競争より、ともに高めあう会社づくり
~ル・クロ黒岩さんの人財育成術~
講師 フレンチレストラン・ル・クログループ オーナーシェフ
株式会社ル・クロフーディング代表取締役
黒岩 功さん
2018年6月22日、ル・クロ・マリアージュにおいて「競争より、共に高めあう会社づくり―ル・クロ黒岩さんの人材育成術」と題して、株式会社ル・クロフーディング代表取締役の黒岩 功さんに講演していただきました。以下にご報告します。
みなさん、地震は大丈夫でしたか? 何より自分の家族の次に心配なのがスタッフなので、地震があった直後にすべてのスタッフに「大丈夫か?」のメールをしました。幸いなにもなかったので安心しました。
今日の講演会で、「人材育成術」についてお話することになっていますが、実際には「人材育成術」というのはありません。ハリーポッターのように杖があり、「えぃー」と術をかければ、すぐに変わるような「人材育成術」はないのです。仕組みづくりや環境づくりをして、常に「成長してね」「変わってね」とスタッフに言い続けることしかできません。しかも、期待しないことです。
上手な講演をできませんので、等身大の自分の話をしたいと思います。18年前に独立しました。そのとき以来ティグレさんにはお世話になっています。
当時、私と妻と妻の背中の子どもの3人で独立しました。店は心斎橋の狭い路地のどんつきの奥でした。今は、大阪・関西に4店舗、パリに1店舗を持っています。さらに福祉をやっていまして、京都に福祉事業所とこのビルの4階で福祉事業所と放課後デーサービスをやっています。ここまで出来たのは、50名のスタッフ・社員のお陰です。お蔭さまはあっても、スタッフ・社員育成術はないと思っています。
よく「人は変わりますか?」「人は成長しますか?」と聞かれます。「人はすぐには成長しない」「人はすぐには変われない」というのが僕の答えです。僕のできることは、「この職場では変われるかもしれない」「この環境で成長できるかもしれない」という仕組みづくりしかできません。人は変わりません、その人が変わろうとしない限り。これが僕の等身大の答えです。
ル・クロを知っていただくために7~8年前にテレビで放映されたDVDを見ていただきます。
放映・・・終了
この当時の店舗数は3店舗でした。兵庫県の丹波で、洋館風の小学校の校舎を利用してウエディングレストラン・カフェで4店舗。フランス・パリで1店舗の合計5店舗を経営しています。パリ店もよくはやっています。日本人客3割、現地の人7割にしています。日本人が多くなりすぎると、現地の人が入りづらくなるからです。スタッフにはパリで修業して、日本に戻りさらに修行して独立するという道筋を付けています。
最初に鹿児島から出てきたときのことをお話し、会社の今、福祉の順番で進めていきます。
店舗数が増えてくると、どこかのお坊ちゃんですかとよく聞かれます。フランス料理店を出すのはものすごい資金力がいるからです。本当は真逆です。
18歳のときに一家離散して、独立したときのお店は資金がなかったので自分で作りました。コーナンに行ってテープやブロック買ってきて自分で作りました。皿もなかったので、100円ショップで揃えました。100円均一で揃えましたので、100円均一がばれないかと心配していました。
自分には何もなかったのですが、「お客さまを喜ばせたい」という気持ちと、「家族、わが子のために頑張る」という気概だけは満ち溢れていました。もし失敗したらトラックの運手でもしようと覚悟していました。
今の僕の考え方には、海外に出たときに経験したことが大きく影響しています。幼少期からの積み重ねでいろんなことを経験し、サービス業に出会いました。ITが進んで、人間に関わらないことがよい仕事という風潮がありますが、サービス業に出会ったことに感謝しています。人と人とが関わるサービス業をもっともっと成長させていきたいと思っています。人と人とが関わるサービス業はなくならないと思います。
生れ持った小児ぜんそくがひどくて、小学校まで大変でした。小学校は義務教育ですから登校させられます。しかし、コミュニケーション能力がないので、仲良くできる友達ができません。友達がいないので学校を休みます。学校を休むと友達ができないので学校に行かないという悪循環が続きました。ですから引きこもっていました。
学力がなかったので、通知表はオール1でした。なんとか商業高校にいきました。高校では社長になりたいと思っていましたので、簿記だけはよく勉強しました。特にできなかったのは英語です。高校までの12年間、最高得点は7点でした。7点しか取れなかった人間が、パリにお店を持ち、パリに行くとフランス語でしゃべります。ですから、英語ができないから人生が決まるということはないのです。
小学校のとき勉強ができませんでしたから、ランドセルには教科書の代わりにリスとハムスターが入っていました。授業中、リスとハムスターと遊んでいました。小学校2年生の時に、母と祖母が校長先生に呼び出されました。校長先生から「2年生をもう一度やらせるか、仲良し学級に入れたらどうか」という提案がありました。現在であれば、多動児、発達障害、統合失調症、アスペルガーのいずれかの名前を付けられていたと思います。
お袋からよく聞かされます。「あんたは、はやいきだから知恵も遅れているので、とりあえず3年生にあげて下さいとたのんだのよ」と。そんな僕でしたから、お袋は今の僕を見て「あんたがね」とよくいいます。
運動会でもビリでした。お袋が運動会を観に来るのですが、持久走でいつもビリでした。あまりにも遅いのでみんな帰ってしまい、最後に、担任の先生とお袋と僕だけが運動場に残されました。子ども心に恥ずかしかったです。お袋には運動会に来て欲しくなかったのです。「人を喜ばすことができない」「お袋を喜ばすことができない」というコンプレックスを持っていました。
自分は家で基本的には、引きこもっていましたので、自炊することになりました。よくインスタントラーメンをつくりました。はじめのころは、そのままインスタントラーメンをつくっていました。次に、卵を落として入れました。残った野菜を刻んで入れたりもしました。野菜を入れて煮込むとスープが甘くなりました。これが僕と調理の最初の出会いでした。自由にコントロールできるので楽しかったです。
たまたま、小学校4年の参観日の授業が家庭科で、母親が観に来ていました。先生が「ここにキャベツがあります。誰か切ってくれませんか?」と言いますので、僕が「ハイ」と手を上げました。誰も手を上げなかったので切ることになりました。みんな、半信半疑でした。頭の悪い、運動の出来ないクロちゃんがいきなり手を上げたのですから。一番、不思議がったのは先生でした。「エッ」と声を出されていました。先生は仕方がないので「それじゃあ、黒岩君、手を切らないようにゆっくり切ってね」と指名してくれました。
僕はひきこもりも相当長く、調理の腕を上げていました。キャベツを丸めて「トントントントン」と切ったのです。すると「クロちゃんスゴイ」とみんなから拍手です。初めて認められた瞬間でした。初めて承認されたんです。嬉しすぎて気絶しそうでした。
もう1つ嬉しいことがありました。母親が観にきていました。いつもであれば、「どうぞ、うちの子に当てないでください」という母親の気持ちでした。その日も柱の陰に隠れて見ていましたが、みんなから僕が拍手されてので、柱の陰から教室の真ん中に移動して僕を見てくれていたんです。母親は泣いていました。子ども心に、母親がうれし涙を流しているのが分かりました。このとき、人も母親も喜ばせることにできるコックになろうと心に決めました。
フランス料理にしようと思ったのは単純でした。和食は今一つ、中華はラーメン、イタリアンはスパゲティ-のイメージしかありませんでした。フランス料理は食べたことがないので、フランス料理を勉強しようと決めました。
高校3年生のときに、一家離散して大阪に来ました。母親が商売をしていまして、いろんなことに手を出しましたが失敗しました。パチンコ・ギャンブルに手を出してしまい、中学校のころには、借金取りに追いまわされることになりまいた。毎日家にきていました。学校にもきました。
高校を卒業したときに、専門学校に行きたくて大阪に出てきました。学資ローンを組んでアルバイトをしながら辻調理師学校に通いました。朝8時に学校に行き、午後6時から12時まで豚カツ屋で働きました。
昔は、頑固おやじがつくった料理を黙って食えの時代でした。しかし、僕は、サービス業はお客様から選ばれる時代が来ると思っていました。辻調理師学校を出たとき、最初は厨房に入りませんでした。サービス業を学びたかったんです。お客様が求めているものは何かを知りたくて、3年間お客さんと接して学びました。
ぼくは、人を喜ばすことができないというコンプレックスを持っていました。サービス業では人を喜ばすことができるのです。だからサービス業にはまりました。自分にないスキルを身につければ、人を喜ばせることができると確信したときに、この道で社長になろうと後ろの扉が「カチン」と閉じました。
日本でもフランス料理を学べるのですが、一番を目指そうと思いました。一番になれなかったので、「一番」に憧れていました。フランス料理の一番は、「三ツ星レストラン」が世界の最高峰です。それを目指してフランス・パリに行こうと思いましたが、ビザが発行されたのはオランダとスイスだけでした。渡航費用は40万円でした。フランスに親近感がありましたので、スイスに決めました。期間は1年です。
フーバーに出会って会社の理念を学びました。今の会社は「誰のために」「何のために」「何故あるのか」を学んだというより、感じさせられました。フーバーは「常に、相手の立場に立って考えてくれる人」でした。これは、僕の一番短い等身大の表現です。
スイスは中立国で、30~40人のスタッフは世界中から来ていました。同じ国の人はほとんどいませんでした。考え方の違い、肌の色の違い、宗教観の違い、気質の違いで、まるで多国籍軍です。多国籍軍で何が起こるかというと、争い事が起こります。
北欧の人は眉間にしわを寄せる厳しい気質です。イタリア・スペイン人は、底抜けに明るくテンションが高いのです。フーバーは争い事の多い中で、唯一みんなから尊敬されていました。
スタッフはみな1~2年のビザで来ているので、毎月送別会がありました。送別会は日本と同じです。違いはダンスパティーがあるかないかの違いです。最後は、送られる本人がマイクを持ってお別れのあいさつをします。「楽しかったです」「勉強になりました」とか、向こうの人は本音が出やすいので「給料が安かった」などの挨拶がありました。帰るスタッフが最後にしゃべることがみな同じでした。「フーバー、ありがとうございました」「フーバー、お世話になりました」「フーバーともう一度一緒に仕事がしたい」「フーバー独立したときにもう一度会いたい」という感謝と再会を祈る言葉でした。
最初の2~3ヵ月、フーバーがみんなから慕われているのか不思議でした。1年後、私がマイクを持ったとき「フーバー。お世話になりました。僕は変わることができました。パリに行きますが、また、一緒に仕事がしたいです」と同じようなことを言っていました。
あるとき、ランチで厨房が忙しいときに、ムルティーというスタッフが絨毯を敷き、お祈りを始めたのです。その他のスタッフもぼくも、なぜこんな忙しいときにお祈りをするのかと不満でいっぱいでした。ちょうどフーバーが帰ってきて、「どのくらいの時間がかかるのか」とムルティーに聞くんです。ムルティーは「5分ぐらいです」と応えるので、フーバーはみんなに、「5分だけムルティーに時間をやってくれないか? 5分すればムルティーは仕事に戻ってくれるので」とみんなを説得しました。
普通であれば、このように説得されても「仕事が優先でしょう」と反発されるのですが、フーバーにそういわれた瞬間、みんなの反応は、「イエス」でした。何故かというと、みんなフーバーから同じように助けてもらっていたかです。
洗い場のスタッフは厨房の中で一番身分が低いのです。宗教観の違いで食べられないまかない料理があります。身分の一番低いスタッフのために、自分の時間を使ってまかないを切り替えてそのスタッフのためにずうっと出し続けていました。フーバーはトップです。トップがそれを続けることができるのが、ぼくはすごいなと思っていました。フーバーは雇われのシェフでした。社長がいました。社長は最悪で、売り上げのことばかり気にしていましたが、フーバーはみんなから慕われていました。
ぼくの場合もそうでした。海外でしゃべれないというのは、きついものでした。スイスのチューリッヒは、公用語はドイツ語でした。聞いたことのない言葉です。日常が全く通じませんでした。自分でどうしようかと思ったときに、フーバーから「イサオ、エンジョイ」と遊びに連れ出してくれました。ぼくを孤立させないために、遊びに連れ出してくれたのです。初めて、気持ちが通じてとても嬉しかったのを覚えています。
ある日、送別会があり、フーバーは「イサオは、日本から来て、英語ができない。誰か教えてやってくれないか」といってくれたのです。同室のトーマスが手を上げてくれました。言葉ができないので同室でしたが、全く話すことはありませんでした。個人を大切にする習慣がありますので、部屋を2つに割って暮らしていました。トーマスは仕切りを取りベッドをぼくの横に運び仕事が終わると1~2時間英語を教えてくれました。少しずつ英語が分かるようになり、最後には、ドイツ語も教えてもらい、どんどん楽しくなってきました。
そのトーマスもフーバーから助けてもらいました。トーマスは厨房に来る前に、ペンキ塗りの仕事をしていました。強い薬品を手に付けてしまい障害を持っていました。フーバーはトーマスに「障害のことは気にしなくていい。責任はぼくが持つから、頑張れと」応援してもらったのです。
みな、フーバーから助けてもらっていました。「あなたは、どんな気持ちでみんなに接してきたのですか?」とフーバーに最後に聞きました。「ぼくは、みんなを家族と思っている」と返ってきました。「本当の家族のように血はつながっていないのですが、家族だったらどういう行動をするか考えている」というのです。
この言葉に不思議だったことが腑に落ちました。言葉・肌の色・宗教・気質には違いがあるけれど、家族愛は普遍です。だからフーバーはみんなに優しかったのです。ぼくはこのときに、社長になったら「フーバーのように家族愛のある経営をしよう」と思いました。これが現在のぼくに生活の規範です。
会社では、握手ごっこをしています。「おはよう」も握手です。「御苦労さん」も握手です。承認することから始めます。「ありがとう」も握手です。握手と本人の目を見ると本人の状態が分かります。握手は仕組みではなく文化です。
仕組みはケアメールです。全員からケアメールをもらい心情とか、体力、仕事の気付き、学びなどを受け取ります。それに返信しています。
スイスからフランスに不法入国して、パリの三ツ星レストランで修業しました。1年のビザですから、一時帰国して、フランスに行くのが正規のルートでが、渡航費用に40万円かかります。だから、スイスからフランスへ不法入国しました。捕まったら強制送還です。捕まってもいいと覚悟してスイスからフランス行きの列車に乗り込みました。
列車の中で入国検査がありましたので、車掌に会わなければフランスに入国できます。パリまでの18時間、車掌が来たら便所に逃げ込んでフランス入国に成功しました。パリに着いたとき、列車から飛び降りて闇に消えました。
パリでの生活は、住むところはない、フランス語も分からないところから始まりました。レストランの裏口から英語で、「働かして欲しい」と職探しを始めました。フランス人は英語圏の人を嫌うので雇ってもらえませんでした。英語圏の人を嫌うことが分かったので、フランス語の本を買いフランス語で「働かして欲しい」と声をかけまわりました。
次の質問は「どこで暮らしているのか」ということなので、これもフランス語で答えるようにしましたが、2~3ヵ月の間、仕事を見つけることができませんでした。貯金もなくなり生活できなくなりました。日本に帰るしか道がないと思っていたときに、縁があって和食屋さんで働くことができました。和食屋さんでは、サービスをさせてもらいました。サービスをするとフランス語を覚えることができましたので、裏口から訪ね回って仕事探しをしました。ある人の助言で2つ星レストランのシェフが毎朝6時に市場から帰ってくるので、待ち伏せをして頼んでみたらといういのです。
さっそく、レストランのべン・ソンミン・シェフに会い、レストランで働きたいと頼みました。「お前は、どこで暮らしているのか?」と聞いてきました。フランス語ですらすらっと答えました。何度も同じことを聞かれてきたことでした。シェフは何を勘違いしたのか、「フランス語ができるね」と言われましたので、「ウィ、ウィ」と応えました。シェフの最後の質問は、「サラリーはいくら欲しいか?」ということでした。ワンチャンスしかないと思ったので「無給」といいましたら、今日から働いてくれといわれ働き始めました。
誰よりも早く出勤して、遅くまで働きました。向こうでは料理人が先に帰り、パティシエが続いて帰ります。パティシエで午前2時ぐらいです。そこから帰り、朝の6時には出勤しました。
そんなとき、シェフが「お前、めちゃくちゃ頑張っているね。もっと上を目指せばいいのに。」といってくれました。「いいえ、そんなチャンスがありません。」と応えました。当時、日本人はイエローモンキーで、評価されていませんでした。シェフは「チャンスがあれば行くか?」と聞くので、「行きます」と返事をしました。目の前で電話してくれて、「イサオ、明日から三ツ星レストランに行きなさい」と紹介状を書いてくれました。
世界最高峰の三ツ星レストラン、もちろん給料はタダでしたが、そこで修行できることになりました。厨房に戻ると同期や先輩が、「5~10年いてもそんな紹介状書いてもらったことはない。なんで書いてもらったんだ?」と質問攻めに会いました。ぼくは、「なぜだか分からない」と応えるしかできませんでした。
三ツ星レストランのシェフが、「イサオすごいね。そんなに頑張っているならほかの三ツ星レストランで修業したら」とほかの三ツ星レストランを紹介してくれました。それまで、月曜から金曜まで無給で働き、土日は和食の店で家賃を稼いでいました。今度、紹介された三ツ星レストランはオーベルジェルで、田舎にあるので家賃を稼げなくなりました。家賃を稼ぐことができないので、しかたなく帰国することにしました。帰りぎわ、凱旋門に上り、必ずパリに戻ってくることを誓いました。のちにそれを実現し、パリにお店を持つことができました。
18年前に日本に戻ってきて独立しました。1号店から2号店を出したときにメンバーは12名いました。メンバー全員がいっせいに辞めることになりました。自分は妻と子供のために一生懸命に努力していましたが、スタッフは違います。全員が目指す目標がなかったので、全員が一斉に辞めることになったのです。
会社には理念が必要だということを痛感しました。トヨタが理念経営を始めたときに、ぼくの店に来ました。3日間かけて社員研修用に理念・クレドをトヨタさんと作りました。クレドは、全員が守るべき規範です。
パリに店を出しているので、「大変ですね。」とよくいわれます。しかし、僕にとってパリ店は一番楽なんです。地球の裏側なので、人にまかす以外にありません。
マネージメントには2つあります。人のマネージメンとお金のマネージメントです。お金のマネージメントは心配ないのですが、人のマネージメントは難しいことです。
パリには、池田というスタッフがいて、毎日クレドの唱和をしてくれています。料理の質感、サービスの質感を絶対に下げないという気持ちでやってくれています。基準を下げないということは厳しいことですが、実現しているので人気店になっています。
現場にいるチームリーダーにまかせるのが一番いいのですが、近くにいるのでついつい口が出てしまします。サービスの基準はお客様が決めるので、いいチームであれば自分たちで判断できるので、任せる方がいい結果を出ます。
ぼくは、18年前に妻と子供の3人で店を始めました。店を開いて頑張った理由は、子供や妻のためです。しかし、従業員にぼくと同じように妻と子供のために頑張ってくれといっても心に響きませんし、通じるわけがありません。ぼくと従業員の目的は違うということに気付いたんです。そしたら、理念という共通の目的をもつしかないので、みんなで考えた「お客様の喜びは、自分たちの喜びである」というクレドを作りました。
理念がなぜ大切かというと、人それぞれ考えや目的が違うからです。だから共通する目的・理念が必要になります。2号店をつくったとき、理念がなかったのです。だから全員が辞めてしまったのです。ぼくは反省をして、OBを呼んで3名ぐらいからやり直しました。そのことがきっかけで、店が増え始めました。
ぼく自身、店舗を増やすことがいいことだとは思っていません。目の届く範囲があるからです。また、リーダーの成長も一定ではありませんし、それぞれに個性がありますので、店舗を増やすのは、リーダーの成長に合わせて増やしていきます。場合によっては減らすこともあります。
出店は「利益のため」ではなくて、「思いのため」に出したいのです。パリに店を出しましたが、海外に店を出すことはお金もかかりますし、出店のハードルがすごく高いので二度と出したくありません。
商業ビザを取るのは死に物狂いですし、博打です。しかし、あえて店を出すことをあきらめなかったのは、フランスに店があればスタッフがフランスで修行できるからです。自分はつらい思いをしてフランスで修行しましたが、辛い思いをしなくてもそれを実現できるからです。店舗は、スタッフのステージ作りです。お金の手ためにやっていたら実現しなかったと思います。
18年で日本に3店舗、フランスに1店舗、福祉事業をしていますので「手広く仕事をされていますね」とよくいわれます。それは、僕の信頼するスタッフがいてくれるからです。もし、リーダーがいなくなれば店を閉めますし、閉めた方がいいと思います。価値観を共有するリーダーがいなくなれば、いい仕事はできませんので、店をたたみたいと思います。
よく「育成術」とのことを聞かれます。育成術を学ぶのであればむちゃくちゃ福祉は役に立ちます。障害を持った子供が厨房にいますし、上の階にはテーブルクロスを持った障害者がいます。夕方になると、障害を持った子どもたちが放課後デーサービスにやってきます。京都には、チョコレート・焼き菓子の厨房があり、障害を持った方が働いています。
プロの職人が福祉をすることについて「補助金目的か?」とよく聞かれます。補助金を目的にしていたのでは、釣り合いませんし持ち出しになります。変な人達が、補助金目当てで変なことをしているので、変に見られているのです。思いを持ってやっていかないとお金がどんどん出ていくだけです。
福祉事務所をのぞくと、障害者のつくったお菓子やパンを並べて「買って下さい」と呼びかけている光景をよく目にします。ぼく達は、そんなことを一切しません。買わせて下さいという価値のある商品をつくれたらそれでいいんです。
プロが入って来なかったときは、自分たちの考えやレシピ、オペレーションでやっていたから商品価値が低かったのです。商品価値があれば、京都二条城、醍醐寺、アドベンチャーワールドのパンダチョコは、ぼくのところの商品が一番売れています。ですから、いろんな分野でプロの人たちが福祉に入ってくれば、工賃が上がりますから障害者の方が潤いますし、また会社自体が変わります。
障害者の方からいろんなことを学びます。障害者の方と一緒に仕事をしながら「お前、もっとパッパ、パッパと仕事しろよ」「もっと気をきかせろよ」「もう少し段取り良くやれないか」というようなことを絶対にいえません。その人の仕事が遅くても、その人があっちを向いていても、僕たちは待つことしかできないのです。
「なんで遅いのだろう?」「早く出来る仕組みづくりは、ぼく達の仕事」ということになります。障害者を指摘する指は、全部自分に向いてきます。「お前は」「お前は」ではなくて「自分は」「自分は」に方向が変わってきます。これがすごいのです。その子がミスをする。その子の仕事が遅い。指摘するのではなく、すべて自分のこととして受け止めるようになります。最初にお話したフーバーの「相手の立場に立って考える」という姿勢と同じになります。それを福祉から学ぶことができるのです。
ぼく達も福祉で利益を上げることは大変ですが、ようやく上げることができるようになりました。損を出している分野もありますが、利益を出しているところもあり、トータルでトントンになりました。これから伸びていくと思います。
この3年間福祉からお金以外の大切なものを充分いただきました。小さいときに何もできなかったぼくが、たまたまのきっかけでフランス料理の世界に入りました。福祉をやり始めた理由は、障害のある子どもたちに「きっかけづくり」をするためです。
胡桃の紋章がシェフとしての最高の紋章です。普通のシェフが着る服より2000円ぐらい高くつきます。本物を着て子どもシェフをしてもらっています。本物に触れて気付いてくれたらと思っています。
福祉によって職員やスタッフの持っている道徳観・人間性を成長させることができます。共に働くことも出来ますし、共に育むこともできると思います。
ぼくのやっていることは、まだまだ未熟で、これが正解ですよということはできません。ぼくは正直な話、「相手の立場に立って考える」「親の立場になって考える」ことはできても、障害を治すことはできません。子どもの障害を親が感じたとき、ものすごい衝撃を受けるのです。この衝撃が最も大きな障壁だと思っています。なので、障害を治すことはできないけれど、その障壁を少しでもなくすることができるかもしれないと考えています。
長時間ご清聴いただきありがとうございました。