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関西中小企業研究所第70回研究会のご報告

2016-08-31 10:42:35 | 中小企業

      人生は願った通りに実現する

                           金は必要なだけ降ってくる

 

        講師  株式会社A.L.C.代表取締役          西山  輝さん

 

 2016年8月22日にティグレの会議室で株式会社A.L.C代表取締役の西山 輝さんに「人生は願った通りに実現する お金は必要なだけ降ってくる」と題して講演していただきました。以下に要約します。

 

 

自己紹介

 

 今ご紹介いただいた西山 輝(あきら)です。普通は輝(てる)と読みますので、「西山輝(てる)さん居られませんか」と、勧誘の電話がかかってきた時には、「いません」と居るすを使います。西山 輝(あきら)という名前は気に入っています。生まれは1961年1月1日生まれで、生まれた時間は朝の4時です。今年56歳になりました。朝日が出て照らしたのが西の山ということで西山 輝(あきら)といい名前が付きました。大阪市大病院で二ヶ月半の未熟児で生まれてきました。保育器が大阪市大病院にしかなかったので、いま、命をつなぐことができています。大阪市大病院で生まれていなければ、ここにはいません。その意味では生まれたときから運がいいと思います。

A.L.C.という会社もしていますが、個人的にはライフビジョンプロデュ―サ―と名乗っています。「仕事は何ですか」と聞かれると無職だと応えています。仕事は「つかえること」と書きますので、私は「働く」方を選んでいます。働くとは「はたを楽にする」ということの方が、好きだからです。好きなことをして、その結果今日のテーマ「お金」に結びつけばいいと考えています。

お金を握りしめていたときは、しんどいお金の握り方をしていました。それを手放した瞬間に、お金が入ってくるようになりました。握りしめことで握れるお金は僅かです。握りしめることをやめて、広げると大きなお金が入ってくるということを、大きな失敗をすることで学びました。前半戦は、お金をテーマにしたお話をさせていただきます。後半戦は、すぐにから役に立つノウハウをお伝えします。コミュニケーションに関するゲームをします。初めての方とわずか数分で仲良くなれる方法をお伝えします。知っているという方もおられるかもしれませんが、覚えてか言ってもらえると役に立つと思います。そして、「なんで今、私の人生はうまいこといっているのか」をお伝えする三部構成でお話をしようと思います。

 

大学を出て7年目、上場を目指してコンサル会社を設立

 

関西大学を出て、税理士になりたかったので、会計事務所に勤めました。所長からいわれて、1週間かかる資料を5日で仕上げて提出しました。すると、消費税が昨日決まったのでつくり直しと言われてびっくりしたことを思い出します。法律がころころ変わります。法律に縛られて生きるのは嫌だという気持ちがありまいた。同時に、私は士業の人たちをとても好きでした。だから、一緒に仕事ができないかと考えるようになりました。そのためにはコンサルタント会社を経営して士業の人につなげればいと思いました。

けれども30年前のことですから、大学を出て3~4年の者が経営者になるのは至難の業でした。しかし、私の周りにけっこう優秀な経営者がいました。父親です。父親は自動車整備業界の仕事をしていました。当時は、この業界に携わる人の中に荒っぽい人が多くいました。父親に連れられて、会合に出ると背中にカラフルな人がたくさんいました。父親は、運輸省と連携し業界をリードするやり手の経営者でした。そこで、経営を勉強するために父親の会社に入りました。

会社に入り7年間一所懸命働いて、会社の売り上げを3割上げました。その方法はクルマを買うときに、助成金をとれるようにしたことです。当時は、企業内で研修をしたり、設備投資をしたら助成金がたくさん出ました。でも中小企業の社長さんは助成金のあることを知りません。社長さんに「お宅の会社の規模でしたら、助成金が200~250万円でますよ」と説明すると、社長さんは「助成金ってなにやねん?」と返ってきます。私が「国からもらえるお金です」と説明すると「なんで、国が金くれるね」と信用してくれません。社長さんに「信用しなくていいので、半年待ってください。半年後にお金が出たら、私の車買ってください」とお願いしました。実際に助成金が出て、車を買ってもらった社長さんは人に自慢します。だから、口コミであっという間に広がり、会社の売り上げが3割アップしました。

経営コンサルタント会社も立ち上げて、父親の会社の取締役までになりました。経営者の仲間入りができたので、新規に会社をつくり上場を目指して業界をよくするというビジョン建てて会社を辞めました。

バブルの時期でしたので、資本金6億集めて新しい会社を立ち上げました。父親にも協力してもらい3億3千万円を自分でつくり、残りを有名会社3社に9千万円づつ出してもらい6億円の会社をつくりました。上場するのであれば、本社は東京がいいということで浜松町につくりました。私は超大阪が好きで、東京まで飛行通勤しました。飛行機の席は、スパーシートを使いました。なぜかというと、誰よりも早く乗せてくれて、誰よりも早く降ろしてくれることと、朝食を陶器の器で食事ができるからです。往復8千円で時間と雰囲気を買っていました。バブルの申し子のような生活をし、よく働きました。銀座にもお金を落としました。銀座に行くときはバターを一かけら飲みこんでいきます。バターが胃に回り、2時間は酔わなくなります。得意先を接待してグデングデンに酔わせて商談を成功させました。2時間後には、ママさんに車を用意してもらい得意先の方には先に返ってもらいます。急性アルコール中毒になるくらい飲んでいますので、トイレに入り吐き出しました。死に物狂いで仕事をしました。

 

事業に失敗、2度自殺と離婚

 

上場目前まで来たところで、バブルがはじけました。

バブルがはじけた瞬間、大手の3社は素早い対応をしてきました。事業の破棄というと、契約違反になるので「事業の見直し」という提案です。「少し様子を見て、体制を立て直しましょう」と言います。事業から撤退するとは言いません。大きな事業になっていましたので、何もしなくても月に2千万円は掛かりました。1年間中断することになりましたので、2億4千万円が必要になります。維持するのは無理ですから、会社の整理に入りました。まず、事業を拡大するという名目で撤退資金を用意しました。全国的にチェーン展開していましたので、独立する方は独立していただいて、廃業する方には、違約金を手当てして会社を整理しました。1社も倒産させていません。残った借金が20億円です。嫁さんもいましたが、ほったらかしにしていましたので、離婚したいと言われました。保険金5千万円をかけていましたので、自殺してそれを嫁に残そうと会社の整理が済んだときに実行すると心に決めていました。

札幌支社を閉めるのが最後になりましたので、札幌に行きました。いつもであれば札幌グランドホテルに泊まりますが、。その日はススキノの場末のビジネスホテルです。広さは10平米ぐらいで洋室でしたが、部屋に梁(はり)が通っていました。「これはちょうどいい」と思い、浴衣のひもをほどいて、梁にかけて「えいや」と試みました。すると「バキ」と梁が折れましたその日は気持ちがなえてそれ以上できません。札幌支社をスケルトンにして返すことになっていましたので、翌週、もう一度札幌に行くことになっていました。

もう一度チャンスがありました。翌週はススキノグリーンホテルに泊まりました。今度の部屋は雪国だから、、壁から大きなコートハンガーありました。「今度はこれか」と思い、浴衣のひもをほどいて再度試みました。今度は失敗したらあかんと思い、ひもをかけてから3度引っ張って大丈夫だということを確認してから試みました。今度は壁が落ちてきました。「これは死なしてくれない」と思い、あきらめて借金の返済をすることにしました。嫁さんには、5千万円ぐらいの預金がありましたのでそれをわたしました。

 

「自殺と20億円の借金返済」のコンサル経営で再起

 

本気になると面白いもので、3年で20億円の借金を返しました。「自殺と20億円の借金返済」の話がネタになりコンサルタント事業がうまく行きました。当時、成果人事制度がはやりました。成果人事制度は、成果に応じて給料を支払うという制度ですが、まやかしがあります。20人の従業員さんがいるとして、成果の出た2人ぐらいの給料を上げて、成果の上がらない4人ぐらい従業員さんの給料を合法的に下げれるという制度です。結果的には給与の総額を低く抑えることができて、会社には有利な制度です。会社は儲かります。しかし、問題点は毎月人事考課をして計算することになります。そこで、簡単に計算できるソフトをつくりました。コンサルの顧問料1社50万円以上です。全国を走り回って儲けました。しかし、従業員さんの賃下げに手を貸していました。

目的のないお金を手に入れることになりますので、今度はお金に縛られます。夜中の2時に顧問先の社長から電話がかかってきます。「新地で飲んでいるので、来てくれ。困っていることがある」ということです。行きましたら、「新地のチィーママとできているのがばれて困っている」ので何とかしてくれという相談です。仕事とは関係のない話です。社長は「何でもするのと違うの。200万円も払っているから」と言います。仕方がないので「チィーママとできているのは、私ですねん。社長に店に連れて行きもらっいるうちにできてしまったのです」と社長の奥さんに電話して解決しました。

こんな仕事に疑問を持っていました。お金は十分にありましたが、先のことを考えると心配になり不安が募り、お金もうけに走っていました。再婚もしていまして、娘も二人できていましたので頑張っていました。しかし、「幸せであるような、ないような気分」でした。家族旅行でディズニー―ランドへ行きました。背広にネクタイを締めて、携帯電を持ってスペースマウンテンに並んでいました。休みも7~8年取っていませんでした。「自営業なので当たり前」と思っていました。休んだのは盲腸で命が危ないということで、手術の日だけ休みました。稼がなければならないという思いに囚われてひたすら働いていました。お金は大事ですが、お金のためだけに生きたらロクなことが起こりません。

 

再び、「父(とう)さんの会社を倒産(とうさん)」させる 

 

父親が10年前に脳梗塞を起こして寝込んでいましたが、会社は続いていて父親は会長、大番頭が社長をしていました。父親は10年も寝込んでいたので、アルツハイマーを発症していました。大番頭の社長も疲れたので社長を辞めたいと言っていました。父親から会社を継いでくれと頼まれました。「継いで欲しい、継ぐのは嫌だ」ともめましたが、自分も仕事をしているので断りました。そうしたら、父親が3階から飛びおりようとしましたが、母親と一緒になって、父親が飛び降りるのを止めました。そのことが起って仕方なく親父の会社を引く継ぐことになりました。

事業に成功している自分より、親父の会社のほうが大切なんだという親父に悔しい思いをしていました。同時に、「こんな会社ぐらい再建したる」という傲慢な気持ちと、2年ぐらいで再建して、売り払うという計算で引き受けました。そんな邪心を持っていたらうまくいきません。着任して1ヵ月目に、前任者が粉飾決算をしていることが分かりました。14ヵ月の粉飾決算でした。不正をしてポケットに入れてくれていれば、告発できるのですが、銀行の融資を受けるためにしていたことでした。自転車操業の会社でした。労働組合もあり社員の中に働く意欲はありませんでした。銀行が社長交代を理由に、会社の経理を精査し、粉飾決算が明らかになりました。融資がストップしました。頭を下げまくりましたが、8ヵ月で「父(とう)さんの会社を倒産(とうさん)させました」。「ここは、笑うところですよ」

倒産する3日前に一人対二十人の労働組合との団体交渉がありました。「アホ、ボケ」の一方的な罵倒をうけました。一人が罵倒して疲れると、次の組合員が罵倒を始めます。トイレと食事以外にこれが止まることはありませんでした。朝の9時から夜の9時まで続きました。3日目は午後の3時まででした。なぜなら、2回目の不渡りが出たからです。不渡りが出た瞬間、ロッカーやら机を壊して、パソコンなどは現物支給といって持って帰りました。

私は破産者です。普通、倒産する会社は弁護士を入れて、破産管財人を立てます。私は弁護士を入れませんでした。800台の車のリ―ス業をしていましたので、管財人を入れると800台の車が債権として押さえられます。そうすると、かりに10台車を借りていただいている会社は車を使えなくなり、最悪の場合倒産することになります。それだけは避けたいので、不渡りを出しても現金取引はできますので、車の受け皿作りに走りました。同業者に頭を下げて引き受けてもらいました。半年かけて解決しました。中小企業で七億の倒産ですが、1社も連鎖倒産が出ませんでした。迷惑をかけたのは、銀行と大手の取引先だけです。

倒産する前に、父親夫婦と妻と娘二人は逃がしていました。住んでいたマンションは、銀行に押さえられていました。組合が絡んでいるので組合に占拠されると困るので、銀行からの要請でそこに住んでいました。週末は、家族のいる所に帰っていました。家に帰ったときに、妻から離婚請求されて離婚しました。

 

再び、うつ病になり「死ぬこと」ばかりを考える

 

その日に家を出てマンションに戻りました。結果、半年間で燃え尽きてしまいました。そのとき、死ぬことばかり考えていました。

1ヵ月後、銀行に押さえられていたマンションは出ることになり、銀行が用意してくれたところに移りましたが、家賃は自分で払わなければなりませんでした。不動産はなくなりましたが、背広などの動産はたくさんありましたので、ネットカフェへ行き、ヤフオクで家賃と携帯代を払うお金だけは手に入れていました。ヤフオクに関しては本を出すくらいの知識がありましたので、3日間だけネットカフェに通い約12万円の収入を得ていました。

仕事はしていませんから、生活するお金がありません。しかし、お中は空きます。餓死すればよかったのですが、それもできませんでした。思いついたのが、自動販売機の下に落ちているコインを拾うことでした。自動販売機にコインを入れるのを失敗して、落としてしまったことがありました。当時は、背広を着ていたので、コインを拾うことができずに悔しい思いをしました。それを思い出したのです。自動販売機の下を10台ぐらい見て回ると300円ぐらい手に入ります。それを持ってコンビニに行きます。カップヌードル200円、缶ジュース100円で命をつなぎました。それを3日に1度ぐらいの割合で行っていたと思います。

その当時のことは、うつ病になっていたのでほとんど覚えていません。食べること以外は「死にたい、死にたい」の毎日でした。そんなときに、「007 カジノロワイヤル」のポスターが目に入りました。私は、「大阪ラバー」ですが、同時に「映画ラバー」でもあります。「この映画見て死のう」と思いました。お金がないので、久しぶりに携帯に電源を入れて仕事を探しました。1万円ぐらいのお金を手に入れて、最後の晩餐をして映画を見て死のうと思いました。

今度は失敗しないように、高いビルの屋上から飛び降りようと考えてそのビルも決めました。当日、ビフテキを食べ映画を見ました。映画館に入ると次回の予告篇がありました。今度はこれを見て死のうと思いました。そこでまた仕事に行きました。寝屋川にある魔法瓶の会社です。ゴミ拾いの仕事です。そこの従業員さんは、ゴミを私の頭の上からゴミ箱に捨てるのです。そのたびに頭の上からゴミが降ってきました。職業に貴賎はないと思いますが、さすがに心が折れました。私はここの魔法瓶を一生使おうとは思いません。もしも関係者の方がおられたらごめんなさいね。大丈夫ですか?

聞いたことがあると思いますが、うつ病が治るときが一番危険です。この経験をして、「自分はごみ以下だ」と思い、京阪電車の特急に何度も飛び込もみかけました。駅員さんにはがいじめにされて何度も止められました。今の生徒さんで私の教え子の方が、「あのときのおじさんですか!私、同じ電車に乗っていました」という方が現れました。世間は不思議です。

映画を見ることが生きがいになりました。派遣会社からの電話を受けるため携帯の電源はONにしていました。携帯はめったになりません。鳴るとしたら、派遣会社からの電話だけでした。派遣会社から「明日、来なくていい」という電話が入る場合があります。この電話を取り損ねると、会社に行って「何しに来たの」といわれます。そうすると、電車賃を損します。最悪の場合、連絡が取りにくいということで首になります。だから、携帯を必死で取りました。意地悪されていたのだと思いますが、留守番電話に伝言してくれませんでした。

 

「先生、いきているの?」と声がかかる

そんなときに、携帯が鳴りました。「先生、なにしているの?」という声が飛び込んできました。名前を見てみると、元気に仕事をしていたころのセミナーの生徒さんで、アシスタントもしてくれた優秀な子でした。「生きてるの?」と問うてきましたので、「ああ、生きているで」と返事をしました。「そしたら、明日食事に行こう」というのです。「ああいいよ」と返事をしました。

そして行ったら、会った瞬間、「焼き肉行こう」といわれました。羽振りの良かったときの記憶がありますから、「おごらなあかん」という頭がありました。焼肉屋に入ったら、彼女は「上ロース、上カルビ、上ミノと大ジョッキ2杯」と注文しました。とても払えません。謝る以外ないと思いまいた。大ジョッキが来て「乾杯」をした後、「先生、心配せんといて。今日は私がおごるから。先生、上ロース、上カルビ、上ミノ大好きやん。これ食べて元気出して。私世話になったから。成功させてもらいました。だから、セミナーして」といってくれました。私は、「こんなんで、セミナーできない」と断りました。

それから3日に空けず、かつての教え子から「ウナギを食べたい」、「今日は、てんぷらがいかも」と電話がかかってきます。誰一人としておごってあげるとはいわないのです。私のプライドを傷つけることのないように、気遣ってくれました。そして皆いいます、「セミナーして」と。「こんなおれでいいのか?」と聞きました。「今の先生の方がいい。人間くさくて」と返ってきました。それからセミナーを始めました。有難いことに、セミナー道具だけは売ってのかったのです。自分の人生を振り返って「ああ、これが私の役割か」と思っています。それから5年、月に25本の映画を見ています。なんばパークスあたりを毎日うろついています。今は、好きなセミナーしかしていません。好きなコンサルしか受けていません。しかし、お金は降ってきます。次から次へと。

 

必要なお金は、今、手にしている

 

私の髪の毛はちょん髷のようで、不思議な感じを受けていると思います。これは宣伝用の頭です。実は私、美容室を経営しています。3年前にある美容師さんに出会いました。私の生徒さんです。髪の毛とお話することができます。ですから、あなたの望む髪型にはなりませんが、髪がなりたい髪型になります。あなたの個性がでる髪型になります。この人の才能を伸ばしたいと思い、今、共同経営しています。美容室はけっこうお金が掛かります。しかし、パタパタと3ヵ月で必要なお金が降ってきました。自分のためではなくて、その美容師さんのために必要なお金は降ってきます。

私はお金に困ったことはありません。自販機の底をあさって得た300円のお金は、そのとき、私に必要なお金でした。もしそのときに1万円のお金を持っていたら死んでいました。ふらふらと外に出ていけば、どこかの屋上から飛び降りていました。2~3万円あれば東尋坊まで行って飛び込んでいたと思います。300円しかないので、家の前をうろうろしていたから、命がつながったのです。私にとって必要なお金はそのときは300円でした。だから私にとるって必要なお金が降ってきていました。

このことは皆さんも同じだと思います。お金はないのではなくて、あるのです。声に出さなくていいので応えてください。「皆さんの中で、携帯代払えていない人はいますか?」「家賃を払えていない方はいますか?」「水道代を払えていない方はいますか?」皆さんは払えていますね。そう考えればお金はありますよね。必要なお金は手にしているのです。しかし、「そうじゃない」と思い込んでいるのです。

まず、今はお金があって、幸せなんだと受け取って見てはどうでしょか?私は、いろいろと経験してみてそう思えるようになりました。「お金がある。住む家がある。仲間がいる。健康だ」 だから幸せだと思えるようになりました。ほかになにがいるのでしょうか?

そこからです。「お金は充分ある。今幸せだ。だからこの夢のためにもっと稼ごう」「社員のためにもっと稼ごう」「お客さんのためにもっと稼ごう」「そして、もっと幸せになろう」と思うようになりました。「お金が欲しい」「幸せになりたい」ということではないのです。

「お金が欲しい」というのは「お金がない」ということになります。「幸せになりたい」といういのは今不幸だということです。そうではなくて、「もっとお金をつくろう」「もっと幸せになろう」ということで、お金と幸せとをあふれさせて、周りを幸せにしていくという生き方をしたらすごく幸せです。

 

「今が幸せだ」ということに気付いてください

 

もう一つよく口にする言葉ですが、「来月の支払いどうしょう?」「来月の家賃どうしょう?」といいます。確率論的には、何ヵ月も何年も支払ができていたのに、来月だけ支払いができない可能性は極めて低いものです。しかし私たちはいつも「お金がない」とこぼしたり、「支払ができない」のではないかと不安にかられます。グチや不安で現実をつくりだしているだけなのです。打つ手は打って、やることはやっておけば何とかなるのです。「何とかなると」と思えるかどうかで人生が楽になります。人生が楽しくなりなす。

5年前に仕事を再開して、セミナー会社に拾ってもらいました。そのときに、みかんを出してもらいました。その3年前はみかんに困っていました。年末に、箱でミカンがお歳暮でと届きます。何箱も来るので腐らしていました。そのミカンは2年ぶりに食べるフルーツでした。果物好が好きなのですが食べたことがなかった。涙が出ました。泣きながら食べました。甘さと酸っぱさを味わいました。「あたりまえ」ではないのです。与えられているのに、感謝しないで「もっと」と求めてしまうのです。

「もっと」と求めた瞬間、足らなくなるのです。有難いと受け止めて、「周りの人のためにもっと」とエネルギーを変えたら幸せになれます。今日幸せであればそれでいいのではないでしょうか?明日になれば、また今日になるわけですから、幸せな日がまたやってきます。こんな男ですが、何かの役に立てばと思っています。この講演会に呼んでいただいて感謝しています。そして、一人でも二人でも「今が幸せだ」と思ってもらえたら幸せです。

10年前、お金があったころ、児童養護施設(孤児院)の支援をしていました。現在は施設にくる子の半分は被虐待児です。体中にビッシリと真っ白な斑点が付いている6歳の男の子がいます。母親のたばこのあとです。体中に隙間なく火の付いたタバコを押し付けられたあとが残っています。でも、その子供は「僕が悪かった」「ママに会いたい」と言います。そんな子が全国に3万5千人います。

「おっちゃん、『朝マック』ってどんな味?」と聞いてきましたので、ビックマックを山もり買って持っていきました。6歳の子が2つも食べれば、お中満腹のはずですが、えずきながら3つも4つも食べるのです。また買ってきてあげるからといいますと、「おっちゃんなんか信用できない。いま食べとかないとビックマックの味忘れてしまう」といいます。事業に失敗して、そのNPOも人手に渡りました。お蔭さまで、この11月から支援を再開します。大阪市の書類審査が通り、認定待ちです。児童養護施設の子供たちに貢献したいと思っています。好きなセミナーして、好きな映画見て、ボランティアができたらいいなと思います。そんな人生があってもいいのではと考えています。こんな男です。とても長い自己紹介をしました。ちょうど1時間です。何か質問はないでしょうか?

 

10分間で初対面の人と、とても親しくなるスキル

 

自己紹介だけで終わりではなくて、具体的に何かを持って帰ってもらいたいので、今からゲームをします。初対面の方でペアーをつくってもらいます。少し移動をお願いします。

「10分間で初対面の人と、とても親しくなるスキル」というのを紹介します。コミュニケーションの簡単なワークをします。2人1組の内、一人をAさん。もう1人をBさんとします。皆さんは「コミュニケーション」とよくいわれますが、「コミュニケーション」という言葉は日本語にはないのです。辞書によると「通信・報道と言語・その他による思想の伝達と交換」となっています。「通信・報道」が「マス・コミュニケーション」で、「言語・その他による」が「コミュケーション」ということになります。「その他による」というコミュニケーションが「ノンバーバル・コミュニケーション」です。言葉を使わないコミュニケーション方法です。たとえば、「この人とても良いことを言っているけれど、胡散臭い」というような場合です。「胡散臭さ」が伝わっています。これを「パーソナルコミュニケ―ション」といいます。行動科学では、「信頼関係を築くための相互理解とその手段」となっています。なんのためにコミュニケーションをとるかというと、相互理解をして「信頼関係を築くために」コミュニケーションをとるわけです。

今から、そのことを理解してもらい、「信頼関係を築くための方法」を手に入れていただけたらと思います。そのためのワークをします。会社で使ってください。誰がやっても同じ結果が出ます。

それでは、2人1組でAさんとBさんを決めてもらいましたので、AさんがBさんの「趣味、血液型、年齢、既婚・未婚、家族構成、好きな俳優・女優、好きな本など」を予想して当ててもらいます。AさんはBさんを見て想像してください。そして、Bさんの「趣味、血液型、年齢など」を当ててください。Bさんにも役割があります。反応をしないでください。「ふふん、Aさんはそう思うの」と心の中で反応してください。後から、交代します。

 

それでは始めてください。(2分経過)

 

それでは交代。BさんがAさんのことを当ててください。(2分経過)ハイ、終了。

 

これで終了するとお互いにモヤモヤするので、お互いに答え合わせをしてもらいます。ハイ、どうぞ。

 

ハイ、終了。

 

あっと2つやります。

 

AさんはBさんをほめてあげてください。Bさんの役割は、「もっと、ほめて」と催促してください。それでは、AさんはBさんをほめてあげてください。

 

ハイ、終了。

 

AさんとBさん交代してください。BさんはAさんをもっとほめてあげてください。ハイ、どうぞ。

 

ハイ、終了。

 

最後のワークをします。Aさんが自分のいいところを自慢する。Bさんは「それは素晴らし」「もっとないですか」と聞いてあげてください。ハイ、どうぞ。

 

ハイ、終了。2分経過しました。大学生にこれをやると2分もたないのです。

 

AさんとBさん交代してください。

 

ハイ、終了。お互いに拍手してください。どうです。まだ喋りたらんでしょう。

 

一人の人が喋った時間は6分です。二人合わせても12分です。12分でこれだけ仲良くなれます。初めての人がなぜこれほどまでに仲良くなれるのか?その種明かしをします。

3つのことをやりました。1つ目は、お互いに相手に対して興味を持ちました。ラポールをとれるといいます。好きな人ができたら興味を持つでしょう。それと同じです。いやな気持はしませんね。興味を持ち合うということがポイントです。2つ目は、相手のいいところをほめ合いました。プラスの所を見つけました。マイナスの所は見なくていのです。最後はプラスの自己アピールをしました。お互いに相手のいいところを見つけて興味を持っているので、お互いの話を聞きたくなるのです。このステップを踏むといい関係性ができます。わずか6分です。マイナスは必要ありません。プラスなので、にっこり笑って身振り手振りで自分を表現していましたね。これをコミュニケーションといます。これが仲良くなるコツです。

 

「意図」する生き方が成果を生み出すコツ

 

最後になりますが、成果を出すコツについてお話します。普通は、私の講演会でないと話はしないのですが、高木さんの紹介なので成果を出すコツをお話します。

今日は、赤いネクタイを締めてきました。頭もちょん髷にしていますが、年齢が高い方が多そうだったので、髪の毛を少し寝かせてきました。あなたはどんな意図でその服装を選んで、どんな意図で毎日を過ごしていますか?なにをつくり出すためにその服装でなければならないのでしょうか?意図したことしか起こらないのです。たまに意図したことが降ってきますが、それをあてにしたらしんどいので、成果を出すために意識的に意図しているでしょうか?明日から、服装を選ぶのにどんな一日にするのかということを意図してください。「どんな一日にするか?」「誰を喜ばす一日にするのか?」朝に意図することで人生が変わります。

私は何十年もそうして生きてきました。だから、お金を意図した瞬間にお金につぶされました。意図がずれたときの怖さも知っています。でもちゃんとした意図を持てばその通りになります。「お金はなんのために使うのか?」と問い、「天才的な美容師を世に出すために使う」と決めたら、お金が手の上に乗ります。彼女で儲けたろうと思ったらお金は手に入らなかったと思います。「髪の毛と話ができる美容師さんがいます。美容院にきませんか?」「個性的な髪の毛になりますよ」と営業しています。私の美容院はご新規さんがたくさん来てくれます。一度きたご新規さんは、必ずリピーターになります。一番遠い人はロサンゼルスから来ます。そんな美容院を経営してことは素敵でしょう。だから意図して宣伝しています。それではあなたは、日々どれぐらい意図して言動しているでしょうか?

 

「コンテキスト」、「在り方」がきまればお金は降ってくる

 

実はもう一つ大事なことがあります。ネットビジネスではコンテンツが重要とされています。SNSでどんな情報を発信するか?インターネットで、アメブロで、facebookで、ラインで。これからはライブドアブログがトレンドになるようです。少し前まではどんなホームページをつくるかということが問題でした。今はどんなコンテンツをつくるかが大事になってきています。これは正しいのですが、ちょっと違うような気がします。

一番たくさん儲かっているのはインターネットをつくったアメリカではないですか?コンテンツをつくってもそれを配信する機能がなければコンテンツは役立ちません。その枠組みのことを「コンテキスト」といいます。「コンテキスト」を整備した人が一番成果をあげています。これを「あなた」という人に置き換えたら、「在り方」になります。どんな枠組み、を持っているのか、どんな在り方をしているのかという事になります。だからあなたの枠組み、あなたの在り方、あなたの生き方が信用されているから、あなたがしゃべる「コンテンツ」が信用されるのです。

極端ないい方をすれば「枠組み」さえ持っていたら、コンテンツは何でもいいのです。私は破産しましたが、50年かけて「コンテキスト」をつくってきましたので、美容院をつくるためにちょっとひねったら、何百万円もの金が降ってきます。今月、新しいNPOをつくるための何億円ものお金を用意しました。確実に3年後、自分のお金ではないですが、何億円かのお金を手にしています。NPOのために。それは枠組みがあるからです。

それではあんたの枠組みは何ですか?あなたは「いったい、だれ」なんですか?あなたとは「いったい、なに」なんですか?あなたは、「この人生でどんな役割があるのでしょうか?」見直してください。「なんのために、生かされているのか?」それが明確になればなるほど、コンテンツが湧いてきます。そして、あなたの欲しいものが手にできます。あなたが「いま、ここに生きている限り」役割がありますし、目的があるはずです。このことを伝えるために「意図して」ここに来ました。偉そうなことを申し上げましたが、それが「仕事で仕える」ということではなくて、「働く」ということだと思います。「働く」とは今回の人生での役割のことです。「あなたは、だれ」「あなたは、なんのために生きているの?」「あなたのこの人生での役割は何か?」ということを最後の質問にしてお話を終わりたいと思います。ご清聴ありがとうございました。

 

質問  西山さんの半生記を聞かせていただいて胸に迫るものを感じました。特に「焼き肉をおごってもらうシーン」は目に浮かぶようでした。初対面の人と仲良くなるワークをしてとても盛り上がりました。自己紹介の部分が長くて、大丈夫かなと思うこともありましたが、「自己紹介の部分」と「ワーク」の関係は意図されていたのでしょうか?

 

回答  自己紹介で自己アピールしています。「人生は願った通り実現する 必要なお金は降ってくる」は興味を引きます。ちょん髷頭と風貌でなにをしゃべるのか期待が膨らみます。自分をすべてさらけ出しました。プラスもマイナスもない自分の姿です。面白いし、楽しいし、さらに興味を持ちました。そしたら、明日からどうするの?人はいい話を聞いたら、自分は何をしたらいいか、行動したくなります。しゃべりたくなり、発信したくなります。そこで、「初対面の人と仲良くなるワーク」をいれました。興味をひて、楽しくなってもらうためにワークを入れまいた。3つに分かれていますので、最後に一番いいたい「コンテキスト」の話をしました。もしも「コンテキスト」の話を最初に持ってきても理解も、共感も得ることはできなかったと思います。

 

 

質問  西山社長にとって事業の失敗とはなんでしょうか?

 

回答  ごう慢ないい方になりますが、「失敗」はなにもありません。この人生があり、この役割があるので失敗だと思ったことはありません。ただ、会社を倒産させた、まっただ中にいるときは、失敗したと思いました。その経験があったから今があります。その意味で失敗はありませんが、もしあのとき、死んでいたら失敗といえるでしょう。

 


関西中小企業研究所 第70回研究会のご案内

2016-08-22 12:55:47 | 中小企業

『人生は願った通りに実現する
 お金は必要なだけ降ってくる』

波乱万丈とはこのような人生を言うのでしょう。

西山輝さんは27才で独立。バブル時代は資本金6億の会社を経営していました。

上場をめざしますがバブルが弾けます。20億の借金を抱えて首つり2回…。

しかし、死なせてもらえず、腹をくくったら借金は3年で完済。

その経験を活かして売れっ子の経営コンサルタントになりましたが、父親が倒れ、あとを継ぎます。

しかし、前任者の不正があり倒産。家族も家も仕事もなくし、ゴミ拾いから3年かけて再起します。

現在は人財活性化コンサルタントとして社員活性化研修・人事労務改革を中心に

250社を越える指導の実績があります。七転び八起きのすさまじい人生を語っていただきます。

皆様の奮ってのご参加をお待ち申し上げます。



日時:2016年8月22日(月)午後6時~8時

場所:ティグレ大阪会議室
      〒540-0012 大阪市中央区谷町2-6-4谷町ビル8F TEL.06-6966-1866

テーマ:『人生は願った通りに実現する  お金は必要なだけ降ってくる』

講師:株式会社A.L.C.代表取締役 西山輝さん

西山輝(にしやま・あきら)さんプロフィール 

●「人生を幸せに生きるためには、夢やビジョンが必要です。しかし現代社会でのストレスでそれを見失っている人が大半です。自分を認め、自信にあふれた自分になるサポートをします。」

●1983年 関西大学経済学部 卒業
●1992年 株式会社A.L.C.設立、代表取締役に就任。

会費:2,000円(研究所正会員は1,000円引き)

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関西中小企業研究所 第69回研究会のご報告

2016-08-10 10:36:28 | 中小企業

 

  現代の日本人におくる渋沢栄一の遺産

  講師 株式会社システムユニ代表取締役 岡田 敏明さん

 

自己紹介

 

 初めての方もおられますので、さらっと自己します。

宇和島ってご存知ですか?愛媛県の宇和島が出身地です。伊達藩です。正宗の長男で、秀宗が藩主で10万石の狭い所です。50年前の景色が写真にのこされています。段々畑の狭い所に住んでいる日本人に日清戦争で、中国は負けました。孫文は瀬戸内の景色を見て、「耕して天に至る。以て貧なるを知るべし。以て勤勉なるかな。」「しかるに我が国土広大なるも、国力において劣れり。」という詩を残しています。これが、日清戦争に負けた理由だと述べています。これからの50年、若い人たちがどのように未来を見つめているのか気にかかるところです。今愛媛大学工学部で教えていますが、いまの二十歳ぐらいの人には未来が見えなくなっています。大人が未来(将来の希望)が見えなくなっていますので、子ども達も見えなくなっています。

 私は昭和53年、大学を出まして大王製紙に入りました。私が入社したときは、四国の小さな2400人ぐらいの会社です。その後、エリエールというブランドを出しました。数年前に皆さんご存知の事件が起こりました。私は43歳で退職しましたが、その3年前40歳のときに福島県いわき市で大王製紙のリサイクル工場及び運送会社の立ち上げを任されました。創業の経験をさせていただき、短期間であまりにも上手くいきすぎましたので、本社に戻って来いということになりました。ワンマン社長で二代続くオーナー会社です。30数年前に石油に頼る発電を続けていれば安定しないというので、製紙会社では石炭で発電するシステムを日本で一番早く導入し、週休二日制も早くから導入しました。ワンマンでものことが早く進むという利点はあるのですが、誰も発言しないという風土が会社に生まれます。そこで、2代目社長(オーナー)より私が若い社員を集めて、次を担う社員をつくれという課題を与えられました。目的は「問われなくても自分の意見を述べる社員」つまり「おかしいことはおかしいという社員」を生み出すということ。装置産業ですが、常に社長は「インビジブル アセット(見えざる資産)」つまり「決算書に現れない財産(人的資産)」を大事にしようといわれていました。(一年間様々な取り組みをしてきましたが)残念ながら体調を崩し、44歳で退職、無職になりました。嫁さんと娘二人を抱えて路頭に迷うことになります。弾は前からだけではなくて、変な弾が後ろから飛んできました。これでは身が持たない。大きな成功体験をした会社は変わりたくないという風土を同時に生み出していました。

 四国で43歳で無職になると再就職の可能性はありません。やむを得ず、創業、会社のたち上げしました、在任中、人事や営業会社経営を経験しました。予想どおり、そんな部長級の経験者を四国の中小企業どこも採ってくれません。そこで会社を立ち上げることにしたのです。退職して十数年後、創業者の孫(5代目社長)が逮捕される大王製紙事件が起こりました。その1ヵ月前に2代目社長(オーナー)と逮捕された息子(前社長)に偶然、会いました。12年ぶりでした。不思議だなあと思っていると逮捕ニュースが流れました。

 いまの仕事につながっているのは、三洋電機さんです。三洋電機も今はパナソニックに吸収されてなくなってしまいました。かって新幹線岐阜羽島駅の近くにに三洋電機さんのからテレビ工場やデジタルカメラ工場がありました。テレビは中国にいきましたが、デジカメはせめて5~6年生き延びたいと依頼され生産管理システム構築の支援をやった結果。5~6年生き延びました。その後中国に移転しましたので、私たちも中国に行きました。私ども会社(システムユ二)の中国事務所杭州で多くの中国企業の経営者にあいました。その中で印象に残っているのは当時30人ぐらいのジャック・マー(アリババ創業者)氏です。今思えば上から目線でアドバイスをしてように覚えています。当社の顧問(日本人)も交えて食事も何度かしましたが、本当に人の意見をよく聞く人でした。彼は2~3年前に二ュ―ヨークに上場して10兆円?を手にしました。うちの奥さんから「あなた、なんぼか出資したの?」と聞かれましたが、ゼロです。大阪から中国へ行ったコンサルタントで彼に出資した人は多分いなかったと思います。

 その後、日本国内各地でも「工程管理・生産管理とIT導入」について講演会・研修会をやってきました。その講演会は経営者及び中小企業診断士・会計者などの先生向けのものでした。

 その時「このままいけば、次を担うモノづくり人材がいなくなりますよ」と言ってきました。その理由は私の経験に基づいています。

モノづくり人材育成と生産管理システム導入支援を、ここ10年あまりやってきましたが、必ずしもうまくいきませんでした。大学・企業などでモノづくり教育はしてきましたので、成果はゼロではないと思います。しかし、ほとんど生産現場で大きな成果に結びつかなかったのではないかと反省しています。その理由の一つは日本の生産現場に人と人・工程と工程を繋ぐ人がいなくなったことが挙げられます。モノづくりの現場があり、そこにIT導入しようとしています。でもかっていたベテランと言われていた人たちが第一線から去り、工場を立ち上げる、新製品を出す、人を教育する、そして工程管理・生産管理を教える人がいなくなっています。そうした現状で工場のIT化が進められています。工程全体を見直してITを導入できる人がいない中での導入は現場及びシステムがバラバラになり構築運営とも失敗となります。

そうした見通しから、工程管理とIT化を同時にできる人を生み出そういうのが10年前から始めた講演会・研修会及び会社設立目的でした。現在においても生産現場の工程管理とIT部門の相互の意思疎通を図り、システム管理をやる人材と組織作りに力を注いでいます。以上が私の略歴です。

ドラッカーと渋沢栄一

 ドラッカーと渋沢栄一について話を進めたと思います。ドラッカーは亡くなる前に、日本人はもっと渋沢栄一に学ぶべきだと言い残しています。明治維新からの日本の歴史を学び直して欲しいというのがその遺言でした。渋沢栄一について皆さんがご存知のことをお話して、その後にあまり知られていないエピソードを紹介します。そして、最後にまとめの話をします。渋沢栄一を象徴する言葉は「論語とそろばん」でしょう。儲けるだけではだめで、儒教精神に基づく道徳精神が必要だと説いています。渋沢栄一は第一国立銀行をはじめ500余りの企業の創立に関わりました。大学の建設をはじめとして600以上の公共事業を推し進め、福祉施設の設立、そして国際親善にも貢献しました。ある意味奇跡のような人でした。

 はじめに、明治維新時の渋沢栄一を紹介します。次に、渋沢栄一の生涯を見ていきます。3つ目に、その事業と遺産。最後に、現代に通じる「論語とそろばん」を解説します。

渋沢栄一を一言で表現するエピソードを見つけました。1931年11月11日に渋沢栄一が亡くなりました。昭和天皇より弔意を賜っています。「高ク志シテ、朝ニ立チ、遠ク慮リテ野ニ下リ、経済ニハ規画最モ先ンシ、社会ニハ施設極メテ多ク、教化ノ振興ニ資シ、国際ノ親善ニ務ム。畢生(ひっせい=一生)公ニ奉シ、一貫誠ヲ推ス。洵ニ経済界ノ泰斗(尊敬される人)ニシテ、朝野ノ重望ヲ負ヒ、実ニ社会人ノ儀型(手本)ニシテ、内外ノ具贍(ぐせん=尊んで仰ぎ見る)ニ膺(アタ)レリ。遽ニ溘坊(コウボウ)ヲ聞ク、曷(イズクン)ソ軫悼(シントウ)ニ勝ヘン。宜ク使ヲ遣ハシ賻ヲ賜ヒ、以テ弔慰スへシ。右御沙汰アラセラル。」というものです。この一文を持って渋沢栄一の一生を見ることができます。

一部を口語訳します。「大蔵省に勤めていて、野に下り、最初に経済を起こして、社会に多くの福祉施設をつくり、教育、国際親善に尽くした」というものです。

また、渋沢栄一は書を残しています。渋沢栄一の心情は「士魂商才」という言葉にあらわれています。

ドラッカーは明治維新について「人類史上例にない偉業であり、明治維新の探求が、私のライフワークになった」と言っています。明治維新について次のように評しています。「20世紀も終わりに近づいて、無数の独立国ができたが、それは全部日本のまねであった。これらの独立国の共通点は、全部自分たちで政治をやりたいということ、そして外国の優れた技術、制度、法律を入れようということであり、それは日本の明治維新のまねであった。だから、20世紀に本当に政治的に成功したのは日本だった。」

私たちは、日本の近現代日についてこのように教えてもらっていません。ドラッカーの目線では欧米世界から日本を見るとこのように見えると言います。欧米から見ると日本はとんでもなく腹の立つ国です。白人主導の世界をつぶした唯一の国でもありますから。

2011年3.11(東北大震災)以降の5月に早稲田大学の小野梓(自失的な早稲田大学創業者)講堂で第6回ドラッカー学会の総会が開催されました。毎年ドラッカ―学会は小野講堂で開催されています。ドラッカーさんは1996年に亡くなっていますので、奥さんのドリス・ドラッカーさんからメッセージをいただきました。「ピーターはなくなる直前、日本の明治維新について本を書くべく概要をまとめていました。どんな本にしたかったかは知りません。しかし、ピーターは生前、『お書きになったもののうちでどの本がべストのものですか?』と聞かれると、決まって『次のもの(ネクスト・ワン)』と答えていました。亡くなった時には、その明治の本が『次のもの』でした。それはピーターの遺作になるはずのものでした」

奥さんのドリス・ドラッカーさんは、3・11についてもメッセージをくれています。何度も困難に見舞われているけれども、日本人は必ず立ち上がる素晴らしい民族であると。

続けて次のようなメッセージをいただいています。「体調を崩し、帰らぬ身となってしまったために、この明治についての本は屯挫しました。しかし、あらましを見れば、彼がなぜあの時代に心を惹かれてのかが分かります。明治は特別な時代でした。しかも桁外れに大きな意味を持つ時代でした。なぜなら明治こそが、『日本』という土台の上に『近代社会』を築くことができたからです。日本以外に、自らの伝統の上に近代を築くことができた国はありません。自らが必要とするものを選択し、それを自らの制度と機関にするうえで日本ほど卓越した能力を持つ国はありません。しかも、日本にとっては、そのようなことは決して目新しいことではありません。何回も何回も成功してきたのです」

ドラッカーは次のように述べています。「私はこれまで、『世界史』を生み出してきたものは日本の明治維新だったと繰り返し言ってきました。それまでの歴史は西洋の歴史だった。そして、今日の『世界の経済』を生み出したものが、最近における経済大国としての日本の興隆だった」「世界には、もうこれ以上の均質性はいらない。必要なのは、多様なモデル、多様な成功、多様な価値観である」

もう繰り返しませんが、明治維新についてのドラッカーのメッセージが皆さんにも伝わったのではないでしょうか。明治維新について、特に渋沢栄一について学んでほしいというのがドラッカーからのメッセージです。

渋沢栄一とはどんな人

 渋沢栄一とはどんな人かというと、次のような言葉を残しています。「もし、一身に富まんとするごとき私心があるならば、維新の洪業もかくのごとくに遂げられなかったであろう」(渋沢栄一「処世の大道」)これはなにを言いたいかというと、「維新の元勲らに、自ら富まさんとする念なく、国家を思う念が先に立ったについては、私の考えるところでは、『孔子経』の感化に与って力があったように思われる」と述べています。江戸時代は、孔子の教えを学んでいました。それが明治維新の原動力になったと渋沢栄一は見ています。

渋沢栄一は「論語とソロバン」といいましたが、基本的にはこの論語は陽明学です。陽明学というと上杉鷹山、中江藤樹、山田方谷、安岡正篤さんなどに繋がってきます。

 渋沢家は分家ですが、大変な豪農です。男の子がいなくてお母さんは家付きの娘でした。本家の方から従兄弟が婿入りします。それがお父さんになります。父の姉の夫が藍香さんです。渋沢栄一は藍香さんからいろいろと学びます。藍香さんは惇忠(じゅんちゅう)さんともいい、のちに富岡製糸場の初代場長になります。

渋沢栄一は14歳から仕事をしていまして、染物の藍染めをする藍玉の買い付けに出かけていました。買い付けに行く先で、仕事上の的確な指摘をして、子どもながらにしては、商才があり一目置かれていました。17歳のときに、父親に代わって岡部藩の陣屋に出向きます。藩から「御姫様の婚礼一式の金を出せ」と言われます。それがあまりにも傲慢だったので、渋沢栄一は怒ります。父親からは、長いものに巻かれろと言われますが、最後までこんな連中は許せないということで、これが倒幕につながります。京都に行っていた親戚から情勢を聞かされて倒幕を断念します。武器弾薬を買い込んでいましたが、これを廃棄します。形式上親に迷惑がかかると親子の縁を切り、家を出ます。

その後、一橋家の重臣平岡円四郎と縁ができて一橋家に雇われることになります。その後、慶喜の弟の昭武に随行してパリ万博に出向きます。ナポレオン三世の一番華やかなときです。この時に、後に企業を起こすヒントを得ます。持っていった費用よりも多くのお金を持ち帰りました。理財の才覚が当時からありました。帰国したときには、すでに幕府は潰れていました。静岡で隠遁している慶喜のもとで、商工会議所をつくり活動しはじめます。

その後、大隈重信に口説かれて大蔵官僚になります。その後、官僚を退きます。軍の予算が理由なく増え続けることへの反発が原因です。

渋沢栄一の残した功績で有名なのが国立第一銀行の設立です。これは国の銀行ではなく、法律に基づいてできた最初の民間銀行です。岩崎弥太郎とは仲が悪かったようですが、あとを継いだ久弥、小弥太は仲が良かった。弥太郎は会社を始め、全部自分のものだという考えを持っていました。しかし、人材登用については大事にしていました。渋沢栄一は500以上の会社をつくりましたが、大阪で有名なのが大阪紡績でいまの東洋紡や、京阪電鉄です。

80歳を過ぎたころから、日本はアメリカとの関係が悪くなり、アメリカとの間を取り持つために民間外交をやります。そして何度もアメリカへ行っています。インドのタゴールを日本に呼んで、世界に紹介しました。タゴールがノーベル賞を受賞するきっかけをつくりました。

東京都北区飛鳥山に渋沢栄一の記念館があります。一度詳しいことを聞こうと訪問しました。その時学芸員は「渋沢栄一については詳しいのですが、その周辺の人についてはあまり知りません。栄一の功績があまりにも多肢にわたり栄一だけで精一杯です」と言われていました。

ドラッカーは渋沢栄一のことをどのように見ていたのか?「彼は経営の本質を責任だと見抜いていた」と評しています。ここで言う責任とは「社会的責任=社会に対して責任を果たすこと」のことです。ドラッカーは言います。「卒直に言って私は、経営の『社会的責任』について論じた歴史人物の中で、かの偉大な明治を築いた偉大な人物の一人である渋沢栄一の右に出るものを知らない。彼は世界のだれよりも早く、経営の本質は『責任』にほかならないことを見ぬいていたのである。」つまり社会を壊すような経営はだめだ。ということです。どうでしょう。今や世界や日本でも社会を壊すようなマネジメントが横行しています。ドラッカーは続けて説きます。「日本は社会を中心にして成り立っている国だ。その土台がなくなれば、日本という国はなくなる。お互いに助け合う、お互いに話し合う。お互いに協力し合う。いい意味での、貧しくても分かち合う社会が日本の特色だ。」と言っています。

私利を追わず公益を図る

ドラッカーは岩崎弥太郎、福沢諭吉についても評価をしています。その中でも一番すごいのが渋沢栄一だと言っています。ドラッカーはさらに続けています。「企業と社会は、企業の経営の健全性について共通の利害を有する。企業の経営の失敗は国民経済を害し、ひいては社会の安定を害する。社会は、優れた経営陣だけが実現することのできる価格政策、雇用、人事、マネジメントを必要とする。」だから、明治維新から学ぶ必要があると。

渋沢栄一は事業の心得を「①その事業が道理に正しいか、②時勢に適しているか、③人の和を得ているか、④自分の分にふさわしいか」の4つだといいます。今の経営者はこの質問にすら応えられていない人が多いではないでしょうか。

渋沢栄一は故郷を出て一橋家の家臣になります。それがフランスに行くきっかけになります。それはのちに東の渋沢栄一西の五代友厚と言われた五代若いときにイギリスに行き、日本の近代化の道筋が見えたように、フランスで日本のあるべき姿が見えてきたのではないかと思います。

渋栄一は大蔵省に入って4年で辞めてしまいます。「官尊民卑」の時代ですから、仲間たちから「お前であれば大臣になれたのに、どうして辞めるのか」と言われます。これがまた反発心に火をつけることになります。「なぜ、民で悪いのか」と言い返します。渋沢栄一の生涯を通じての基本理念は「論語」の精神(忠恕の心=真心と思いやり)であり、単なる利益の追求ではなく、「道徳経済合一説」による日本経済の発展でした。

論語に

(孔子)曰く「参(しん)か、吾が道は一以(いつもっ)て之(これ)を貫く」

曽子曰く「唯(い)」。

子出づ。門人問うて曰く「何の謂(いい)ぞや」。

曽子曰く「夫子(ふうし)の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ」

あるとき孔子が弟子の曽子に向かって「私は今までの長い人生を通しての生き方においての根本は終始一貫して変わるものではなかった。」と言われた。
 それを聞いて曽子は「唯」と応えただけであった。
 孔子はこの「唯」の言葉を聞いて黙って講義の席を出られた。
 この時、同席の他の門人たちは二人の問答の意味を理解できず、「『師が、吾が道、一を以って之を貫く』と言われ、あなたが『唯(い)』と応えられたが、それはどういうことなのですか?」と問うた。
 曽子はこれに答えて、「師は、吾が道、一を以って之を貫くといわれたその道とは、思いやりと慈しみの心である忠恕(真心)なのだ」と説明して聞かせた。

渋沢栄一はさまざまな会社を立ち上げました。しかし、自分のものにしなかった。ある意味渋沢栄一の存在は奇跡です。なぜその奇跡が起きたのか?その理由は論語にあったと思うのです。

渋沢栄一は一橋大学を設立するときにいろいろな邪魔に合います。1875年に商法講習所(のちの一橋大学)が東京会議所の所管になったときに、帝国大学との合併案が出ました。当時帝国大学は1つしかありません。渋沢栄一はあくまでも単科大学の昇格をめざしました。その理由は、①、帝大が実業を軽視していること②、帝大が商業を軽視していること③、帝大が学閥を形成して権力を掌握していることをあげて、渋沢栄一は合併案に反発しました。

渋沢栄一が三井高福、岩崎弥太郎、安田善次郎等の明治の財閥創設者と大きく異なる点は「渋沢財閥」をつくらなかったことにあります。「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、後継者の敬三にもこれを固く戒めました。日本煉瓦製造株式会社の例がそれをよく示しています。1887年に日本煉瓦製造株式会社が設立されました。レンガの製造は予想に反して伸びず、臨時建設局が廃止されることになりました。経営は苦しくなり、出資者達は出資金の返済を渋沢に迫ります。渋沢は返済に応じます。渋沢栄一は将来必ず日本にとって必要になる事業であると確信していましたので、社員を励まし会社を継続。そのために、借金を重ね苦労します。やがて1899年、会社の業績が回復、東洋一のレンガ会社と呼ばれるようになりました。かつての出資者達は、渋沢栄一に株の配分を求めました。渋沢栄一はこれに応じます。出資者たちの態度は本来、責められるべきもの、拒否に合って当然です。ここに渋沢栄一の「私利を追わず公益を図る」という生き方が貫かれています。五男の作家秀雄さんは渋沢栄一が「(息子たちへ)私がもし一身一家の富を積もうと考えたら、三井や岩崎にも負けなかったろうよ。(ここは笑いながら)これは負け惜しみではないぞ」と語ったと伝えています。

関東大震災と天譴論

1923年(大正12年)83歳のときに、渋沢栄一は関東大震災に遭遇します。民間団体の協調会で復興のために奔走します。団体の長は宮様ですから、副会長で実際の責任者として実務を取り仕切ります。その時にアメリカら相当の義捐金が来ています。

関東大震災の17年前、映画にもなりましたが、1906年にマグニチュ-ド7.8のサンフランシスコ大地震がカリフォルニア州フランシスコ周辺を襲いました。渋沢栄一は先頭に立って義捐金を集めて、アメリカに送ります。世界中で最も多くの義捐金を日本からアメリカに送り、多いに感謝されました。

渋澤は1902年(明治35年)以来4度の渡米で、全米を訪問し多くの友人がいました。しかし、明治の終わりごろからカリフォルニアを中心に日本人の排斥が始まっていました。そのことを渋沢栄一は憂いていました。ジャガイモ飢饉をきっかけにアイルランド系の人々がかなり遅くなってアメリカに渡ります。東部はアングロサクソンを含めてドイツ系の人たちがすでに占めていました。中部へ移動し、西海岸にやってきます。西海岸に来るとすでに日本人がかなりの土地を開拓していました。実はこれが日本人排斥の発端だと言われています。今、私たちはこのことを忘れています。

1923年9月1日の正午近くにマグニチュード7.9の大地震が関東地方を襲いました。直後に発生した火災や津波のために約10万人の犠牲者が出ました。首都圏は壊滅的な打撃を受けます。渋沢栄一は東京日本橋の事務所で震災に遭い、やっとの思いで自宅の飛鳥山に戻りました。この震災でその後の日本の社会は変わったと言われています。

83歳の渋沢栄一は豊富な経験を生かし、民の力を結集して震災復興に挑戦します。震災当日に組閣した山本首相は前東京市長の後藤新平を内務大臣に起用します。後藤は内閣信任識から戻るとすぐに震災復興のための4大原則を発表します。その内容は、①遷都はおこなわない、②復興の予算は30億円。現在のお金に直せば何兆円でしょうね。③先進国の都市計画を取り入れた日本にふさわしい新都を造る、④そのために地主に対しては断固たる態度をとるというものです。

先に述べましたように、渋沢栄一は後藤新平と協力して民間の力を結集した協調会を造り震災復興にあたります。東京を欧米に負けない素晴らしい都市に造り変えるチャンスだったわけです。しかし、実際は当初予算が10分の1に削られて実現しませんでした。もしも実現していたら素晴らしい東京ができていただろうと言われています。サンフランシスコ大震災のときに義捐金を日本からアメリカにおくっているので、震災4日後にアメリカから義捐金が届いています。

関東大震災後に日本の言論界に、世の中の風潮が利己的、放漫になったときに自然が天罰として大震災を起こす天譴論(てんけんろん)が流行します。この口火を切ったのが渋沢栄一です。

「大東京の再造についてこれは極めて慎重にすべきで、思ふに今回の大震災は天譴だとも思はれる。明治維新以来帝国の文化はしんしんとして進んだが、その源泉地は東京横浜であつた。それが全潰したのである。

しかしこの文化は果して道理にかなひ、天道にかなった文化であつたらうか。近来の政治は如何、また経済界は私利私欲を目的とする傾向はなかったか。余は或意味に於て天譴として畏縮するものである。」

私利私欲が横行していた明治以来の政治・経済は天道にかなっていたかという疑問です。

渋沢栄一の精神は「論語とソロバン」ですから、公益を追求し、事業を遂行するために、最も適した人・モノ・カネ・情報を幅広く集め組織化するというのものです。渋沢は関東大震災からの「精神の復興」を呼び掛けました。

論語とソロバン

 大正5年(1916年)に渋沢栄一は「論語とソロバン」を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ちだしました。また「論語講義」を著し、詳細に論語を研究し解釈しています。それを読みやすく現代風に解説しているのが竹内均氏の「渋沢栄一論語の読み方」です。ぜひ買って読んでください。渋沢の根本の考え方は「富をなす根源は何かといえば、仁義道徳。正しい道徳の道がなければ、その富は完全に永続することはできない。」というものです。私も会社を経営していますので、綺麗事ばかり言っていたのでは経営は成り立ちません。そのバランスをとる所が大変です。

論語の中に、『葉公、孔子を子路に問う。子路対えず(こたえず)。子曰く、汝(なんじ)奚ぞ(なんぞ)曰わざる(いわざる)。その人と為りや(なりや)、憤(ふん)を発して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老いの将に至らんとするを知らざるのみ。』の一説があります。葉公が孔子について弟子の子路に問います。答えられなかった子路にたいして孔子は「お前はどうしてこのように言わなっかたのか『道を求めて得られないときには自分に対していきどうおりを起こして食事を忘れ、道を会得しては楽しんで心配事も忘れ、そこまで老いが迫っているのもきづかない人だ』とね。」と言ったとあります。

これを受けて渋沢栄一は『人間は死ぬまでは国民としての辞表は出さぬものであって、生存する限りは社会事業に努めねばならぬ』と自分を戒めています。死ぬまで社会に尽くしなさい。それが人の道なんだよと言っています。私はそうしてきたと述べています。

昭和5年(1930年)の12月のこと、90歳の渋沢は風邪と熱のため寝込んでいました。そんな時、社会事集家たちが渋沢に面会を求めに来ました。

「年末の寒さと飢えで苦しんでいる人たちが20万人にも達しました。なのに、政府は予算の裏付けがないからと救穫活勤をしてくれません。政府に勧きかけてほしい。」

渋澤は家の者に命じて、大蔵大臣と内務大臣に面会を申し込み、自動車を用意させます。

家族や主治医は身体を心配して引きとめようとしますが「もしこれがもとで私が死んでも、20万人の不幸な人が救われれば、本望じゃありませんか。」と言い残しています。

今の事業家・経営者でこれが言える人がいますでしょうか?

渋沢栄一と中江藤樹

渋沢栄一は中江藤樹ともつながっています。江戸初期の陽明学者である中江藤樹の思想は幕末へとつながっていきます。私の出身は宇和島といいましたが、その隣が大州藩でして、中江藤樹はそこにしばらくいました。大洲藩にいたときにこんなエピソードがあります。一番有名なのが、母親が病気だというので、滋賀県の高島郡まで脱藩して見舞いに行きます。脱藩しましても、教え子たちは滋賀までついてきます。その中の一人に大野了佐というのがいました。どうしょうもない物覚の悪い人でして、1~2行教えるとその尻から忘れてしまう。お医者さんになりたいとついてきたわけですが、とても医者のなれるような能力はなかった。それでも一生懸命慕ってくる大野了佐ために、京都まで出て医学書を買って解説書をつくります。その量は膨大なものになりました。たった一人の了佐のためにつくりました。2~3行教えたら忘れている。またはじめから教えるということを繰り返して、何年もかかりましたが了佐はやがて宇和島で医者になり、のちに名医と呼ばれました。

他にも、熊沢蕃山の話がありまあす。ある日、馬子の又左衞門は京都へ向かう飛脚を馬に乗せました。又左衞門は飛脚を送り終えて家にもどり、馬を洗おうと鞍を取り外しました。すると、さいふのような袋が出てきました。一方飛脚は、宿に戻って初めて、大金の入った袋が手元にないことに気づきました。そこへ、又左衞門が宿に現われ、200両の入った袋をそのまま返しました。飛脚は、「この金子は藩の公金で、京の屋敷へ送り届けるためのもの。もしも、この200両が見つからなかったら、自分は死罪になったでしょう。」と、涙を流しながら話しました。飛脚は感激のあまり、「あなたはどのような方ですか」と聞きました。「私は名もない馬子に過ぎません。ただ、自分の家の近所に小川村というところがあって、この村に住んでおられる中江藤樹という先生が、毎晩のようにお話をしてくださり、自分も時々聞きに行っています。先生は、親には孝を尽くすこと、人の物を盗んではならないこと、人を傷つけたり、人に迷惑をかけたりしてはならないことなど、いつも話されておられます。今日のお金も、自分の物ではないので、
取るべき理由がないと思ったまでのことです」そう言って、自分の家に向かって歩き始めました。

熊沢蕃山は「正直馬子」の話を聞き、中江藤樹を訪ね、教えを請いますが、藤樹は「自分は師たるに足らざるもの」と弟子を取ることを断りました。蕃山は、何回も小川村を訪ね教えを請いますが、なお許されませんでした。二夜、座して懇願し、やっと藤樹の母のとりなしにより入門が許されました。蕃山は、藤樹の一番弟子となります。その顕彰の支援を渋沢は喜んで引き受けています。

渋沢家と穂積家の人々

江戸のはじめの陽明学者の中江藤樹が幕末につながり、渋沢栄一と結びつきました。

渋沢栄一はたくさんの会社を起こしましたが、親類縁者にその会社をほとんど残していません。有名なのは東宝の社長で田園調布を開発した秀雄さんをはじめ何人かいますが、それもほとんどは渋沢栄一が仕事を手掛けたというより、依頼を受けて支援したに過ぎません。しかしその支援は全身全霊で行い、中途半端にすることはしませんでした。

宇和島との関係で言いますと、渋沢栄一は4年間大蔵省にいましたが、そのときの大蔵卿が宇和島藩の最後の殿さまの伊達宗城です。藩士に児島惟謙(大津事件時の大審院院長)がいました。児島惟謙は関西大学の創設者です。幼馴染は土居通夫で、大阪商工会議所の会頭で京阪の社長です。明倫館で共に学びました。坂本竜馬が4回ぐらい宇和島明倫館にきて志しを立てろと十代の子どもたちに諭しました。それを聞いたのが土居通夫でした。その後輩である穂積陳重(のぶしげ)は宇和島藩の出身で、初代東京大学法学部長です。のちに渋沢栄一の長女歌子と祝言を上げます。児島惟謙が仲人でした。渋沢栄一の論語講義は、その前書きで穂積陳重博士のおかげでできあがったといっています。

 穂積陳重に学問では勝てないというので学問の世界から政界に転じた人がいます。同級生だった鳩山家の当主、鳩山和夫さんです。鳩山一郎は長男。鳩山威一郎は孫。鳩山由紀夫、邦夫は曾孫にあたります。また、陳重の息子に穂積新六郎さんという方がおられます。自分はできが悪くて一族の恥さらしだということで朝鮮にわたり、朝鮮総督府の殖産局長に就任。当時の政府の方針の反して朝鮮人のための殖産を進めました。この方も東大法学部出で、成績は悪いと言われていましたが、5番だったそうです。阪谷芳郎さんは渋沢栄一の次女のご主人で、大震災の時の東京市長です。ほかにも渋沢栄一の親族はそうそうたる方々がたたくさんいます。

私が小学校・中学校の時に、学校の先生に穂積橋を見て来いとよく言われました。かって宇和島では(東京)帝国大学の法大学の初代学長をした、穂積陳重さんの銅像を建てようということになりました。穂積陳重さんは「老生は銅像にて仰がるるより、萬人の渡たるる橋になりたし」との遺言で銅像の代わりに橋ができました。この方が東大法学部の礎をつくった人なのです。陳重は明治大学や中央大学の創立にも関わっています。

先に述べたように竜馬とかかわりのある人で、宇和島藩士の土居通夫という人がいます。明治二十年ごろに大阪電灯会社(現在の関西電力)をつくった人です。

「『活力のある人間が藩にいることはつまらないことだ。脱藩しよう』竜馬はそればかり言った。末座にいた土居がそれに影讐を受けました。土居は当時、養子にいっては追い出されたりしてましたから。」(司蔦遼太郎 全講演 1994年)

「温厚な性格で、人の意見をよく聞き容れ誰からも信頼された。また、無膓と号する文雅の人でもあった」(碑文)ようです。近代大阪財界の基盤を固めた五代友厚亡きあとの大阪財界最有力指導者として活躍しました。明治28年、大阪商業会議所第7代会頭に就任し、1917年(大正6年)81歳で亡くなるまで22年間大阪商業会諸所会頭在任、京阪電気鉄道社長のまま死去しました。明治42年(1909年)米国太平洋沿岸商業会措所連合会代表者の招きに応じて、渋沢栄一とともに渡航しました。それ以外にも何度も渋沢栄一と渡航しています。大阪の人は今は土居通夫と聞いてもそれは誰やということになっています。

坂本竜馬と李登輝

あるきっかけで坂本竜馬記念館の森館長とご縁ができました。残念ながら2015112日にお亡くなりになりました。そのこともあって昨年久方ぶりに竜馬記念館に行ってきました。明治維新というのは多くの偉人がでました。渋沢栄一と同時代の坂本竜馬もその一人です。その坂本竜馬にものすごい影響を受けたのが台湾の元総統李登輝さんです。森館長からの話で印象に残るお話がありましたので紹介します。78年前の話です。

「これまで、お会いした人で最も印象の残っている人をあげろと言われたら、やっぱり台湾の李登輝さんです」「こられたのは今から4年前です。桂浜に龍馬の銅像があります。

司馬遼太郎さんと仲良しでした。日本の教育を受けていました。司馬さんからいっぺん龍

馬の像を見てはと言われていました。李登輝さんは『森さん、いまの日本はおかしいですね。』と言われるんです。『何がですか?』と聞くと、李登輝さんは『日本は、アメリカにペコペコするな。中国にへつらうな。』と言うんですね。ちょうど民主党が新しい政権になってこれからどうしようかと言うガタガタしているときでした。李登輝さんは『日本も台湾もガタガタしていますね。ゆれてますね。大変ですね。アメリカにも中国に対しても日本は自分の道で行くべきだ。』というんですよ。

ほしたら『日本にも台湾にもそれができない一番の原因となることはなんですか?』と聞いたんです。そしたら、そんなわかりきったことを聞くなといった感じでそれは『議員だよ。国にも各市町村にも議員がいるじゃないですか?』」李登輝さんは阪本竜馬の船中八策を台湾の経営の基にしたという有名な話があります。そういう背景があり、李登輝さんは話されています。「議員はいますね。『議員が銀行員さんと同じような職業になった時に国はガタガタしはじめました。議員の報酬というのはあとで付いてくるんですよね、そうじゃないですか。いやそうでしょう。』それで終わりではありませんでした。『あの龍馬さんを見てください。あの龍馬さんにわたくし心がありますか?龍馬さんにはないでしょう。わたくし心なくして何のために活動したのですか。活動したのは国のため国民のためじゃないですか?では、かけたのはなんですかお金ですか。名誉ですか、地位ですか、違うでしょう。命でしょう。今、議員の中に国のため国民のためにわたくし心なぐ命をかけるものがひとりでもでたら日本でも台湾でも変わります。』」

わたし自身が3年前に直接森さんから聞いた話です。ニュービジネス協議会が全国大会高知「ニュービジネスを開く、平成の竜馬の大仕事」というフォーラムを開催しました。自慢話になるのですが、私の顧問先広瀬製紙がその時最優秀賞をもらいました。今はまだ世界に出ていないですが優秀な会社です。森さんとお会いしたのはこの会の基調講演した。

現代の渋沢栄一

いきなりこんな話をして何なんですが、東北で地震が起きて1.5ヵ月ぐらいしてから、非常に元気のいい歌声のコマーシャルが聞こえてきました。誰がつくったのか不思議に思っていました。

先月、失敗学会大阪大会で雪印の食中毒事件後の改革にとりくまれていた鹿毛康司さんに講演してもらいました。雪印は約50年前にも同じような事件を起こしています。その時の社長は佐藤さんと言います。佐藤さんは事故の状況を述べて、「機械はこれを使う人によって良い製品を造るし、負の生産もする」「人間の精神と技術をそのまま反映する」「澄んだ機械ほどその結果を敏感に製品に表すのである」「今回の問題はいくたの尊い教訓を我々に与えている。単に一工場の問題ではない」「当社の社会的責任は大である」「全員が謙虚な気持ちに立ちかえり」「誠意と奉仕の精神で顧客と生産者に接するならば必ずや、信頼を取りもどすのみならず、将来の発展の礎になろう」と全社員に呼びかけました。しかし、雪印は50年後に同じことやっています。この事件は現在の日本の企業縮図です。失敗学会の大阪部会長平松氏が以前から知っていた雪印の鹿毛康司さんに講演をしてもらおうと依頼しました。来てもらえるかどうか分からなかったのですが、失敗学会であればということで講演してもらいました。

講演は雪印の話しから始まり、現在はエステー化学に勤めているということでした。鹿毛康司さんは42歳で雪印の改革に敗れて退職されています。私も44歳で会社を退職後会社をつくりました。鹿毛さんは雪印の食中毒事件でやっと再建のめどがたったころでした。次に起きた食肉偽装事件は自分達には関係ないと思っていたが、そこが甘かったと述べられていました。二回もやったので社会が許してくれなかったです。もともとの起りは、脱脂粉乳をつくる北海道の大樹工場の生産工程で、つららで配電盤が破壊され停電となったことから始まります。稼働後配管内に残ったものを完全に除去する規定を無視して、いずれ加熱により滅菌するから問題ないと判断して再稼働しました。しかし、滅菌しても毒素は残るというのは食品業界では常識でした。つまり技術の伝承や思いの伝承がいつの間にか伝わらず、毒素を取る作業を省略してしまいました。これが原因で実質雪印は潰れました。

鹿毛さんはもともと、雪印では営業畑でしたがセンスがある方で作詞・作曲もできました。エステーの社長もすごい人です。「らららららららら、らららららら消臭リキッド」というコマーシャルが震災後、政府広報(AC)ばかり流がれているときに、最初に流れてきました。東北大震災で飽き飽きしていたので思い切ってCMを出そうとなったようです。これは単なるコマ―シャルではなくて、エールということです。このコマーシャルの背景はポルトガルのリスボンです。

鹿毛さんは就職先を探すとき、自分の価値を分かってくれるのは中間管理職では無理で、社長しかいないということで、社長との面接ができる会社に職を求めたそうです。エステーは就職希望先としては最下位でしたが、当時の社長で、現会長の鈴木さんが役員会議を抜けて面接してくれました。当社で働いて欲しいという鈴木さんの素直な気持ちを感じて入社を決意したそうです。

鹿毛さんは、コマーシャルをつくるときに、若い男の子に目いっぱい大きな声で歌ってもらいたいと思っていました。予算も安かったようです。日本人の男と子のであれば、震災のことを思い出してもいけませんので外国の男の子を使いました。鹿毛は予算が安いということでポルトガルのリスボンを提案することにしました。鈴木社長はこの提案に「リスボンを選ぶとはさすがだと言います。」当初社長がほめてくれた訳が分からなかった鹿毛さんはこの企画との出会いに感動します。

ポルトガルのリスボンでは1775年11月11日にリスボン地震がありました。9時40分にヨーロッパの広い範囲に強い揺れが起こりました。津波によって死者1万人が出ました。建物が85%破壊されました。この当時、ポルトガルはスペインと並んで強国だったのですがこの地震が原因で衰退が始まります。鹿毛さんは見えざる力でリスボンに呼ばれたのではないかと考えました。

現在、渋沢栄一のような人はなかなかいません。たまたま先月、失敗学会で鹿毛さんにお会いしました。その際、エステーの鈴木社長との出会いの話を聞き、鈴木社長の本を読んで、やっとここに現代の渋沢栄一が1人いたということに気づきました。鈴木社長は「片手に算盤、片手に心意気、この2つがなければ会社は脆い。」といいます。

渋沢栄一にまつわる話をしましたがこんな経営者がもっと出て来なければという期待を込めて終わりたいと思います。

 

質問  渋沢栄一みたいな人がいないのかなというお話を聞いて、原丈二というアメリカにお住まいのベンチャーキャピタリストを思い浮かべました。原さんは、「公益資本主義」を主張されています。今の株式会社は株主に利益を全部持って行いかれます。従業員や関係する人々に公平に分配しすることが大事ということで実践されています。アフリカなどの貧しい国に社会的企業として応援されています。今、内閣の参与をされています。この方は渋沢栄一に続く人ではないかと思いながら講演を聞いていました。

元々は、慶応大学を出て考古学を研究されていました。考古学を研究のためにお金がいるので、スタンフォードで学び、いまのIT企業の創業者がほとんどお友達という方です。多くの会社を経営されていて、公益資本主義を追求されています。渋沢栄一に通じるのではないかと思い紹介させていただきました。

回答  原さんは知りませんでした。ありがとうございます。

 

質問  近畿大学の小松です。1年間担当させていただきましたテーマ「社会的課題に挑戦する若者たち」に共通するテーマだと思いました。企業は社会の一員であって、企業だけが儲かっても、社会をバラバラにするようであれば、結局、企業自身もダメ―ジを受けて存続できなくなります。企業も社会の一員であるので、売り手よし、買い手よし、世間よしの三方よしの精神が大切だと思います。最近は近視眼的に、焼畑農業的経営に陥り、環境を破壊し、従業員を壊し、財政も破綻してきています。持続可能な社会と言いづらくなっています。先人が残した足跡をたどって、彼らに学び基本に立ち返ることが大事だと思います。歴史を学ぶというのではなく、その歴史を現在に活かすことが求められている。経営者も、学生も、政治家も歴史から学んで現在に活かすことが大事だということをこの講演から学びました。ありがとうございました。

回答  ありがとうございました。