韓国雑記帳~韓国草の根塾&日韓環境情報センター&ジャパンフィルムプロジェクトブログ

韓国に暮らして30年。なぜか韓国、いまだに韓国、明日も韓国。2022年もよろしくお願いします。

キャンドルとTHAAD配備~パク・ジンさんの文章

2017-09-12 02:48:54 | 韓国あれこれ

7月、福岡で行ったキャンドル集会連続講演でスピーカーの一人だったパク・ジンさんの文章を紹介します。今、北朝鮮の核開発に対抗するためTHAADが臨時配備されましたが、このとき住民や支援活動家と警察との間で衝突が起こり、多くのけが人が出ました。これをめぐり、様々な意見が出て、議論が起きています。その参考になればと思い、日本語に訳しました。(原文はフェイスブックにあります)

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キャンドルが望んだことは何であるかについては、様々な解釈がある。それはキャンドルを持った人たちが多かっただけに、同じ価値があったかどうか... 同じ価値を考えてみると<朴槿恵退陣>という目標は達成して、権力は変わったので、キャンドルは朴正熙の遺産の退場という時代の課題を成し遂げたと思う。

それでは、新しい世の中は残った弊害と社会改革の要求はどうするのか。

私は「私がこれをしようとしてキャンドルを持ったのか」という問いはしない。 キャンドルは類型(有形?)とか終焉ではなく命の課題のようなものであり、広場は絶えまなく開かれているためであり、それでこれをしようとか、いう類の言葉はそのまま自己満足にすぎないと考えている。

日曜日からソソン里(ソンジュにある地域、THAADの配置予定地)に行かなければならないのに、以前だったら今すぐソソン里に行ったはずなのに、行かなかった。 警察の靴と夜が明ける明け方を迎える心を締め付ける恐怖と緊張感を恐れてではない。もうそんな感じのものは、あまり怖くない。いつからか、そのまま死んでも大丈夫だ、と思うことに気がついていた。特に、公権力の前では怖くなくなったが、それが私がしている活動ということへの自尊心のためだと考えるようになった。刑務所にもあまり怖くない。

ソソン里に行けなかったのは、「新しい時代はまだまだだ」と諦めと恥ずかしさを現場で直接目撃することを恐れたからだ。テチュ里(ピョンテクにある地域、米軍基地拡大のため強制代執行で収用された)と龍山(ヨンサン/再開発の立ち退きをめぐる衝突で数人が死亡する)、双竜(サンヨン)自動車塗装工場、カンジョン村(チェジュ島の海軍基地を強制的に建設した)で無数に見てきた国家暴力のすべての場面が同じように、国家がそのような存在であることを疑ってみたこともない。文在寅(ムン・ジェイン)政権は変えてくれると期待したこともない。 大統領が誰であっても、権力は同じだ。国家は国家に過ぎない。それでも体で、この政府と再び一緒には歩めないという事を心に刻みたくなかったのかも知れない。

テチュ里で私はそれを見た。 李明博(イ・ミョンバク)と朴槿恵(パク・グンヘ)を過ぎて多数が懐かしがった盧武鉉(ノ・ムヒョン)を、たった一度も恋しなかったのは、テチュ里のためだった。

テチュ里を守りたい心を、私の魂を悪魔に捧げても守りたかった心を5月4日、「黎明のファンセウル(警察と軍による強制収用の作戦名)」、その成功した作戦中に体で十分に学んだ。それが何の戦いだったかは関係ない。青くて目が冷えきった秋の空の空き家の屋上から十数時間の立てこもりをしながら、黒いファイバー(警察?)しか見えない脅威の時間を一人で粘って、十分に学習した。私たちは負けているんだね。この国家に勝てないな。あの農民たちを守ることがないな、私は守ることがないな。

そんなに十年が経過し、盧武鉉(ノ・ムヒョン)の文在寅(ムン・ジェイン)…キャンドルで誕生した政権で、踏みにじられたソソン里をみながら、まだ同じだな。国家に勝てないな。 自壊感がごちゃまぜになった一晩を過ごした。行かなくてもその暴力と抵抗の悲鳴が細胞のいたるところを刺激した。

THAADの配置より昨日の警察の暴力は、さらに悪い効果を残すことになるだろう。体に刻ざまれたものは簡単に消えない。それも政権初期に、それも無責任に海外歴訪の時期に。それも警察改革や人権侵害の過去を清算するという言葉のまえで...また十年を遡ってきた既視感の前に冷静になるだろう。

それで新しい世の中は、国家に期待するのではなく、依然として私が負うべき課題ではないか。キャンドルを持って広場を埋め尽くして権力を引き下げたように。私の人生の中に広場が消えるなら、新しいものが来るだろうか。 絶えず声をあげ、絶えずぶつかり、絶えず成長してあなたではなく、わたしが主人公という断固たる態度が世の中を変えるようになるはずだ。

ソソン里の絶叫を見て見ぬふりをしてはいけない。そこでは、2017年、韓国社会の民主主義が再び挑戦を受けていることを否定することはできないことだ。多分、そうなるだろう。