通した。有線による電話も、ベルが発明した翌年の1877年には取り入れ、都市間の電話交換も明治23年から始まっている。
 八木はこんなことを説明したのちに、弱電が衰えた理由を次のように述べた。
「政府が電信電話を官営の独占事業にした。競争がなかったので、政府は外国から技術を輸入、運営するだけだった。それに対して電力事業の方は、電灯が普及した明治のなかばころから民間会社間で激しい競争が始まった。大資本の電力会社が出現した。そのために大学の電気工学科の卒業生は多くが電力会社に就職し、政府の通信事業に行く者は何年かに一人という状況だ。」
 これを聞いたバルクハウゼンは驚きつつ、「弱電の方が強電よりも理学的で、研究しても面白いのに・・・」と言ったという。
 八木が日本にいた頃から、欧米の学会誌には大学や企業の研究者の弱電研究論文が多く載っていた。すでにいくつかの国では、弱電が独立した学会となり、弱電だけの学会誌が存在していたのである。そのあと、ベルリン工科大学で学ぶうちに八木は、ヨーロッパでは弱電研究者の方が強電研究者より一段と高く尊敬されていることを知ったのだった。
 バルクハウゼンは次のように言った。
「科学は発見し、工学は発明するという。その科学と工学は真空のなかで生まれるわけではない。それぞれの時代の制約のなかで生まれる。科学者と工学者とはそれぞれが自分の社会をつくっていて、排他的な要素を持っている。
 電波の存在を予告したマクスウェルは、生きているうちはその論文はまったく無視されていた。電波を発見したヘルツも、電波が通信に使われるなんて考えもしなかった。このように、自分の発見を、自分で評価することは難しい。どこの国でも、創造は規制の権威への挑戦なのである」
 八木はバルクハウゼンの言葉をかみしめて味わっていた。
 大正3年、第一次世界大戦の勃発でドイツを後にした八木は、スイス、イタリア、フランスを転々としたのちに、ドーバー海峡を渡って英国にたどり着いた。そこで彼はフレミングの師事を受けることになった。フレミングは「電磁誘導に関する右手の法則と、地場の電流に対する力の左手の法則」で知られていた。
 このときのフレミングは、真空管の将来性についての関心でいっぱいであった。フレミングは明治37年(1904年)に二極真空管を発明した。その後に、真空管は電波を発振することや信号を増幅する作用があることが見つかり、その応用が飛躍的に拡大されようとしていた。こうした時代の変化のただ中に、八木は身を置いていたのである。
 八木はフレミング教授の実験助手として、欧州で当時の新しい話題であった光電効果の研究などに取り組んだ。こうした過程で、八木は物理学の領域に深く立ち入ることになり、また電波の領域に取り込まれていった。
 八木はフレミングの著書「無線電信学教科書」にある言葉、
「無線学は非常に魅惑的なものであって、一度この研究に踏み込んだ者は生涯これから抜け出ることはできない」
を実感したのである。
 余談ではあるが、八木はフレミングから英語の言葉遣いについて注意を受けたことから、週に三回、英文学者から英語の教えを受け、代わりに日本語を教えた。八木の英語のレベルは大きく向上したが、相手も八木の教えが役立ったらしい。その相手というのが「源氏物語」を十年かけて英語に翻訳し、日本の古典文学を世界に広めたアーサー・ウェイリーである。
 八木がロンドンへ来てから約一年後、ドイツの飛行船によるロンドンの空襲が激しくなった。八木は残る留学期間を米国で過ごし、祖国へと戻って行った。

<5.八木秀次の登場
7.東北大学工学部電気工学科の創設>



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電気通信の源流 東北大学 5.八木秀次の登場

2023-11-26 18:14:37 | 投稿
電気通信の源流 東北大学 5.八木秀次の登場

 八木アンテナの発明者として有名な八木秀次は、明治19年に大阪市で生まれた。府立一中、第三高校を経て明治39年に東京帝国大学の電気工学科に入学した。
 八木は、米国ゼネラル・エレクトリックの留学から帰った鳳修太朗の電磁気学を受講したことから、無線に興味を持った。電磁気学が電気工学の基礎で、物理学に根ざすものであることを知り、物理学科に行って、長岡半太郎の電気物理学の講義を聴講したりした。
 八木は大学に残って研究者になりたかったが、母校にポストがなかったため、鳳は八木に仙台高等工業の嘱託講師の職を紹介した。同校はいずれ東北大学の工科大学として移管される予定であり、そうなれば帝大で研究ができると説得したのである。
 明治42年に仙台高等工業に着任した八木は、四か月後に東京中野の電信隊に志願入隊した。志願すると二年の兵役が一年に短縮されたのである。
 兵役を終えて仙台高工に戻った八木は、直ちに電気科教授に任命された。嘱託講師から一気に飛び上がって、満23歳の若い教授が誕生した。
 明治44年、東北帝大理科大学が開校した。まだ高等工業に在籍していた八木には、研究ができる大学の教授がうらやましかった。高工では、学生の教育に忙しくて研究をする時間がなく、設備もなかった。しかし明治45年、仙台高工は東北大学に移管され、工学専門部となった。
 ここで八木は、幸いにも、物理学科の教授で7歳年長の本多光太郎の親交を得た。八木は、本多がドイツ留学中からヨーロッパの学会誌に論文を発表していることを知り、尊敬の念を抱いていた。
 本多の好意で、八木は理科大学物理学科に出入り自由の特権を得た。また毎週開かれる本多研究室の雑誌会にも出席するようになった。
 理科大学の学者は、蔭では工学者を「俗物」と呼んで軽んじていた。そんな風潮の中で、八木が物理学の雑誌会に招かれるのは異例のことであった。
 あるときの雑誌会で、八木はドイツのバルクハウゼンの弧光振動の論文を発表した。それを聞いた本多は八木の先端的な学問への意欲と研究センスを認め、長岡半太郎に伝えた。八木は長岡と本多の文部省への口利きにより、異例の早さで留学することになった。
 大正2年から三年半の間、独英米で過ごすことによって八木は目覚ましい成長を遂げることになる。


<4.東北大学物理学科
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電気通信の源流 東北大学 4.東北大学物理学科

2023-11-20 10:31:39 | 投稿
電気通信の源流 東北大学 4.東北大学物理学科

 東北帝大創設が決まった直後、東京帝大理科大学物理学科教授の長岡半太郎は、自分が仙台理科大学初代学長として転じるつもりで、明治43年にヨーロッパ各地の大学を視察し、物理の実験設備を購入したりしていた。長岡は明治20年に東大物理学科を卒業したのち、明治36年に土星型原子模型を発表して、世界の物理学会で名を知られていた。
 当時ヨーロッパの物理学会では、アインシュタインが発表した相対性理論がようやく理解され始めた。またプランクが発表した量子論が革命性を持っていることが広く知られてきた。長岡はヨーロッパにきて、物理学に革命が進行しつつあることを知ったのだった。
 長岡は、日本が立ち遅れていることを認識せざるを得なかった。そして、今回の革命には力を発揮できなくても、仙台にできる新しい理科大学において「次回の革命」を担う物理学者を育てる決意を強くした。
 しかし時の東大総長は、世界に知られる物理学者の長岡を東大から失いたくなかった。総長の執拗な説得により、長岡は彼の愛弟子たちに自分の夢を託すことにした。
 東北帝大理科大学物理学科の初代教授にはKS鋼で有名な本多光太郎(明治30年東大物理学科卒)、日下部四郎太(明治33年卒)、愛知敬一(明治36年卒)の三人で、石原純(明治39年卒)が助教授になった。
 彼らは開校後まもなくから、目を見張るような仕事をやり始めた。日下部の「岩石の弾性の研究」、本多の「鉄の研究」は学士院賞を、石原の「相対性原理、万有引力論及び量子論」は恩賜賞を受賞した。
 中でも本多が大正5年に発明したKS鋼は、従来の強力磁石鋼に比べて三倍強い磁力を持つことで、世界でも画期的な磁石鋼であった。なおKS鋼という名称は、2万円の研究資金を寄付してくれた住友財閥の当主、住友吉左エ門の名をとって付けられたという。
 本多はKS鋼の特許をすべて住友財閥に寄付した。その見返りとして、住友財閥は新たに30万円の寄付をした。本多はそれを元手にして、大正8年に金属材料研究所を創設した。今日、同研究所前には本多光太郎の胸像が建てられている。

 東北大学 金属材料研究所


<3.東北大学の誕生
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